je suis dans la vie

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コーディリアのいないリア王〜『すべてうまくいきますように』Bunkamuraル・シネマ

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あらすじ(公式より)

小説家のエマニュエル(ソフィー・マルソー)は、85歳の父アンドレアンドレ・デュソリエ)が脳卒中で倒れたという報せを受け病院へと駆けつける。意識を取り戻した父は、身体の自由がきかないという現実が受け入れられず、人生を終わらせるのを手伝ってほしいとエマニュエルに頼む。一方で、リハビリが功を奏し日に日に回復する父は、孫の発表会やお気に入りのレストランへ出かけ、生きる喜びを取り戻したかのように見えた。だが、父はまるで楽しい旅行の日を決めるかのように、娘たちにその日を告げる──。

(※ネタバレあります)

長女はつらいよ〜心の旅路

ソフィー・マルソー演じる長女・エマニュエルが、わがままな父の言動を受け止めながら淡々とことを進めていく。妹のパスカル(ジェラルディーヌ・ペラス)は姉を労りつつも、父の決断をなかなか受け止められない。芸術家の母・クロード(シャーロット・ランプリング)は、長いことアンドレと別居しており、また自身も病を抱えており頼りにはならない。優しい夫・セルジュ(エリック・カラヴァカ)や友人、弁護士に助けられつつも、彼女は1人で父親の安楽死という難題を文句も言わず、やり抜こうとする。

その姿は『リア王』の長女・ゴネリルを思いだした。とはいえ戯曲のゴネリルは父におべんちゃらを言い、財産をもらうとすぐ手のひらを返し、父を陥れるというひどい娘の設定だ。しかし、リア王アンドレも娘達を困らせるわがまま加減ではそこそこいい勝負である。最近はリア王の狂気を「認知症」として現代の高齢者問題に当てはめる演出もあり、アンドレ脳卒中と障害は戯曲における父王の「狂気」と通じるかもしれない。王位を退いたリア王の御付きの騎士を半分に減らしたゴネリルの対応は、受け継いだ領土を守る領主の当たり前の倹約だし、見ようによっては長女らしく現実的とも言えなくはない。

リア王』ではクッション役のコーディリアがいた事で、家族のバランスは保たれていたが、リア王がコーディリアの真意を見抜けなかった事で不幸が起こる物語である。エマニュエルは末娘・コーディリアのいなかった世界線の長女・ゴネリルである。もしくは、長子としての責任と末娘の優しい寛容さを備えた二役をしているともいえる。

長女に肩入れするのは私がまさに長女だからである。妹のパスカルが、何度か動揺して逃げ出してしまうシーンがある。だいたい父親の無神経な発言が原因なので、致し方ないのだが、エマニュエルはそこに残らざる得ない。エマニュエルがいるから、パスカルは安心して逃げ出せる。ここはちょっとうちの弟を思い出す。母が手術入院した時も、父が脳出血で倒れて入院した時も、実家に通い泊まり込んだのは私である(私の方が融通がきくというのもあるけれど)。かといってうちの弟の場合は、優しい言葉で労ったり支えてもくれないので、姉を理解する態度を示すパスカルの方が100万倍もマシだ。姉妹は同性というアドバンテージもあるのかな、と少し羨ましく思った。

共感はあれど、それでもエマニュエルの献身的な姿は頭が下がる。確かに彼女は妹より父に気に入られているようだが、子供の頃の回想シーンで父にひどい仕打ちをされていたり、夢の中で父を撃ち殺す描写など、彼女が闇雲に父を慕っているわけではないのが分かる。それでも我慢強く父を支える様は、リア王のケント伯も想起させ、そうなると1人三役もしていることになりエマニュエルの人格描写の複雑さが伺える。

エマニュエルの視点をメインに進むストーリーは、少し偏りがあるかなと最初は思った。しかし、エマニュエルが冷静さと客観性を保ち、ひたすら個人的な気持ちを抑えながらも、その心の奥を探るように進む手法は、あたかも推理ドラマのようでもある。この辺りはフランソワ・オゾンの淡々とした描写がうなる。

