je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

人情派探偵誕生~『終末の探偵』横浜ジャックアンドベティ(2回鑑賞)

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あらすじ

連城新次郎(北村有起哉)は喫茶店「KENT」の物置を住処に、しがない探偵業を営む。ギャンブル好きで借金だらけ、酒癖も悪くけんかっ早い。

ある時、顔なじみのヤクザ、笠原組のNo.2阿見恭一(松角洋平)に借金をチャラにしてもらうかわりに、中国系の新興マフィア・パレットについて調べろと言われる。同時期に、KENTへやってきた若い女性ガルシア・ミチコ(武イリヤ)から、消息不明になった友人のクルド人女性・べヒアを探してほしいという依頼を受ける。

調査を進める中、浮き彫りになっていく街と人々の変化。新次郎はめんどくさそうになんとか解決しようとする。

事件は二つ。地元のヤクザ笠原組VS中国系マフィアの“パレット”。そしてクルド人女性の失踪。二つにつながりはないように見えるが、「在日外国人」の存在が大きく関わる。

パレットのボスのチェン・ショウコウ(古山憲太郎)は在日2世。ミチコは両親がフィリピンからの不法入国者で、自身は日本で生まれ在住資格があるが両親はフィリピンに強制帰国させられている(これは実際の出来事をモデルにしている)。二人とも日本で生まれ育ち、アイデンティティも日本に近いが、ずっと差別を受け苦しみ、日本人への憎しみを募らせている。

チェンに相対するのが日本人である阿見。しかし阿見も古い「ヤクザ」の価値観が消えていく中で、自身のありように悩んでいる。

ミチコに相対するのは、歪んで偏見にまみれた日本社会そのもの。彼女は在住資格があるが、過去に両親の件でマスコミに出たことで、今も偏見の目に苦しんでいる。友人べヒアはクルド難民で、ミチコは彼らによりシンパシーを感じている。

その中で、新次郎はそれぞれの人に真正面から向き合う。しかしとてもめんどくさそうに。無理やりそれぞれをつなげるのではなく、新次郎が行った先でまいた種が、それこそめんどくさそうに芽吹いてなんとなくそれぞれがつながりあう。

つながり合うからといって、和解するわけではない。むしろ問題は歪なままで顕在化する。

そうして解決するものもあり、なあなあのまま終わるものもある。新次郎がした事は、正しいともそうでないともいえない。彼自身それを分かっている。「簡単に線引きするな」とはクライマックスでの重要な台詞だが、新次郎の美学がここに集約されている。必要悪を説くでも勧善懲悪でもない。あちら側もこちら側もない。

街は前より変わったようには見えないし、新次郎も別に変えようとしてるわけではない。「もういいよ、こういうのは〜!」と何度も言いつつ、もがきながらも、見捨てられない街と人に関わっていくのだろう。

阿見が「街がお前を受け入れたんだ」と言ったように、新次郎も変わりゆく街の中で、いつかは出て行ってしまうのかもしれない。

在日外国人の生きづらさを描きつつ、新次郎の命の恩人という自治会長の安井茂雄(麿赤児)が「あの人たち(外国人)とは分かり合えないよ」と諦めたようにつぶやく姿もまた、日本の抱える真実である。

麿さんと北村さんのシーンは、特に卓越した演技の呼吸がたまらなく。短い台詞の淡々としたやりとりの中でも、2人の関係が深いことを伝える技がすごい。

 

二つの相容れないものたちを、新次郎のシビアだが人情味あふれる視線で描いた本作。よくある探偵もの、アウトローものとはまた違う、新たな街の「裏ヒーロー」が誕生したのでは。ぜひシリーズ化お願いしたい。

北村有起哉さん&井川広太郎監督舞台挨拶(2月18日)

北村さんがジャックアンドベティに来てくれるなんて!上映後はパンフにサイン会もあって大大満足でした。

北村さんと監督のトークは簡単にメモ。

  • 井川監督、『私立探偵 濱マイク』の大ファンだそうで、舞台となった横浜日劇(J&Bの向かいにあった、今はもうない)に来たりしたことも。本作も横浜のこの界隈をイメージされてたそう(撮影は町田が多い)。
  • そのため、J&Bで本作を上映できたのはとても嬉しいとのこと。
  • 監督「北村さんはスタッフや他の俳優さんに話しかけたり、フラットで気さくな気遣いが役そのままだった。新次郎は北村さんんそのもので、北村さんに演じてもらって本当によかった」
  • 監督「いつもあんな風にスタッフにも気さくなんですか」という問いに、北村さん「そうですね、いつもあんな感じで、壁をつくらないタイプです」
  • 北村さん「アクションが大変で。もう自分も50代なので。練習してリハーサルして、何度も撮って。最後は腕が上がらないくらいヘロヘロ。アクション監督の園村健介さんがそれを見ながら笑ってた」
  • 北村さん「自分はルックスいいわけではないので~」(話の流れで出た発言だったのですが、そんなことないぞ~。かっこいいぞ~)

他にもいろいろお話してくださったのですが、終始監督と北村さんが笑顔で、とても良い座組だったのがよく分かります。「続編を!」という声がよく聞こえたのでぜひぜひ~。

二回目鑑賞(2月22日)

前売り券購入してたので、二回目。

トークショーでアクションについてのお話があったので、そこを中心に見直し。

園村健介さんはアクション監督、スタント、アクション・コーディネーターとして近年大注目。最近だと「ベイビーわるきゅーれ」のアクションが話題に。ちなみに「ベイビー~」に主演の高石あかりさんは、本作で新次郎のねじろの喫茶店「KENT」の従業員役。今回はアクションはないけど、続編があれば期待したい。

北村さんのクライマックスでのアクション、ヘロヘロになりながら、決して強くはないが相手を倒していく。つるつる滑るフローリングに、柱が真ん中にある。狭いスペースでのワンフレーム、ワンカット。アクションは決してパワーや技術のあるものではないが、この限定された状況で何故か見入ってしまう。アクションというより「振付け」を見ている感じに近い。よく見ると、ケガしないように綿密に計算してるのが分かる。

新次郎は他にも自転車をぶっ飛ばしてたり、鉄パイプで殴られたり、けんかに巻き込まれたりいろいろあるのだが、そんなに強そうでもないのにリアリティがある。そこも新次郎の役柄を反映してて面白い。

チェンと阿見の一騎打ちは、一回目見た時は、冗長でオールドスタイルすぎる感じが趣味ではなかったのだが、新次郎のヘロヘロアクションと対を成してるのだなと。それでももうちょっと短くてもいいかなとは思ったが。

ひとつ気になったのは、女性キャストの衣装がイマイチ。若い女性キャストが少ないのに、ミチコと凛の衣装が似ている。しまむらか町田のモディで買ったようなリアリティはあるのだが、それにしても色合いがかぶりすぎでは。キャストにもう少しリサーチしてほしい。男性キャストは各自のキャラに合った衣装だったので、ちょっと残念。女性キャストを、探偵ものにありがちなはすっぱお色気美人や、ものの分かった年配の老婦人とかにしてないのは好感がもてる(そこはあえてなんだと思うが)。

