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曖昧の森で彷徨う偽王〜『マクベス』はえぎわ×彩の国さいたま芸術劇場 ワークショップから生まれた演劇 @芸劇シアターイースト

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2022年春に、さい芸がはえぎわ主宰のノゾエ征爾さんを招き『マクベス』を題材としたワークショップを実施。「演劇を見慣れていない若者に演劇の魅力を知ってもらう」というテーマの演出で約100分の『マクベス』を制作。そこから今回の本公演が実現。

松岡和子先生の翻訳をベースにしつつコンパクトにまとめられ、分かりやすく現代語に置き換えられた部分や、ワークショップの中で生まれたと思われる箇所も見られた(上演台本についての話は当日のアフタートークで語られたので別記)。

チケット取った時にC列だったので、まあまあ前の方だな、と思ったら思い切り最前列ほぼど真ん中。いやいいんですけど!嫌いじゃないけど!ちょっと恥ずいんです。

舞台には木の椅子がきっちりマス目に並べられている。床にはマス目に区切られた白線。前方にA〜Hの文字、横に1〜8の文字が記されており、チェス盤を模している。舞台両脇には長卓の上に雑然と置かれた物たち。舞台の小道具らしく、さい芸で幾度となく使われたものであろう。

舞台の一番前には白い紙が細長く引かれて、全体的に黒の舞台の中でとりわけ白く光るように見えた。

1.魔女の囁きはどこから/誰から?

開演前に女性の声で鑑賞注意のアナウンス。珍しく小さな言い間違いがちらほら、と思いきや大事なキーワードを密かに含めており(キタナイやキレイ)、まるで魔女の囁きのようだった。

芝居がまだ始まる前に魔女3人が舞台上を彷徨う。両脇の卓上の小道具で遊ぶ。球を上から入れると流れ落ちてくる円錐形の玩具を気に入ったようで、子供のように繰り返し遊ぶ。カラカラと球が周り落ちる音が響く。(もしかしたらここは日によって変わる?)

  • 茂手木桜子による魔女像

メインの魔女は茂手木桜子さんで、ワークショップ時は一人だったそう。やはり三人でなくては!という茂手木さんの希望だったということ。「3」という数字は台詞においても重要な意味を持つ*1ので、ここは戯曲に忠実だ。

茂手木さんの細長い腕と体を強調した衣装による踊りや動きはかなりインパクトがある。これは茂手木さんが映画『十三人の刺客』で演じた「両手両足のない女」を思い出させた。映画では視覚的なインパクトの強さはもちろん、かつてあったであろう手足を想像させ、その恐怖を引き起こす動きの演技だった。もちろんその手足はCGで消されているのだが、まるで本当にそこにそういう人がいるかのようで、当時のCGの甘さゆえに偽物だと気づくくらいだった。

2022年にジョエル・コーエン監督版マクベスを見た時に、キャスリン・ハンターが演じる魔女で『十三人〜』の茂手木さんを思い出した。ハンターの、荒野に巣食う蜘蛛の化け物のような不気味な動きの魔女。ハンターが茂手木さんの演技を参考にした可能性は低いが、かなりイメージが一致した。

そういえばイントロで魔女が踊る時のBGMは「めでたい‐だるま」(うた KAKATO-環ROY×鎮座DOPENESS)なのだが、茂手木さんからインスパイアされた選曲なのだろうか。この「だるま」というキーワードはラストシーンにもつながり、コミカルだがぞっとする。

  • 四人目の魔女

川上友里さん演じるマクベス夫人はかなり魔女的なイメージがあり、「四人目の魔女」ともとれた。特に独白のシーンで台詞を歌にしてミュージカル風にして、さらにその台詞を垂れ幕にした演出はエキセントリックな異化効果を感じ、マクベス夫人の狂気がすでに始まっていたと見えた。(4は日本での不吉な数字という符号は考えすぎか?)

川上さんはマクベス夫妻の主語である「私たち(We)」を強調する台詞(松岡訳における大事なポイント*2)王殺しに戸惑う夫を鼓舞する強さ、夫への熱情、夫婦の絆を感じさせる台詞もすべて戯曲どおりに伝える。

しかし「なぜあれほど強くマクベスを殺人へと駆り立てるのか?」という疑問は残る。単なる自己顕示や出世欲なのか、夫への愛情が歪になったゆえの形なのか。そしてなぜ魔女の囁きを直接聞いてないのに信じたのか(信じてはいないのかもしれないが)。もし、「魔女の囁き=マクベス夫人」の願望としたら、辻褄は合う部分がある。

