je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

『未練の幽霊と怪物ー「挫波」「敦賀」』KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ

岡田利規 作・演出

本来ならば、2020年に6月に上演されていた演目。コロナ禍で中止となり、リモートで制作し映像として発表されている(こちらは未見)。満を持しての劇場での上演である。

ちなみに観劇したのは2021年6月、コロナ禍開催が物議を醸しまくっていたオリンピック直前である。これを書いているのは8月、オリンピックはとうに終わり、パラリンピック開催中。書かなかったのは私の勝手な都合だが、色々過ぎてから思い返してみれば、不思議と色々な線が見えてきてならない。

 

能の表現形式を借りた上演。セットはほぼなく舞台は低い平土間、能舞台と同じくメインは正方形で、下手に続く橋掛かりの道。美術はバミリのようなテープ、橋掛かり横に小さなカラーコーンのような照明。

全体照明は白色で明るく、終始変わらなかった。パンフ内で美術の中山英之さんによれば、照明にも工夫があったようなのでちゃんと見ておけばと後悔。イギリスのグローブ座内から見上げた丸い空(グローブ座は円形の野外劇場で上から見るとOの文字に見える)をイメージしているということだ。照明に強調された演出を施さないという演出。そういう意味では不自然な自然、とでも言おうか、照明によって印象を変えられたシーンは全くなかった。終始舞台全体を照らす白色の照明は、どこにも影ができにくいくらいはっきりと演者を見せており、見やすかった。これは中山さんが建築家というのもあるのだろうか。劇場という建築の中で、ホールという限られた空間のイメージの捉え方が生理的である。舞台は非現実であるけれど、現実との境のない空間を作る。という意味では建築は限りなく舞台に近い。

演奏者(囃子)はメインの平土間の奥に並ぶ。反して歌手(謡)の七尾旅人さんは舞台上ではなく上手の端にいる。機材や音響の都合もあるのだろうが、歌手が俳優と同じ舞台に乗らないことでより歌の存在感が重要になる。俳優が演じ踊る間、ずっと声が響き、声だけが一体化する。

音楽監督で演奏もしていた内橋和久さんの、ダクソフォンという楽器がこれまた印象的。打楽器のようで、弦楽器のようで。音が動物や自然の音のように感じるので、これ楽器?なんの音?と時折思いつつも、違和感はなく。七尾さんとのセッションなのか、計算されている演奏なのか、分からない感じも、曖昧でふわふわした感覚が心地よかった。

 

シテは石橋静河さん、ワキは栗原類さん、アイは片桐はいりさん。

栗原さん演じる旅行者が下手から出てきた時、ランウエイじゃんと思ったのは私だけではあるまい。ご本人にしたら俳優として出てるので、褒め言葉ではないかもしれないが、何をしたわけでもないのに一瞬パッと目を引く出方は武器だと思う。服の着こなしが一番ハマってて、衣装じゃない感じ。普段から着てます、私おしゃれな旅行者なんです感。ましてや設定がもんじゅのある白木地区に来た旅行者、謡の説明があれど言わなくても「よそもの」感がばっちり。その後に地元の人役の片桐さんに「(よその人は)こういうことが分かってないんだよね」と拒否されるくだりでの、どう反応したらと佇む感じ。あまり動きも表情の変化もないのだが、ただ「いる」ということが能のワキとしては最高なんでは。そしてしつこいようだが衣装の着こなしが最高。

石橋さんは旅行者と接する波打ち際の謎の女。彼女は自分の子供のようにもんじゅを嘆く。そして後シテでは「核燃料リサイクル政策の亡霊」として舞う。リサイクルとしての回転もあるのだろうが、もんじゅ本体としても受け取れるような、淡々とした無機質な軸回転。ここはバレエを基礎としている石橋さんの体幹の強さに感嘆。悲しみや未練を言葉として発する「女」と、無機質な動きの「怪物」との対比。体のラインを拾わない衣装は、動きに沿うことも翻ることもあまりないが、むしろその無機質性や踊りの特質に合っていた。