いろいろテーマを詰め込んでるが、きちんとそれぞれつながっており、台詞も多すぎず長すぎず。そして「古い価値観」についてもきちんと描いて、そしてそれを否定しない優しさもある。

北村有起哉という俳優を「映像にどのように配置するか」というのは、けっこう難しいのかもと実はずっと思っていた。演技がうますぎてなんでもこなせてしまう。それゆえに本来の良さがみえないこともあった。それはそれでいいのだけど、ヤクザ役が多かったり、ちょっと気取った渋めの役や設定が難しい役とかばかりで、イメージ先行してんだなと。長年のファンとしては、それだけじゃない魅力がたくさんあるのにと歯痒かった。もっと地に足がついた普通の役で、あの低音の声が台詞を言う時の重み、それをずっと見たかった。うらさびれた街の探偵が地に足がついてるか否かはさておき、本作はかなり北村さんの俳優人生が反映された役柄でめちゃくちゃよかった。

ボンボヤージュボンボヤージュ~『コンパートメントNo.6』シネマカリテ

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あらすじ(公式より)

モスクワに留学中のフィンランド人学生ラウラ(セイディ・ハーラ)。彼女の、古代のペトログリフ(岩面彫刻)を見に行く旅は、恋人にドタキャンされ、急遽一人旅に。そんな彼女が寝台列車6号コンパートメントに乗り合わせたのは、モスクワのインテリたちとは正反対の、粗野なロシア人労働者リョーハ(ユーリー・ボリソフ)。最悪の出会いから始まった、二人の長い旅の行方は……。

ロシア版『冬の旅』

冬の凍てつくロシアの雰囲気むんむん。

どんなふうに寒いか、行ったことがない土地なのに、なんとなく分かる気がしてしまう。リョーハが飲んでるお酒、途中停車で降りた駅で犬に導かれた先の家でもらった謎のお酒。それらは酔うためだけでなく寒さをしのぐもの。ラウラが飲んでいるお茶、ラウラのふわふわ帽子、リョーハの機能性だけは高そうな革のジャケット、女性車掌のとにかくあったかそうなコート(銀河鉄道999の車掌さんみたい)。リョーハがTシャツ姿になるのは、列車や家の中は暖かいから。温度もだけれど、冬のかさついた埃っぽい空気、さほど清潔でないであろう水回り、酒と油と人の汗や体臭が匂い立つような画面を見るだけでもこの映画は楽しい。

1990年代を舞台にしてるため、スマホなどの近代的なものは出てこない。ラウラはカセットテープのウォークマンで音楽を聴き、ハンディカムで旅の映像を撮る。恋人に電話するためには電車を降りて、公衆電話にコインを入れる。やっとペトログリフのある土地に着けば、案内所で冬は公開してませんとすげなくされる。なんとか行こうとタクシーの運転手に相談してあがいてみる。今ならスマホひとつあれば簡単なことが、旅を困難にさせてしまう。

若い女性の冬の一人旅といえば、アニエス・ヴァルダの『冬の旅』を思い出してしまった(最近見たばかりだったというのもある)。しかし、ラウラの旅はコンパートメントのチケットを買い、食堂車で食事をとるくらいには余裕がある。彼女はロシア語も堪能で知性もある。トラブルはあれど、それなりに乗り切れている。

そのある程度の「安全」の中で、ラウラが初っ端から出会うのはリョーハという粗野な青年。いきなりラウラを「売春婦」扱いする。これはリョーハの教養のなさもあるが、時代的にありそうな話ではある。昔、海外旅行する際に「女性は肌の露出を避けよう」というのはよくガイドブックに書いてあった。丁寧なのだとこうこうこういう格好は売春婦のカテゴリーになりますよ、みたいなことも。

しかしラウラはノーメイクでもさっとした感じの服装だし、勘違いさせるような行動もない。リョーハが酔っ払ってるのと、おそらく彼は同世代の女性と個人的に接するような環境に今までなかったのではと思う。というのはまた後の展開でなんとなく分かるのだが、ラウラに知る由もない。そんな風に、二人の出会いは最悪で、『冬の旅』と同じく女性の一人旅には危険がある、という前提をきっちり見せた事で、その後の展開に大きく作用させた。

旅は道づれ世は情け

実際、リョーハがどういう人間なのか、途中まで観客は分からない。信用できると思えるまでの時間がかかるので、観客はラウラと同じ不安を抱きながら、その旅を見守る。二人の距離が徐々に近づき、しかし反発したりする瞬間も、ラウラの気持ちになり見る感覚があった。これは私が女性だからなのか、男性はどのように感じて見たのか興味がある。

リョーハの人となりは、言葉ではなく行動に見えてくる。親しい間柄と思われる老婦人への無骨だが優しい態度、ロシア人乗客への複雑な目線、外国人への反応や、ロシア人的な無愛想さと距離が縮まった時の静かな人情(これは中国在住時に知り合ったロシア人を思い出した)。ソ連崩壊後のロシアを舞台にしているという事を考えると、リョーハの思いや背景も分からないなりに近づける。

ラウラも旅というツールがなければ、リョーハに近づくことはなかっただろう。他の場所で知り合っていたら、反発も親密も発生しなかった。

そういえば、映画と旅はとてもよく似ている。

映画を見終わった時に、劇場にいた人がみな同じ列車に乗っていたような感覚になった。

沈没しない『タイタニック

本作は列車の旅のロードムービーであり、ラウラの自分探しの旅であり、ガールミーツボーイのラブストーリーでもある。二人の間に流れるのは、恋とも友情ともいえず未然すぎるが、ある種の信頼や思いやりがあるささやかな愛情関係が心地よい。

ラウラの旅は目的はあるがそれほど強いものでもなく、恋人につれなくされて旅を続けるはめになった。リョーハも商売をするためのお金を稼ぐために列車に乗っているが、その野心的な「商売」には具体的な計画はない。二人とも「なりゆきまかせ」の旅である。

銀河鉄道999』のメーテルと鉄郎の友愛関係にも似てるが、あれは2人の目的がはっきりしている。主人公が自分を見つけて旅を終えるという部分や、恋愛にこだわらず最後まで旅というツールを生かしている点は似ている。

どちらかというとロマンチックが少な目な「沈没しないタイタニック」だな~と思って見てたら、最後の方で二人が座礁した大きな船にいるシーンがある。どの程度リョーハを魅力的に見せるのかは、監督の匙加減だったと思うが、わりとタイタニックレオナルド・ディカプリオをイメージしたのではと思う。相手の似顔絵を描くシーンもあったし(ただしラウラの方がうまく描いて、リョーハに絵心はない)。

本作はラウラがロシア語そこそこ堪能なため、それほど言語による齟齬はない。『別れる決心』の場合は、外国人側の言葉を翻訳違えたりしてドラマが深まるが、本作はラウラがリョーハに意図的に教えるあるフィンランド語が大事なキーになる。分かりやすい伏線ではあるが、ぜひ映画を見て楽しんでほしい。