原作が『スイミング・プール』等で脚本を担当した、オゾンの盟友であり親友だったエマニュエル・ベルンエイム(2017年に病で逝去)であるというのも、エマニュエル視点になった理由であろう。最初にエマニュエルがコンタクトを入れるシーンがあり、これは老眼という老いを示唆してるのかと思ったが、おそらくエマニュエルの視点で始まるという視覚的合図ではないか。

それまでの感情を抑えた描写が効果を示すのは、父とエマニュエルとその夫が「最後の晩餐」をするレストランのシーンだ。それまでエマニュエルはグレーや、薄暗い青の服でほとんど化粧もほぼしない(それでもソフィー・マルソーは美しすぎるが)。そのディナーの時だけ、エマニュエルは鮮やかな赤いニットを着て、よそ行きの化粧をしている。目を潤ませて父を見つめている。これはこの前に、エマニュエルが安楽死支援協会の女性(ハンナ・シグラ)に「安楽死を直前でやめた人は?」と聞いた時の答えが伏線となっている。

美しい娘の姿を見ても、父は考えを翻す様子はない。それは分かっていたことだった。それでも一縷の望みをかけて、赤いセーターを着ずにはいられなかった娘の気持ちは、自分のことのように胸を抉られた。

全編鑑賞中、半分以上泣いていたが(同じくらい笑えるシーンも多い)、エマニュエルが耐えきれずレストランのトイレで嗚咽してしまうシーンは、本当につらかった。

父もつらいよ〜わが道をゆく

アンドレの頑固が過ぎるほどの意志の強さは、そのわがままで人の気持ちを推しはからない性格の悪さに目を瞑れば、清々しいほどきっぱりしている。

彼は同性愛者で男の元恋人もおり、美男の理学療法士やギャルソンに鼻の下を伸ばしている。お金持ちの美術蒐集家で、セレブで、その人生は薔薇色に見える。しかし時代的に保守的な理由からしたであろうクロードとの結婚の破綻、そして娘たちに対する男尊女卑的発言などから、おそらく彼はアイデンティティが抑圧されたことで、傷つき歪んでしまったのではと思わせる描写がいくつかある。エマニュエルに「自慢の息子」と男性的な役割を求めていたり、義理の息子セルジュを本当の息子のように慕ってたり、パスカルの娘より息子の方を可愛がっていたり、彼が「長男」というものにこだわっているのが分かる。これは男性が好きという彼の性志向によるものもあるだろうが、「長男」というものにひどくこだわっている様は、彼が自分の分身を求めていたのではないかと感じた。自分がなれなかった、もう1人の理想の「強い男」「男らしい男」を。クロードとの間にできた男の子を亡くしているというのも強くこだわる理由だ。

アンドレの子供の頃や若い頃、時代は今より同性愛者は生きにくく、彼もまた自分のことを隠し、そして時に心ない批判を浴びて生きてきたであろう。時代が変わり、世間の理解も増え、同性の恋人を得て、馴染みのギャルソンを愛でても、彼の傷はそのままだったのではないか。

エマニュエルもパスカルも、おそらくクロードも、その事を分かっている。誰も彼を救うことができなかったと。だからどんなに傷つけられても、家族はせめて彼を見捨てず、愛していたのかもしれない。エマニュエルが別れ際、いつも父のおでこにキスをするが、何があっても行動で示す習慣を止めない優しさを感じた。