魔女はいるのかいないのか分からない。予言も本当か分からない。森が見せた幻かもしれない。マクベス夫人はそれを利用しただけ。はたまた夫人の前からの願いを知っていたマクベスが、都合のよい幻聴を聞き、バンクォーにはあたかも一緒に聞いたようにいい含めたかもしれない。

今作のマクベス夫人は、マクベスを操るような怪しさも待ち合わせており、魔女とともに得体のしれないホラー的要素があった。

魔女は一人でも茂手木さんの表現力ならば成り立つかと思うが、見ていくうちにこれは三人でバランスがよいなと思った。魔女の権化のような茂手木さんの存在感、それに劣らぬマクベス夫人の得体のしれぬ怪しさは、ともすると芝居の根幹になってしまいそうであやうい。魔女を三人にしたバランスはその偏りを感じさせない効果があった。

2.脇役たちの策略

マクベス夫妻と魔女以外のキャストもたいへん印象的だ。バンクォー役の山本圭祐さんは少年のような雰囲気とコミカルな演技で、バンクォーとその息子フリーアンスを演じ分ける。フリーアンスに至っては紙に適当に描いた顔を松明にくくりつけて、腹話術のように演ずる。この演出は「若者向け」というテーマに沿っていてよい。その後のえりまきの使い方も楽しい(場面としては緊張感あるが)。幽霊で出てくるときもその小柄な体が日本ホラー的で、外連味過ぎないがちょっと面白味ふくんだ感じがよかった。

2020年にグローブ座が無料配信したマクベスも若者向けで、フリーアンスのシーンは小話パートになっていた。全体的に暗い話なので、つかの間肩の力を抜くシーンになった。

ダンカン王役の村木仁さんはおっとりした王様像で親近感があり、抜けている感じがやすやすと殺されそう感があった。ただマクベス夫人の二の腕を触るくだりは「セクハラ」をイメージしてるのだろうが、ここはキャラに合ってなかった。このセクハラ表現は、2023年のKAATの『蜘蛛巣城』(赤堀雅秋演出)や『レイディマクベス』でもあり、マクベス夫妻がダンカン王殺しの動機付けとしてあったが、戯曲上はダンカン王に瑕疵はみられない。セクハラ表現ない演出で、マクベス罪悪感を強調する方がよいのでは。おそらく若者への「こういうおじさんいるよね」的な表現なのかもしれないが。

マクベス夫妻以外の俳優は複数役を担い、椅子を動かし、場面を変えていく。マクベスはそれに従うかのようだ。俳優たちは影のように動き、主人公を策略にはめて、最後ははりぼての城の頂上に置き去りにする。

チェスの駒が動き、キングの駒を奥へ奥へと追い詰めていく。

3.孤独な偽王マクベス

内田健司によるマクベスは、ダガースピーチもトゥモロースピーチはもちろん、どの台詞も戯曲のひとつひとつ正確に発声し、そしてその体も台詞と違うことなく演技している。ある意味とても優等生的解釈のマクベスだ。

マクベスは魔女の言葉に翻弄され、王殺しに躊躇し、妻に鼓舞され、犯した罪におののく。決して強い人間ではなく、弱い。内田マクベスはその「弱さ」の表現においては他と違った。マクベスは仮にも軍人であり、男性社会の頂点に君臨しようという立場なので、その弱さを終始隠し古い男性的な強さを演じるのが割と多い(またそれも弱さだが)。内田マクベスマクベスが持つ繊細さを隠さない。マクベスの中に相反する男の見せかけの強さと本来の弱さのバランスを隠さない。

それは前述の、脇役による策略の演出に流される様、やわらかな偽物の甲冑を真剣な様子で身に着ける様、はりぼての城に破滅を予感しながら自ら上っていく様に現れる。抵抗していないかのように自然に破滅へ向かう様、それはまるで「哀れな役者」そのものではないか。荒野を彷徨うリアとは設定が逆の「偽王」のようだ。

「きれいは汚い、汚いはきれい」に代表される曖昧さ(equivocation)の表現は大事なキーワードである*3。曖昧な予言や他人の言葉に翻弄され「王」になることを、すべてはまやかしと薄々気づきながら流されるように受け入れる、そんな諦めに満ちた内田マクベスは、強さでも弱さでもどちらともとれない(あるいは両方の)演技は、まさにこのequivocation を体現していた。

おそらくこれは内田さんの持つ個性でもあると思う。たとえば蜷川シェイクスピアの常連の他の俳優がマクベスを演じるとしたら、ダガーもトゥモローも大体想像できる。朗々と大きく歌うような男性らしい台詞回し、死を強く恐れ、欲望渦巻く中で強く生きようともがく姿、コントラストのはっきりした古典的な男主人公。それが破滅へ向かう様は臨場感があり演劇的だろう。しかし内田マクベスは初めからより内的で、思索的だ。それはむしろ戯曲のマクベスを的確に表している。