片桐さんは表情も台詞も動きも他より一際大きく、じわじわと間を詰めて、空気を切り裂くように物語を仕切る。出ている時間はワキの半分もないかもしれないが、坐波の方にも出ており、都度発するエネルギーが半端ない。

坐波でワキをつとめた太田真吾さんが、パンフでまさに白木地区を訪ねた話を書いている。2020年の本作上演前に白木地区へ取材へ行き、その最中に延期決定を聞く。からの更なる各地への取材(感染予防は徹底されている)は読み応えがあった。表題の「観光客に何が可能か?」は「演劇に何が可能か?」に置き換えることもできる。豊岡市の「演劇におけるまちづくり」での住民と外部から来た演劇人との温度差についても、実際に現場へ旅した演劇人の目線であり、複雑な「観光客」的な目線が混在していた。政治家と演劇人と、地元に寄り添っているのは果たしてどちらなのか。メディアの表面的な取材だけでは見えてこない部分はあるだろう。このあたりの問題は演劇のみならず、地方のアート系イベントにも通じる。活動に意義はあるだろう、効果もあるだろう、しかし弊害も生まれ、それが育てば「怪物」になる可能性もある。奇しくもこれを書いている数日前に2021豊岡演劇祭は中止となった。

(参考記事)

兵庫・豊岡で市長交代 どうなる演劇のまちづくり: 日本経済新聞

「オリザ氏のせいで市民活動が妨げられた」は事実誤認、豊岡市長が発言訂正|総合|神戸新聞NEXT

ところで、白木地区でのエピソードは本作に通じているので、何故敦賀のワキが太田さんでなかったのか謎ではある。

 

・「挫波」

シテは森山未來さん、ワキは太田信吾さん、アイは片桐はいりさん。

森山未來について書かねばなるまい。オリンピックの開会式の森山未來、挫波の森山未來、これは地続きになっている。

最初のシテは日本の建築家。建築中の新しい国立競技場について旅行者に語る。コンペで圧倒的支持を得ながら、政治的な思惑から反故になったあのザハ・ハディドの建築プランのことだ。

圧巻は後シテで、その「実現しなかった建築」の思念を体現化したような舞であった。おそらくはザハの怨念と捉えた向きも多かったと思うが、パンフ内で美術の中山さんが「ザハはそんなことは思わない」というアドバイスもあり、変更したとの事。確かに人というよりは、化け物という動きで、明らかにこの世のものではない。無機質な敦賀の後シテとは対照的であった。石橋さんのベースがクラシックバレエである事と、森山さんのルーツがジャズやタップと多岐に渡るという違いもあるのか。はいつくばりうねる体、緩やかに体を覆う衣装から見える四肢は思ってもない方向に捻れているように見える。春先にシンエヴァ見ていたので、これはビースト化したエヴァ…!などふざけたことも考えていたが、そのくらいやばいものを見た感覚があった。舞台という結界に封じ込められた魔物であった。

これを見たときはコロナ禍でのオリンピックの是非が論議され、開会式のあれこれはまだだったように思う。この踊りこそ象徴的で開会式にふさわしい、しかしあまりに批判的に取られるから無理かななどと思っていたら、あの開会式である。開会式の踊りは1972年のミュンヘンオリンピック中に殺害されたイスラエル選手への追悼だが、鎮魂や慰霊という意味では共通している。

元々のMIKIKOさん案からキャスティングされてた経緯もあるが、森山さんがインスタでMIKIKOさんのみならず、小林さんや岡田さんにも言及しているところを見ると、挫波の舞を念頭にあってのこの開会式であったのは明々白々。実現しなかったザハ建築と、延期された2020年のオリンピックとそれに付随するトラブルによって消えたクリエイターたちの無念がここでつながる。ザハ建築の怨念を体現した森山未來が、それに成り代わったデザインの建築物で踊るというのはなんたる皮肉、と思っていたが、終わってみればこれほどしっくりくることもない。