  • 2人がたどる旅の道筋

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余談:ロシア語の思い出

大学4年の時に、卒業に必要な単位はほぼ取ってしまっており、あとは卒論の単位といくつかのゼミを取れば週1〜2回くらいしか大学に行かないスケジュールとなりそうだった。とはいえ卒論に必要かもと講義をいくつか取ったのだが、その中に何を思ったか「ロシア語」を入れた。言語学(フランス語)が卒論だったので、他の外国語が参考になればというのもあった(実際多少は参考にはなった)。トルストイを少し読んでて、五木寛之の『青年は荒野をめざす』のモスクワのとこが好きだった、とかそのくらいの興味だった気がする。

曜日は忘れたが5限の講義。ほとんどの講義が4限で終わるしロシア語科はもちろん関連学科もない大学。講師は非常勤で、確か付属校の出身者だった(うちは付属校の方が高レベルで、ほとんどが国立などに進学。その先生も東大出だった)。そういう講義はいくつかあって、慣例なのか意外と毎年残っていた。

夏前の学期では受講者が5、6人いて、ちょくちょく休む人はいれどなんとなく成り立っていた。学期の終わりには1度だけ飲み会をした。

夏休みが明けたら、私を入れて受講者が二人だけになっていた。もう一人は別の学部の同じ4年生の男子学生で、二人で顔を見合わせてどうしようとなったのを覚えている。授業の後に「裏切らないで~!絶対途中でやめないで!」と励ましあった(もとい牽制?)

お互いに4年生で、就職活動やらそれに関わる件でどうしても休まねばならなくなった時に、学内で会った時に「ごめん!来週どうしても休む!」と謝りあった。なんとか受講者ゼロにならないようにしたのはなんのためだったのか。今なら気軽にLINEで連絡しあうが、連絡先も聞かなかった。男女だからという距離感もあったのかもしれないが、お互い4年生で忙しかった。あと学校が小さかったので、なんとなくそこらで顔を合わせてたし、誰かに言伝できてたんだと思う。

つつがなく1年受講し、最後に渋谷のロシア料理屋で先生にフルコースをごちそうになった。不愛想な先生だったが、授業はしっかりしてて、今となってはもう少し真面目にやっておけばよかった。食事後、別れ際に先生にお礼としてバレンタインのチョコをあげたらものすごく照れて動揺してた。その同級生の男の子が「先生きっと嬉しかったと思うよ」と言っていたのを思い出す(そしてその子にもチョコをあげたかどうか覚えていない…)。

その後、大学生活最後のモラトリアム「卒業旅行」を終え、卒業式の後の謝恩会で「ロシア語の同志」の彼に再会した。無精ひげをたくわえてて雰囲気が変わった彼に「春休みどうしてた?」と聞いたら「ロシアに列車旅に行った」と言う。どのルートだったか忘れたが、ヨーロッパを途中まで友人と回り、ロシアは一人で行ったという。「せっかく習ったからロシア語使ってみたいし」という理由だった気がするが、もともとその地域に興味があったから、あの講義を取っていたのかも、とそれまで気づきもしなかった。

「それでロシア語は通じた?どうだった?」

という私の問いに、彼がなんて答えたかはっきりは覚えていない。

彼が見た景色はきっと彼しか知らない。それをとてもうらやましく思ったのを覚えている。

私たちはただ同じ講義を週1回、1年間だけ受けただけで、名前も顔ももうほとんど覚えていない。ラウラとリョーハのような親密さもなかったが、あの時間は意外と面白かったな、と今でも印象深い。

そういえば、本作の主題歌 "Voyage, voyage"。なぜかフランス語であった。映画館で上映前にずっとかかってて、耳に残る。

Desireless - Voyage, voyage (1987) - YouTube

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予告編

映画『コンパートメントNo.6』予告編 - YouTube

コーディリアのいないリア王〜『すべてうまくいきますように』Bunkamuraル・シネマ

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あらすじ(公式より)

小説家のエマニュエル(ソフィー・マルソー)は、85歳の父アンドレアンドレ・デュソリエ)が脳卒中で倒れたという報せを受け病院へと駆けつける。意識を取り戻した父は、身体の自由がきかないという現実が受け入れられず、人生を終わらせるのを手伝ってほしいとエマニュエルに頼む。一方で、リハビリが功を奏し日に日に回復する父は、孫の発表会やお気に入りのレストランへ出かけ、生きる喜びを取り戻したかのように見えた。だが、父はまるで楽しい旅行の日を決めるかのように、娘たちにその日を告げる──。

(※ネタバレあります)

長女はつらいよ〜心の旅路

ソフィー・マルソー演じる長女・エマニュエルが、わがままな父の言動を受け止めながら淡々とことを進めていく。妹のパスカル(ジェラルディーヌ・ペラス)は姉を労りつつも、父の決断をなかなか受け止められない。芸術家の母・クロード(シャーロット・ランプリング)は、長いことアンドレと別居しており、また自身も病を抱えており頼りにはならない。優しい夫・セルジュ(エリック・カラヴァカ)や友人、弁護士に助けられつつも、彼女は1人で父親の安楽死という難題を文句も言わず、やり抜こうとする。

その姿は『リア王』の長女・ゴネリルを思いだした。とはいえ戯曲のゴネリルは父におべんちゃらを言い、財産をもらうとすぐ手のひらを返し、父を陥れるというひどい娘の設定だ。しかし、リア王アンドレも娘達を困らせるわがまま加減ではそこそこいい勝負である。最近はリア王の狂気を「認知症」として現代の高齢者問題に当てはめる演出もあり、アンドレ脳卒中と障害は戯曲における父王の「狂気」と通じるかもしれない。王位を退いたリア王の御付きの騎士を半分に減らしたゴネリルの対応は、受け継いだ領土を守る領主の当たり前の倹約だし、見ようによっては長女らしく現実的とも言えなくはない。

リア王』ではクッション役のコーディリアがいた事で、家族のバランスは保たれていたが、リア王がコーディリアの真意を見抜けなかった事で不幸が起こる物語である。エマニュエルは末娘・コーディリアのいなかった世界線の長女・ゴネリルである。もしくは、長子としての責任と末娘の優しい寛容さを備えた二役をしているともいえる。

長女に肩入れするのは私がまさに長女だからである。妹のパスカルが、何度か動揺して逃げ出してしまうシーンがある。だいたい父親の無神経な発言が原因なので、致し方ないのだが、エマニュエルはそこに残らざる得ない。エマニュエルがいるから、パスカルは安心して逃げ出せる。ここはちょっとうちの弟を思い出す。母が手術入院した時も、父が脳出血で倒れて入院した時も、実家に通い泊まり込んだのは私である(私の方が融通がきくというのもあるけれど)。かといってうちの弟の場合は、優しい言葉で労ったり支えてもくれないので、姉を理解する態度を示すパスカルの方が100万倍もマシだ。姉妹は同性というアドバンテージもあるのかな、と少し羨ましく思った。

共感はあれど、それでもエマニュエルの献身的な姿は頭が下がる。確かに彼女は妹より父に気に入られているようだが、子供の頃の回想シーンで父にひどい仕打ちをされていたり、夢の中で父を撃ち殺す描写など、彼女が闇雲に父を慕っているわけではないのが分かる。それでも我慢強く父を支える様は、リア王のケント伯も想起させ、そうなると1人三役もしていることになりエマニュエルの人格描写の複雑さが伺える。