尊厳死をめぐる問題

ゴダールもスイスで尊厳死を選び、アラン・ドロンも準備をしているという。

本作は実話が元という事もあるのか、法律的な部分をかっちり描いてたのがよかった。フランスでは尊厳死は認められていないため、たとえ尊厳死が認められているスイスで実施しても、それまでの過程によっては家族が幇助罪に問われる(かなり厳しい刑と罰金であった)。そこを感情的な問題を見せすぎず、弁護士を交えながら解決しようとする描写は小気味よい。ここの見せ方のうまさについてオゾンはやはり信頼できる映像作家だなと思う。尊厳死の是非を問う社会問題的な見せ方でなく、それを選んだ場合の経緯を最初から最後まで、説明的にもなりすぎないようにさらりと見せる。最後の方の警察に密告されるくだりなども、ちょっとアクションサスペンス風にしていてオゾンの腕の見せ所であった。

かといって、尊厳死を勧めているわけでもなく、宗教的なエピソードを入れたり、視点も色々変えている。ある青年の「こんなに人生は美しいのに」と言うシーンは、オゾンの本音の一端ではないか。

尊厳死の是非について、私はなんともいえない。その方が良いという積極的意見もよく聞いたので、議論したり、自分や家族の最期について考えるきっかけにもなりそうだ。

実際、見ている間考えていたのは、ここ数年の家族のことだった。3年前に25歳で亡くなった実家の猫の最期は、もう少し楽に逝かせてあげられればよかったと今でも後悔がある。ちょうどコロナ禍が始まった時で、動物病院に連れて行くのも難しかった。その直後、父がアンドレと同じく脳出血で入院した。幸い発見が早く、後遺症もなく今も元気に普通に生活しているが、映画のように大変だった可能性もある。

アンドレが自分が亡くなった後の始末を、サクサクと指示しているのはあれはいいなと思った。お墓のこととか、財産のこととか、ああしたい、こうしたい、これはダメ絶対いやとか。

2年前の義母の逝去ついてはオープンに話せることは少ないが、義母の友人に連絡する作業がかなり難航した。義父はほとんど交友関係を把握しておらず、息子である夫の記憶と年賀状などを照らし合わせたりしながら半年くらいかけて私が親しいと思われる人に連絡した。さながら探偵のようだった。これは義母の望んでいたことなのだろうかと、何度も逡巡しながらの作業になった。ご友人の思い出話や悲しい想いを聞くのはつらい時もあったが、こちらもかなり癒されたし、連絡がついてよかったと思うこともしばしばだった。

さよならは別れの言葉じゃなくて

葬式や墓は残されたもののためだとは思うが、どうやってもつらいものであるので、逝く人のしたいようにした方が残された人たちが楽だと思う。精神的にも物理的にも。

エマニュエルとパスカルが父と最後の別れをするシーンがある。2人の姉妹は「Au revoir」と父を見送る。

『秘密の森の、その向こう』でもAu revoirという言葉が印象的に出てくるが、中国語の再見と一緒で、また会うという意味がある。永遠の別れはAdieuなのだが、ここで彼女たちはアデューとは言わなかった。重すぎる言葉より、日常的なサヨナラの言葉を選んだのは意図的なのか。オゾンの映画、そしてエマニュエル・ベルンエイムの台詞には時折はっとする表現があるが、フランス的というより2人の持つ表現への潔さと誠意を感じた。

C'est la vie (しかたないね)

重いテーマを粘っこく演歌調にせず、フランソワ・オゾンらしくキリリとしたシャンパンのような甘さと辛さ。オゾンのミューズのシャーロット・ランプリングも重厚な存在感と滲み出る色気が相変わらずの魅力だったが、ソフィー・マルソーの持つ咲き誇る花のような強く優しい凛とした雰囲気はオゾンの映画の新たなインスピレーションとなるだろう。

ネタバレをしたが、他にも見所はたくさんあり、見た後にどんな視点で何を感じたか、聞いてみたくなる映画である。次女のリーガン的な解釈もあれば聞いてみたい。

邦題は「すべてうまくいきますように」となっているが、原題の「Tout s’est bien passe」はニュアンスが違う。(訳すとネタバレになり注意。しかしチラシに英語タイトルがあるので、分かる人は分かってしまう)
この邦題の付け方はよかったなと思う。ミステリーテイストを醸すオゾン的な表現にもとても合っている。