この踊りを見たのよ、生で見たのよ、とどこへとはなく誇りたい気持ちにすらなった。開会式が無観客であったこともあり、森山未來の一世一代の鎮魂の舞、それは神奈川の大きくはない舞台上では観客に見届けられ浄化された。

ところで上記で美術はグローブ座のOの形を参考にしていると記したが、新国立競技場は屋根がなく上から見るとゼロに見える。似たような形の空が見える舞台で、森山未來が踊ったというのも面白い因縁である。

太田さんは旅行者で建築中の新国立競技場を見ている。ジョギングでもするようなスポーツウエアで、時折足をストレッチのようにひねったり伸ばしたりする。ゆるゆるとした動作は気にはならないが、時間の経過を緩やかにする。催眠術の小道具のようだ。栗原さんのワキとはまた違う存在感。栗原さんのワキが瞬間で時空を止める「静」のワキなら、太田さんのそれは緩やかに動く「動」のワキだった。

パンフでワキは「美容室の鏡」という喩えがあり、観客はシテをワキを通じて見ている。その構造は意識して感じるものではないが、栗原さんと太田さんを見ていると、彼らがいることでワンクッションあり、こちらは得体の知れない怪物を安心して受け入れることができる。

片桐さんはここでも近所に住む人間のリアルな言葉を吐き出す象徴的な「人間」を演じる。謡の歌とは違う、話す言葉は言霊のように蠢いてこちらを刺激する。個々の声というよりは、どこかでネットで聞いた噂話のようで、受け止めたワキのそばで残る。それを後シテで浄化される一連の流れは儀式だ。

福島の原発にも通じる話ではあるが、今までの鎮魂の表現に比べて違うのは、それにまつわるすべて、未練の怪物を引き起こしたそもそもの原因を包括して、なんもかんも成仏させようというパワーを感じた。もちろん批判的視点はしっかりあれど、では批判対象を批判するだけで終わりでいいのか、という視点もある。そしてそこに観客も巻き込んで、ひいては森山未來の開会式に至るまで、メタ的創作ではとさえ思った。この話は延々と続くのかもしれない。石橋さんがぐるぐると待ったもんじゅの回転のように、私たちも結局はいろいろなシステムの一部分でしかない。

劇場を出た後に、横浜スタジアムの横を通った。オリンピックで野球の会場に使用されるので、その準備をしていた。中は見えず高いフェンスに囲まれているハマスタ

 

(余談)
そういえば、私は国立競技場にほど近い高校に通っており、体育祭も国立競技場でやったりしたし、大学時代にはサッカーの試合の時の売店のバイトをしていた。旧国立競技場がなくなるのはちょっと寂しい気もしたが、ザハ建築はわりと楽しみにしていた(そういう意味で言うと旧国立競技場の未練というのもあるな)。今作の舞台美術の中山英之さんは、ザハに憧れて建築家になったという熱いザハ推しなのだが、この方も国立競技場近辺の高校に通っていたらしい。ネット記事でインタビュー読んでたら、なんかこの人同じ学校なのでは…と思われるエピソードがちょいちょいあった。

 

 

『虹む街』KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ

作・演出 タニノクロウ

神奈川芸術劇場プロデュース。長塚圭史芸術監督がいよいよ本格始動したKAAT。

野毛の飲食店街が舞台である、安藤玉恵さんが出演というチラシ情報で気にはなっていて、友人のおすすめもあり。

インスタライブでタニノさんと長塚さんのトークを見たりはしたけど、横浜市民が演者として参加してるとかゆるめの情報だけで観劇。若いおしゃれな雰囲気の男性が多かったり、客席もいつもと違う雰囲気。

舞台は野毛をモデルにした飲食店街のコインランドリーに集う、近辺で生活する人たちの一日。セットは中心にコインランドリー、右は中華料理屋、インドレストラン、左にルビィという店名のスナック、小さなタバコ屋、左端はシャッターの閉まった店。コインランドリーの上はフィリピンパブ。他にも風俗店や飲食店のネオン。全ての店名が変換間違いのような、異国で見る間違った日本語のような、はたまた新しい言語のような綴りになっている。

