je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレはありまぁす。

私とあなたと誰かの物語『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』

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「個人的な感情を呼び起こす、とても個人的な内容の映画」

という風に思わせてしまう物語こそが、真に素晴らしいといつもドランの映画で思う。

 

感想や批評(これが批評と呼べるかどうかは別として)は、客観的であった方がよいのではという先入観がある。実際、分かりやすい表現はだいたいロジカルだし、俯瞰的。読んでいて唸ってしまったり、膝を打つような爽快感はそういう文章にある。

 

けれど胸を締め付けるような、昔味わった甘苦い微かな思いのような、おぼろげだが強烈なイメージを瞬時に、しかも肌をざわつかせるような実感すら伴って感じさせる物語はなぜかとても個人的なエピソードであることが多い。

今作は久しぶりに、思いがけず、そんな映画体験をした。

 

グザヴィエ・ドランの新作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』は、ドランが幼少期に憧れたディカプリオへ書いたという手紙をヒントに描かれたフィクションである。

少年ルパートが憧れるドノヴァンはディカプリオと見てもいいのだが、夭折した80年代のスター、リバー・フェニックスがベースにある。

 

とはいえ、ドノヴァンの設定はスターとしては少し小物感もあり(TVスターでアメコミ映画の主役候補)、家庭問題や性志向の悩みなどリバーとは重ならない。

ちょうどリバーの生い立ちの記事を目にした後で、リバーの抱えていた問題は想像を超えるものであり、だからこそ彼はあれほどまでに光り輝いていたのだと改めて気づき、映画はあくまでフィクションであるスタンスで見ていられた(記事についてはあまりにスキャンダラスな内容であり、彼のためにも本来は掘り返すべきではなかったのではと思う)。

そんな新たな物語でありつつも、ドランが紡いだ繊細な物語の中で、なぜリバーは死んだのか?という永遠の問いにひとつの答えを出している。

それがリバーファンにとって正解かどうかはわからないが、ドノヴァンが少年に書き綴ったであろう悲しみや悩み苦しみは、先日ホアキンアカデミー賞でのスピーチ、そして引用したリバーの言葉を思い起こさせた。

そうだ、リバーは美しい人だった。太陽の輝きではなく、その奥底に澱んだ藻が揺らめいている沼の水面の月の輝きのようなさみしい美しさだったと。

 

本来は4時間あるそうで、現代と過去の時間軸、ドノヴァンとルパートのエピソードがそれぞれ交差するので、話の流れを掴むのが少し難しいかもしれない。でもドラン独特の映像美と、定番の母親との確執エピソードなど丁寧に描いているので滲み入るセリフや映像が多い。

冗長と感じる人も多いだろうし、雰囲気に乗れない人もいるかもやしれない。

しかし、この映画はドランからリバーやディカプリオへの、そして私たちへの、または私たちから誰か大事に思う遠い誰かへの、とてもプライベートな読まれることのなかった手紙のような映画なのだ。徹底的にエモいところにこの映画の良さがある(と思う)。

 

とても個人的な感想になるけれど、私にとってとても大事な映画監督シリル・コラールの映画『野生の夜に』を思い出し涙した。その映画の最後のセリフが"je suis dans la vie(僕は生きている)"で、このブログのタイトルでもあるのだけれど、シリル演じる主人公が当時は死の病であったエイズを発症し、悩み苦しみ周りを巻きこみ最後に発する言葉である。とても身勝手な主人公だったが、彼の生きる苦しみと死への恐れに何故かひどく共感した。生きることは苦しく、愛することは傷つけ傷つく、人生とは痛みを伴うもの。なのに人はすがりついてしまう。「人生は美しい」と謳う映画よりも、よりリアルだった。

 

シリルの命とアーティストとしての輝かしい未来を奪ったエイズは、今は予防薬もあり、死の病ではなくQOLは圧倒的に上がった。同性愛への差別は依然としてあるけれど、皆それぞれの幸せを自由に選択できる世界は確実に広がっている。リバーの再来といわれた美少年ディカプリオは、いい感じに垢のついた生き生きとしたおじさんになり若い女の子のお尻を追いかけている。できるだけそのままいい感じの好好爺になるのを楽しみにしている。

 

人生は相変わらず苦しくて悲しい。だけれど、ドランが描く今は、誰かを想う時、そこに光はあると指し示してくれる。

三池崇史監督新作『初恋』はバイオレンスなボーイミーツガール

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春の東映ヤクザ映画祭りだ〜!わっしょい!
和製タランティーノっていうか、こっちがご本家の三池ワールド全開。
楽しい楽しい新宿ノワール・バイオレンス映画。

でも純な気持ちがちゃんと描かれてる。

 

ネタバレあります。

 

小悪党のヤクザ加瀬(染谷将太)のツメの甘い計画に悪徳警官(大森南朋)が乗ったが、そこからつまらんミスやすれ違いで、ヤクザとチャイニーズマフィアと警察がぶつかる一晩のドタバタ。

そこにヤク中の少女モニカ(小西桜子)と余命を告げられたボクサー・レオ(窪田正孝)のボーイミーツガールが絡み合う。

 

一人一人がキャラ立ちしてて、みんな主役なのにとっ散らかってない。大風呂敷を広げた、というより、大きな紙を少しずつ折って行ったら最後に何か形になっていったという感触。

ベッキーの怪演は爽快だし、染谷君のイっちゃってる感は可愛らしささえあり。内野さんの古いベタなヤクザの現代からはズレてる物悲しさが絶妙。滝藤さんの医者は大事なシーンをほどよ〜い外連味で。ムラジュンは三池組初めてとは思えないほどの馴染みっぷり。

