je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

ハムレット観劇記録2026年~このままでいいのか~

ブログをほったらかしていいのかいけないのか。

と問題を先送りにしているというか問題ですらないのですが。

今年も半分すぎて、そういえばハムレットばかり見ていました。

 

ハムレット観劇記録、随時あげていきます。

 

観劇記録

🆕SPACハムレットの観劇記録アップしました。🆕

★日生劇場ハムレット、半畳の宇宙ハムレットの観劇記録は下記リンクから読めます。

  1. 5月20日『ハムレット』日生劇場(演出:デイヴィッド・ルヴォ―/松岡和子訳)
  2. 6月12日『ハムレット×AI』蒲田ルーテル教会(半畳の宇宙公演/構成・演出:斉木和洋/小田島雄志訳)
  3. ケイオスが生み出す祝祭のコスモス~『ハムレット』SPAC@静岡芸術劇場(ハムレット観劇2026・その③) - je suis dans la vie
  4. 7月3日『ハムレット』シアター風姿花伝(潤色・演出:ニシサトシ/松岡和子訳)
  5. 7月17日『ハムレット』すみだパークシアター倉(脚本・演出 山崎清介/小田島雄志訳)

映像作品

  1. 2月16日&3月7日 ナショナルシアターライブ『ハムレット』TOHOシネマズ日比谷&日比谷シャンテ(主演:ヒラン・アベイセケラ/演出​:ロバート・ハスティ/字幕:柏木しょうこ)
  2. 3月19日&4月15日映画『ハムネット』(クロエ・ジャオ監督/ジェシー・バックリー/ポール・メスカル/日本語字幕監修:河合祥一郎))

せっかくなので、比較もしつつ観劇記録をちょこちょことアップしていきます。

 

ケイオスが生み出す祝祭のコスモス~『ハムレット』SPAC@静岡芸術劇場(ハムレット観劇2026・その③)

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2025年11月、上田久美子演出のSPACハムレットがすごいらしい。

という話がジワジワと聞こえてきまして。上田さんについては、元宝塚の演出でフリーになってからの活躍も言うまでもないのですが、その方がシェイクスピア、しかもハムレット!と聞きずっと気になっておりました。そうしましたら再演決定。場所は静岡、近くはないが行けなくはない。マチネだし日帰りで行けるかな、と一人旅を計画してましたら、夫が富士山が見たいからと車を出してくれることに。ありがたい。

ウキウキしてたらまさかの台風接近。前日、富士山の見える宿に宿泊したのに全く見えず。夜中に地震と、これは何かよからぬ予兆なのか...ハムレットだし...。Something is rotten in Shizuoka...もしくは親指がムズムズ(それはマクベス)。

写真はホテルからの景色ですが、濃霧がまるでバーナムの森のよう(それもマクベス)。

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そんなつまらぬモヤモヤも雷雲もなんのその。いやはや久しぶりに快哉を叫びたくなる芝居でした。天才、鬼才、巨匠はごろごろいるけど、上田久美子様、あれは怪獣。静岡に降り立った芝居の弥勒菩薩。56億7千万年後の救済が上田版ハムレットに形を変えたのかと思いました。

もう感想を言うだけ野暮なくらい、体に心に魂に染み入って、いまだにすごいやばいしか出てこない。広末涼子のラブレターくらいの言葉しか出てこない。本当にほんとに、ほんとうに。

というわけにもいかないので、備忘録としていろいろ。

あらすじ(SPACホームページから引用*1)

デンマークの宮廷で起きた悲劇の中、生き残ったホレイシオは、親友ハムレットの「俺のことを語り伝えてくれ」という遺言を遂たすべく今日も人々の前に立つ。しかし、死んだはずのオフィーリアを自称するモノたち(!?)が乱入し、勝手にハムレットを語り始める。「正当な語り部」を自負するホレイシオは、物語を正そうと試みるが……

潤色・演出:上田久美子
作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:河合祥一郎(角川文庫『新訳 ハムレット 増補改訂版』)

静岡芸術劇場、初めてだったのですが、建物の入り口は1階で、ここではSPACの過去の上演作品の写真や書籍の展示など。グッズ販売も。劇場の入り口は2階。客席は400席ほど、ステージは大きいわけではないが天井が高く。客席は傾斜が大きくどの席からもステージを見下ろすので見やすい設計。劇場は客席側が円形の卵型の半円の形をして、小さなドーム、コクーン(渋谷のじゃなくて繭みたいなという意味)みたいな空間で、入った時から心地よい。

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上演前に、2階のホワイエで県立清水南高等学校芸術科演劇専攻の生徒たちによる、ハムレットのあらすじについてのパフォーマンス「みにみにハムレット」を見たのだが、声はしっかり出てるし、よく動き、5分ほどの短さでありながら分かりやすく、たいへん楽しかった。上演がある時はカフェも営業中だったが、混んでいたので断念。

ステージ中心の上部からビニールが滝のように垂れ下がって、ステージ上に広がっている。ところどころ隆起しており、劇中には俳優が入り込んだり、大きくまくったり変化する。

最初はホレイシオ(本多麻紀)が現れて、観客に語りかける。ハムレットの物語をこれからやります、と。あらすじを分かりやすく話したり、客席に降りてきて客いじりしたり。言葉も現代語で親しげだが、どうも自分の解釈で進めようとしている模様。「オフィーリアのとこはカットします」みたいな事を言い出します。

そこへドバドバとやってくるおそろいの白いワンピースを着たオフィーリアの大群!

なんのこっちゃと思いますでしょうが、そう、今作品、

ホレイシオ以外の俳優11名はみんなオフィーリアなのです!

ほんとに何言ってるか分からないでしょうがそうなのです。

そんな雨後の筍オフィーリアは、ひとりごちていい感じのホレイシオに、

「おいコラ、ホレイシオ、おまえナニ話勝手に進めようとしとるんじゃワレ」

と広島弁では言ってませんが、かなりはぶてる模様。今にもホレイシオをササラモサラにしそうな勢いです。そんな仁義なきOPF11もといオフィーリアさんたち、ホレイシオを縄でぐるぐる巻きにして動けなくしてしまいます。最終的に口もふさいでしまうので、ホレイシオは中盤まで台詞がなくなるという。

どうもこのオフィーリアさんたちは、死者が蘇ったゾンビ的なものではなく、死んで土の中でバクテリアとかに分解されてから、大きな自然に還元されてプラナリアみたいに分裂して生まれ変わってきた...みたいなものだそう。そもそも人間なのか?だからか見た目も様々で、老若男女が混在している、というトンデモ設定。ひげ面すね毛ガニ股おじさんの長髪カツラの白ワンピ姿なんざ、完全なる出オチギャグなんだけどめちゃ面白い。

「とにかく俺はオフィーリアだから!」

と言われ、そうですかと強引に納得させられる客席。

でこのオフィーリアさんたちが「今までホレイシオが話してきたハムレットは違う!」ということで「私たち/俺たちのハムレットを上演しま~す!」と配役を決める。そしてみんなハムレットやオフィーリアをやりたがる。文化祭の配役決めみたいで楽しい。

さらに楽しいのは、この「オフィーリア11名によるハムレット」は、ずっと全員白ワンピのままで進められる。ロングヘアのかつらは外すので、ハムレット(山崎皓司)は金髪、ガートルード(舘野百代)はつば広の帽子、といくらかヘアメイク、小道具や衣装で分かる部分もあるが、白ワンピでずっと進む物語の有り様はまさにカオス。ぶっ飛んでて楽しい。パンクである。