エマニュエルの視点をメインに進むストーリーは、少し偏りがあるかなと最初は思った。しかし、エマニュエルが冷静さと客観性を保ち、ひたすら個人的な気持ちを抑えながらも、その心の奥を探るように進む手法は、あたかも推理ドラマのようでもある。この辺りはフランソワ・オゾンの淡々とした描写がうなる。

原作が『スイミング・プール』等で脚本を担当した、オゾンの盟友であり親友だったエマニュエル・ベルンエイム(2017年に病で逝去)であるというのも、エマニュエル視点になった理由であろう。最初にエマニュエルがコンタクトを入れるシーンがあり、これは老眼という老いを示唆してるのかと思ったが、おそらくエマニュエルの視点で始まるという視覚的合図ではないか。

それまでの感情を抑えた描写が効果を示すのは、父とエマニュエルとその夫が「最後の晩餐」をするレストランのシーンだ。それまでエマニュエルはグレーや、薄暗い青の服でほとんど化粧もほぼしない(それでもソフィー・マルソーは美しすぎるが)。そのディナーの時だけ、エマニュエルは鮮やかな赤いニットを着て、よそ行きの化粧をしている。目を潤ませて父を見つめている。これはこの前に、エマニュエルが安楽死支援協会の女性(ハンナ・シグラ)に「安楽死を直前でやめた人は?」と聞いた時の答えが伏線となっている。

美しい娘の姿を見ても、父は考えを翻す様子はない。それは分かっていたことだった。それでも一縷の望みをかけて、赤いセーターを着ずにはいられなかった娘の気持ちは、自分のことのように胸を抉られた。

全編鑑賞中、半分以上泣いていたが(同じくらい笑えるシーンも多い)、エマニュエルが耐えきれずレストランのトイレで嗚咽してしまうシーンは、本当につらかった。

父もつらいよ〜わが道をゆく

アンドレの頑固が過ぎるほどの意志の強さは、そのわがままで人の気持ちを推しはからない性格の悪さに目を瞑れば、清々しいほどきっぱりしている。

彼は同性愛者で男の元恋人もおり、美男の理学療法士やギャルソンに鼻の下を伸ばしている。お金持ちの美術蒐集家で、セレブで、その人生は薔薇色に見える。しかし時代的に保守的な理由からしたであろうクロードとの結婚の破綻、そして娘たちに対する男尊女卑的発言などから、おそらく彼はアイデンティティが抑圧されたことで、傷つき歪んでしまったのではと思わせる描写がいくつかある。エマニュエルに「自慢の息子」と男性的な役割を求めていたり、義理の息子セルジュを本当の息子のように慕ってたり、パスカルの娘より息子の方を可愛がっていたり、彼が「長男」というものにこだわっているのが分かる。これは男性が好きという彼の性志向によるものもあるだろうが、「長男」というものにひどくこだわっている様は、彼が自分の分身を求めていたのではないかと感じた。自分がなれなかった、もう1人の理想の「強い男」「男らしい男」を。クロードとの間にできた男の子を亡くしているというのも強くこだわる理由だ。

アンドレの子供の頃や若い頃、時代は今より同性愛者は生きにくく、彼もまた自分のことを隠し、そして時に心ない批判を浴びて生きてきたであろう。時代が変わり、世間の理解も増え、同性の恋人を得て、馴染みのギャルソンを愛でても、彼の傷はそのままだったのではないか。

エマニュエルもパスカルも、おそらくクロードも、その事を分かっている。誰も彼を救うことができなかったと。だからどんなに傷つけられても、家族はせめて彼を見捨てず、愛していたのかもしれない。エマニュエルが別れ際、いつも父のおでこにキスをするが、何があっても行動で示す習慣を止めない優しさを感じた。

尊厳死をめぐる問題

ゴダールもスイスで尊厳死を選び、アラン・ドロンも準備をしているという。

本作は実話が元という事もあるのか、法律的な部分をかっちり描いてたのがよかった。フランスでは尊厳死は認められていないため、たとえ尊厳死が認められているスイスで実施しても、それまでの過程によっては家族が幇助罪に問われる(かなり厳しい刑と罰金であった)。そこを感情的な問題を見せすぎず、弁護士を交えながら解決しようとする描写は小気味よい。ここの見せ方のうまさについてオゾンはやはり信頼できる映像作家だなと思う。尊厳死の是非を問う社会問題的な見せ方でなく、それを選んだ場合の経緯を最初から最後まで、説明的にもなりすぎないようにさらりと見せる。最後の方の警察に密告されるくだりなども、ちょっとアクションサスペンス風にしていてオゾンの腕の見せ所であった。

かといって、尊厳死を勧めているわけでもなく、宗教的なエピソードを入れたり、視点も色々変えている。ある青年の「こんなに人生は美しいのに」と言うシーンは、オゾンの本音の一端ではないか。

尊厳死の是非について、私はなんともいえない。その方が良いという積極的意見もよく聞いたので、議論したり、自分や家族の最期について考えるきっかけにもなりそうだ。

実際、見ている間考えていたのは、ここ数年の家族のことだった。3年前に25歳で亡くなった実家の猫の最期は、もう少し楽に逝かせてあげられればよかったと今でも後悔がある。ちょうどコロナ禍が始まった時で、動物病院に連れて行くのも難しかった。その直後、父がアンドレと同じく脳出血で入院した。幸い発見が早く、後遺症もなく今も元気に普通に生活しているが、映画のように大変だった可能性もある。

アンドレが自分が亡くなった後の始末を、サクサクと指示しているのはあれはいいなと思った。お墓のこととか、財産のこととか、ああしたい、こうしたい、これはダメ絶対いやとか。

2年前の義母の逝去ついてはオープンに話せることは少ないが、義母の友人に連絡する作業がかなり難航した。義父はほとんど交友関係を把握しておらず、息子である夫の記憶と年賀状などを照らし合わせたりしながら半年くらいかけて私が親しいと思われる人に連絡した。さながら探偵のようだった。これは義母の望んでいたことなのだろうかと、何度も逡巡しながらの作業になった。ご友人の思い出話や悲しい想いを聞くのはつらい時もあったが、こちらもかなり癒されたし、連絡がついてよかったと思うこともしばしばだった。

さよならは別れの言葉じゃなくて

葬式や墓は残されたもののためだとは思うが、どうやってもつらいものであるので、逝く人のしたいようにした方が残された人たちが楽だと思う。精神的にも物理的にも。

エマニュエルとパスカルが父と最後の別れをするシーンがある。2人の姉妹は「Au revoir」と父を見送る。

『秘密の森の、その向こう』でもAu revoirという言葉が印象的に出てくるが、中国語の再見と一緒で、また会うという意味がある。永遠の別れはAdieuなのだが、ここで彼女たちはアデューとは言わなかった。重すぎる言葉より、日常的なサヨナラの言葉を選んだのは意図的なのか。オゾンの映画、そしてエマニュエル・ベルンエイムの台詞には時折はっとする表現があるが、フランス的というより2人の持つ表現への潔さと誠意を感じた。

C'est la vie (しかたないね)