塩見三省さんはさすがの存在感だけど、あれ痩せたな?久しぶりに見たな?と思ったら、そうでした…大病されてたんでした。あの姿はご自身の私物もあるらしい。でもきっちり役として全うさせるさまは、塩見さんと三池さんの熱い信頼関係を感じました。

ヤクザのディテールを描くとこは丁寧で、市川(ムラジュン)が出所する権藤(内野)を迎えに行くとこで缶ピースと缶のアサヒスーパードライ持って行ってるのは権藤が刑務所入る前に好きだったものだろう。乗ってる車がセンチュリーなのも古いヤクザの権藤の好みかと(今ならレクサス)。もう一台はプリウスで、この辺も今のヤクザはベンツとかいかにも目立つ車は乗らないというリアリティ?かな。

(追記:センチュリーはトヨタで一番高い2000万くらいする。サイトみたらパーツ細部が職人の手作り。映画のは中古で今は300万くらいのもの?でも古いセンチュリーなのが権藤らしくてそれもよい。)

その割にチャイニーズマフィアの描き方は外連味あってむしろ楽しかった。青龍刀とか使わないでしょ。

そして我らが大森南朋。久しぶりにスクリーンでいい感じにダメな大森くんでした。悪徳警官のこずるいとこや、ブチ切れてからの振り切れた感じ。キャリアを経て、酸いも甘いも押しも引きも外連味もリアリティも、全部役者大森南朋の血肉になってた。最後の死にっぷりは『俺たちに明日はない』か『明日に向かって撃て!』の名ラストシーンを彷彿とさせるのは、三池さんがかっこよく撮ってくれようとしたのかな?なーんて。まあかっこ悪かったけど。

窪田くんと小西さんはそんな濃い中で、ピュアな2人を熱く、でもひっそりと。キスもしない見つめ合う事もほとんどない。タランティーノ脚本の『トゥルーロマンス』を彷彿とさせる。あの2人も純愛だった。

窪田くんはボクシングのシーンがリアル。他の人のアクションシーンが派手な分、ここは丁寧に描いて、しかも最初と最後がうまくリンクしててよかった。彼の舞台を見た時も、体の使い方がうまい人だなと。目も印象的だし演技も良いけど、どこか一ヶ所や雰囲気だけに頼らない、ちゃんと体全体を意識してる演技。

小西さんは文字通り体当たり。三池さんは引き出すのがうまいなあ〜。パンフにあった演技指導で最後に「あなたを信じるよ」と言ったのは殺し文句だ。

それから、映画の中では語られなかったけど、権藤はもしかしてレオの父親なのでは?とふと思いました。出所してからわざわざボクシングの試合見に行くって、昭和のヤクザっぽいけど含みがある感じ。そこまで描くとやらしいから、しなかったのかな。

役者全員濃いのに、誰も突出してなくて変な自意識も感じなくて、三池組に参加してる気概とプライドと信頼関係を感じました。昨今の日本映画で辟易してたあの感じが全くなくてほんと気持ちよく見られた。

終始ドキドキ、ワクワク、ウキウキして。まるで初恋のデートみたいな映画体験。

 

さてここから下は私の「映画『初恋』は令和の『殺し屋1』なのか?」という私見です。殺し屋1好きすぎて勝手な推測してますので興味ある方だけどうぞ〜。

 

見終わってから『殺し屋1』だったなあって思った。でもなんでかな?とその時ははっきり理由は分からなくて。共通点を箇条書き。

・歌舞伎町

・ヤクザ

・チャイニーズマフィアや青龍刀

・ワンレンの髪の女(殺し屋1では風俗嬢、初恋は酔っ払いの看護師と中国女)

殺し屋1ではヤクザマンション→初恋はボロいアパート。この辺の階段上り下りの撮り方とか音楽のせいもあるけど、殺し屋1を彷彿とさせる。撮影は山本英夫さんかと思ったけど違った。でもそのくらいあの辺は似てた。

・ジュリの家は、イチがほうかさん演じるDV男を殺す雰囲気が似てる(その後放火も一緒?)

などなど。とはいえそれらのリズムや雰囲気も三池節、三池さんのフォーマットといえばそれまでですが。ワンレンは三池さんの趣味なんだろうし。

垣原キャラは加瀬とジュリに分散されてる感じ。ヤクでラリってからの加瀬は笑える垣原だし、バールぶん回してるジュリはサドな垣原。

権藤の古いヤクザ感も垣原の「オヤジへの愛」に通じる。垣原も根っこは古臭かった。

モニカがアパートでパンツ丸出しでぶっ倒れてるシーンなんかは、殺し屋1の風俗嬢のオマージュのようで(ただしこのシーン、洋画で似たようなシーンを見た覚えがあってそれが何だか思い出せない)。

ああそうすると、この『初恋』はイチが歌舞伎町から去った後の話なのか。と終わった後は思いました。

かつてイチだった大森くんが演じる悪徳警官をイチのその後としてもいいけど、大森くんが全くイチを出してないのでそれはないな、と。

イチのいない世界線なのか。

しかししばらくして気づきました。

新人・小西桜子は三池さんに見出されヒロインのモニカに、そして当時ほぼ無名の大森南朋も三池さんに見出され殺し屋1のタイトルロールを演じたことに。

そう、令和のイチはモニカでした。

黒目がちな丸い瞳、薬の幻覚で朦朧として歌舞伎町を彷徨うさま、アパートに監禁(イチは軟禁?)、かつて自分を庇ってくれた同級生を慕うさま、しかもそれに似た人を勘違いする(イチは殺しちゃうけど)。

