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シン・ロミジュリ: 卒業できない恋もある〜『Q: A Night at the Kabuki』東京芸術劇場プレイハウス

NODA MAP 野田地図・第25回公演。

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開演前

<客入れSE(分かったとこだけ)>


イパネマの娘」のカバー曲も多分あり(劇中冒頭の波の音はイパネマの海岸の音だそう)。野田地図の開演前は大体60〜70年代が多く、フェイクスピアの時は近年亡くなった人の曲ばかりかけていた。

暗い気持ちさえ/すぐに晴れて

でぶちっと切って開演するの怖いと思った。不穏なイメージ。山下達郎の音は、古い木造家屋にいる幽霊的のような、すずやかな怖さがある。中島みゆきのリアルな怖さでなく、背筋を急に撫でられて冷える感じ。

EPOのカバーや、竹内まりやの歌には同じメロディでもそこは感じない。あくまでポップ。女声男声の違いだけでなく、あの感じはなんだろう。しかしすごくはまった開演。客席がシュッと締まる。

 

ロミジュリベースの作劇

ベースとなるおおもとの話は『ロミオとジュリエット』。

ジュリエット(愁里愛)役の広瀬すずちゃん(あえてちゃん付け)は再演というのもあるのか、落ち着いており緊張は感じなかったが、なんといってもピチピチ(死語)、キラキラしている。

ロミジュリは何歳で演じても、ジェンダーフリーキャストでも、恋愛劇の古典は時代を超えて幅広い表現でも生きる。それも好きだが、前から言っているように、私は若い俳優さんの演じるロミジュリが大好物である。初恋のもつ疾走感、刹那的な輝き、今にも「ハイティ〜ンブギ〜未来を俺にくれ〜!」と盗んだバイクで走り出しそうな爆発する若さ。見た目の持つ説得力は強い。

映像では若くしてすでに多くの高い評価を得た広瀬すずの大事な初舞台に、このジュリエット役が来たこと、野田さんがどれだけ意識していたか分からないがドンのピシャであった。初演を逃したのを真面目に悔やんだ。

ロミオ(瑯壬生)は志尊淳さん。こちらも若くしてすでに多くの高い評価を経ており、演技力は安定しているが、見た目のキラキラ感はばっちりである。2人並ぶと華やかさしかないし、銅像を演じるシーンでは、遠目にもほんとに銅像なのかも、というリアリティのない偶像感マシマシで良い。

そこに年齢を経た、その後実は生きていた(かもしれない)壮年期のロミジュリに松たか子上川隆也

若い“旧ロミジュリ”の2人の、後光で目のつぶれそうな輝きもなんのその。やはり最強。若い2人に張り合うでもなく、同調するでもなく。能でいうシテとワキのような立場を両方とも、場面場面で自由自在に目まぐるしいまでに使い分け演じ倒す。破壊して再構築する様は、まさに”シン・ロミジュリ”!

物理的にもお松ジュリエットは色んな役をぶっ倒しまくっていたので、運命にフィジカルで立ち向かう“シン・ジュリエット”であった。

いつもは野田さんが舞台を掻き回す狂言回しポジだが、今回は松さんと上川さんもそこのポジションを担う。

第一幕は、シン・ロミジュリが画策するも、若い旧ロミジュリが亡くなるまでを原作通りにきっちり。

 

源平合戦と「鎌倉殿の13人」など

瑯壬生/ロミオは平清盛の息子、愁里愛/ジュリエットは頼朝の妹。対立する二つの家族、という共通項がうまくはまる。

そこに竹中直人さん演じる平清盛が、ジョーカーのメイクでピエロ的狂気とシェイクスピア的愚王を表現したり、橋本さとしさん演じる頼朝と修道士は、見た目振り切りまくりで歌舞伎リスペクトというかもろに新感線だし、羽野晶紀さんは両家の母親役二役を演じ分け、ロミオの友人マキューシオに当たる水金(小松和重)は双子だったり、遊び心も満載。

ティボルトは源義仲木曾義仲)としてロミオに殺させる。義仲は頼朝のいとこにあたり、つまり愁里愛/ジュリエット(頼朝の妹)ともいとこ。原作設定にもぴたりとはまる。

そして後半、源氏の争い=近現代の戦争というその後の展開へもつながる。

義仲の恋人・巴御前(伊勢佳世)にあたる人物はロミジュリにはないが、彼女の尽きぬロミオへの恨み・復讐心は、現実に起きてしまった戦争の拭いきれぬ傷跡の一つとして描かれる。能面のようなメイクへ変わっていく様もみどころ。