重いテーマを粘っこく演歌調にせず、フランソワ・オゾンらしくキリリとしたシャンパンのような甘さと辛さ。オゾンのミューズのシャーロット・ランプリングも重厚な存在感と滲み出る色気が相変わらずの魅力だったが、ソフィー・マルソーの持つ咲き誇る花のような強く優しい凛とした雰囲気はオゾンの映画の新たなインスピレーションとなるだろう。

ネタバレをしたが、他にも見所はたくさんあり、見た後にどんな視点で何を感じたか、聞いてみたくなる映画である。次女のリーガン的な解釈もあれば聞いてみたい。

邦題は「すべてうまくいきますように」となっているが、原題の「Tout s’est bien passe」はニュアンスが違う。(訳すとネタバレになり注意。しかしチラシに英語タイトルがあるので、分かる人は分かってしまう)
この邦題の付け方はよかったなと思う。ミステリーテイストを醸すオゾン的な表現にもとても合っている。

 

張子の虎の巨大な阿呆船〜『シャドウプレイ完全版』ジャック&ベティ

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あらすじ(公式より)

2013年、広州の再開発地区で立ち退き賠償をめぐり、 住民の暴動が起こったその日、 開発責任者のタン(チャン・ソンウェン)が屋上から転落死する。
事故か他殺か、捜査に乗り出した 若手刑事のヤン(ジン・ボーラン)は、 捜査線上に浮かぶ不動産開発会社の社長ジャン(チン・ハオ)の過去をたどる。 その過程で見えてくる、ジャンのビジネス・パートナーだった台湾人アユン(ミシェル・チェン)の失踪事件。 政府の役人タンの転落死と不動産会社の幹部アユンの謎の失踪、 2つの事件を生んだ愛憎の根本は、ジャンと死亡したタン、 タンの妻のリン(ソン・ジア)が出会った1989年、まさに天安門事件が起きた年だった…。

古典的サスペンスなネオ・ノワール

広州の再開発地区で起こった転落死を巡るサスペンス。現在と過去を目眩く万華鏡のように、エッジの効いた映像が中国の30年間を炙り出す。

話の構成はサスペンスである。ともすれば日本の2時間ドラマ的展開な流れもなくはない。最後の種明かし部分は少し冗長で、断崖絶壁でも出てきたらまさに、である。

しかし船越英一郎片平なぎさ南禅寺山村紅葉も出てこない。そもそも西村京太郎的ではない。実際の事件をモデルにしたということもあり、松本清張ノワール感は近いかも。清張が日本のバブル崩壊をドラマにしたら、もしかしたらこんな感じもあったかもしれない。

中国という国の強い制限があって、この形になったのか。政治的な主張やテーマは、うまい具合にドラマチックな物語に覆い隠されて気づかない人もいるかもしれない。中国の近年の流れに興味ない人にとっては、ただのサスペンスだ。中国公開版は相当検閲でカットされたそうなので、もっと分かりにくいかもしれない。

それでも、ロウ・イエの激しい歴史の流れを切り裂くようなハンドカメラの動き、1990年代あたりからの中国の雰囲気をドキュメント的に撮る映像手法は、ひとときあの激しい時の流れに放り出されたような感覚になる。分からなくても、その激しさと不穏さに強く惹かれる。

アユン役を役そのままの台湾人を起用、広州人タン役は広東出身の俳優を起用している。特に中国語の発音にそれはよく現れている。広州はかなり訛りがきつい(日本でいうと関西弁的)が、タンは一応普通話の発音とはいえ、他の俳優より少し発音が違う。広州も若い子はほとんど普通話の発音だし、映画にする時には標準発音が良いのだろうけど、ここは役作りと監督の演出を感じた。タン役のチャン・ソンウェンは役人の雰囲気を出すために、実際に広州の役所で一ヶ月働いたそうだ。

香港の探偵役のエディソン・チャンはさすがの存在感。華がある。中国検閲でエディソンのシーンは全カットだったそうなのだが、やはりあの件が大陸でも問題なのかと苦笑い(いや笑い事ではない)。このキャスティングもエッジが効いている。

ロウ・イエがこの物語を紡ごうと決めた「城中村(じょうちゅうそん・chéng zhōng cūn)」は広州市内に実在する洗村。瓦礫にまみれた村と、その向こうに見えるバベルの塔のような広州の高層ビルとの対比を描いた最初のシークエンスは、ヨハン・ヨハンソンの音楽とともにこれだけでも映画を見に来た価値がある。

金と欲望と湿気の街・広州

2010年〜2013年の3年ほど、広州に住んでたので、懐かしくて見に行ったが、住んでいた辺りの景色はあまりない。これはおそらく、住んでいた天河のあたりは軍の所有地が多く、主たるところも撮影許可がおりなかったのかもしれない。反して洗村は、開発途上という性質からむしろ撮影ができたのかもしれない(洗村の住民の反対は大きかったらしく、ロウ・イエは説得に苦労したそう)。

洗村に行ったことはないが、タクシーに乗った時に時々通りかかる裏道があんな感じだった。崩れかけた廃墟で、青空床屋が営業していた。素っ裸の赤ん坊が多いのは、おむつを変えるのが面倒だからと聞いた。少し歩けば、高層ビルの街並み、外国人が多く住む高級住宅街、海外資本や香港資本のモール。

タンとリンが結婚して最初に住むマンションは、決して清潔感あるものではないが、洋風を気取る内装で、彼らがいくらか小金持ちであるのを示唆している。ジャンのおかげで得た郊外の家は、彼らが登り詰めたのを意味する。リンが娘と旅行しているのは、中国の金持ちが押し寄せるリゾート地・海南島だ。

また広州は商業の一大都市で、あらゆる商売の巨大な問屋街が多くある。リンが最初の頃に洋服の商売をしている様子が描かれるが、あれは衣料品や布の問屋街ではないかと思う。他にお茶、宝石、雑貨、化粧品、食器、家具、ブランド品の問屋街などがあり、それぞれがものすごく広く大きい。珍しいものだと鑑賞魚の問屋街もあった。広州で売られていないものはないのではないかと思う。

広州はそのためか、お金で解決できる街でもある。賄賂文化は中国のお家芸ではあるが、広州は上海や北京よりゆるいのか、あっけらかんとした感じで行われている。お金があれば、どんな人間でもウェルカムなところがある。駐在時、人種差別にあったことがないとは言わないが、お金を持ってる日本人なら暮らしやすい街ではないだろうか。しかし決して良いことと思いはしなかった。現地妻を囲う単身赴任の駐在員の悪びれなさや、「小日本人」と揶揄されてもその意味も知らず偽のブランド品を買い漁る駐在妻は醜悪だった。しかしあまりに日常で、そしてその事によって得られる「安全」は何より貴重だったとも思う。

タンとリン、ジャンの3人が再会し車に乗り込むシーンがある。ロウ・イエはこの印象的なシーンを、決してトリュフォーが好んだ男2人女1人の恋愛物語だけにせず、「実業家のジャンは富を、役人のタンは権力を握っている。そして運転手は香港人、助手席には台湾人。これが中国の姿」という意味を含ませる。

