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古い日本の家族像に見る新しいリア~劇団俳優座『慟哭のリア』@俳優座劇場

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古くて新しい『リア王

リア王』がベースだが、舞台は架空の炭鉱町。リア王に当たるのは女炭鉱主・室重セイ(岩崎加根子、 亡くなった夫の跡を継いで炭鉱を取り仕切っている。

そして原作の三姉妹は今回は三人の息子となる。長女ゴネリルに当たるのは長男・室重龍之輔(斉藤淳)、次女リーガンに当たるのは次男・正之輔(田中孝宗)、三女コーディリアに当たるのは三男・文之輔(野々山貴之)

そのように舞台設定や性別などが大きく違うため、台詞も大幅に変えており、テキレジというよりはオリジナルの要素が大きく、大胆な換骨奪胎といえた。

とはいえ大筋はきちんとリア王を踏襲している。

冒頭は舞台設定、人物紹介が入る。長男と次男には妻(長男妻・綾香役は瑞木和加子、次男妻・頼子役は荒木真有美)がおり、長男は真面目に二代目として妻とともに家を支えようとしているしっかりもの。次男は金遣いや女癖が悪い放蕩息子、財産目当ての妻とも折り合いが悪い。三男は都会の学校で勉強したことで、社会や経済格差、環境問題などに意識が高い(おそらくマルクス思想に傾倒している)キャラクターだ。三姉妹のキャラクターを日本的に掘り下げ、具体的な描写が多い。

炭鉱町では町民たちの反発が強くなっている様子で、 明治の富国強兵の時代、炭鉱で栄えた室重家も今は時代の流れに翻弄されているようだ。それは原作における国の不安定さに通じる。

他にも掘り下げるというか、広げてオリジナルや部分もところどころある。長男は杖をついていて足が悪い、長男夫婦は子供がいないがたいへん仲睦まじく、セイの日本の姑的嫌味にも健気に耐えている。次男の妻はリーガン的なポジションでもあり、欲深く夫と似ているが炭鉱町の旧家に飽き飽きしており、より自由奔放なキャラだ。

原作から逸脱しないがより人物造形が深く、日本が舞台である事でこちらはより分かりやすく感じた。

そしてセイが息子たちに財産を分配する、これも原作と同じ。だが「炭鉱を軍部に譲る」と言ったところから息子たちとの関係が崩れる。長男には炭鉱を仕切るだけの器量がない、また今後の社会情勢を考えての決断である。そのかわりに長男には農場を残し、次男には養豚場を与える。三男は環境破壊の採掘をやめろと提言したことで、セイの怒りを買い感勘当される。原作ではゴネリルに「鬱蒼たる森、肥沃な原野」を与えるとあるので、農場に当たるし、コーディリアが高潔なもの言いでリアを怒らせるという設定に通じる。養豚場はどのへんから出てきたのか分からないが。

セイは息子たちの性格をよく見て判断をしているが、きちんと自分の気持ちを伝え切る事ができない。それは老いのためでもあるようだし、長い間、一人で炭鉱を取り仕切っていた長としてのプライドもありそうだ。

おそらく岩崎さんがご高齢というのもあるのか、それ以降のシーンはかなりセイ(リア王)の場面を意図的にカットしている。中盤は三人の息子、主に長男を中心にした物語になっている。長男は一度はセイの分配を受け入れるが、新しい鉱脈を見つけた事を諦めきれない。その葛藤が中盤の軸となり、旧家の跡取り長男としての人間的な惑いを斉藤敦さんが細やかに丁寧に演じる。ここは原作のゴネリルのキャラクターをかなり深掘りしたなと思った。ゴネリルは三姉妹の中ではよく状況を見ており、判断も比較的冷静な方である。賢くしっかりした面もあるので、状況が良ければ為政者として成功していたかもしれないと思うからだ。

家族関係が不安定になったところに、亡くなった先代(セイの夫)が愛人に産ませた隠し子の私生児・善治(渡辺聡)が出てきて、長男と次男に近づいて策略をめぐらす。ここはグロスターの私生児・エドマンドの設定だ。善治は次男の妻と不倫関係になり、ここはゴネリルとリーガンとのエピソードにつながる。

原作にない大きな違いは、三人の息子と善治の父が同じになることで、リアとグロスターの二家族の対比はない。グロスターとケントと道化の役割の一部は、セイの忠実な使用人・与平(森一)に担わせる。長男の妻はゴネリルのように善治とは不倫せず、最後まで夫を支えようとする日本的な賢妻。エドガーに当たる人物も出てこない。配役として出てこない原作のキャラは、他の人物の中ににうまく組み込んでいる感じだった。

認知症の進んでいたセイは、策略のために座敷牢に閉じ込められるが、与平に救い出され逃げる。そして炭鉱の奥深くで、炭鉱によって健康被害を被った乞食たちにまぎれることになる。