白ワンピ設定、前年の初演の際は最初の登場シーだけで、その後の本編でそれぞれの役柄に応じた衣装にチェンジしたんだそう。今回のゲネプロの際に、たまたま衣装チェンジしないで進めてたら、上田さんが面白いかも、と直前にこの設定になったのだそうです。

アフトクで上田さんが「皆同じ衣装だと誰が誰だか分かりにくいかな?」と気にされてたのですが、「オフィーリアによるハムレット」であることが常に強調されるし、ホレイシオだけ別の衣装のままなので、ホレイシオとオフィーリアの対照も感じる。男性社会の作られた絆にこだわるホレイシオと、男女も超えたものとして自由に動くオフィーリア。この二人の境界は主人公ハムレットを挟んだ愛憎ゆえとも取れるが、ロゴス(言葉)や人間社会のルールに囚われ自殺できなかったハムレットやホレイシオら男の世界と、狂いながらも自分の意志で死を選んだオフィーリアの対比ともとれる。

本編に入ってからはきちんと戯曲通りなのだけれど、台詞が現代語に潤色されており、かなり分かりやすい。アフトクで聞いたところ、ワークショップで俳優自ら考えた言葉を採用しているとのこと。

クローディアス(武石守正)の独白はより身勝手だが人間らしく、ラップで文句を言いまくるオフィーリア(榊原有美)のパワーと真っ正直さ、墓堀に当たる道化(阿部一徳、貴島豪)の軽快さと達観、かつて見たことのない新鮮な登場人物像。ハムレットはそれなりに独白もあれど、周りの濃さに溶け込んでいるように見えた。そこは皆オフィーリアなんだから、そうなってしまうのだろうけど、そう見せる演出がよい。ハムレットは戯曲だと悩み自らの言葉に翻弄され、孤独で賢く気品があるが、山崎ハムレットは短髪の金髪のビジュアルもあってか、話し方のカジュアルさもあってか、とてもプリミティブであった。オフィーリアが見ていた年齢相応の青年はこんな感じなのかも、と。自然とロゴスの間で迷い進む、それと戦うハムレット。その戦いの中で死んでいく。生きるとは死ぬとは、を体で示すために飛び込んでいく。

見どころのもう一つは、俳優が戯曲の役を演じていない時もずっと舞台上にいて、木や花やあるいは動物などの自然の一部を演じている。さながらコロスのように。しきつめられたビニールはオフィーリアが溺れた川のイメージなのだが、それさえもオフィーリアさんたちは自分の一部にしている。ビニールの川に潜り込み、形を変え、纏い、溶け込む。

最終的に観客席の上にそのビニールが大きく舞い、通り過ぎていく。観客をも自然の一部へと還元するかのように。

アフトクやインタビューで、上田さんはこのハムレットを「 人間だけでなく自然や生命体を含んだコスモス(宇宙)の目線」で描いたという。11人のオフィーリアさんたちというケイオス(混沌)から、最終的に壮大な宇宙へと辿り着く、しかも観客も一緒に。多幸感と高揚に包まれる芝居は多々あれ、観客をも優しく取り込むような演出は弥勒菩薩の導く終末があるならこのようであってほしいと思わせる唯一無二な大きな世界観があった。

舞台にはハムレットの死体、それをとりまく動植物たち。動物の頭をしたオフィーリア(であったものたち)はさながら夏の夜の夢の妖精であり、エンディングはミッドサマーの祝祭のようであった。時期もちょうど夏至の後であったし。

テーマとしては西洋近代知性主義へのアンチテーゼ、シェイクスピアの作品にある自然主義的価値観などですが、『風の谷のナウシカ』での人間と自然の共存、エヴァンゲリオンシリーズでの人類補完計画なんかも頭をよぎり。そこを自然対人間社会という二元論だけにせず、人が自然に還っていく様をハムレットという作品に載せてしまう豪胆さ。力業だけでないけど、ものすごく食らいました。そしてその豪胆さだけでなく、潤色の際にはただ読み込んだだけでなく、原作戯曲も翻訳も生かしている。知性に溢れ、しかしそれをこれ見よがしにふりかざすのでなく、皆と共有し物語をいかに進めるかという懐の深さと柔軟さがよく分かるテキスト。俳優もただ現代語だからというだけでなく、言葉と体が一体になっている。これは演出への信頼がよく感じられた。

しみじみ、台風の中、静岡まで行ったかいがありました。これだけの作品、東京や大都市でもやってくれればという声もあるが、これはぜひぜひ富士山の袂の静岡芸術劇場で体感してほしい気がします。

当日のアフトク内容についてはメモを別途アップ予定。

AIも翻弄する巨大な悩みの亡霊~半畳の宇宙『ハムレット×AI』@日本福音ルーテル蒲田教会(ハムレット観劇2026・その②)

To be, or not to be — that is the question.

悩めるハムレットと悩まない AI が出会う。
文字、印刷、写真、映像、録音、放送、インターネット、SNS。
過去は複製され、増殖し、見えないネットワークを作り、
亡霊となって私たちを絡め取る。
そして、いま AI が誕生した。
AI は亡霊の手先なのか、それとも私たち自身なのか。

原作:ウィリアム・シェイクスピア
構成・演出:斉木和洋
出演:渡辺可奈子、有村友花、宮﨑圭祐、斉木和洋(以上 劇団 山の手事情社)
演奏:佐戸川美穂
宣伝美術:イラストレーション/有村友花 グラフィックデザイン/佐戸川美穂
衣裳:綾
協力:劇団 山の手事情社

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半畳の宇宙とは

「半畳の宇宙」は劇団・山の手事情社の斉木和洋さん主宰の演劇プロジェクト。主に山の手所属の若手俳優さんが活動中。いわゆる劇場でなく、バー、カフェ、お寺、教会、など、どんな場所でも自由自在に表現するスタイル。

半畳の宇宙 | 半畳の世界から宇宙が生まれる

現在は一人芝居専用劇場「シアターHanjo」を拠点に。

山の手事情社の若手公演『夏の夜の夢』(2024年8月・山の手事情社アトリエ・私の感想はこちら🖱)を見に行った時に、若手の方々の演技に惹かれ、ちょこちょこ見させていただいております。とはいえ、渡辺可奈子さんの『サロメ』(2026年・本妙院)と『走れメロス』(2026年月・半畳の宇宙アトリエ)、有村友花さんの『ロミオとジュリエット』(2026年1月・日本福音ルーテル蒲田教会)だけなので多くはないのですが。

エレクトロVer.ハムレット feat. AI @教会!