ずっと舞台にいるのはおそらくは風俗店の店員らしき男。男はずっとピンクとブルーの洗濯済みのタオルを丁寧に畳み続ける。彼は話さないけれど、そこにやってくる近隣の人々の動作や言葉を眺め、時に反応し、優しく受け入れる。

台詞は少ない。というかない。そして話される言葉は外国語が多い。

中華料理屋の母と幼い娘が店にくるシーン。娘はずっと「ウオシャンヤンゴウ!ウオシャンヤンゴウ!」と叫ぶ。母親はなだめ諭しているようだ。「我想养狗」(犬を飼いたい)だなと気づいた時に、娘が「犬がほしい」と日本語で話す。観客への補足のようでもあるが、娘は日本の地元の学校に通っていて日本語での会話も多いのかもと想像する。母親は一貫して中国語で「ちゃんと勉強したら飼ってもいい、宿題をしろ」というような事を話し、店に戻ると娘はカウンターでずっと勉強していた。

インドレストランの男二人は使用してる言語はヒンディー語のようだが、片方が時々英語を交えてたので、もしかしたら兄弟ではなく出身コミュニティーが違うのかもしれない。兄弟のようで友達なのか。天気をやけに気にして、店を閉めてビールを飲んだり、歌ったり、ゲームしたり自由な国民性。

英語と中国語は分かるのでつい脳内翻訳してしまうのだが、これは意味が分からない方が楽しめるかも、と思い訳すのをやめた。結果それでよかったように思う。全部分かればそれはそれでストーリーがもっと論理的につながるかもしれないが、街の中での喧騒は意味をなさないようにこの芝居を流れる景色のように見て感じる。会場と一体化したセットからして、そういう作りなのだと、すぐに気づかせる。

その中で一番日本語のセリフの多い安藤玉恵さん演じるコインランドリーの店主。足が悪く、どことなく卑屈な雰囲気で、食べてばかりで意地汚い女。かといってストーリーテラーなわけでもない。言葉ではないところで他との関係を示す難しさ。

それをサポートしているのがタオルを畳む男であり、女に餃子を分け与えるフィリピンパブの店長である。女を中心とするなら、男二人は他の点をつなげる支点、もしくは結び目のようだ。男二人は日本語話者であるというのは何となく示される。言葉は重要ではない、が捕捉ツールになる。

そういえば結び目というと、男が雨漏りの応急措置でタオルを結んでつなげて、女がやらなくていいと言う印象的なシーンがあった(結んだタオルは残される)。少ないセリフと動きとセットがうまくリンクする、そんな場面が自然に配置されていた。

 

言葉を言葉として意識しない、とはいえ残る言葉もいくつか。中華料理屋の女が太極拳を教えるとき「ヨウラン」という言葉を幾度か言う。これは「揺籠(ヨウラン)」という中国語で、名詞なのだがここでは動詞的に使っている。中国在住時のヨガの先生が太極拳も教えている人で、ゆっくりした動作を教えるときにこの言葉を多用していた。子供を抱いてゆっくりゆりかごのように揺らすような仕草。言葉がわからずとも、動作と雰囲気で和むシーン。

フィリピンパブの店長が餃子をテイクアウトところは「チャオズ」しか言わない。餃子の発音はジャオズなので、チャオズと発音したのはそう聞こえているのか、中華料理屋の女の出身地方の発音がそうなのかもしれない。他の中国語は解してないように見える。いつも頼むから、よく使う言葉だけ覚えた感じだ。インドレストランの男らと賭け事をしている時も言葉少なだが通じ合っている。賭けという共通言語の中で、お金や大事な部分だけ確認している。

フィリピンパブの女性たちが店長に歌を歌い、感謝をするシーン。ここも一人日本語が他よりできる女性がいて、店長に何かを話している。タガログ語と英語と日本語のチャンポンは、彼らのドラマを具体的には示さないが、店長が涙ぐむまでの流れは秀逸だった。2階のフィリピンパブは店員の影しか映らないのだが、最初はただ楽しそうに歌い踊る風俗店の音が、店長とのやりとりを経てより情感ある影と音になる。パブの女が踊る相手は店長なのか。彼らの歌や声が明るければ明るいだけ、その影も濃くなるように見える。