この乞食たちがコロス的な役割を担い、リアの影と道化のポジションとなる。岩崎さんと同じくベテランの片山万由美さんと阿部百合子さんと並び、他の影(コロス)を演じる若手の俳優陣を従えてるシーンは迫力があり、リア王における荒野の放浪のシーンが悲しい悲痛なものだけでなく、自由で力のある場面となった。

この老女たちに

どん底と思ってるうちゃ、まだどん底じゃありゃしねえ」

と言わせるのは、なかなかに痛快であった。

このセリフは原作では荒野を彷徨う絶望のエドガーが、目をくり抜かれたグロスターに再会し、さらなる悲嘆の中でなんとか自分を奮い立たせるために言う名台詞である。

これを何もかも失い、すでに自分が何であるか分からない、体臭のきつい獣のようになった女たちに言わせる。生きているうちはまだまだよ、とでも開き直るかのように。

コロスだけでなく、主要人物以外に炭鉱の荒くれ男たち(納屋頭)のシークエンスもあり、家の中だけでなく、外との関係もきちんと見えて、リア王の国がどのように崩壊したか、その面でも原作をより掘り下げてもいる。

後半は町の人々の反乱や、兄弟間の確執、次男の非道(与平の目をくりぬくなど)、炭鉱の爆発による次男の死、三男の鉱毒による病、室重家の破滅、長男の自死、などなど盛りだくさんに起こる。掘り下げて日本的に分かりやすくしたことで、原作よりくどいなと思う表現もいくらかあった。このあたりは日本特有のウエットな人間関係や、コミュニケーションの差が感覚的にあったかもしれない。

古い家族像、古い慣習、時代の変化、というのをリア王の物語にはめて、破滅の物語を踏襲する。架空の町ではあるが、明治のその後に、私たちは何があったかすでに知っている。物語を見て、回顧することで、この後の変化はもしかしたら現代のこの先の変化に通じるものも少なくはないのかもしれない、と思いをはせる。

このようなテキレジは、原作との違いを考えながら見るのは楽しいが、けっこう疲れる面もある。今回は俳優座の俳優陣のさすがの演技の確かさ、主演の岩崎さんのカリスマ性などでみごたえがあり楽しめた。

最後にセイが三人の息子の遺体をひざ元で優しく包むようにするのは、まるでピエタ像のようであった。原作だとコーディリアの遺体だけを抱くのだが、ここでは息子三人への愛情を表現する。最近はゴネリルやリーガンの演出を深掘りするのも多く、リアと末子だけの話ではなく、家族の物語としてとらえる方が私は好みだ。

さようなら、俳優座劇場

この日は公演後にバックステージイベント。舞台監督の川口浩三さんと若手スタッフによる美術、照明、衣装等の説明があった。ベテランの川口さんは近年はアトリエ公演の方で若手育成をしているそうなのだが、今回は俳優座劇場ラストということでぜひにと請われたそう。

炭鉱の炭塵や爆発の時の岩盤が降ってくる時の操作(舞台上部でそれぞれ違う形の網から落としている)などを実際に見せてくれたり、衣装は乞食や炭鉱の汚れなどがあるため、通常の衣装では難しいので、衣装の西原梨恵さんと古着屋さんを回ったなどの話もたいへん面白かった。舞台裏はなかなか知ることがないので、こういう機会はありがたい。

俳優座劇場は来年4月で閉館となる。クラシカルなこの劇場では、いつもいいい芝居しか見てこなかった気がする。北村有起哉さんの芝居を初めて見たのもここだった。どこでやっても同じ芝居、なわけではなく、その劇場でしかない出来事がある。

ここに来るといつも確認するギリシア語のレリーフの言葉。俳優座劇場とともに忘れたくない。

「汝は人間である。つねにそのことを自覚して忘れるな」

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今年はリア王当たり年

これを見たのは11月6日なのですが、ショーン・ホームズの『リア王』を二回(公演&映像)見た合間に見たので、ブログの日にちと一致してません。

今年はリア王たくさん見たので、備忘録で見た順を記録。

  • 3月15日 ショーン・ホームズ演出『リア王』芸劇プレイハウス(松岡和子訳)
  • 9月20日 藤田俊太郎演出『リア王の悲劇』KAAT(河合祥一郎訳)
  • 11月6日 東憲司翻案・上演台本・演出『慟哭のリア』俳優座劇場(松岡和子訳)
  • 11月11日 ショーン・ホームズ演出『リア王』8K映像 PARCO劇場(松岡和子訳)

しかも全部違う印象だったので、ぜんぜん違うものを見た感覚。でもリア王だったなーと思うので、あらためて原作の奥深さや面白さを再発見。