そして何より何より「泣き虫」なところが同じ。

自分を支配する男(イチはジジイ、モニカは父親)から逃れる話。そしてイチと垣原は互いに衝動を、モニカとレオは恋をする。

内容は全く違う話だけど、いつだって三池流のボーイミーツガールは根っこが同じなのかも。

ドキュメント風ドラマ「ヘンリー8世と6人の妻たち」

CSのスーパードラマTVで放送されていたイギリス制作の番組。全3話。

ドラマだが、時折プレゼンターのルーシー・ウォースリーの解説が入るドキュメンタリー風。ルーシーは現代の姿で所縁ある場所を訪ねる案内役を勤めつつ、ドラマ部分では宮廷の侍女となりまるで目撃者のような演出も(家政婦は見た!みたいな感じ)。

彼女は古代史・現代史の歴史家でもあるため、歴史的文書を調査するシーンなど説得力がある。

 

最近ヘンリー8世がらみの芝居や本を読んでたので、ちょうどこれは!と思って見ました。

 

整理のためのメモ。ヘンリー8世の6人の妻たちリスト。カッコ内は別離の理由と婚姻期間。

1.キャサリン・オブ・アラゴン(離婚、24年)

2.アン・ブーリン(処刑、3年4ヶ月)

3. ジェーン・シーモア(病死、16ヶ月)

4. アン・オブ・クレーヴス(離婚、6ヶ月)

5. キャサリン・ハワード(処刑、18ヶ月)

6. キャサリン・パー(生き延びる!、3年6ヶ月)

 

以下ネタバレです。

 

ドラマの1話と2話は、ほとんど最初の妻キャサリンアン・ブーリン

キャサリン役はちゃんとスペインの女優さんを起用。

それと衣装が豪華でさすが!コスチュームプレイはこうでなくちゃ〜。女性陣は肖像画から出てきたかのよう。装飾品、小物、家具、ロケ地も見どころ。

 

妻たちからの視点なので、さらにヘンリーがひどい夫に見える。

キング・オブ・モラハラ

シェイクスピアの「ヘンリー八世」ではその辺はっきり描いてないから若干もやもやしてたけど、このドラマのヘンリーはあまりにひどくて呆れた。

それでもキャサリンとは長く続いたのは、精神的な相性も良かったのか。夭折した兄の結婚相手だったのを、ヘンリーが気に入ってそのまま妻にしたとかいう説も。とはいえヘンリーはその頃まだ幼い。でももしかしたらヘンリーにとっての初恋だったのかしら、とか。

キャサリンは摂政もしたり、ヘンリーの浮気も大目に見たり、年上で賢く美しく懐も深く、ヘンリーにとっては楽な相手だったのかな。

しかし息子が産めなかったために、ひどい離婚のされ方をされるわけですけど。

この辺はヘンリーがローマカソリック教会からの支配から分離したい政治的思惑も大きかったのかな?と思ってましたが。アンへの熱いラブレターが歴史的文書として残ってたり、アンが愛人となっても7年もヘンリーに体を許さなかったのにヘンリーが待ってたエピとか、ただの色好き夫のわがままゆえだったらしい。

そんなアンも浮気の噂(ドラマの解釈では冤罪)を立てられ、ヘンリーがそれにキレて問答無用で処刑される。この時の告解を受けるのはトマス・クランマー大司教

その後の妻に対しても忍耐がないヘンリーなので、キャサリンってうまく操縦してた方なのかも。あと年取ってどんどん欲深くなっていったのかな〜。

3人目のジェーンはどこまでも忠実な妻。保守派が送り込んだ女性。3人目の妻からさらに政治的なからみの強い妻たちになる。

やっと跡取りの息子を産んだ妻というのもあるのか、産褥死という悲劇のせいもあるのか、ヘンリーは彼女の死を嘆き悲しんだそう。お墓も彼女の隣にしてる。でも「ヘンリーが飽きる前に亡くなった」というのがドラマの辛辣な解釈。

ヘンリーは賢い女性が好みなのに、結局その賢さに腹を立てている。家父長制度の強い時代ゆえとはいえ、どこまでもおぼっちゃま。

4人目はドイツとの同盟のために結婚したアン・オブ・クレーヴス。

彼女がすぐ離婚された理由が「肖像画ほど美しくなく醜く、あまり賢くもなかったのでヘンリーの気に入らなかった」というのが主な理由とされてたけど、ドラマでは「ヘンリーが太って歳をとって性的不能であったが、それを隠すためにアンのせいにした」という解釈は目新しい。

あまり英語も出来ず、英国王室の文化もよく知らなかったりで、ヘンリーと気が合わなかったのは本当っぽいけど、醜かったとか知性がなかったというのは実は少し違うらしい。

離婚の時はドイツとの同盟を盾に財産分与を受けイギリスでの地位も保ち「ヘンリーから生き延び一番勝利した妻」というのがドラマの解釈。結婚期間が短かったのが一番ラッキーかも。

そうそう、この結婚を策略し肖像画を美しく描かせたクロムウェルは、破談が原因で失脚。ウルジーからヘンリーにうまく鞍替えして生き延びたのに。

生き延びる、というのがこのドラマのキーワードの一つ。

5人目は幼妻キャサリン・ハワード。不義密通で告発されクランマーに尋問される。

性的に奔放で尻軽な王妃とされているけれど、彼女の当時の年齢(十代前半から中盤)というのを考えると、「判断能力のない未成年への性的虐待」だったからかわいそう、罪はない、というのがドラマの解釈。キャサリンの不義密通の相手の事をsexual predatorとしたり、現代の価値観で語るのもドラマの新視点。

この辺からヘンリーの描き方は「年老いた色ボケじじい」になってきて容赦ない(実際そうだったんでしょうけども)。

日本でやるなら年老いてからのヘンリー役は吉田鋼太郎さんも良いけど、渡辺謙さんもいいなあ。そして時の人の東出昌大を若い時のヘンリーに…とも思ったけど小物感あるので前述のキャサリン・ハワードの相手くらいが妥当かしら。

