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張子の虎の巨大な阿呆船〜『シャドウプレイ完全版』ジャック&ベティ

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あらすじ(公式より)

2013年、広州の再開発地区で立ち退き賠償をめぐり、 住民の暴動が起こったその日、 開発責任者のタン(チャン・ソンウェン)が屋上から転落死する。
事故か他殺か、捜査に乗り出した 若手刑事のヤン(ジン・ボーラン)は、 捜査線上に浮かぶ不動産開発会社の社長ジャン(チン・ハオ)の過去をたどる。 その過程で見えてくる、ジャンのビジネス・パートナーだった台湾人アユン(ミシェル・チェン)の失踪事件。 政府の役人タンの転落死と不動産会社の幹部アユンの謎の失踪、 2つの事件を生んだ愛憎の根本は、ジャンと死亡したタン、 タンの妻のリン(ソン・ジア)が出会った1989年、まさに天安門事件が起きた年だった…。

古典的サスペンスなネオ・ノワール

広州の再開発地区で起こった転落死を巡るサスペンス。現在と過去を目眩く万華鏡のように、エッジの効いた映像が中国の30年間を炙り出す。

話の構成はサスペンスである。ともすれば日本の2時間ドラマ的展開な流れもなくはない。最後の種明かし部分は少し冗長で、断崖絶壁でも出てきたらまさに、である。

しかし船越英一郎片平なぎさ南禅寺山村紅葉も出てこない。そもそも西村京太郎的ではない。実際の事件をモデルにしたということもあり、松本清張ノワール感は近いかも。清張が日本のバブル崩壊をドラマにしたら、もしかしたらこんな感じもあったかもしれない。

中国という国の強い制限があって、この形になったのか。政治的な主張やテーマは、うまい具合にドラマチックな物語に覆い隠されて気づかない人もいるかもしれない。中国の近年の流れに興味ない人にとっては、ただのサスペンスだ。中国公開版は相当検閲でカットされたそうなので、もっと分かりにくいかもしれない。

それでも、ロウ・イエの激しい歴史の流れを切り裂くようなハンドカメラの動き、1990年代あたりからの中国の雰囲気をドキュメント的に撮る映像手法は、ひとときあの激しい時の流れに放り出されたような感覚になる。分からなくても、その激しさと不穏さに強く惹かれる。

アユン役を役そのままの台湾人を起用、広州人タン役は広東出身の俳優を起用している。特に中国語の発音にそれはよく現れている。広州はかなり訛りがきつい(日本でいうと関西弁的)が、タンは一応普通話の発音とはいえ、他の俳優より少し発音が違う。広州も若い子はほとんど普通話の発音だし、映画にする時には標準発音が良いのだろうけど、ここは役作りと監督の演出を感じた。タン役のチャン・ソンウェンは役人の雰囲気を出すために、実際に広州の役所で一ヶ月働いたそうだ。

香港の探偵役のエディソン・チャンはさすがの存在感。華がある。中国検閲でエディソンのシーンは全カットだったそうなのだが、やはりあの件が大陸でも問題なのかと苦笑い(いや笑い事ではない)。このキャスティングもエッジが効いている。

ロウ・イエがこの物語を紡ごうと決めた「城中村(じょうちゅうそん・chéng zhōng cūn)」は広州市内に実在する洗村。瓦礫にまみれた村と、その向こうに見えるバベルの塔のような広州の高層ビルとの対比を描いた最初のシークエンスは、ヨハン・ヨハンソンの音楽とともにこれだけでも映画を見に来た価値がある。

金と欲望と湿気の街・広州

2010年〜2013年の3年ほど、広州に住んでたので、懐かしくて見に行ったが、住んでいた辺りの景色はあまりない。これはおそらく、住んでいた天河のあたりは軍の所有地が多く、主たるところも撮影許可がおりなかったのかもしれない。反して洗村は、開発途上という性質からむしろ撮影ができたのかもしれない(洗村の住民の反対は大きかったらしく、ロウ・イエは説得に苦労したそう)。