そんな相関図の色々は、今の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』見てるとフフフってなる。

初演の時はまだ大河放送ないので、今回は客席の反応が素早かったのではないだろうか。と思ったのも、学生時代あんまり歴史得意でなかったんだけど、鎌倉時代だけはすごい好きで。特に源平合戦より、その後の源氏の内ゲバにワクワクした不届きものなのですが。でもおそらく、一般的に義経以後はそんなにメジャーでないはず。特に義時のとこで周りがわりと笑ったり多かったので、やっぱり大河効果なのでは。

そんな今をときめく義時くんといえば、ロミジュリでいうとこのパリスではないですか〜!当て馬&かませ犬フリークとしてはパリスのあるなしは重要。上演時に時間の都合でカットされることも多いパリス君。しかし『耳をすませば』での杉村ポジなんですよ。大事でしょ。

今回も一幕ではパリスにあたる役は出てこず、あーカットされたか…と残念がっていた稀有な観客ですが、二幕でちゃんと壮年期のシン・ジュリエットの嫁ぎ先として提案される。ここ後で気づいてわーいってなった。結局あまり出てはこなかったけど。

ちなみに原作のパリス君はロミオに殺されます。2人が盛り上がって心中する横で、訳も分からず殺されてて、当て馬界でもかわいそうな死に方。

 

復活するシン・ロミジュリ

第二幕、実はロミジュリ生きてました。でも世間的には死んだことにしておいてお互い生きてることを知らずに、という設定。

ロミジュリがもしうまく駆け落ちできていたら?というのを考えた人は多いと思うが、私は映画『卒業』(主演・ダスティン・ホフマンの古典的名作)の象徴的なラストみたいになってたと思う派。映画ラストシーン、やっと結ばれたはずの2人はバスの中で一瞬冷めた表情に変わる。現実の生活の中できっとロミジュリも”いったいなんだったんだ〜セブンデイズ!”(ほんとは5日くらい)って思ったはず。

しかし野田版「その後のロミジュリ」は、さらなる悲劇へと突き進む。

死出の旅から戻った”シン・ロミジュリ”は後シテとして狂い舞う。旧ロミジュリはワキのように、背後霊か守護霊のように、もう一つの運命である自分達に静かにまとわりつく。運命を払いきれぬ、シェイクスピア戯曲の呪いがついて回るかのように。

名を無くした2人。結婚を回避するジュリエットは尼に、ロミオは仮の名を語り、国のために再度始まった戦いへ身を投じる。お互いに戦地で再会するが、本当の名を名乗ることができないジレンマ。

ロミオがシベリアの収容所に連れて行かれるのは、野田さんの反戦と過去の戦争への最大のメッセージ。

そしてジュリエットが尼になるのは慰安婦として、という暗喩もあるかなと深読み。ハムレットの「尼寺へ行け!」の尼寺は「娼館」の隠語の意があるので。はっきり表現しなかったのは、広げ過ぎないようにしたのか、海外公演で難しいとかあるのかな。


永遠に「卒業」できないロミジュリ

シベリアから帰れないロミオ。ここは歌舞伎の『俊寛』。

ロミオは白紙のラブレターをジュリエットに送る。そしてそれは「あなたをもう愛してない」から始まる。

極限の状態、絶望に打ちのめされ、生きることへの希望を失い、何者であるかも見失いそうな「名もなき戦士」となってしまった男の最後の叫び。心と体の死の間際、最後の最後に「どうか名を捨てろとは言わないでくれ」と、かつて愛した女性に自分を忘れないでと懇願する。「愛しているなら名を捨てて」というシェイクスピアの名台詞への素晴らしいカウンター。

愛してない、でも愛してる。

男の心に幻のように消えては現れる愛の残像。

白紙のラブレターに残った、かすかに残った思いを、ジュリエットは受け取る。

緩やかに旋回する紙ヒコーキの手紙、届かなかった、戦争で消されたたくさんの思いを載せて。

ただただ、まごころを、君に

そうであってほしいと言うメッセージ。

松さんの最後のモノローグで、「卒業できない恋もある〜」という歌詞が頭の中を駆け巡り。こんなこんな悲しいラスト。運命と戦ったのに、結局結ばれなかった2人。

野田さんにしては情感的なまとめ方だなと思った。

近頃、どんどん戦中のことを知っている世代がいなくなって、現代の人間が映像や記録でしかその世界を知らないことになる。野田さんは、人間魚雷回天サリン事件など、近代史の大事な忘れてはいけない事をモチーフにする。しかし時間とともに風化してしまうそれらを、全く知らない世代・層も多くなる。