最後の妻は誰よりも賢かった王妃キャサリン・パー。上記のリストで「生き延びる」としたのは、彼女はプロテスタントの伝道をした異端で逮捕されるところをヘンリーを説得して逃げおおせている。

そしてヘンリーは死に、唯一の王子も夭折し、ブラッディ・メアリーの時代を経てエリザベス一世へ。

ヘンリーと妻たちが時には命をかけてあれほど望んだ男の後継ではなく、テューダー朝は女による治世で黄金期を迎えたとドラマは締めくくる。

がしかし、その後エリザベスは子をなさなかったので、エリザベスが処刑したメアリ・スチュアートの血が今の英国王室へと続くのですけれども。

恐ろしいわあ…。

目線が妻からで、現代のフェミニズム的観点もあるので最後の方はヘンリーがアホに見えてくるし、少し啓蒙的でもあったけど、ドキュメント風ドラマという斬新な演出ゆえか感情移入しすぎず偏りなく見られたかなー。

 

 

「ミッドサマー」はホラーかニューウェーブか?佐藤史生作品への類似性など

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・あらすじ(公式より)

〜家族を不慮の事故で失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人と共にスウェーデンの奥地で開かれる”90年に一度の祝祭”を訪れる。美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった。〜

 

以下感想、ネタバレ含みます。

 

「ヘレディタリー」公開時に見たくて、友達誘おうとしたら断られまくって見なかった。結局ネタバレ感想をネットで漁り、うー絶対好きなタイプの監督だーと思ってた。この前CSでやってたので途中から録画したんだけど、首チョンパのシーンから始まるというね…。

 

今回まともにスクリーンでアリ・アスター監督作をみたわけだけど、グロシーンは私的にはそんなに衝撃はなかった。ウォーキング・デッドで見慣れてるというのもあるけど、監督は先に伏線やフラグをさりげなく分かりやすく見せてるのでショックなシーンも「あー来るな来たな〜」と。ホラー作品の定石を外してはいないので、実は意外性はないように思えた(カップルが最初に狙われる、悪事を働く人から消えていく、ハニートラップなどなど)。

 

映像に関しては画面が独特の動きがあったり、曰くドラッグの幻覚がリアルらしいので、酔いやすい人や苦手な人はやめておいた方がいいかもしれない。

 

ホラー、ミステリ、サスペンス、カルトムービーなどなどジャンル分けするには、一言にまとめられない。これは先日見た「パラサイト」しかり、「Us」しかり。古典映画を踏襲しつつ、新たなジャンルとして確立していっていくのでは。

 

考察サイトはたくさんあり、北欧神話や、キリスト教スウェーデンに入る前の文化がベースとか、女性解放メッセージとか、移民問題とか色々ありますので、観賞した後であれはそういうことか〜と思うの面白い。

 

日本でウケている理由に、いわゆる新興宗教モノとしてとらえられてる側面もあるとか。似たような経験をした、という意見がちらほら。確かに共感・共鳴を強制したり、集団ヒステリーシーンとかそれっぽさがある。

 

私そういえば若い頃にあまり人見知りしないせいなのかわきが甘いのか、新興宗教の集会に騙されてつれてかれた事がたまにあって。あれパターンがあり、何故か「自分のもしくは家庭の不幸を告白しあって理解しあおう!」ってやるんだけど、そんな語れる話ないしそもそも初めて会った人にベラベラ話すのがナンセンスすぎて、だいたいノリについていけなくて白けさせて解放される事が多かった(今思えばそれで正解だった)。みんなそんなに不幸なんだ…あたし幸せなのかな…それだとダメなのかな…ってちょっと悩んだけど(笑)。まあ主人公のダニーはその罠にハマっていくわけですが。

ミッドサマーの感想漁ってるとノレない人は「俺の不幸は俺だけのもの」ってタイプの人が多いので、「根拠のない共感」を不快に思う人にはきつい(本作はその不快感が軸でありテーマの根底にある)。

私の場合、おそらく父親が医学博士(免疫系とかの研究者)なので根本的なとこで「唯物主義」的なとこがあるんですよね。幽霊とかあんま信じてない。

でも精神性を否定してるかってとそんな事なくて。盲信的に信じることが自分はどうしてもできないだけで、信じてる人を否定はしない。

その辺は父親の

「幽霊も妖精も宇宙人もゾンビもいたら楽しいよね!」

という謎理論が基準になってる(しかし父よ、幽霊とゾンビはいない方がいいのでは)。彼にとっては新しい免疫細胞も幽霊も宇宙人も「あったらいいな」なのです。可能性を否定しないところに科学の進歩があると。だから私も「フォースの力」はあると信じたい。

 

閑話休題

 

日本人はオウムの件があるので、特に現代はどうしても新興宗教には不快感があるけど、これって宗教の話じゃなくて土着の民俗学的な見方をした方が正解なんだろうなと思う。

実際ダニーの恋人クリスチャンの専攻は人類学でそこで博士号取ろうとしてるし。

ドラマのTRICKとか横溝正史とかの類似性も指摘されてる。日本の宗教とも呼べない「地方の小さい集落でのまつりごと」にすごく似てる。

前に和歌山のあたりを色々神社巡りした時にも、似たような不思議さを感じたのを思い出しました。

宗教とか神とは〜とか倫理とか精神世界とか、そういうのを具体的にロジカルにまとめることがなかった時代に、人が集り自然と発生した規則みたいなもの。それを今では宗教と呼ぶけど、当時は違った。「かみさま」は今よくいわれる「神」とは違っていたのでは。