場所は前述の『ロミオとジュリエット』公演(以下R&J)でもうかがった教会。同じ敷地内に幼稚園が併設されており、お迎えの保護者の方とすれ違ったり。建物は別なので、中でお子様と遭遇というのはないのですが。

教会は公営の集会所的な広さで、さほど大きいわけではないですが、縦長で天井が高く広がりがあり。上の方に窓があるので外の明りが入ると美しかろうと。芝居の時は暗幕で覆っていました。

正面に祭壇があり、大きな十字架、パイプオルガン。木目を基調にした柔らかな印象。R&Jの時も感じましたが、非日常空間であること、キリスト教をベースにしたシェイクスピアの世界観にもマッチしてたいへん合っていると思います。

教会の中はこんな感じ。今回の公演でなく1月のR&Jの際の写真です。R&Jの悲恋の物語に合っていました。

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しかし今回はテーマがAI。どうアプローチするかな?と思っていたら、衣装は上はシルバーで肩パットとんがり系、下は白のパンツで光沢があり、近未来宇宙服のような。メイクもはっきりしたブルーのアイシャドウ。そして音楽はエレクトロ!平沢進のライブに間違えて来ちゃった?あ、3人だからperfume かな⁉︎

それがなんとも合うのが不思議。山の手事情社の芝居がソリッドな雰囲気があり、近代アートや音楽との親和性も高いので、イメージはすんなり入っては来るのだけど、実はここは町の教会で隣は幼稚園だということをたまに思い出しては面白いなあと。

しかも出演の宮﨑圭祐さんがラップミュージシャンとしても活動していることから、何か所かラップバトルにアレンジ。シェイクスピアは現代ならYoutubeもTikTokも使いこなし、AIもバンバン使って、ラップもテクノDJもやっていたと思うので、とても合っていたと思う。

そういや会場はルーテルなのでプロテスタントなのですが、デンマークの王子たるハムレットは、序盤「ドイツのヴィッテンべルグ大学に戻りたい」がクローディアスに拒まれます。ヴィッテンベルグはルターが宗教改革を始めた場所。つまりルーテル派の聖地。ハムレットの深く悩む性質は、プロテスタントとカソリックの教えの間で逡巡していることも内包しており、今回の会場ほど合うところもなかなかない。

近未来的換骨奪胎の物語に生まれるコスモ

事前に演出の斉木さんから世界観の説明が簡単にあり。設定はAIに監視された世界で、私たち観客は監視している側。演出ノートによればハムレットはそこに現れたバグとのこと。

冒頭は戯曲通り歩哨のシーン。管理された世界でロボットのように動く3人の俳優。しかしどうも一人あやしい動き。それがハムレットなのか?AIに住む者たちがハムレットの物語を再現していく。

4時間の戯曲が1時間半強になっているので、ロズギル、フォーティンブラスはカット。台詞は割合に戯曲通りで、特にハムレット(渡辺可奈子)の独白はスタンダード。そこにオフィーリア、クローディアス(有村友花)、ガートルード、レアティーズ、ポローニアス(宮﨑圭祐)と複数役を二人が担う。亡霊はなんと斉木さんが演じる。客席から現れ、スマホを持ち、AIを操る大いなる力、あるいはダース・ベイダーのごとく。しかし衣装は普段のままなので、むしろ現実世界からの闖入者のようでもある。

そういえばホレイショ―はどう演じられてたっけ...思い出せない。

戯曲はあたまに入ってるので、話を追うのは困らなかった。テキレジがうまいし、俳優の技術もしっかりしているので、複数役の演出も、衣装が独特なのも弊害にはならず。ハムレットを渡辺さんで固定し、それ以外の役を演じなかったのも良かったと思う(渡辺さんは歩哨や名のない役はやっていた)。渡辺さんの独白は確かでしっかりと届く。今回の世界観がSF的で独特とはいえ、本来の悩める王子ハムレットの主題、「このままでいいのか、いけないのか」という言葉の深海に潜り込んで、役をつかもうともがいている様がよかった。ハムレット役は自分から演じようとして演じるのはなく、そう運命づけられた俳優が演じる、と誰かが言ったのを思い出した。

少ないキャストで、他二人の演じ分けは大変だったかと思う。

男性で身長の高い宮﨑さんがガートルードを演じたのは特によいアクセントで、見た目に分かりやすいのもあったが、何よりガートルードの女性性を強調しない演出が功を奏したと思う。ハムレットの悩みの根源となるガートルードは、母性や女性性の歪さが目立つのだが、クロスジェンダーキャストにしたことで、人間的な欲望も感じられた。たまたまかもしれないのだが、従来の「弱き者としての性的な女ガートルード」というより、「王妃という地位や自分の生きるための立ち位置を確保するための再婚」という面がより強く見える。もともとそういう解釈は多く、再婚はひいては「国の安寧のため、息子の王位の確保のため」というのはある。これは女性が演じた際には見逃されがちなのかも?とも思った。

有村さんのクローディアスもなかなかコミカルで、彼女の道化的な雰囲気がはまる。クライマックスでのクローディアスが、自分で仕込んだ毒入りの酒をつい飲みそうになっちゃうとことか、あてがきですか?というくらいコミカル。有村さんは王&王妃、ハムレット&オフィーリアという二つの重要なカップルの片割れを担っており、しかも片方はクロスジェンダー、もう一方は女性同士の演者という、ともすれば従来の解釈に一石投じそうな配役を違和感なく演じ分ける。オフィーリアは彼女の可愛らしい雰囲気に合っているし、悲恋の少女役はジュリエットにも通じている。しかし、兄や父の圧をするりとかわそうとしたり、ハムレットをどうにか受け止め愛そうという、しなやかで自立した力強さがある。渡辺さんとの相性もいいのだと思うが、二人の尼寺のシーンはとても惹かれあい離れがたい絆があるのに、すれ違ってしまう感じがあった。この二人のR&Jも見たい...!

個人的に好きなのは二幕一場のオフィーリアが父にハムレットが自分のところに来た時けど変だったという話をするくだり(三度頷かせる云々)。ここは通常は説明だけで分かりづらいのだが、ちゃんと再現されていて素晴らしかった。あの場面、どうなってたのかな?とずっと気になってたので。そしてこのシーン、この後見た成河版とイエローヘルメッツでも再現シーンがあったのだが、ダントツで半畳の宇宙の表現が良かった。これはルパムをはじめとする身体表現とそれを支える体幹の強さゆえかなと思う。

身体表現といえば、りくりゅうかなというくらいアクロバティックなシーンもあり。その他、セクシャルなシーンの表現や、男性俳優が女性俳優に触れる時の配慮とかも自然に見受けられ、山の手事情社出身の俳優さんの底知れなさを感じました。そういうの当たり前にできるの、観客としてはめちゃくちゃ安心材料になるんですよね。

寝室の母と息子のシーンでも面白いとこがあって、ハムレットがガートルードに「笛を吹け!」と迫る。笛が吹けない母をいじめるように責める。これ戯曲にあったっけ?と思ったら、ロズギルに吹け吹けいうシーンをここに持って来たんだー、と。笛は何かのメタファー?深読みもできるけど、ここはクロスジェンダーキャスティングの面白さも出たなと。体の大きい宮﨑さんを小柄な渡辺さんが笛という必殺技でいじめてるように見えて、シュールでした。

SF的世界、短くなった脚本、少ない演者、そういった制限の中で広がる表現。AIというテーマを掲げながら、まったく真逆の人の底知れなさ、小宇宙をすごく感じ、満たされた気持ちになりました。半畳の宇宙の名の通り。

言葉言葉言葉/悩め悩め悩め

ラストは冒頭の歩哨のシーンへ戻る。最初とは違う配置。今度は歩哨として紛れ込んだのが渡辺さんではない。そして同じくだりをまた違う配置でリフレインする。AI世界でハムレットが上演され続ける。今度はどんなバグが?私たち監視者(観客)はそれを見張る。見届け、ゆくすえを見つめる。

ハムレットはAIというこの世界の最後の大きな頭脳に対抗できる最終兵器たるのかもしれない。悩め、悩め、悩め。と。大いなる頭脳と神をも凌駕する答えを引き出す(かのように見える)AIは、ハムレットという400年前に生まれた底知れぬまでに悩む若者の物語に翻弄される。人は悩み考え、愚かな選択をしつつも、奥深く、広く、広がり続ける可能性のコスモなのだと。

