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王冠(きみ)がいた夏は遠い夢の中~G.Garage///第4回公演『リチャード二世』ウエストエンドスタジオ

河内大和さん率いるユニットのシェイクスピア作品公演。今回は王冠を巡る争いの火元となった王様・リチャード二世。

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会場・舞台美術

エストエンドスタジオは地下へと降りる会場。階段もむき出し、平場で、舞台照明が落ちていると薄暗く、さながら地下倉庫のよう。おそらく普段はけいこ場としての利用を主としているのであろう。

メインの舞台は奥から花道のように伸びる細い長方形の平台。平台の下、床照明がぐるり「コの字」に囲む。床照明の内側(床照明と平台の間)がサブの舞台となる。床照明の外側が客席で、サブの舞台と客席は地続きで距離がかなり近い。

平台の手前(客席寄り)に御影石か黒曜石を模した岩のセット、真ん中付近にブランコのようにぶらさがる器。これは上下して時々現れる。

庭師がポイントになる芝居なので、箱庭か枯山水のイメージ。王国を小さな箱庭に見立て、小ぶりな劇場を生かした舞台美術である。実際、メインの平台は割合狭いので、二人並ぶとちょうどよく、4人以上になると落ちやしないかハラハラした。サブの舞台使い方としては、内側と外側という物理的な境と、位の高い側が上・低い側が下、という視覚的な判別にも使われる。

形は違うが、能舞台の様相もある。平台は本舞台でもあるが橋掛かり的にも見える。奥の門型のセットは揚幕でその小さな隙間は鏡の間のようだ。舞台が進むにつれ奥へと移動される岩は橋掛かりの松の木のようでもある。柱はないが、サブ舞台の角に立つ俳優がそれのようにも思える。

悲劇か喜劇か?

開演すると河内さんが前説として登場。大きめな眼鏡をかけ、早口で登場人物の相関関係を説明。「王様のおじさんとかおばさんとかいとことかいっぱい出てくる家族の話!」「ボリングブルックはヘンリーって呼ばれたり、ランカスター公って呼ばれたり、ヘンリー四世になったりしてややこしいけど気にしないで!役者もよく分かってません!」と笑いを取る。観客をリラックスさせるのもあるが、割とこの説明が的を得ており、芝居が進むにつれ、あ、こういうことか、とややこしい人間関係もそれなりに理解できる糸口に。特にボリングブルックについては、父親が亡くなると「ランカスター公」になり、その瞬間に父親が着ていた皮のジャケットを纏うことにより変化したことが分かる。王になればマントと王冠。台詞と視覚が早くつながるので、楽しみやすい。

前回見たG.Garage///『リチャード三世』は、河内さんが悲劇と喜劇のバランス、コントラストを上手に操っており、主人公と舞台のイメージは激しく情熱的で、はっきりとしていた(その時の感想は👉こちら)。比べてリチャード二世は激しさは大きくなく、争いを避けようとするがゆえに優柔不断、お金には細かいようだが、画策も中途半端で政治家としては力不足に思える。ただ戦争の時にまず自分が出陣という、ノブレス・オブリージュな王らしい面もある。しかし王冠をすんなり引き渡してしまう気の弱さがあり、どことなく影が薄い。

河内さんは王としての気品は常に保ちつつ、ボリングブルックや、親族や家臣の激しさとは相対する引きの強い演技で回りを引き立てる。かといって影に回るのではなく、能としての「シテ」の役割を全うしている。前半は前シテとして物語の中心として揺るがない。豪華なマント、王冠、一声ですべてを変える王としての威厳。いわゆる後シテの部分は王冠を奪われた後で、衣装をガラリと変え、白シャツに黒いパンツ姿となり会場の階段から降りてくる。客席の間を通り、床から平台の上の新しい王を死んだようなまなざしで見上げる。王から王冠をはく奪されたただの人としての変化を、シンプルに視覚的にも分かりやすく見せる。そして最後の殺される前の長いモノローグは死へと赴く最後の舞いともいえる。

2020年の岡本健一のリチャード二世は愚かな偶像としての王で、NTLのサイモン・ラッセル・ビール版は現代社会への風刺を交えた裸の王様的な表現であった。

今回の王は愚かであるが、王国という小さな庭をどうにかこうにか保とうとする、実は現実的な王とも取れた。実際リアルな政治家というのは、周りが不満に満ち溢れていることが多いだろうし。