日本はアメリカより歴史も長く、ヨーロッパのような大きな宗教戦争もあまりなく、中国のように大規模な宗教排斥も少なく、土着のものが比較的残っているのでこの映画への親和性が高そう。欧米やキリスト教信仰の国との感じ方の違いは大いにありそう。

 

アリ・アスター監督はこれを「失恋映画」って言ってるそうだけど、主人公ダニー以外でもそれを感じたのは、ペレの弟とそのロンドンから来た友達カップルのサイモンとコニーのとこ。

ペレの弟はコニーがサイモンと付き合う前にコニーと「デートしてた」って言うけどコニーは「あれデートじゃない(付き合ってない)」って強く否定する。でペレの弟はちょっと傷ついた様子で「あっ、そうだね、僕ら友達でいることにしたんだよね」ってしつこく言い直すウザい男。

ペレがクリスチャンら男の友人を連れてきたのは、人類学専攻で興味を持ってくれて連れてきやすかったのと、男性だからだと思う。外部からの種馬として。ダニーが来ることになったのは予定外。

その理屈で言うとコニー(女)もいらないんだけど、ペレ弟はコニーに振られた恨みがあったんだろうな〜と。んで女も恋敵も生贄にして、自分も志願して生贄になって心中という何気に一番恐ろしかった(そういやvolunteer という言葉がこんなにしっくりきて、なおかつこんな恐ろしく感じたのは初めてでしたよ…)。

シナリオ的には生贄選ぶ時にそんな私情交えたら「まつりごと」のルールから外れるっぽいからいかんと思うけど、あえてそのエピソード入れたとこに監督の私情を感じました。きっと失恋した彼女にものすごく恨みがあったんでしょうね。

 

個人的に、漫画家の佐藤史生さんの作品にものすごーく似ててわーいとなりました。だから好きなタイプの監督なんだな。

佐藤史生さんの「ネペンティス」とはほぼベースが似てたので、おそらく民俗学によくある話なんだろう(小さい集落が近親交配を避けるために、定期的に外から人を招いてその種をもらうハーレム状態)。ネペンティスの方はSFでラストも全然違うしホラーではないけど。

でも佐藤史生さんの作品はアリ・アスターの作品からグロいホラー性や毒性をアク抜きした感じ。

「阿呆船」にはトリップした幻覚ネタ、「馬祀祭」は儀式、「天界の城」「羅陵王」なんかも神話やら土着信仰、呪術、はたまた種の保存にまつわるあれやこれや。徳永メイさん原案シリーズの「精霊王」「タオピ」「アシラム」などは土着信仰がたくさん出てきて面白い。新進的なフェミニズム描写も出てきて、佐藤史生さんはあの時代にものすごく新しいことをしてたんだとしみじみ。

竹宮惠子さんもいくつかそんな作品も描いており、萩尾望都さんはもう少しヨーロッパ寄りになるけど、その24年組サロンにいた中でも民俗学に特化した作品は佐藤さんが一番多いのでは。

気になった方はぜひ作品を探してみてください(リア友ならお貸しします)。故人なのでいつまで作品が手に入るか分かりませんが、寡作ながら唯一無二の作家だと思う。

 

そんな感じでアリ・アスター作品、私は好きですけど(大好きではない)、ホラーでグロ描写ありだし、なにより終始ディスコミュニケーションの不快感が付き纏うので、うまく気持ちをずらしてその上であえて楽しまないと難しい作品。

なんてったって監督が「見た人みんな不安になるといいな(笑顔)」とかいう人だからねえ。

 

(追記メモ)

・始祖ユミルの神話ベース。「進撃の巨人」で出てくるやつ!

・「進撃の巨人」にも示唆されてるし、エヴァンゲリオン人類補完計画もしかり。人と人の垣根をなくしてすべて一体化して共有する、というのは理想郷なんだろう。そういやエヴァも「巨人」。人類が一体化した時のメタファー?

・殺し方が横溝正史っぽい。「犬神家の一族」ネタとしか思えないのが(足と花飾り)。あれは神話ネタの方が先なのかな?

スウェーデン横溝正史の親和性は「ドラゴンタトゥーの女」にもあり。あれは神話より閉ざされた土地の一族だけど。家族というテーマは宗教的でもある。依存性が似てる。

アリ・アスターの他の作品をいくつか見たけれど、ベッドで眠るシーンが多い。唯一許された安心する時間?でもそれすらも絶対ではない。最終的には死?本作では長い時間続く昼間に悪夢が繰り広げられる。

・実際の夏至祭で飲まれる薬草セント・ジョンズ・ワートのお茶は一時期メンタルケアに効くと流行りましたな。

・食べ物に毛を入れる恋のおまじない♡って、日本でもクッキーやお菓子に自分の髪の毛入れて好きな男の子にあげたら恋が叶う、とか小中学生の時にあった。あれほんとにやった人いんのかな。

・家族、恋愛、宗教、ドラッグ、セックス、ダンス、音楽、リフレイン、支配、規則、習慣、恐怖、絶望、共感、共振、快感や癒し、あらゆる個人的ななおかつコントロール不可能な感情などなど。すべて依存性が高いものたち。

・私の誕生日は6月23日。まさにミッドサマー\( ˆoˆ )/。祝祭!祝祭!やーめでたい。

 

 

ソン・ガンホにアラン・ドロンと同じ闇の眼差しを見た『パラサイト 半地下の家族』感想

アカデミー賞作品賞おめでとうございます。

 

まずは見て、なるほどこれは面白い。物語だけではなく、映画・映像としてできること、楽しめること、エンタテイメントを熟知し、小さくもまとまらず、かといって高い志的なものに惑わされず。楽しめました。

 

考察サイトはたくさんあるので、その辺はそちらにまかせて、個人的に思いついたことを。

ネタバレはあります。

 