演劇というフィクションでどう伝えるか。以前の野田さんは喜怒哀楽の“怒り”というツールをうまく使っていたが、今回は“哀”を全面に押し出した。それは『フェイクスピア』にも感じた。いささかしんみりしすぎる感も否めないが、そこも観客に届けるための計算なのではとも思う。

巴御前の消えない途切れそうにない憎しみも否定しない、しかし歴史の記憶が薄れていく中で、最後に残るのはいったい?もしかしたら悲しみなのではないだろうか。

私たちはこの世界にいる限り、戦争が常にくすぶる世界で、永遠に卒業できない悲しみを背負って生きていくのだろう。ただそれに気づくこと、忘れないことで、繰り返さないことが未来への希望だということなのか。

 

そういえばQueen

そもそもこの企画はQueenの曲を演劇に、という案からできたというのでQueenの曲が使われているのだが、あんまり深掘りしてなかったような。曲自体はいいけど、歌詞に台詞を載せるオペラっぽさはないし。「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞は比較的うまく合わせたかなとか、アルバムジャケットを模した演出とかはよかった。

しかしそもそも上記に記した客入れSEなぞは邦楽メインで、なぜQueenにしなかったのだろうとか思う。劇場に入った瞬間からQueenの世界に引き込む方がいいでしょうに。

Queenと和的な素材の相性はいいはずなのだが、最後までなんとなくハマりきらない。

イギリス公演ではどんな受け止め方されるのか。

 

(追記)ラストのシーンに渡辺美里の「卒業」がイメージされた流れと、映画『卒業』の引用もしたので、そういや映画の主題歌の「サウンドオブサイレンス」ってどんな歌だったっけと、歌詞を読んでてひぃっとなった。

People writing songs that voices never share

ここだけでなく、この前後も芝居の内容にはまってる。もちろん反戦という同じテーマありきだけど。

他にも2人の最後の姿に井上陽水忌野清志郎の『帰れない二人』を思い出したし。

今作に限らずなんだが、野田作品は和洋フォークソングの流れを組んだ楽曲の方がはまる気がする。

 

そういえばシェイクスピア

ロミジュリの翻案としては面白い。

野田さんは『フェイクスピア』の時も思ったけど、換骨奪胎するというより、台詞をモチーフとして扱う、という感じなのかな。

シェイクスピアを扱う演出家や劇作家は、戯曲へのリスペクトが大きいのか丁寧すぎるくらい。野田さんの場合は同じ目線、所詮同じ演劇でしょ、遊ぼぜ楽しもうぜという視点があって、それはそれでそうかという気づきはある。

 

余談:エヴァっぽい

なんでもかんでもエヴァにつなげるのやめい。と自分でも思うのですが。

でも、お松ジュリエットが色んな敵をぶっ倒してるのアスカっぽいし、「まごころを、君に」みたいな台詞でロミオ息たえるし。橋本さんは使徒っぽいし。ロミオはうじうじしてマザコンでシンジっぽいし(そういえばお松ジュリエットに「アンタばかぁ?」みたいなこと言われてませんでしたっけ)。

音楽もエヴァは歌謡曲カバーや、洋楽の日本カバー、昭和的メロディを世界観に合わせている。野田地図の雰囲気もどちらかというとそちら寄りだと思う。新劇場版の宇多田ヒカルの主題歌歌詞とか読むとテーマ同じだし。

それより何よりタイトルの「Q」エヴァ新劇場版の各タイトル「序破Q」を彷彿とさせますよね。そもそもエヴァのそれは能楽序破急からきてて、今作も序破急の急とQueenのQを上手いことかけたんだと思うけど。でもQのあとの「:」もエヴァっぽいの。色々考えると止まらんのでこの辺で。どろん。


映画『卒業』の主題歌はこちら。

映画の他の曲もなんか合うんだよね〜。「四月になれば彼女は」「スカボローフェア」も。サイモン&ガーファンクルでやればよかったのでは…と身も蓋もないことを。

 

エヴァンゲリオン新劇版の宇多田ヒカルの主題歌も、この芝居の世界観にはまる。

そして今やってるお松さんのCMは桜がらみ🌸。劇中シベリアの黒い雪が桜吹雪のようにも見えてしまったのはそのせいか。