je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

『終わりよければすべてよし』@彩の国さいたま芸術劇場大ホール

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彩の国シェイクスピアシリーズ公演37作目、全作品公演の最終作品です。

近年チケットが平日だろうと取りにくいプロダクションで、今回ばかりは逃したくないと思い、お友達に優先で取っていただきました。ほんとにほんとにありがとうございます。

そのお陰もあり、比較的前の方で全体も見え、演者の表情も確認でき。特に吉田鋼太郎さんと藤原竜也さんの“顔芸”がしっかり確認できてよかった。というのもこの作品、喜劇なのかシリアスなのか判断しにくく、顔芸が出た時点で笑っていいのね、と。ちなみに最初に顔芸らしきものが見られたのは吉田さんの吐血シーンだと思うんですが、場面が場面だけに笑いにくい、顔色も悪いし。その後の展開が分かってれば笑えるんですけどね。

パンフでは吉田さんは喜劇と断言されてるので、もっとそっちに振り切った演出もあるかも。観劇した日は終盤の日程で、他の演者のノリもできあがってて、リズムよく喜劇とシリアスのちょうど良い塩梅。

しかし全編観たところで、終わりよければすべてよし、なんて景気のいい題名のくせに、どこもヨシ!じゃないような…。何が一体ヨシ!なのさ。漢字なら吉、由、善、好、佳、義、っていい感じの字ばかりに変換される、表も裏もなさそうな言葉。日本語の漢字は読みが多いので、全く違う意味の言葉となるケースが多々あるというのに、よしはせいぜい「止し」くらい。大体がWellの意味になっている不思議な音。

 

なぜ見た人がもやもやするかというと、ポイントはやはり、

「自分を好いてない男に固執して、騙して子供まで作って結婚を既成事実のもとに成立させる」

という主人公ヘレンの価値観に、特に女性は共感が持ちにくいのだろう。

もちろん現代の価値観で見るからこその違和感はベースであるとして。おそらく当時もこのヘレンの行動については、当時もその違和感あってこそ演劇としての面白さがあったのだと思う。

イギリスは独自の国教会があるので、シェイクスピアが離婚がご法度のカトリックの影響が強い国(今作はフランス)を舞台にしてると必ず結婚ネタ、処女ネタが出てくる。ロミジュリとか。ハムレットも処女ネタあるし。そして若干おちょくっているようにすら感じる。観客がこれを観て「あら離婚できないの、可哀想〜w」と思っていたかどうかは分からないけど、宗教的な違いから生まれた価値観の違いを物語に落とし込んでるのか。

あと、シェイクスピア自身は若くしてできちゃった婚なので、自虐もあるのかな。処女性への言及が全編通してあるというのも、よくある処女信仰やロリータ趣味や、日本の貞淑な妻的なイメージだけじゃなくて「女しか子供の父親が誰か分からない」という当時の男性側の懐疑が長らくあったからだとか。カソリックじゃない日本もそれがあるから、変な法律が長らく横行してたわけだけど。今はDNA鑑定あるからね。ビバ科学の進歩!ビバ科捜研!ラララ科学の子〜。

 

今作はおそらくだが、まず「ベッドトリック」ありきで作られているので、まとまりが若干弱めなのかな?とも思った。薬のからんだ伏線はロミジュリ、「ベニスの商人」では言葉のトリック(今作ではバートラムがヘレンに書いた手紙が言質となる)があるが、どちらも今作より前で、この辺はシェイクスピアのよくあるパターンでしかない。必ずしもトリックが今作が問題作と言われる所以となるには、絶対的な理由ではないかも。そういえば、ベニスは蜷川さんが内容があまり好きでなくて演出したがらなかったらしいので、今作もどうだったかなと想像してしまう。私は子供の頃に読んだシェイクスピア作品で楽しかったのがベニスなのだけど、あれはトリックが楽しかったんだなー。蜷川さんが嫌だった理由は別なので、それはそれで納得でしたが。

そんな他の作品との共通点など考えてるうちに、思い出したのは『冬物語』。これも夫婦が色々あって(これも夫側がひどい)、色々ひどい事が起きて、でも後で妻が産んだ子供が生きてることが分かって〜からの大団円。しかもこの大団円の方がよほど力技だったのだが、なんだか納得しやすい。こちらの方がよほど終わりよければすべてよし!である。冬物語は今作の後に書かれているので、執筆年度によって、描写がブラッシュアップされたとかあるのだろうか。

今作は人が死なない、しかし死や病の影があるのも、喜劇に振り切れない理由かもしれない。もしかしたらだが、黒死病(ペスト)の流行があっての頃なので、死を直接的に描くのを避けたとかあるのだろうか。王様が助かること、バートラムが怪我(もしくは梅毒)を負って戻ってくることなどのことの方が実は強いメッセージなのかもしれない。

 

松岡和子さんの今作品翻訳は未読ですが、かなりヘレンとルシヨン伯爵夫人との距離が近く、また未亡人とダイアナとの団結力も強調されており、シスターフッド的な演出も現代的に取り込んでるのはパンフでも見受けられ、興味深い。吉田さんの演出もより松岡さんの意図を掬って、吉田さんの迷いも松岡さんの台詞に救われたのではという点もちらほら。この辺りは時代の流れによってまた変わっていく部分かな。