昔の作品の盗作騒ぎもあったとか。でも「なりかわり」「のっとり」などの物語はよくあるので、そこを作家がどう表現するかなので、その辺はいまさら?では。

太陽がいっぱい」とか「イヴのすべて」とか。最近だと「Us」なんかも。「ルームメイト(1992年版)」も怖かった。「シャイニング」とかホラーものや、「寄生獣」とか。松本清張なんかも「砂の器」「顔」とか。

 

人の心に巣食う小さい染みみたいのが、どんどん広がって大きな闇になっていくソン・ガンホの演技がよい。

太陽がいっぱい」のアラン・ドロンは容姿がめちゃくちゃ美しいのに育ちが悪くて、自分にないものを持ってる男を殺して成り代わってその女も手にする。

ソン・ガンホは一般的な美形ではない。前田智徳にちょっと似てて九州男児的整いはあるけど。

セレブ奥さんと2人でサウナ室に入って握手するシーン。結局天然奥さんが「手洗ったの?」ってサラッと流されてしまう。あれがアラン・ドロンならじっと見つめて数秒間…だったらパラサイトは不倫ドラマになっていたりして。

かわりにソン・ガンホがじっくり見つめ合う(というか睨み合う)のは男と。セレブ旦那と地下室の男、そして息子。もう1人の自分、なっていたかもしれないもう1人の男に愛と憎しみを抱く演技が素晴らしい。

もう1人の自分、なっていたかもしれない不幸、得ていたかもしれない栄光と金。

犯罪の話だし、セレブ家族はいけすかないし、設定はトンデモなのに惹きつけられるのは、人の心に宿る闇(地下室)を見るから。メタファーや小さなディテールでさりげなく表すのも、観客それぞれに思い当たる部分を引き出す効果があるのでは。

アラン・ドロンも暗い闇のある役が本当によくはまる人だった。映像の場合、目の芝居が上手い人は圧倒的によい。

アラン・ドロンといえば「サムライ」も映像が素晴らしくて、多分ポン・ジュノ監督も見た事があるのでは。あれもスクリーンの大きさにはまるような部屋の撮り方が斬新で、多くの映画に影響を残している。

 

セレブ奥さんの描き方については色々考察が面白い。私が思ったのは、あのセレブ奥さんは前の家庭教師と運転手となんかしらちょろっとあったのでは?という事。

セレブ娘があんなに可愛いのに自己評価が低めなのも、自分の男(前家庭教師)を母親に取られたから。前家庭教師が留学したのはセレブ奥さんから離れるため(娘とは切れたくない)。母が娘に対して塩対応なのは、娘に「女」としてライバル心がある。

前運転手もお尻が軽そうだし、2人とも奥さんが雇ってて顔で選んでるっぽい。セレブ旦那がパンティ見つけた時に奥さんがちょっとだけ挙動不審なのは自分のことかな?とびくっとしたのかも(でも夫に対して強みがあるので追求されない自信もある)。とはいえ彼女は自分のことしか興味がないから、浮気もかなりカジュアルな感じだろうし浅いはず。

彼女だけが地下室の闇がないように見えるが、闇がないという闇がある。

 

でも描いてなかっただけで彼女も闇があるのかもしれない。

 

個人的には、中国駐在中の事を思い出す。

中国駐在中は通勤のために運転手を雇った(会社規則。一部自己負担)。それとアイさんといってお手伝いさんを雇う。ちなみに「アイ」は中国語で「おばさん」と「家政婦」の二つの意味がある。

うちは日本人向けマンションだったのでマンションの規定のサービスを利用した。マンションのメンテナンスも含まれるので、実際それを利用しないと色々面倒だった。

そういうのに慣れてない最初は違和感があったが、夫曰く「中国の大都市は出稼ぎで稼ぎにきてる人が多い。日本人はちゃんとお金を落としていく事がこの国のためにもなる」という経済回せ理論と、あと何があるかわからない国に馴染むためのセキュリティになる、と。実際3年間夫の運転手をしてくれたカーさんは事故もなく、夫を守ってくれ、その後も日本人駐在員のドライバーを問題なくやっているらしい。

夫は割と距離感を意識してて、横柄にも寛容にもなりすぎない感じに接していた。仕事きちんと、でも無理はさせない。病気や家庭の事情で休むのも気楽に、でも必要以上に仲良くはしない。こちらのわがままとあちらの許容度のバランスを見ること。結局あちらの文化を学ぶ、というスタンス。

他の駐在員で中国人に対して露骨な態度の日本人は多くはないがいた。映画の中の匂いのエピソードなんかは最たるもので、窓開けたり消臭剤つけたり。そういう人は態度も横柄なので、そのうち中国人の運転手に嫌われて最終的に誰もその人の運転手になりたがらなかったり。

そういえばカーさんは車内はいつも綺麗にしててくれた。

お手伝いさんもベビーシッターと炊事洗濯料理すべてまかせてしまい、中国駐在中はセレブ生活を満喫してる奥様も多かった。アイさんとうまくやってる方も多かったが、トラブルになる人はだいたいやはり横柄でそういう人は日本人にも評判が悪い。中国語がわかるようになると、アイさんの噂話でどこそこの奥さんは〜っていうのもちょろっと聞いたり。

とはいえそれも期間限定の駐在員だから、映画のようにはこじれなかったのかもしれないけれど。

 

あとこれは漫画の「はみだしっ子」読んでる人しか分からない話。

つれて行ってシリーズのリッチーを思い出した。フランクファーターの弁護ばかりが話題になりがちだが、リッチーが問題児とはいえ事件を起こすまで感情を爆発したのは、マックスや他3人に対して「自分に似た匂い」を感じたのでは。同族嫌悪。