 

スナックのママと常連の女、ラジオ好きの愚痴っぽいタバコ屋の男、雨の中プラカードを持ってただ立っているだけの男。いつものようにコインランドリーに寄り、最後の日をいつものように過ごす。洗濯物を同じ洗濯機にぽいぽい入れていくのはどうなのかと思ったが、最後にそれぞれの洗濯物を引き取って行くところでこれもまた比喩なのだと気づく。

 

明日から男はどこか別のところでタオルを畳む、フィリピンパブの店長は餃子を女に分け与えることはない、中華料理屋の娘は犬を飼うかもしれない。雨が降ってもプラカードの男にレインコートはないかもしれない、ラジオの男はどこで愚痴を言うのか。結び目もほどけて、点が少し減って線がなくなる。つながり続けるところと、離れるところ。少しだけ変わる、そんなに変わらないかもしれない日常。

KAATの近くに中華街があるのだが、コロナ前は道に観光客がいっぱいで先が見えないほどだった。ハマスタで試合がある日は野毛の飲み屋街はブルーのユニフォームでごった返す。ビールの匂い、シウマイの蒸した香り、海風と潮の香り。

タニノクロウさんが実際に横浜近辺をリサーチして、あくまで架空の街ではあるけれど、どこかで見た日本の繁華街の、外国人が多くいる街角がうまく再現できていると思った。

海外に住んでいた時、もしくは海外旅行をした時、国ごととか宗教でお店の場所は区切られ離れていることが多いように思う。生活圏の住居と職場が隣接しているパターンが多いからだろうし、言語的なことや宗教的な理由もあるだろう。人種間や宗教の争いを避けるためもある。コミュニティーができれば自然と区切られる。日本の場合、その辺はいいかげんで、タイもインドもパキスタンも一緒になってたりする。小さな駅の飲食店街に中華と韓国料理と和食とイタリアンが同じ軒先に並んでいる。日本ならではかもしれない。

横浜近辺、黄金町あたりなどのカオスな、都内の渋谷や新宿辺りの喧騒とはまた違う雰囲気もよく出ていた。

日本語話者が日本人だという事を示すこともない。男も女も店長も、タバコ屋の男も、もしかしたら違う国の出身かもしれない。言わなくてもいい、言いたくないのかもしれない。それも全部包んでいる街と店の感じがリアルな日本のようで、理想郷のようでもある。

これだけ人種や言語や宗教がごった煮で、イデオロギーを絡めてないのも上手いなと思った。あえて排除したというのではなく、市井の人たちの日常生活の見えるとこだけを表現したらこうなる。それでも薄っぺらくないのはリサーチの綿密さと、実際に市民と交流してきちんと見たからだと分かる。

終演後セットを近くで見られて撮影も。以前は奥まで見られたそうだがコロナ対策もあり残念。それでもとても良い体験。

チラシを見直してたら「劇場(KAAT)へ、旅をしに行こう。」の惹句が。まさにまさに。こんな時だからこそ、異国情緒あふれる横浜の劇場へどうぞ。

 

どうでもいい話なのだが、フィリピンパブの店長役の緒方晋さんの見るからに「雇われバーのマスター」感すごい(実際はフィリピンパブの店長だが)。すぐにマスターだなって。中日ドラゴンズの阿部選手っていう人のあだ名がマスターなんだけど、その人にすごい似てて。阿部選手は野球のユニフォーム着てるのにマスターって言われてるから、服装とかじゃないんだと思う。緒方さんもペニノで「ダークマスター」を演じていたというのもあるのかもしれないけど、何着てても「雇われマスター」のジャンルの人っているよねー。