小田島雄志訳の素晴らしさを再発見

公演後に演出の斉木さんにお聞きしたいことがあって、お声がけさせていただきました。その節は本当にありがとうございます。小田島訳をベースにしていること、そのわけなどお聞きし、小田島訳がなぜ支持されるのかあらためてよく分かりました。渡辺さんの独白を聞いて、俳優の声にのった時の美しさを感じました。

そんなことを考えながら小田島訳ハムレットをしみじみ読み返していた二日後、14日の深夜、小田島先生の訃報を目にしました。8日に亡くなられたということだったので、芝居を見た時はすでに旅立たれた後。これからもどこか芝居があるところで、小田島先生の言葉を聞くんだとは思いますが、あの時、教会で小田島訳を聞いていたのはなんともいえない邂逅となりました。

 

 

光り輝く王子様~『ハムレット』日生劇場(ハムレット観劇2026・その①)

作    :    ウィリアム・シェイクスピア
演出    :    デヴィッド・ルヴォー
翻訳    :    松岡和子

<スタッフ>
美術:乘峯雅寛 照明:吉枝康幸 音響:高橋巖 衣裳:前田文子 ヘアメイク:鎌田直樹
振付:尾上菊之丞 音楽:江草啓太 映像:松澤延拓 擬闘:栗原直樹 ステージング:福田圭吾

<キャスト>

ハムレット    :    市川染五郎
オフィーリア    :    當真あみ
レアティーズ    :    石川凌雅
ホレイショー    :    横山賀三
ポローニアス    :    梶原善
ガートルード    :    柚香光
クローディアス    :    石黒賢

染五郎ハムレット

今をときめく梨園の若きスター・市川染五郎さんが主演。満を持しての初のストレートプレイ、初主演。おじい様もお父様も若い頃にかつて演じた役。運命というか、やることが当たり前なのかも。お父様は14歳で演じたそうなので、お話はずっとあったのでは。20歳の伸び盛りの若木は悩める王子にイメージはぴったり。

開演前は舞台上にモノクロの波の映像が流れる。日生劇場の雰囲気も相まって、海底にいるような世界観。その闇のまま、冒頭の歩哨と亡霊のシーン。

ハムレット波

パッと二場へ入ると、ガートルードがピアノを弾いている。柚香さんの金色の衣装と、大きく開いた背中の艶やかさときたら!これほど存在感と魅力のあるガートルードはなかなかない。

そして主役登場。当初のキービジュアルが青いキラキラ衣装だったが、本番は喪服のような黒。ちょっと残念な気もしたが、父王を悼む設定なので戯曲通り。サングラスをかけていたり*1、サッカーボールで遊んでいたり(柚香さんのナイスキャッチ!)と、現代的な若者の雰囲気。

「七光りを浴びすぎてありがた迷惑」*2

という台詞の訳がビタッとはまる。歌舞伎の方は見ていないのでそちらについては評判しか知らないのだが、『朧の森に棲む鬼』(2024年版 主演:松本幸四郎)を映画館で見た時に、板の上に乗るための技術も覚悟もしっかり身についた役者だなと。祖父、父、近親者(特に叔母)という光を間近に見てきただろうに。それをものともせず、なんと真直ぐに向かってくる光の強さ。しかし我の強さや、若さからの自信過剰ゆえの強さでではない。

ガートルード役の柚香光さんとの並びが美しく、相性がよい。見た目が似てないので母子感が弱めだが、片や歌舞伎のプリンス、片や元宝塚トップスター。立ち姿の見せ方が双方眩しすぎた。ましてや柚香さんは男役出身。以前『ポーの一族』を映画館で見たのだがこれは惚れてまうやろー!な魅力であった。王子様&元王子様なビジュアル。

ガートルードとハムレットの関係は近親相関的に描かれがちだが、今回はそれはなかった。というかセクシャルなイメージが入り込む余地がなさすぎた感もある。ハムレットの悩みの根幹は「母の早すぎる再婚」、つまり近親者の性的な部分への嫌悪なので、ここはもう少し分かりやすく見せても良かったような。

その分、ガートルードとクローディアスのシーンは性的な繋がりのイメージ。

第二幕第二場冒頭、ロズギルと接見する。ここで、奥から王と王妃がやってくるのだが、完全に「事後」なのである。乱れた髪を結い直すガートルード。舞台でセットした髪をわざわざこのためにほどく、このことの意味。

全体的に市川染五郎のためのハムレット、であり、ある種王道なプロダクションであった。そのために他の役のシーンが弱くなっている。

ホレイショ―とレアティーズの台詞はかなりカットされており。その分ロズギルにお笑い的要素を入れていたが、いささか年を取りすぎている。ロズギルは幼馴染で同級生の設定なので、同世代の歌舞伎の若手キャスティングでもよかったのでは。

オフィーリアは可憐でビジュアルも良かったが、近年のオフィーリア演出は大きく進化しているので物足りなさもあった。

石黒さんのクローディアスは小物感があるのは味なのだが、あまり翻訳劇に合っていない。染五郎&柚香さんの二人の雰囲気からかけ離れてしまっている。どう見ても人殺しをして王位簒奪をするように見えない。せいぜい間男の臣下である。

レアティーズは最後の決闘シーンで見せ場があり、かなり殺陣を稽古したのでは。

全体バランスは悪くなかったが、個々のキャラが若干弱め。染五郎はたいへん素晴らしく。ストレートプレイの台詞まわしに苦慮しており、数回噛んではいた(これはご本人も気にされていた)。がそこの挽回もうまかった。

ハムレットは戯曲にもある通り「優しい王子」なのである。やるかどうか迷い、自己評価が低く、すぐにパニクッたり、おぼっちゃまであるが、国を憂いている。自分の血筋を理解している。だからこそ簡単に復讐にだけに走れない。根っからの王子を染五郎はどの程度、自分のイメージと重ねた瞬間があったろうか。そして祖父が同じ役をやっていた時に使用した指輪をつけながら、祖父と父の演技を想像し自分と比較しただろうか。生きるハムレットそのもの、ドキュメント的要素すらある。

ラストの演出は前出のイングマール・ベルイマン版を基にしている。最後にやってきたノルウェーの王子・フォーティンブラスがホレイショ―以外を銃殺にする。これは蜷川版でもやっており、現代の戦争の残酷さを反映している。

しかし、シェイクスピアは「新しい王がやってきて、よりよい時代が始まる」というラストにしている。今回のようなショッキングな演出はインパクトは強いが、では演劇としてどのくらい効果があるのかなとも思う。

*1:1990年のイングマール・ベルイマン演出『ハムレット』オマージュと思われる。松岡和子著『すべての季節のシェイクスピア』参照。

*2:ちくま文庫『ハムレット』P.16 松岡訳

ミッキーはまだ17だーかーらー♪〜『MICKEY17(ミッキー17)』@ヒューマントラストシネマ渋谷

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センチメンタルなジャーニーのロバート・パティンソン

な〜にかにさそわれて〜

あ〜なたにさらわれて〜

ロバート・パティンソンが見知らぬ土地でドキドキな恋と冒険の旅を続けるシュールSFコメディ(あながち間違ってない雑なあらすじ!)。

っていいかげんな気持ちで松本伊代のデビュー曲の歌詞見てたら、意外と映画の内容とリンクしてて怖い!(読み捨てられる雑誌のようなミッキー!放り出されてしまうミッキー!)