4.美術・衣装・音楽

椅子を動かし、拍子木のように鳴らすシンプルなセットと演出は、この物語が嘘であり芝居だと強調する。衣装もモノトーンでシックだが、かわいらしいデザインと形状だ。ダンカン王の王冠はちょっと大きすぎるようだし、マクベスの甲冑は柔らかそうで何も守らない。何より椅子をより集めた城は子供の要塞あそびのようだ。

若者向けに分かりやすく、というテーマに沿ったであろうこれらの演出が、期せずしてこの芝居の「曖昧さ」というキーワードにつながる。嘘か真か、芝居か人生なのか、生きるのか死ぬのか。曖昧模糊とした世界をそのままに。

ダガースピーチの「幻の剣」は魔女(茂手木)によって差し出される。おもちゃのようなグレーの剣に水を垂らすと濃い色に染まっていく様を血のように表現し、殺人を終えた後のマクベス夫妻の手は墨汁の黒に染まる。舞台前面の白い紙にそれをこすりつけ黒い手形が記される様は、ここにも日本的ホラー感があった。ともすれば「分かりやすさ」から離れるようなアートな表現だが、不思議と外連味を含み、血なまぐささをすっきり表現してとっつきやすくする効果もあったのではないか。

前述のグローブ座の学生向け『マクベス』では、あえて血糊たっぷりにしたり、子供たちの興味を引くエキセントリックな演出があった。墨や陰影を血に見立てた今回の演出は日本的とも言える。カジュアルな衣装や、おもちゃを使った小道具などの演出は共通していた。

 

音楽については分かる部分だけ、下記。

「教訓1」は茂手木さん演じるマクダフ夫人が子供と共に殺される場面で流れる。現実のあらゆる戦争へのメッセージでもあり、芝居が血の流れる非道な世界であるということも気づかせる。

悪くはないのだが、さい芸の『ジョン王』の時も思ったが、日本のフォークソングシェイクスピアは合わせるのがちょっと難しいのでは。国の違いもあるが日本のフォークソングが生まれた1970年前後の雰囲気、今の世界情勢、シェイクスピアの頃、と三つの時代のつながるイメージは世代によって変わり普遍性があるかどうか疑問だ。またグローバルになった現代の若者にとっては、というとどうなのだろう。蜷川さんや吉田鋼太郎さんはフォーク全盛期が身近だったからというのもあるのかもしれない。「教訓1」はシンプルな日本語歌詞で分かりやすいが、直截的でなくてもよかったのではとも思った。

 

余談:森といえば

シェイクスピアといえば森がよく出てきまして、マクベスも動く森でおなじみの「バーナムの森」が舞台。シェイクスピアでは「庭」は「国」のメタファーなんですが、じゃあ森はどうなの?と調べてて、いろいろシェイクスピア専門の先生に聞いたり資料を掘り返したりしまして。

ブリテン諸島(UK)での森林割合って13%なんだそう。イングランドでは10%以下なんだそうです。マクベスの舞台のスコットランドが多めで19%*4

そして日本は国土の67%が森林なんだそうです。*5

英国は16世紀から17世紀の頃は木材輸出量も多かったのに、産業革命時にいろいろあって減ったそう(めんどいので気になる人は各自ググろう)。

ということでそもそも森というもの概念が日本とUKだと違うんじゃない?

そしてシェイクスピアの頃と今のUKの森も全然違うのでは?

確かにシェイクスピアだと喜劇に出てくる森はウフフアハハと恋人たちがたわむれたり、妖精だの魔女だの出てきてファンタジック。悲劇やマクベスではちょっとおどろおどろしいけど、やはり魔的な魅力のある異世界観。英国映画とかだとお金持ちがバカンスに行くし、英国の詩でも現実から離れた心休まる場所な感じ。

フランス人もバカンスは海も行くけど、山も大好き。

日本は近年はキャンプ流行りだが、どっちかというとなんにもないとこのイメージ。森はただ森なだけ。森がありすぎて「行って何かして感じる場所」というのではないのではないか。熊や猿もいるし。あとトトロとかもののけ姫などの宮崎アニメにあるように、穢してはいけない聖なる場所とか立ち入るべからすぽいイメージある。

シェイクスピアの森について日英文学比較でレポート書けそうですね。書かないけど!

☆アフタートークは別記します。

参考書籍

  • 松岡和子先生翻訳版『マクベス』。今回の公演はノゾエさんによる上演台本だが、ベースはこちら。

www.chikumashobo.co.jp

www.amazon.co.jp