リッチーはもしかしたら4人の中の1人になっていたかもしれない、養子になって裕福な暮らしを手に入れてたかもしれない。

リッチーは4人の出自を知らず、4人を恵まれた家の子として妬む。でも裁判で4人のそれまでの経緯は聞いてるはずなんだけど、おそらくちゃんと理解せず無視している。自分の憎しみがどこから来てるのか客観視もできないし、感覚だけで動いている不幸。

だからマックスや4人はリッチーにどこかで同情している。それにリッチーは気付いてもいる。引導は4人が渡すしかなかった。

数十年前に三原順という漫画家の描いた物語。

 

だから「パラサイト」は実は普遍的な人間のおはなしなんですよ、ってこと。

 

サイモン・ラッセル・ビールは素晴らしい『リーマン・トリロジー』@シネリーブル池袋

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サイモン・ラッセル・ビールはかわいい。

そして途方もなく天才的な俳優である。

 

注意)↑という話しかほとんどしてません。ネタバレはあります。

 

私は広島東洋カープのファンなので、サイモン・ラッセル・ビールをカープの選手に例えるとするなら

「新井さんと引退後の前田智徳くらいかわいくて、達ちゃんくらいお茶目で、体型は松ちゃんで、守備は菊池で、足は現役時代の緒方で、エルドレッドみたいなものすごいホームランを打つかと思えば西川みたいな変態打ちもできて、黒田みたいに完投して、金本くらいスタミナがあって、誠也くらいチャンスに強くて、山本浩二や衣笠くらいのレジェンドで、沢村賞三冠王もトリプルスリーも取ったことがある」

くらいすごい人です(サイモンは俳優です)

打率3.33、盗塁25、ホームラン32、防御率1.3、なにそれオオタニサーンよりすごくない?(繰り返しますがたとえです。サイモンは俳優)。

まあこの中で合ってるの最初の二行くらいなんですけど。

 

イギリスの至宝と呼ばれる稀代のシェイクスピア俳優であるこのおじさんは、見た目は8月のサンタクロース(って歌があったような気がするけど関係ない)みたいにふくよかで、整えられているけど立派なお髭を持ったゆるふわ癒し系のイギリス紳士。おめめキラキラうるうる。

 

サイモンはいい声で朗々と美しく台詞を詠う。淀みなくすうっと耳に届く聴き心地最高な声。人間ドルビーサラウンド。サイモンの一番素敵なところは?と聞かれたらすごく悩むけど(ほんとは全部!)、やっぱりまずは声。声はただの音ではなくて、体の管という管を響かせて鳴らす楽器だとあなたは体感するでしょう(ドルビーの宣伝ではない)。

 

リーマン家の三代の物語を3人の俳優がいろんな役をこなして進む。衣装替えはなく、眼鏡を使うが、落語のそれのように小道具は最小限。

舞台上の四角のガラスが回転し、場面転換や時系列の変換を感じさせるが、会議室のような椅子と机、そしていくつもの箱を使った演出は斬新だけれどとてもシンプルだ。

3人の俳優は綿密な演技ですいすいとその四角いガラスの中で泳ぐ。長い朗読のような台詞を紡ぎながら。

長い長い詩を聞いているような気持ちになる。

芝居ではなく、叙事詩

 

その中でサイモンは、最初にドイツからアラバマアメリカンドリームを夢見てやってきたリーマン家の真面目な長男・ヘンリーを演じる。

Henry is always right. 

ヘンリーはいつも正しい。

リーマン家の始まりである。

 

そうかと思うと、たちまちアラバマの18歳の乙女に変化する。幼く優秀だけれどかなりズレた2代目、年老いたラビ、育ちの良さそうな金持ち、横柄な出資者、若い女、現代の青年。しなをつくり、ゆっくりと静かに歩いたかと思うと神経質に、生き生きと力強く、かと思うと流行病で死にいく弱った肉体。時にツイストを踊り、まるまるとした体は時に笑いを誘うけれど、私は一度として彼の体型で笑った事も、よくある男性が女性の仕草をわざとらしく演じる時の不自然さに笑ったことはない。

サイモンは何より目で演じている。

彼の目はアラバマの処女の純粋な瞳に、野心と情熱に満ちたヘンリーに、お金のことしか考えていないだろう濁った瞳の出資者に、合理的だが情緒にかける冷静な視線に。

あっという間になんの説明もなく。

仮面を変えるように。

ああ、サイモンのいいところは瞳も(ほんとは全部!)!

 

もちろんサム・メンデスの計算し尽くされた演出、ロンドン五輪を手掛けたエス・デヴリンの美術、生演奏ピアノによる名優との呼吸、ベン・マイルズのシャープな演技と雰囲気、アダム・ゴドリーのシニカルな演技と長い手足を駆使した所作。

素晴らしく完全すぎる芝居だった。泥臭さがなくて、没入できない方もいるかもしれないけれど。

とにかくサイモン・ラッセル・ビールはかわいい。

そして天才。

 

『ヘンリー八世』さいたま芸術劇場

久しぶりのさい芸でシェイクスピア

ネタバレありの感想です。

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ヘンリー八世はシェイクスピアの晩年の戯曲とも言われ、そして共作。

地味であまり上演されたことがない作品ということで、先に原作読んでから見ました。

エリザベス一世の父で、6人の王妃をとっかえひっかえ、横暴で決して賢王とは言い難いが王様らしい王様。今作では1人目の王妃キャサリンと離婚し2人目の妻アン・ブリンがエリザベスを生むあたりの物語。

とはいってもタイトルロールのヘンリーも、2人の王妃もそんなに出番がなく。もう1人の主役ともいえる枢機卿ウルジーが肝となる芝居。

 