 

さて、真面目なあらすじはこちら。

ミッキー(ロバート・パティンソン)は経営してたマカロン屋がビジネスパートナーのティモ(スティーブン・ユァン)のせいで破綻。ヤバい借金取りから逃げるためにコロニー開発の宇宙船に乗りこむ。しかし彼が採用されたのは「エクスペンダブルズ」という、死ぬたびに何度もクローンとして生まれ変わる使い捨て労働者だった。

17体目のミッキーが事故で死んだと思われ18体目がコピーされたが、17も思いがけず生還し、ミッキーが2人になってしまう。

前半はミッキーがエクスペンダブルズになった経緯、宇宙船内の人間模様、17体目になるまで何度もコピーされるさまざまなパターンが映される。

ミッキーはコロニー移住の際に危険となる要素を無くすための存在なので、危険な船外活動、宇宙放射線被害度を測る実験、移住先の惑星の致死性ウイルスのためのワクチン開発などのために何度も過酷な人体実験に晒される。

「死ぬってどんな気分?」と何度も面白おかしく聞かれ、船内でも異端(クイア)な存在だが、恋人ナーシャ(ナオミ・アッキー)のおかげでなんとか耐えている。

贅沢なキャスティング

今作色々ツッコミどころはあるのだが(後述)キャスティングがとてもよい。パティンソンは「顔がよくてモテモテだが酷い目に遭う」役をやらせるとほんとにいいので、前半の冗長さも彼以外なら即駄作認定していた。ほんとになんであんなにsacrifice が似合ってしまうのか。

エリートで心優しく強い女性ナーシャを現代的に軽やかに演じるナオミ、コミカルな研究者ドロシー役のパッシー・フェランは『ファイアーブランド』でも台詞少ないながら印象的な役が記憶に新しい英国演劇界の演技派、独裁者の妻で黒幕ポジのイルファ役はトニ・コレットで存在感はつゆだくにんにくマシマシ、フェミニズム視点を担うカイ役のアナマリア・ヴァルトロメイは『あのこと』主演のフランス映画界新星。と国際色豊か、ジャンルも様々な俳優陣を揃えている。

中でもやはりマーク・ラファロの変態演技(褒めてる)は主演のパティンソンさえ霞むほど。『哀れなるものたち』での役をもっと煮詰めて濃くしたような気持ち悪さ(褒めてる)。ハーレルヤーと恍惚の顔で歌い出した時が至高。こんなラファロが見たかった!

スティーブン・ユァンも結構なクズ男役で、近年の「かわいそうなアジア人役」イメージを払拭。最初は「今回は生き残っててほしいなあ」と思っていたが、だんだん「お前な〜!」とちょいイラッとさせ、「こいつぼちぼちいなくなってもいいかも…」とさえ思わせる。しかしコミカルな憎めない感じを残すのがうまい。

ちょっと気になるツッコミどころ

その贅沢キャスティングで気になったところもあり。

トニ・コレットの顔芸はアリ・アスター監督の『ヘレディタリー』でやったやつを思い出すし、マーク・ラファロのベタついた雰囲気はそこだけヨルゴス・ランティモス監督作品な感じ。

ユァンの役はジョーダン・ピール監督『NOPE』へのアンサーと言えなくもない。

名もなき人々を蘇らせる”えいが米国昔ばなし”~『NOPE/ノープ』IMAX上映版 - je suis dans la vie

ここはまさにノーラン監督作の『TENET』じゃないかというシーンも(両作のネタバレになるので詳細は伏せます)あるし、クレール・ドゥニ監督作の『ハイ・ライフ』を思わせる雰囲気も。

パクっているというのでなくて、あえてそれを想起させようとしてるのかな?と感じた。それは面白いんだけど意図が若干分からず。現代の映画界をともに担う監督たちへのオマージュとかかな?

原作未読なので分からないとこも多いのだが、原作は『ミッキー7』でコピー回数も増やしてたりして、ポン・ジュノ独自解釈がかなりありそう。

ツッコミどころでもあるんだけどいいなと思ったのはナーシャのキャラクター設定。ナーシャはミッキーが大好き(多分面食い)で、彼が何度もコピーされてもいつも同じ愛を捧げる。それはラスト付近のミッキーの回想でほろりエピソードがあり、それも良いのだが。私はミッキー17と18の二体を見た時のナーシャの反応が大好きでして。まさかさあ〜、速攻で◯◯しよ〜ってなるとは。やっすい◯◯みたいじゃん!(ああっ伏せ字ばかりになってしまった!)

でもあれこそがこの作品を「コメディSF」たらしめてる気もする。もしこれがクリストファー・ノーランやドゥニ・ヴィルヌーヴだと重く難しくなるし、アリ・アスターは胸焼けしそう、ヨルゴス・ランティモスはシュールすぎる、ジョーダン・ピールは映像に凝りそう。

通常ならまじめに深掘りするとこを、あえて軽くしている。

ジュノは今回メジャー性、分かりやすさを重視している。それはSF作品やホラーがアカデミーの作品賞で敬遠されがちなのもあるのではないか。エブエブは作品賞取ったが、NOPEがノミネートすらスルーされたのを鑑みるに、多様性やジャンル映画は話題性や注目度に左右されることから、アプローチ方法を変えてみたのかな、と。

チャレンジした部分も見られたのだが、カイのキャラクター設定が分かりにくい部分も。カイが「ミッキーに惹かれる」くだりはその後の展開に必要ではあったが、カイの人物設定から若干ズレる。カイはレズビアン設定の方がわかりやすかったし、「女は子宮なのか」とマーシャルに歯向かうシーンの意味がさらに強くなる。事故で亡くなったジェニファーは同性の恋人だったようだし、最後も新たな女性の恋人がいた。バイセクシュアル設定でももちろん不自然とかではないのだが、ヘテロセクシュアル表現の多いメジャー映画ではどちらであろうときちんと表現してほしかった。

分かりにくいといえば、マーシャルはずっと咳をしてて、なぜなのかの回収はなかった。ラストのミッキーの夢であるといえばあるけど。マーシャルも死を恐れる存在だったので、彼が不治の病とか免疫系の病で感染症ワクチンがきかないとかになるのかとか深読みしてたけど違ったぽい。イルファのソースこだわりとか、小ネタが多いのにほったらかしか。もしかしたら神話や宗教メタファーあるのかもしれないけど。

今回とても楽しい映画でそれなりによかった面もあるのだが、ポン・ジュノらしさがあまりなかった。ポン・ジュノはドメスティックな設定の中でグローバルなものを見せようとする魔術師だと思うのだが、今回そもそも宇宙SFなので最初から広がりがある分、彼の魔法を披露するに至らなかった、というのが私の見解です。

この逆でグローバルな設定からドメスティック(あるいは内的なもの)を見せるのがうまいのがノーランやヴィルヌーブだなと。

ジュノはヌーヴェルヴァーグのSF作品とか好きそうだけど、それはメジャーとしては企画しにくいだろうしなあ。

雪の星のミッキーセブンティーン、眠る樹海を飛び越え

ここからネタバレ、与太話解釈になります。

クリーパーというダイオウグソクムシかダンゴムシみたいな宇宙生物が出てきた時に「王蟲やん」とほとんどの人が思ったであろう。

いや、さすがにまさかあんなにナウシカだと思わなかったわい。

そもそもチラシのミッキーはナウシカみたいなフライトスーツ(宇宙服)とゴーグルですよね!