そこに日本人はいない。その頃の日本は金蔓だった。今はもしかしたら鼻にもかけないかもしれない。

広州の思い出は語り尽くせないが、ロウ・イエが中国の30年を語るのに選んだ理由はよく分かった。北京や上海という保守的な街の中ではできない描写がそこにはある。霧の向こうに香港がある広州は、希望も絶望も未来も過去も、一緒くたに煮詰めたようなカオス感がある。決して自由ではないが、湿度100%のぼやけた景色は真実を隠すには格好の場所だ。

大きな阿呆船

そんな湿気にぼやけたような映像とはいえ、天河や海珠のあたりの不動産バブル景気による金満感、反して下町の発展途上の灰色の街並みの差は覚えがあった。張りぼてのような街と開発途中の海沿いの景色。
あの頃の中国の張子の虎のような、虚しいだけの景気の雰囲気はよく分かる。反して香港の生き生きとした生命力あふれる街の情景は皮肉にも見える。ヨハン・ヨハンソンの音楽が、ジメジメとして霧深い、そして下水と金属の焼けた匂いが立ち上ってきそうな広州の雰囲気をよく表していた。
エンドロールのカットが笑顔ばかりなのもまた虚しく。

中国という大国、あれは阿呆船だ、と時折思う。あふれるほどの人民を抱えて、さらにたくさんの人種が押し寄せ、時には海の向こうへとその喧騒は侵食し、すべてを包括しているようで決して多様性とは遠く離れた国。どこを目指してどこへ辿り着くのか。ロウ・イエの目を通して、その一端を見せられたような映画だった。

安心感に満ちた鑑賞体験〜『夜、鳥たちが啼く』ジャック&ベティ

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売れない小説家・慎一(山田裕貴)の住む家に居候することになった友人の元妻・裕子(松本まりか)とその幼い息子・アキラ。母子は母屋に住み、慎一は隣のプレハブで生活するという奇妙な半同居生活。慎一は昼はコピー機のメンテナンスの仕事、夜は小説を書いている。裕子は引っ越し先が決まったらすぐ出て行くというが、夜な夜な男と飲み歩いている。そんな不安定な裕子とアキラを遠巻きに見る慎一もまた、鬱屈した思いを抱えている。別々に生活しながらも、少しずつ近づいていく男と女、その息子。

男女の関係が分からず探るようなシナリオが、2人の距離感の変化に重なる。

日常生活の中に差し込まれる、男と女のそれぞれの過去。それは果たして本当に彼らにあった現実の出来事なのか、それとも男が夜な夜な書いている小説の中の話なのか。その見分けがつかない演出は、2人の傷つきやすい人間の人生を、乱暴に暴露するのではなく、そっとこちらに語りかけるような、優しさのある表現になっている。観客は下世話な野次馬ではなく、責任ある見届け人となる。
かなり大胆な「濡れ場」がある。しかし、これはきちんとインティマシー・コーディネーターつけてると見ている間に分かった。その事により作品の美しさが増し、尚且つ安心して見られたのは大きな発見であった。
古い映画人は「コンプラやらうるさくて映画作りがつまらなくなる」とご自身の都合ばかり駄々っ子のようにごねて変化を認めない。しかし、今作では変化を受け入れた事で俳優の演技表現は確実に良くなっているし、観客側にもそれは伝わっている。人を楽しませる、ということは「安全である」ことは第一条件ではないか。そしてそれは何事にも大前提である。映画館という密室で、観客はスクリーンに身を委ねている。身を委ねるというのは信頼だ。映画で描かれるものが愛であろうと、暴力であろうと、それは変わらない。悲しみも憎しみも苦しみも、伝える側の誠意を見せなくては。

今作では、スクリーンの向こうにいる観客の存在を無視しない、そして演じる俳優の人権を守る事。制作する側がそれを大切にしようとする姿勢を感じた。

美術や小道具、音響など細かなクリエイションにも力を入れていることからも、丁寧な映画づくりが分かる。佐藤泰志作品は故郷の函館が舞台のものが多いが、今回は違った。しかし佐藤作品の持つ世界観はそのままに伝わる。

映像化された佐藤作品は監督も俳優も違うのに、なぜか同じ雰囲気をいつも感じる。原作の持つ名もなき弱き市井の人々の細やかな情感描写は、映像作家のインスピレーションを刺激するのだろう。映像にした時に、小説で描かれた情景がさらに光を増す。今作では、俳優の良さもより引き出したよい演出だった。

ロバの名前はジェニーだよ!〜『イニシェリン島の精霊』

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きーたぞきたぞマーティン・マクドナーの新作!

ということで待ちきれず公開初日に行ってまいりました。

あらすじ

舞台は本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの小さな島・イニシェリン島。馬や牛を飼い細々と妹とともに暮らすパードリック(コリン・ファレル)は長年の親友コルム(ブレンダン・グリーソン)から突然「お前が嫌いになった」と絶交宣言をされる。理由が分からず、なんとか仲直りしようと賢い妹・シボーン(ケリー・コンドン)や、村のお荷物的な存在のドミニク(バリー・コーガン)に相談したり、彼なりに画策するが、頑としてコルムの意思は変わらない。島中の人間を巻き込んで、この騒動はねじれた方向へ向かっていく。

(※ネタバレしまくりますので、これから見る予定の方は読まないでください)

 

ATフィールド全開!で拒絶の理由とは

コルムがパードリックを突然拒絶する詳しい理由ははっきりしない。最後まではっきりしない。

おそらく最初の方で言っていた「馬の糞の話を2時間もされた」ことは確かに理由の一つなんだろうけど、多分これまでも似たような事があって、積み重なった上の事なのでは。

早朝から昼過ぎまで仕事、午後2時にはパブでビールを飲んで、毎日毎日2人は同じような毎日を過ごして来たのであろう。一人暮らしのコルムの家に勝手に上がり込んでしまうくらい、パードリックにとってコルムは近すぎる存在だが、もしかしたらコルムはもっと距離を置いてほしいとサインを送っていたのかもしれない。けれど、人は良いだけであまり賢くはなさそうなパードリックは、そのサインがわからなかったのではと思う。

コルムの部屋のアートなオブジェを怪訝そうに見てた所や、パブで女性に囲まれ演奏する生き生きとしたコルムを「あいつは昔から女にモテる」と言うパブの店主にパードリックは「そうか?」と言ったり。拒絶された故の反発もあるだろうが、コルムが好きな音楽のこと、話している事を今まで理解しようと努めていたようには見えない。関係が近すぎてコルムの姿が見えていないのではという印象を持った。

コルムの態度はあまりにも頑迷で、理解しにくい謎だが、序盤は何故だか彼の方にシンパシーを感じた。

パードリックは、「いい人だけどそれだけ」というのを周りの人達だけでなく妹にまで言われる。島の中で一番頭の足りないと思われているドミニクにすら、である。「距離感?なにそれ美味しいの?」とでも言いそうだ。そして最悪なことに酒癖も悪い。

空気の読めないパードリック、「ATフィールド全開!」なコルムの態度にもめげず、パードリックは「エイプリルフールでしょ?」「そんなこと言ってまたまた~」とどうしても受け入れられない。その様はまさに『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』で、目覚めたら仲間に「何もしないで」だの「エヴァにだけは乗らんといてくださいよ」と超超冷たくされるシンジ君のよう。