洗村に行ったことはないが、タクシーに乗った時に時々通りかかる裏道があんな感じだった。崩れかけた廃墟で、青空床屋が営業していた。素っ裸の赤ん坊が多いのは、おむつを変えるのが面倒だからと聞いた。少し歩けば、高層ビルの街並み、外国人が多く住む高級住宅街、海外資本や香港資本のモール。

タンとリンが結婚して最初に住むマンションは、決して清潔感あるものではないが、洋風を気取る内装で、彼らがいくらか小金持ちであるのを示唆している。ジャンのおかげで得た郊外の家は、彼らが登り詰めたのを意味する。リンが娘と旅行しているのは、中国の金持ちが押し寄せるリゾート地・海南島だ。

また広州は商業の一大都市で、あらゆる商売の巨大な問屋街が多くある。リンが最初の頃に洋服の商売をしている様子が描かれるが、あれは衣料品や布の問屋街ではないかと思う。他にお茶、宝石、雑貨、化粧品、食器、家具、ブランド品の問屋街などがあり、それぞれがものすごく広く大きい。珍しいものだと鑑賞魚の問屋街もあった。広州で売られていないものはないのではないかと思う。

広州はそのためか、お金で解決できる街でもある。賄賂文化は中国のお家芸ではあるが、広州は上海や北京よりゆるいのか、あっけらかんとした感じで行われている。お金があれば、どんな人間でもウェルカムなところがある。駐在時、人種差別にあったことがないとは言わないが、お金を持ってる日本人なら暮らしやすい街ではないだろうか。しかし決して良いことと思いはしなかった。現地妻を囲う単身赴任の駐在員の悪びれなさや、「小日本人」と揶揄されてもその意味も知らず偽のブランド品を買い漁る駐在妻は醜悪だった。しかしあまりに日常で、そしてその事によって得られる「安全」は何より貴重だったとも思う。

タンとリン、ジャンの3人が再会し車に乗り込むシーンがある。ロウ・イエはこの印象的なシーンを、決してトリュフォーが好んだ男2人女1人の恋愛物語だけにせず、「実業家のジャンは富を、役人のタンは権力を握っている。そして運転手は香港人、助手席には台湾人。これが中国の姿」という意味を含ませる。

そこに日本人はいない。その頃の日本は金蔓だった。今はもしかしたら鼻にもかけないかもしれない。

広州の思い出は語り尽くせないが、ロウ・イエが中国の30年を語るのに選んだ理由はよく分かった。北京や上海という保守的な街の中ではできない描写がそこにはある。霧の向こうに香港がある広州は、希望も絶望も未来も過去も、一緒くたに煮詰めたようなカオス感がある。決して自由ではないが、湿度100%のぼやけた景色は真実を隠すには格好の場所だ。

大きな阿呆船

そんな湿気にぼやけたような映像とはいえ、天河や海珠のあたりの不動産バブル景気による金満感、反して下町の発展途上の灰色の街並みの差は覚えがあった。張りぼてのような街と開発途中の海沿いの景色。
あの頃の中国の張子の虎のような、虚しいだけの景気の雰囲気はよく分かる。反して香港の生き生きとした生命力あふれる街の情景は皮肉にも見える。ヨハン・ヨハンソンの音楽が、ジメジメとして霧深い、そして下水と金属の焼けた匂いが立ち上ってきそうな広州の雰囲気をよく表していた。
エンドロールのカットが笑顔ばかりなのもまた虚しく。

中国という大国、あれは阿呆船だ、と時折思う。あふれるほどの人民を抱えて、さらにたくさんの人種が押し寄せ、時には海の向こうへとその喧騒は侵食し、すべてを包括しているようで決して多様性とは遠く離れた国。どこを目指してどこへ辿り着くのか。ロウ・イエの目を通して、その一端を見せられたような映画だった。