移住先の惑星が致死性のウイルスに満ちてたっていうのは、腐海の毒。ミッキー17が雪の亀裂に落ちるとこは、腐海の地下イメージ。そこでクリーパーが押し上げて助けてあげるのは、ナウシカラストで王蟲がナウシカを押し上げる名シーンオマージュ。マーシャルの風貌はクロトワに見えなくもないし、イルファの残酷で狡猾な様はクシャナ感もなくはない。

吹雪のシーンは腐海の毒が蔓延してるシーン。クリーパーが子供を探して暴走するシーンはまんまだし。ミッキーがクリーパーと心通わせるのはまさにナウシカ。

巨神兵出てこないけど、ミッキーが廃棄されたりゴミ捨て場になってる焼却炉は巨神兵を作ってるとこにも似てる。深読みするとミッキーが巨神兵オマージュともいえる。巨神兵=エヴァンゲリオン(使徒)なので、クローン体のミッキーと人間の魂を宿すエヴァは同じ構造。また使徒という侵略者としてのミッキー(人間)という見方も。

チラシのたくさんいるミッキーはポニョ感もあり。

そういやミッキーの母親はミッキーのせいで(と17は思い込んでいる)亡くなっており、その罪を背負う設定なのだが、エヴァンゲリオンではシンジは母親を亡くしている。その死はシンジのせいではないが、母の死によって背負うものがある運命は似ている。本作ではキリスト教的贖罪を表現し、エヴァンゲリオンは仏教的な輪廻に近い。

もっと深読みすると、ナウシカが王蟲の暴走で倒れ(死?)、王蟲に癒されて蘇るラスト*1はキリストの復活。エヴァンゲリオンの使徒やアダムなどは仏教の弥勒菩薩の出現による救済*2。本作はキリスト教の感覚が近い。

クリーパーが「大きな声を出すと人間の脳が破壊される」というアレは、巨神兵が口から光線を出すのに似てるし。

自然破壊による地球の破滅や、新たな地を開発することとか、宮崎アニメで散々やってきたことなので、本作の元々のテーマにぴたりとハマりやすい。

で、それがオマージュだとして、なぜしたか?

これは私の勝手な考えなんですが、ユァンが出てることからジュノは『NOPE』見てるはず。とすると、あれが色んな映画のオマージュとエヴァンゲリオンやら日本の漫画オマージュしてるのに気づいてる。そんで、じゃあ自分もやってみたーい!となったのでは。

ちなみにナウシカオマージュは深田晃司監督が『LOVE LIFE』でやっており。

深淵な新年ランランララランランラン♪~『LOVE LIFE』トークショー@横浜シネマ・ジャック&ベティ - je suis dans la vie

自分が好きな作品の外枠やパーツをうまくオマージュするのは、映画ではよくあるので珍しくないのだが、今作は「どこまで観客に意識させようとしたか」が気になっている。

その他類似点のある作品など

日本の漫画なので参考にしてない可能性の方が大だが、萩尾望都の『 A-A´(エー・エーダッシュ)』はクローン体として再生される女性と、その恋人の話で、ミッキーとナーシャの話に重なる。『 A-A´』ではクローンにする時に記憶注入の際に事故があり、恋人と出会う前の記憶しかない。恋人がクローンを受けいれるか否か、というのがポイントで、クローンは果たしてもとの本人と同じと言えるのかというテセウスの船問題。

A-A’ | 萩尾望都 | 【試し読みあり】 – 小学館コミック

またベタに手塚治虫の『火の鳥』にも通じるものが。『火の鳥生命編』はクローン体の話で、人間の欲望のために雑に残酷に扱われるクローン体はミッキーそのもの。火の鳥は「永遠の命」がテーマなので、ミッキーの死生観と重なるところがある。マーシャルが「俺も死ぬのは怖い」って言ったとこはすごく大事で、あそこをラファロに言わせるためにキャスティングしたんだなーと。

『火の鳥宇宙編』では多肉植物みたいな生物がでてくるが、王蟲やクリーパー、エイリアンシリーズなどに重なる。

そういや今作で鳥の着ぐるみ着たキャラクターが出てきてなんでやねんと思ってたけど、まさか火の鳥オマージュ…⁈

火の鳥(生命編)|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL

火の鳥(宇宙編)|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL

 

 

 

*1:「そのもの青き衣をまといて〜」の予言が当たる

*2: ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。

男のつむじの効能について~PANCETTA展-Men- パフォーマンス@渋谷ヒカリエ8/CUBE

www.pancettapancetta.com

2013年から活動を続けるパフォーマンスユニットPANCETTA(パンチェッタ)の軌跡をたどる展覧会。

PANCETTAは初めてでしたが、演劇集団円の玉置祐也さんがパフォーマンスに客演されるので見に行きました。

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PANCETTA展  — Men —

少し早めに行き、予約していたチケットの支払いをするとロゴマーク「P」のシールを渡される。チケット代わりのそれを自分の服のどこかに見えるように張るとの事。展示場を動きながらのパフォーマンスのため、他の一般来場の方との区別のためのよう。

時間があったので、展示を拝見。三つの小部屋を展示場にしている。「側面」とされる一番左が受付があり、ユニットや展覧会の趣旨を説明するパネル、グッズ売り場、真ん中に大き目のテーブルがあり、ここではワークショップをしたりするよう。来場者が作った色とりどりの立方体には何か言葉が記されている。奥には大き目の立方体が三つ置いてある。

「裏面」とされた真ん中の展示室には、第1回公演よりメインビジュアルの絵画を提供してきた松本亮平の過去絵画作品、台本の台詞などが記された紙が壁一面に張られていた。パフォーマンスの時は外されていたが、真ん中に大きな脚立と台車が展示什器として置かれていた。

「表面」とされる一番右の部屋は公演のポスターや写真、ユニットの歴史など。真ん中に大きな立方体があり、その上に小さな立方体が高く積み上げられていた。

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回遊型の新作パフォーマンス“Men”

脚本、演出 一宮周平
出演 佐藤竜、玉置祐也、一宮周平、加藤亜祐美(ピアノ)

会場の外では出演者の方が気さくに来場者に声をかける。「よかったらこの後パフォーマンス見て行ってください」と言われたので、シールを見せ「これから見ます」とお伝えする。

時間近くになると受付のある「側面」の部屋で観客が集まる。「3つの部屋を移動しながらパフォーマンスをします。狭いので見やすいところに移動して、壁に寄りかからないよう、写真はOK、動画は少しなら、電話は遠慮してください」などなど観劇の際の簡単な説明。

部屋を出て、「表面」の前で並ぶ。そうすると主宰の一宮周平さんが先頭の人に聞く。

「お好みは?」

先頭の人はいきなりだったので、分からずなんと答えればいいか言いよどむが「なんでもいいんですよ」と優しく促され答える。その質問は観客全員にされ「かためで」「面白く」「楽しく」「激しく」などなどいろいろな形容詞が出る。この回は人数も多く、若い人が多かったが、わりとみなさん柔軟でノリがよく、最初から和やかだった。演劇を見ることや参加することに慣れている人が多いのかなと感じた。ちなみにこの「お好み」がどの程度パフォーマンスに反映されたかは分からないが、観客は見るだけでなく「参加」しているというエクスキューズだったと思われる。