最初の阿部寛さん演じるヘンリー王が、女とベッドの上でからみあうシーンから始まるのはなかなか面白い演出。阿部寛の半裸、その大きな筋肉の美しさと強さをバーンと見せ、女3人と絡むというヘンリー八世の男としての生臭さも一瞬で理解させる。そして何故か赤ん坊の泣き声の幻聴でおののく姿で、その後に描かれる「息子=跡取り)へのプレッシャーも示唆している。

阿部寛さんは長い芝居でそんなに出てこないのだけど、背は高いし遠目でも分かる日本人離れした彫りの深い顔立ちはこれまた一瞬で王の存在感を感じさせる。モデル出身ということもあるのか、所作の華やかさは王の血筋の上品さを表現するのにぴったりだった。

原作を読んだ時に阿部さんではちょっと甘すぎないかな?と思っていた。あとドラマの変人男のイメージが強すぎて、暗い印象にならないだろうかとも。

しかし姿も声もすべてハマってました。

 

王を操る野心家の枢機卿ウルジー役は吉田鋼太郎さん。きっと濃いいウルジーなんでしょうねと思ったら、もうお腹いっぱいです…というくらいしつっこいウルジー

しつこすぎてその演出はいらなくね?という所もちらほら。

キャサリン妃との絡みはキャサリンがウルジーへの嫌悪感を表して、もっと2人の対峙を強調した方がいいのでは。肩と腰を抱き耳元で妃を口説く様は吉田さんの見せ場を増やす効果はあったけど、せっかく宮本裕子さんが清廉潔白で誇り高い悲劇の王妃を好演してたのにもったいない。あそこでウルジーの甘言に一瞬でも惑わされたら、王に離婚される理由に対して最後まで抗い自分の貞潔を示し続けた女性像が揺らいでしまわないか。

まあその部分を差し引いても宮本さんのキャサリンはその人柄や運命に翻弄され破滅させられる様を、少ない出番の中で自然と表現してました。だからこそ吉田ウルジーの暴走もありになったのかなと。

谷田さんのバッキンガム公も最初に処刑されちゃうので出番少ないけど、ウルジーの悪事の始まりを象徴する役をしっかり演じてた。ここでの照明による十字架使い方も、後々のキャサリンとウルジーの死の時にも効果的に使われるので、谷田さんの最初のとこは結構大事。

 

十字架といえば王とキャサリンの離婚、そしてアン・ブリンと再婚するために「カソリックは離婚できないから新しい宗教をつくる」のくだりは観客にどこまで伝わってだのだろう。それが分からなくても面白くはなってるんだけど。

 

ウルジーが男色家でクロムウェルと同衾してるとこがオープニングの対比になってたり、悪事を暴かれ破滅していく様を洋服を脱がされていく演出で表すのは面白い。クロムウェル役の鈴木さんは外連味を出しすぎず、ウルジーに仕え支える役を好演。

ヘンリー八世の阿部さんも出番が多くはないのに、ウルジーとの対比があってその存在がさらに光を増してて良かったとは思う。

でもそれでも、もう少し引き算のウルジーでも良かったのでは。

今は吉田さんあってのさい芸なんだなーと認識はしたんですけど。

 

なんというか、吉田さんのシェイクスピアは肉体のシェイクスピアなのかな、と。そこはやはり役者が演出をしてるからなのか。難しい話だからこそ肉体を全面に出してしまうと肉体に逃げてしまう感じがして。俯瞰で見てる感じがしないんですよね。それぞれが役に没入してるけれど、芝居を操る傀儡師が不在というか。演出家が出演もするという芝居はいくつもあるし、それとはまた違う感覚。違和感とも違って、トゥーマッチなところを楽しめない自分の問題だとは思います。

 

理由ははっきりしてて、蜷川さんのシェイクスピアと違うということにまだしっくりきてない自分の問題。蜷川さんの芝居に出る吉田さんも大好きだったし、その演技がどうこうではなく。

 

蜷川さんは役者ではないので、それぞれの役者のやり方演じ方を見てたのかなと。それをひとつひとつのピースとして、芝居にはめ込んでいってたように思います。

吉田さんはご自身が演技されるので独自の演技メソッドがあり、どうしてもそれにつられてしまう役者さんがちらほらいました。話し方や振る舞いかが似てきてしまう。それがない俳優さんの方が落ち着いて見られたので、その点はもしかしたら役者さんの問題ではあるんですが。

 

吉田さんと蜷川さんは違う、それはとても良いことなんだと思います。蜷川さんにはハムレットの父親みたいにさい芸に取り憑いて離れない怨霊にはなってほしくないですから(それはそれで楽しそう!)。

 

もちろん解釈もしっかりされてるし、なるほどと思う演出も多くあってたいへん面白かったです。オープニング、一幕終わりのウルジークロムウェルの同衾、殺される3人の最期の姿、最後にその3人を象徴的に出したりとか。音楽や踊りもうまく取り入れて。

音楽は特に印象的。今回さい芸で演奏してたサミエルさんを吉田さんがスカウトしたとのこと。オリジナル曲を生演奏で、というのは臨場感もさることながら、長い芝居の隙間を埋める役割になってました。

 

ちょうどガレリアで過去の作品からの英国王室の権力の移り変わりの展示をしてて面白かった。つーてもこれ見てもややこしさは変わらない。

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先日「メアリ・スチュアート」見たので、今回はメアリの大おじさんでありエリザベスのお父ちゃんの話だったので関連づけて見られたので少しお勉強になりました。

イギリス人にとっては大河ドラマみたいなもんなんですかね。

 

そういえば見落としたんだろうけど、パンフに「ウルジーの失脚の理由」を自身の不注意という原作から変えたそうなんですがあれなんだったのかしら。