観客側も理由が分からない置いてけぼり感の中、演じているコリン・ファレルの困り眉の愛らしさと、馬鹿だけど悪い人ではなさそう感に引っ張られ、ちょっと同情する感じになるであろう。妹や島民が二人を見守る気持ちにシンクロさせ、少しずつシフトさせていくような箇所も多い。

突然の仁義なき戦い と「マクドナーのハサミ」

しかしマクドナー、そんな狭いコミュニティの人間関係を描くヒューマンドラマだけに落ち着くわけもなく。『北の国から』だったら、地井武男あたりがまるくおさめてくれそうなのに。しかしイニシェリン島、というかマクドナー島、まともな人はいない。田中邦衛大滝秀治もいない。ので、2人の関係はこじれにこじれることに。

コルムはとうとう

「俺に話しかけるな。話しかけたらハサミで俺の指を切ってお前にやるよ」

とおっそろしい最後通告を突きつける。

マクドナーが「指を切る」と脚本に書いたら、それは台詞だけではない。必ず指は切られるし、問題は「何本切るのか?」なのである。そう思ってしまった時点で私はマクドナー脳なわけですが。「チェーホフの銃」の論理しかり、今回の「マクドナー・ルール」は「ハサミが出たら指は必ず切られる」なのです。

血が流れないマクドナーなどない!

ところで、使用されたでっかいハサミはどうやら「毛刈りのハサミ」らしく、コルムは元々は羊とか飼って羊毛の仕事をしてたのか。今は隠居してるよう。パードリックは馬や牛を飼って、ミルクだかを街の商店へ納品してる小さな酪農家らしいので、2人は仕事も近しい感じと推測される。

コルムはさらに「指がなくなるまで」と言ってたので、ああこりゃ何本かガッツリいくやつや~と覚悟を決めました。さすがの私もワクワクはしません。

それにしても「指詰め」ってなんで思いついたんだろう。「仁義なき戦い」とか北野映画的な展開なのか。どっちかというと三池崇史的でもあり。

コルムが最初に詰めるのは親指で、相当痛かったと思うんよね。ヤクザ映画なら小指からなのに。楽器を演奏するから、比較的なくても困らない親指からなんだろうけど。(←※2回目見たら最初に切ったのは左の人差し指でした。ショックすぎて空目してた模様。)

ブレンダン・グリーソンが「朝日ソーラーじゃけん」って言いそうな、菅原文太的ツヨツヨ感なので、さらに仁義なき感が増していく中盤。イニシェリン島の海岸が呉の港に見えてきます(見えません)。

そしていろいろあって(パードリックが馬鹿なので)コルムの左手の指は全部なくなりまーす。きゃー!

予告編でコルムが飼ってるワンコが、ハサミを家の外に引きずっていくカットがあるけど、「もうやっちゃだめ!」と言うような瞳。マクドナーあざとい!いやあざといのは犬だけど!

www.youtube.com

 

(※ここからさらに大事なネタバレに触れますので、これから見る予定の人は読まないでください)

 

いとしのジェニー

あまりの男と男のラブゲーム、もといバイオレンス友情物語が激しすぎて、すっかりさっぱりしっかり忘れてたんですが、私鑑賞前にとんでもないフラグを立ててまして。

オフィシャルツイッターで出てきたこの画像がめちゃかわいいわけですが。

ロバちゃんはジェニーという名で、本名も同じ。ロケ地の島のロバちゃんなのだそう。パードリックが「ロバの糞じゃない!馬だ!ジェニーたんは糞なんかしない!」とまで愛しているジェニーたん(台詞に少々嘘がありますすみません)。妹に怒られても家に入れてかわいがっていたジェニーたん。ジェニーたんも傷ついたパードリックを慰めて、2人は相思相愛。BGMはサザンの「いとしのエリー」がジェニーver.で流れます(私の脳内で)。

しかし長年のマクドナー脳に侵されて久しいわたくし、鑑賞前にロバの画像を見て、こんなことをつぶやいておりますた。

「君のような勘のいいガキはきらいだよ」とマクドナー先生に一撃必殺くらいそうなツイートです。

そうです。

ジェニーたん、お亡くなりになります!!!!!

コルムが2度目に切った4本の指をパードリックの家のドアに投げつけるのですが(ちなみに1回目の親指も同じくドアに投げつける)、意地汚いジェニーたん、それを食べてのどに詰まらせてしまうのです。正月に餅詰まらせて死ぬ老人か!韓国だったらタコの踊り食いね。よく考えるわねーマクドナー、と感心すらしました。

しかし犬も予告に出てるし、他にも死にそうな人もいないこともないのに、ロバが死ぬかも?って感じ取った私。マクドナー脳にやられてるとしか(ワクチンなし)。

鑑賞後、敬愛するさえぼう先生のコメントを先に読んでなくてよかったとしみじみ思いました。「犬は死なない」で分かる人は少数だろうけども。コメントはマクドナー的でとても好きです。

そういえば、北野映画で切った指をラーメンに入れるやつあったよね(『アウトレイジ』)あれを思い出したり。

ブレンダン・グリーソンは『孤狼の血』の役所広司感もある。はっ!この映画の役所広司もあるものを口に押し込まれているのであった!

まさかのオレタタエンド

最愛のジェニーたんを亡くしたパードリック。しかも妹も島を出て行ってしまい、追い詰められた精神状態の中、とうとうブチ切れる。しかしコルムの愛犬は守るとこがまたマクドナーっぽいのである。

コルムの家に火をつけ、まあコルムはそれでは死なないけど、「どっちかがくたばるまでやるぜ!」みたいな感じで終わりました。まさかの「俺たちの戦いはこれからだ!」なジャンプの連載打ち切りエンドなのでした。

二人の間で見守るワンコが切ない。

バリー・コーガンはいいぞとか、その他いろいろ

ジェニーたんの衝撃ばかり書き綴りましたが、見どころは他にもたくさんあり。

パードリックと妹・シボーンの絆は、両親を亡くして二人で肩寄せ合って暮らしてきて、お互いに守りあってきたのだと分かる。

そしてコルムもきっと、家族の喪失の時に二人を支えてたんだろうなと想像できる。警官にボコられて泣いてるパードリックを、絶交してんのに慰めるくだりはキュンとする。その警官をパードリックのために殴ったり(しかしその元の原因を作ったのはコルムなのですが)。シボーンに対しては、自分と同じ「島の外を見ている賢い人間」として理解しているようだし。

そんな、絶交前の二人の関係が垣間見える演出もにくい。

アイルランドの島と海の美しい景色、優しい瞳の動物たち、アランセーターやパブの雰囲気。対岸で起こっているアイルランドの内乱が、二人の破局のメタファーであったり。ただバイオレンス味強いヒューマンドラマってだけではない、みどころたくさん。

しかし何といっても、ドミニク役のバリー・コーガンですよね。いい。演技うまい、存在感ある、かわいい、アイルランドの至宝。アイルランド吉岡秀隆!千の仮面を持つアイルランド北島マヤ!本作、ネタバレしまくってましたが、ドミニクについては語りません。皆、バリー・コーガンの美技に酔いな!