中に入ると、音楽の加藤さんによる演奏が始まり、三人の男性演者が歌い踊る。観客は狭い部屋で演者と近距離。さしずめ観客は地下アイドルを応援するファンの体だった。しょっぱなで驚いたが、一気に盛り上げ歌と踊りで楽しませる。この時に佐藤さんがグータッチを求めてきたので、ついノリでやってしまったら、ノリのいいひとだと思われたらしくちょこちょこいじられることに(笑)。

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「裏面」に移動する。ここではショートコント的な演劇。

最初の設定は「免許」がなければ何もできない世界。男たちが自分が持っている免許によって役割が変わり、力関係も移動するように変化する。

次に男三人がコンパで会った女性の見定めをする会話。男の力関係の構図。そのシチュエーションのままゆるやかに、威圧的な父(佐藤)と気弱な息子(一宮)とそれにとまどう母(玉置)のエチュードへと変わる。佐藤さんはどのシチュエーションでもたいてい父親や上に立つ男性、玉置さんは従属する妻か男におもねる人のポジション、一宮さんは強い男性の対極にいる役柄を演じることが多い。

他にも「未来の世界で男性が過去の生物として展示されている」設定や、「バイトの面接でいろんなキャラに変化する」など、エチュードをその場で見ているようなパフォーマンスがいくつかあり、軽く楽しめた。

ラストは「表面」へ移動。観客も交えて、パントマイムで立方体を作成する。部屋の真ん中に作られた大きな見えない立方体。それを「自分たちが得ることのできない子供」として慈しむカップル(佐藤、玉置)。ここは少し長めな話で、ハートフルなラストになっていた。

有害な男らしさとつむじの効能

どの会話も「有害な男らしさ=Toxic masculinity(トクシック・マスキュリニティ)」をベースにした「ミソジニー(女性蔑視、嫌悪)」、「男尊女卑」、「DVやモラハラ」、「定められた役割(主に男として)」、「男性社会の歪み」などをテーマに潜ませている。

会話の部分はあくまで演劇的だが、演者と観客の距離が近いため、強めな台詞の際は緊張する瞬間もあった。佐藤さんは特に体も大きく、声も少し圧があるようにしていたので、観客にその強い雰囲気をどの程度見せるかというのは難しかったと思う。佐藤さんは「古くからの男らしさ(表面)」の象徴の役割で、そこを中性的な役割を担う玉置さん(側面)、一宮さんの佐藤さんとは対称になる「男の弱さ(あるいは素としての裏面)」の役割と全体を進める俯瞰のポジションとなり、そのバランスがよく安心してテーマを見届けられた。

フェミニズム、コンプライアンス、多様性、LGBTQという言葉が一般に周知されるようになってはきたが、果たしてどの程度の人が本質を理解しているだろうか。なぜ声高にこれらが主張されてきたか、それはやはり男性優位社会の歪みが飽和状態になり、どうしようもないとこまできているからだ。諸悪の根源は家父長制だが、そこに男たちが築き上げてしまった「男らしさ」という言葉の鎧。女性だけでなく男性側ですらその歪みの被害者となっている事実。そこに男性のクリエイターが当事者として見つめ、なおかつ分かりやすい形で、誰にでも理解できるように受け止めやすいように表現したのはたいへんよかったと思う。

普段はどうしてもこの問題は女性側からしか聞こえてこず、男性側は自分の立場を顧みたくないのか男同士の同調圧力のためなのか押し黙っている。何かしら意見が出たとしても頓珍漢なずれた表現しかない。今作は男性寄りな目線にならないように、なおかつ男性批判だけに留まらないよう注意されていたように感じた。

そして今回、「男らしさ」というめんどくさくて醜い面を和らげているのは、観客が立って見ていることだなと思った。

というのも、演者と観客が小さな部屋にいると、距離は近いがどうしても見えない場所が出てくる。私は背が低いので、できるだけ見やすい位置に移動したが、それでも演者の誰かの背中を見ることがあった。演者が座っていると、見下ろす位置だと表情がまったく見えない。

その時見えるのは演者の「つむじ」である。

佐藤さんは背が大きいので立っている時はあまり見えなかったが、一宮さんと玉置さんは小柄なので、立っていてもそのつむじに何度か対面した。特に一宮さんは、お年頃の男性が地団駄踏んでうらやむほどのふさふさの髪で、その中にきれいに小さくあるそれはなんとも無防備で、かわいらしささえ感じた。

なんでいきなり「つむじ」?かというと、くらもちふさこの『A-Girl』の中で、好きな男の子のつむじについてのくだりが出てくるからだ。

www.shueisha.co.jp

主人公は可愛くて優しい女の子だが、男を見る目がない。最終的にかっこいい男の子とハッピーエンドになるが(少女漫画なので)、彼はモテすぎるのでいつも不安だ。そんな時に「彼のつむじ」を見ると、その無防備な弱点を見ることで自信を取り戻す。

読んだときからずっとなんでつむじ?と思ってたのだが、これはなんでもいいのだと思う。喉仏でもアキレス腱でも、鼻毛が一本出てるとか、靴下に穴が開いてるとか、寝顔が間抜けとか。少女漫画ではこの「自分しか知らない面」というのは、シスジェンダーでの恋愛関係における一側面しかないが、これは男女間でなくとも、人間関係でなくともあてはめられることだと気づいた。

今回の公演では、演者をいろいろな角度から見たことで、より多くの情報を選び受け取ることが観客側にもできた。それはテーマの「面」にも通じる。

今回は演者のつむじを見ていると、その無防備さと、普段は見ることのない場所を見せてくれていることの不思議な安堵感、親近感があった。いつもと違った面で見ること、その効能について、つむじで気づいたという次第である。

ラストのカップルの話では、玉置さんは少し女性的に演じていたが、彼らが男女であるとはひとことも言っていない。男同士かもしれないし、佐藤さんが女性役かもしれない、性別はないのかもしれない。なぜ彼らが子供を持てなかったのか、もつための方法についても言及していない。子供を持つ、家族をつくる、ということが未来にどうなっているのか、という想像をふくらませてもいいようなラストになっていた。自由に楽しみ、そして考えることを広げさせるような体験だった。

起きてしまったことは取り返しがつかない~G.GARAGE///『ジュリアス・シーザー』@Hall Mixa池袋

招かれた市民となって

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Hall Mixaは初めて。もとは映画館ということで、ミニシアターのような配置。座席は若干舞台を見上げる形で、椅子にドリンクホルダーがついている。

会場入り口付近の窓口ではシーザーが愛飲したという蜂蜜酒「ミード」を衣装姿の俳優が販売し、また他の俳優はやはり衣装姿で場内案内をしている。この日は客演の新宿梁山泊所属の二條正士さん(ディーシアス/ピンダラス役)が主に担当されており、席案内、観劇の注意などをされていた。地下のさほど広くない会場をローマの広場に、観客を市民に見立てて芝居の中へ招き入れる。よくある演出手法ではあるが、今回の小さめのキャパの会場には合っていた。

二條さんは紫テントの『リチャード三世』でも案内係をされていたが、よく通る声は大きいがうるさくはなく、シャープな響きを持つが耳にするりと入る。「てらいがない」という美徳の声。(ところで注意案内の時に「スマホ」はローマ時代にないので、その単語は言わないようにしてたので面白いなと思ってたら、「映画館」もなかったはずなのにそれは言っていた。)