演出・脚色について
  • 音楽はエミ・エレオノーラさんの即興歌で多国籍な雰囲気。
  • 冒頭にリチャード二世がブランコに吊られた器の水で手を洗うシーンがあり、これは叔父のグロスター公を暗殺したことを示唆している。マクベスの血に穢れた手を洗うシーンにも通じるか。実際グロスター公が誰に殺されたかの明言はないので、ここは最初にはっきり王の画策ですべてのきっかけだったと示す演出は分かりやすい。
  • 決闘を申し込むシーンで手袋を投げまくるとこや、ヨーク公夫人の息子の命ごいをするシーンなどコミカルに振り切った演出はよかった。あと王妃が庭師に「おまえの接いだ木は一本も育たなければいいのに!」って言うセリフは最高にひどくて好きなんだが、なかなか笑えてよかった。
  • ウエールズ軍が撤退したという知らせるシーンで、ウエールズの使者(背中だけで顔は見えない)青ネギ持って振ってる。ラグビーW杯のおかげか、あウエールズ!って分かる演出。
  • リチャード二世を暗殺する人が本来と違う。戯曲では騎士エクストンだが、今回は少人数キャストというのもあり(寝返ったバゴットだったかな?)
  • バゴットとブッシーの同性愛表現。リチャード二世が同性愛者という演出もあるが、ここはこの二人のみ。
  • 軽石を使った演出があるが、俳優が裸足なので、見てるだけで痛い。転ぶシーンなどで怪我しないかヒヤヒヤ。
キャスト、そのほか

王冠を奪うヘンリー四世役・鈴木彰紀さん、リチャード王に復讐心を募らせる強い情熱の演技。私の席が正面1列目で、鈴木さんの主な立ち位置のド真ん前だったので、視線にめちゃくちゃ困った。今となってはじっくり見ておけばよかった…平台下で、モブ化するとこは座り込んで軽石をどんどん積んでいくのだが、賽の河原の石積みみたいで楽しかった。これ角度で見えない席もあるのだが、他の役者さんも平台下でモブしてる時は色々やってたらしく、座る席で楽しみが違うようだ。王妃とモーブレーの二役の真以美さんは、鈴木さんと同じくよく戯曲を読んで理解している台詞運び。シェイクスピアは台詞を伝える力が全体を支えると思うので、河内さんがこの2人を携えた様は安心して見ていられる。

脇を固める、という言葉がしっくりきたのはヨーク公役の長谷川朝晴さんと、ランカスター公(ヘンリー四世父)と庭師の二役の清水寛二さん。長谷川さんは周りとすっと馴染むさりげない存在感、しかし埋もれない。そのネームバリューとキャリアのなせるわざなのだが、それも感じさせない。こういう家族ものでは欠かせないポジション。清水さんは出番が細切れだが、その間合いで場を引き締める。若手が多いキャストで自身の立ち位置をしっかり理解している。

キャストを少数にかなりしぼっている分、うまく脚色して分かりやすくしている。舞台が狭い分、見た目的にもごちゃごちゃしない演出。

一つ気になったのは、変則的な舞台装置なので、俳優が客に背を向け台詞を発するシーンが多い。そのため、台詞が聞き取りにくくなる時があった。特に最初のボリングブルックとモーブレーの言い争いは絶叫芝居に近いためか、二人の台詞が厳しい時が。俳優のせいではなく、おそらく会場のつくりによるものが大きい。声の大きさや出し方で、音が反響して、うまく届いていない。この装置でやるならば、すべての席での台詞の聞こえ方をある程度把握した方がよいかも。

まとめ

静謐な舞台の上で繰り広げられる、夏の日の花火のような王冠をめぐる争い。

むしろ王冠そのものが、花火のようにきらびやかでうつろな幻だ。リチャードは井戸にたとえたが、王冠には底がない。リチャードに残されたのは悲しみのみ。それも祭りの花火のあとのむなしさにも似ている。

果たしてリチャードは王冠を戴きながら、そこに何を感じていたのか。王冠を譲ってからの彼は求道者や思想家のようにも見えるが、夢の中に漂うようにうつろに見える。いやむしろ、王冠とともに栄華を極めようとした日々こそが、彼にとっては夢の日々だったのだろうか。

思いがけず、正統な王からその王冠を奪うことになったヘンリー四世もまた、その後も運命に翻弄される。

彼はリチャード王の死を願い、それは期せずして叶えられた。しかし最後に彼は暗殺者を非難する。

「毒を必要とするものも毒を愛しはせぬ、

私もまたおまえを愛しはせぬ。

たしかに私は彼の死を望んだ、

だが殺したものは憎む、

愛するのは殺されたもののほうだ。」

 

先ごろ暗殺されたかの人を思い出さずにはいられない。多くの人に支持され、同じくらいの多くの人にその死を望まれるまでの人物。かの人の死が順当であったかなど、私は考えたくもない。しかし、果たして正義とはなんであるか?この台詞を聞きながら考えておらずにはいられない。

 

(9/19 追記)

シェイクスピア劇では、庭は国や政府を表す比喩として用いられることが多い。(例:第3幕4場)