『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』でも共演したコリン・ファレルマクドナーとコーガンを繋げたそうですが、コリンたらグッジョブ~。『聖なる鹿殺し』ではコリンはコーガン演ずる青年にメロメロになる役柄でしたが、実生活でもコーガンの魅力にZokkon命(ゾッコン・ラブ)だったりして。コリンの困り眉は伊達じゃないね。マクドナーもコーガンに会う前から本作は当て書きしたんだそう。さすがバリーたん。巨匠のハートもがっちりつかむ。さすがの天使の媚薬でハートをしびれさせる魅力。しかし当て書きしてこれなのもどうかとは思うが。次のマクドナー作品はぜひぜひバリー・コーガン主演でひとつ。

そういやジェニーたんの衝撃で「二人死ぬ」って予言忘れてた。あれもう一人は誰?ジェニーはロバだから、まだもう一人死ぬってことか。(←※2回目見たら「二人」じゃなくて「2つの命」だったので、ジェニーとドミニクで正解だった)

2022年映画ベスト10

1月も終わろうとしていますが、いまさらの昨年映画ベスト10です。

劇場で見たのが57本(新作28本・旧作29本)。配信等で見たのが85本。計142本。

ランキングは新作からのみです。

1位 パリ13区

見た時から、他とは違う感覚がした。映像も音楽も物語も。誰かと共有できるものでもなく、説明がしにくい。感動でもない、外国の若者の恋愛模様に共感したわけでもない。どちらかというと、老齢の監督のその優しい眼差しに憧れを持ったというのが正解かもしれない。まだ映画が続いている感覚がある。Roneのサントラがすごくいい。

2位 LOVE LIFE

日本で一番好きな監督。久しぶりに何度も見に行った映画。人間の深淵をやすやすと描く監督の初のラブストーリー(『本気のしるし』もあるけど、ドラマなので。オリジナル脚本長編映画としては本作が初ラブストーリーかと)。愛はミステリー&ホラー&サスペンス!と思ったら、宮崎駿的世界が底にあった。そして実は実写版◯◯◯◯。

分かり合えなさを分かり合う〜『LOVE LIFE』Bunkamuraル・シネマ - je suis dans la vie

「ほら、怖くない」ってことはやっぱりない~『LOVE LIFE』2回目&3回目鑑賞感想 - je suis dans la vie

深淵な新年ランランララランランラン♪~『LOVE LIFE』トークショー@横浜シネマ・ジャック&ベティ - je suis dans la vie

3位 アネット

久しぶりのカラックスというだけでごはん三杯。ではなぜ3位なのというと、色々理由はあるけど、なんだか1位というより3位、という感じがしませんか。決して桜餅のせいではありません。

愛という名の深い森で〜『アネット』試写会@ユーロライブ渋谷(ネタバレあり) - je suis dans la vie

現実と虚構の狭間でーアネット桜餅事件を振り返るー〜『アネット』鑑賞2回目@109シネマズ川崎(舞台挨拶回) - je suis dans la vie

4位 秘密の森の、その向こう

『燃ゆる女の肖像』といい、丁寧な人物描写は信頼できるし、安心して見ることができる。セリーヌ・シアマは誰にでもオススメしたい。

寄り添う小さな二つの魂〜『秘密の森の、その向こう』Bunkamuraル・シネマ - je suis dans la vie

5位 NOPE

語りたいyeah!考察したいyeah!な欲をそそられた映画No.1。しかしなんでアカデミー賞はNOPEをスルーしてるの?これこそ文化が結集した芸術だと思うんだが。

名もなき人々を蘇らせる”えいが米国昔ばなし”~『NOPE/ノープ』IMAX上映版 - je suis dans la vie

6位 ファイブ・デビルズ

映像にしにくい「香り」について、これほど明晰に表現できることが可能とは。ホラーサスペンス的な予告編やタイトルに反して、とても質の良いラブストーリー。

7位 彼女のいない部屋

モンタージュを駆使した映像表現と、ミステリーをうまくかけ合わせて、なおかつ詩的で音楽的で。心に優しく響き、触れるような映画。

8位 暴力をめぐる対話

フランスのドキュメンタリー。SNS映像を使った斬新さ、俯瞰的で冷静な視点もさることながら、フランス人らしく言葉による議論を駆使して、立場や背景違う人々が視線を絡め合う様を映像にのせた。その映像の力を信じるパワーに圧倒される。

9位 スパイダーマン:ノー・ウエイ・ホーム

賛否両論あれど、ヒーローの楽しさと孤独と苦悩を、ティーンエイジの甘酸っぱさに重ねた素晴らしい青春映画だと思います。マリサ・トメイ最高、ジェイコブ・バタロン(ミニ里崎智也!)の愛らしさよ。そしてトムホとゼンデイヤに幸あれ〜!

10位 恋人はアンバー

アンバーみたいな友達がほしいし、アイルランドに行きたくなるし。エディとアンバーの描き方のバランスがちょっと悪いラストではあるけど、もしかしたら大人になった2人は今も交流があって、エディはちゃんとアンバーに恩返ししてて、たまにダブリンかロンドンのパブで飲んでたりするんじゃないかって。そう思わせてくれる映画っていいと思いませんか。

総評または雑感

上位3作はほぼ同率。

では何が違うか。

2位と3位はそれぞれ三回見てて、何度見ても面白い。1位はもちろんまた見たい、とも思うのだけど、一回見てすごく充足感があった。まるで彼らと同じ時を過ごしているかのように。あのパリの13区に、あの子達がまだいるように思わせる。そういう意味では10位も似た感覚。

あと1位と10位の共通点として、自分がある程度年取って、若い人たちを応援したいとか微笑ましく見守りたいとか、そういう気持ちが出てきたのかな〜と。1位は特に監督の視線とリンクした。

2位と3位はフィクションとして楽しんで、身を委ねる感覚。5位もその感覚。

セリーヌ・シアマとレア・ミシウスの監督作がランクイン、そして2人が共同脚本の作品が1位。自分の中でこの2人は別格と分かる。全体的にフランス映画が多い。邦画はあまり見てないから1作だけになった。監督の作家性と、音楽と、ジェンダー感がポイントになっている。あとホラー的要素(ホラー映画でなくても)が重要なのかなと。
こういうの出すと自分の傾向が分かって面白い。

おまけ

ベストがあるならワーストもあるやろ、と思うのが世の常。しかし配信も含めてあんまりハズレなかったかも。強いて言えば『フレンチ・ディスパッチ』は楽しいんだけど、オマージュが多すぎて途中で飽きた(途中何回か寝落ちした)。元ネタが分かりすぎてつらい。そしてレア・セドゥ脱がせればいいってもんじゃないだろとも思ったしさ〜。レアも「私が脱がなきゃ誰が脱ぐ」なのかどうか知らんけど、もっと演技見せてほしいわい。あと『トップガン マーヴェリック』は楽しかったし、続編としてなかなか良いとも思うが、一般評価が高すぎる気が。相変わらずトム・クルーズの笑顔が苦手な私の意見なので偏見ありまくりですけど。

あと配信のマイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルの作品は選択肢から外したんだけど、いくつか劇場公開してたらランキングに入れてただろうなーというものもあったり。

今年の目標は100本以上は見られたらいいな。と感想書く時にエヴァに喩えるのをなるべく避けること、です。