夫人とヘレンの関係は、元々「養子と養母」でもあり「嫁と姑」にもなる不思議な関係。多分、戦争があったり疫病(ペスト)があって、男性は死にやすい頃だったから、夫人は息子に対してある程度死にゆくものという覚悟がある、故に娘を大事にしてるのかなと。自身も夫が亡くなっているし、おそらく台詞にはないが他にも子供を亡くしているからこその養子なのかも、とか台詞にないが予測される部分もある。

そして宮本裕子さんの演じる夫人と、少しボーイッシュな石原さとみさんのヘレンは、たまたまですが同性愛な雰囲気も感じられた。エロスではなく、アガペーに近い、性愛を超えた感じも。これは宮本さんと石原さんの雰囲気から、現場で生まれたケミストリーなのでは。キャストが変われば、また台詞や演出も変わっていく部分かもしれない。

フェミニズム観点からのアプローチも多く、パンフにも解説あったのは、女性が自身の権利を強く主張できるのは「結婚」だけだった。シェイクスピアの作品は、男がどうしようもなくて女が頑張っているのが多いのは、それが物語になるのもだけど、シェイクスピア自身が身分が低く弱者で、女性の登場人物に自身を反映してたのもあるのでは?あと女性の観客の方が好意的であったという事実もあるそう。エリザベス一世も太客だったそうだし。

 

ペストといえば王様が患ってる病はそれだよね。それを治してもらったんだから、そら王様はヘレンをめちゃ優遇するわけですよ。その重大さを分かってないバートラム空気読めなさすぎでは?とも取れるあの感じ。ヘレンに「貧乏医者の娘が!」ってバートラムが馬鹿にするシーンがあるんだけど、医学博士の娘としては相当ムカついて、ヘレンに共感同情しまくったのですが、直後の王様の強権発動っぷりには溜飲が下がりまくったので、当時もこのシーンは人の心を強く動かしたのではと。

 

王制が未だ強いイギリス、天皇制が現存する日本、そしてどっちも子供が結婚で色々揉めててヤヴァイのが共通。結婚は個人の自由であるべき!でも王様大事!そして義理と約束は果たすべき!その辺も現代に置き換えて比較できるのがおもしろい。

 

石原さとみさんのヘレンは一途で、ともすれば狂気のような女を真っ直ぐに演じていて応援したくなるような熱演。『アデルの恋の物語』のイザベル・アジャーニを思い出しました。ショートカットでハスキーボイスなのも、少年ぽさがあって彼女なりのヘレン。

藤原竜也さんは、クズ男を案外楽しそうに演じてて。カイジのせいか顔芸がネタっぽくなってどうなのかなと思ってたけど、「プラトーノフ」の時に逆手を取ったように振り切った感じだったので、もう喜劇はこの路線で極めてほしい。

宮本裕子さんは、他が顔芸やら絶叫芝居やらで押し出し相撲みたいな濃さの中、語り口調もリズムも違って、いいスピードコントロールに。しっとり大人の湿度。吉田さんとの相性も良い感じなので、マクベスとかどうですか。コリオレイナスもいいですね。

横田栄司さんは吉田さんと同じような声音、話し方で、まるで王子と乞食、光と影のような演出。中止になった「ジョン王」は吉田さんの役と横田さんの役の対比が面白いので、ぜひ上演してほしい。

吉田鋼太郎さん、お疲れさまでした。大役引き継いで素晴らしい。これで終わりかな、と思ってましたが、さらに吉田演出でシェイクスピア公演リローデッドもあるかもとのこと。蜷川さんが吉田さんで「テンペスト」やりたかったというのもあるし、他にも再演してほしいのあるので是非是非。

 

舞台セットが曼珠沙華の花畑だったのだけど、今作では誰も死なないのでなぜ?と思ってたら、最後に蜷川さんの遺影が。そう、これは吉田さん、スタッフ、関係者すべてからのメッセージ。終わりましたよ、蜷川さん。そう思うと、舞台奥のセットの大きな扉、あれはこの世とあの世をつなぐ扉のようにも見える。

 

そして私事ですが、4月初めに義母(姑)が亡くなり、偶然にもこの日が四十九日でした(法要はその前の週に終えた)。義母と娘のエピソードで思い出すこともあったり、曼珠沙華があったり、パローレスの印象的な台詞など、たまたまこの日に来たとはいえ偶然と呼ぶには少し出来過ぎて、ドキッとしました。

 

(追記)ペストに関しては、昨年「死の舞踏」についての研究をされている小池寿子教授のセミナーを聞きに行ったのだが、まさに今作の下敷きとなったボッカチオの「デカメロン」についても取り上げられていた。今作の元となったエピソードについてではなく、デカメロンが生まれた背景などの話だったが、世界的な疫病が流行した時には「ショックが大きいので表現活動に落とし込まれるまで時間がかかる」「文学が先に疫病を描き、後に絵が描かれる」ので、現代のコロナ禍も文学が先に来るのではないか、というお話があった。シェイクスピアがどのタイミングで今作を描いたかは分からないが、コロナ禍演劇が俯瞰的にかつ普遍的な作品として出てくるのはいつになるだろうか。現代は映像もあり、また絵画も技術や手法が多様化しているので、当時とは比較ができない部分も多いだろう。

楽しみにとは言いたくないが、その時はやってくる、それだけは分かっている。

死の舞踏 (美術) - Wikipedia