シンプルだが統一された世界観

ブルータス(河内大和)を中心としたローマの武人たちの衣装のベースは白。紙のような素材。それぞれ少しずつデザインが違うが、イメージは和服。上はシャツの形か和服の合わせの形、下はニッカボッカか袴の形。その上に裃のような羽織をまとう。それぞれどこかしらに赤色のポイントがある。腰ひも、ボウタイ、腕輪、スカーフ、リボン。

また舞台も白い。白い床と真ん中に置かれた白い平台。そして真っ白な背景に、一筋の赤い血のような糸がたれている。小道具も赤を使う。すべて白い世界の中で、赤は流された血のイメージか、これから起こる惨劇の予兆なのか。

ただしジュリアス・シーザー(工藤俊作)だけは、銀色の豪奢な羽織をつけており、アントニー(真以美)もまた内側に同じような銀色の模様が見える。

紙のような素材なので、うっすらと皺や凹凸がある。白だが決してその表面は滑らかでも光沢があるわけでもない。白は高潔で穢れがない、という一般イメージを逆手に取ったとも思えた。よく見ればしわくちゃで破けてしまいそうな白い紙の世界は、まるで人の心のようではないか。『ジュリアス・シーザー』の陰謀と疑惑の渦に巻き込まれ、扇動に動かされる人の心。

また紙のような素材は、一度くしゃくしゃにしてしまうと戻らない、というイメージも芝居のテーマに合っていた。

後半はアントニーは赤いドレスのような衣装、オクタヴィア(土屋神葉)は青、と白い世界から脱出する。

ルーシアス(エミ・エレオノーラ)と占い師(のぐち和美)だけは黒い服で、黒子や狂言回しのポジション。

高潔な魂を凌駕する魅力的な声

この芝居の見どころはやはり「高潔で善良な世界を信じた愚かなブルータス」と「賢く野心家で求心力のある魅力的なアントニー」の演説シーン。

主宰で看板俳優である河内大和さんのブルータスは、漢気あふれる義理人情に厚い繊細なブルータス。対して看板女優である真以美さん演じるアントニーは、大きな声で人を引き付けるのではなく、うわさばなしのように耳元に吹き込む。その声音は落ち着きがあり、ブルータスのそれより魅力的に誘うスタイル。

以前、さい芸の勉強会の一部がYouTubeで公開された時に、河合祥一郎先生がブルータスとアントニーの演説の違いについて話されていた。以下概略。

  1. ブルータスの演説はシェイクスピアの創作(散文)だが、アントニーの方はプルタークの『英雄伝』*1にある(ブランクヴァース)。
  2. ブルータスの方が語数が多いが、アントニーの方が民衆の心をつかんだ.(理由は次に)。
  3. 民衆への呼びかけの違い。両方とも「友よ」と語りかけているが、ブルータスは最後に言っているので弱い。
    ブルータス:”Romans, countrymen, and lovers! ”(→lovers=friends)
    アントニー:"Friends, Romans, countrymen, lend me your ears"
  4. ブルータスは説得する口調で、民衆は落ち着いて聞く感じになり、血は騒がない。アントニーはリズムで効果を出し、盛り上げることで民衆を引き込む。観客をのらせる「演劇的手法」。

共和制を維持したい、国を守りたいというブルータスの高潔な考えはたいへん正しい。しかし、人の心を動かすのは信念や情がなくとも、魅力的な人物の魅惑的な「声」。

観客は市民ではあるが、ブルータスがどう悩み、決意し、信念のために行動したか知っている。それが河内さんであれば、観客はなおさら共感を持つ。が、真以美さんの魅力的なまなざし、小動物のような愛らしさは、よくある「血気盛んで求心力だけはある若者」のパワーというよりは、人は時に正しくはないが魅力的な人に吸い寄せられるという事象をまさに舞台でやってのけた。

これは河内さんはもちろんだが、真以美さんのシェイクスピアの読み込みの多さ、深さ、強さたる所以だと思う。それは女性だからではない。もちろん性別による効果は否定しないが、今回は圧倒的に戯曲の理解度が反映されていた。

特に今回鈴木彰紀さんがいなかったので、主要ポジションで絶対的安定感のあるのが河内さんと真以美さんに集中したため、今作では逆によかったかもしれない。

その他の演出

魅力的な声、といえばやはり二條さんもよい存在感であった。レギュラーメンバーは河内さんとのコンビネーションはよいが、河内さんの世界観や存在感がはっきりしているがゆえに、俳優のイメージがそれと同一化してきたので、客演によるコントラストはひとつのキーとなっている。今後劇団として活動していくそうだが、客演も変わらず様々な方を招いてほしい。

ルーシアス役のエミ・エレオノーラさんの暗示的な歌は、ローマを舞台にした人々の変わらない願いを響かせる。「自由」という言葉は、このローマの時代を抜けて、フランス革命へとつながる。政治劇として、露骨に今の時代につなげるような演出はなかったが、エミさんの歌が時代を超えた悲しきテーマのように耳に残る。我々民衆も、高潔なる人も、自由という心の平安を求めているだけなのに。

キャシアス(荻野崇)とブルータスの関係性は友情、より強いブロマンス的表現もあるが、今回はちょっとベタな「おまえとおーれーとーはどうきのさーくらー」みたいなバンカラな雰囲気だった。G.GARAGE///は「シェイクスピア道」という和的イメージなので、武士道をイメージのひとつとしているのだと思う。ただその面をことさら型にはめて、これ以上に男くささばかりを強調すると、安っぽく感じるきらいもあるなと思った。いわゆる分かりやすい「男くさい=かっこいい」系は、すでにLDH系とかクローズZEROみたいにコンテンツ化してしまって手垢がついてるので、できればブルータスのように上品で高潔なイメージは維持してほしいところだ。その意味でも真以美さんの存在はたいへん大きい。女性だからということではなく、フラットな目線でのシェイクスピアへの理解度が高いからだ。もちろんできれば所属俳優の女性の比率も同程度あった方が面白いとは思うが、そういう方向ではなさそうだなとも感じた。

覆水盆に返らず

高潔な魂で、信念を持って愛する尊敬するリーダーをブルータスは殺める。悩み、友を信じ、赦し、包み込むほどの懐の深さがあるブルータス。アントニーに隙を見せてしまう、つめの甘い政治家。

正しいことが良きことではなく、価値観も状況もたえまなく変化する。それはいにしえの世から変わらない。

時は進み続けて、戻ることはない。起こってしまったことは取り返しがつかないのだ。

後悔、反省、開き直り、悲しみ、時に狂う。人の世のなんと無常なことか。

しかし勝って権力を握ったアントニーが、この後どうなったか観客は知っている。彼もまた、取り返しのつかない人生を歩んでいる。

余談:お前もかは先か後か

「お前もか、ブルータス」なのか「ブルータス、お前もか」、どっちなの問題。

原作戯曲では

”Et tu, Brute! ”

Et tu はラテン語、英語では"And you” の意味なので、「お前もか、ブルータス」が正しい。

なんか日本では「ブルータス、お前もか」が主流で、CMかなんかで使われてみな知ってるイメージ。ジュリアス・シーザー知らなくてもこの台詞だけは知ってるという人多いですよね。ちなみに私はパタリロのギャグで使われて初めて知ったくちです。

 

*1:ローマ帝国のギリシャ人の著述家プルタルコス (プルタークは英語名)が書いた古代ギリシア・ローマの著名な人物の伝記。