ウンゲツィーファ UL(ウルトラライト)演劇公演『トルアキ』@図鑑house

“持ち運び式演劇プロジェクト”と不思議な惹句。

ウンゲツィーファについては2019年頃、TLで目にして気になっていた。「江古田近辺の民家の中で行われる演劇。役者はそこに住む人として演じ、客は間近でそれを見る」という上演形態。観客は透明人間のような感じなのか。その上、その劇場となる「民家」の場所は観劇を申し込んだ人のみに知らされるという小さくも甘い排他感は、お好きな人は俄然食指が動くのではと思う。

江古田に母校があるという近しさもあって、見に行ってみたかったのだが、今住んでる所からはいくらか遠いことと、なかなかスケジュールが合わずそのうち。と思っていたらコロナ禍である。

そしてたまたまやはりTLで今回の上演を知る。何でかは分からないが、こういうのは縁である。しかも上演場所はうちからそこそこ近い。観にいかなくては、と詳細はさておきチケットを申し込んだ。

 

今回も南林間のとある場所、とだけで場所の詳細は非公開。上演前々日に場所の詳細がメールされる。図鑑houseという名前だが、この段階で詳細ははっきりしない。注意書きも色々あり「客席なし、屋外なのでアウトドア用の椅子など持ち込み可」「雨天決行のため雨具も必要」「日焼け注意」などなど、完全にキャンプに行く体である。

ちょうどモンベルのポイントが溜まっていたので、アウトドア用の軽量の椅子を前日に購入。雨の日が続いていた頃で雨合羽も準備していたが、当日は午後からカラリと晴れた。

 

駅から会場に行くまではメールの道案内をたよりに。図鑑houseは本当にただの一軒家で、ボードに書かれた案内がなければ分からなかったろう。

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入り口から入るのではなく、家屋の脇を通って奥へ歩いていくと庭があった。手前で予約確認して入場料を支払う。庭は黒いビニールシートにおおわれて、庭の家屋の壁に沿った真四角のエリアが舞台のようだ。客席は隣家との境にL字型になっている。舞台と客席の境は長い板(家屋がリフォーム中だったのでその端材か)が置かれている。舞台と思われるスペースにはテント屋根。三脚に板の乗った机のようなセット。家屋の壁際に立てかけられたアウトドア用品や、テントに吊り下げられた衣装、大きなアウトドアのバッグの中の小道具、それらを芝居の進行で随時使用していく。俳優が座る椅子は簡易的な持ち運びできる椅子、衣装は雨具をアレンジしたもの。すべて持ち運び可能なもの。

 

芝居の始まる前に諸々注意事項。それも野外演劇ならではな感じだった。虫が出るので虫除け入る人はどうぞ、とか。

芝居が始まると、受付近辺にいた人が3人動き出す。境目がないので、誰がスタッフで、誰が演者か分からない。

 

劇団を主宰している男キダが、恋人の女性ユーコに連れられ、出版社で編集者マチダと打ち合わせをしている。男はコロナ禍で演劇ができずくさっていたところ、恋人の提案なのか、小説の新人賞を取ろうと目論んでいる。河岸を変えて、というよりは賞金のためである。しかし演劇の台本を書くそれと、小説のそれはかなり違う。タイトルのトルアキは校正用語だが、それすら男は知らない。

 

キダとユーコの関係、キダとマチダの関係の変化、それらがキダが創作をする際の手法を通じて見えてくる。おそらくウンゲツィーファの主宰の本橋龍さんの実際の創作法なのだと思うが、キダはユーコと話す時にスマホに録音しておいて、セリフにする。その時の会話は現実だが、劇中で再現される際に演劇のインプロヴィゼーションのように聞こえてくる。マチダが小説におけるフィクションの描き方を指導する時、キダとユーコの関係は現実とフィクションの境目がなくなる。が、より本質に近寄る瞬間となることもあり、結果各々の本音が引き出され緊張感やプレッシャーが芝居のクライマックスとなる。

 

この「境目がなくなる感覚」はまさに観客側にもあって、民家は住宅街の中にあり野外のため、上演中も色々な音がする。庭に大きな金橘の木がたくさん実をならしている。セットではない木。雨上がりの青空の下、風が木や葉を揺らす音、鳥の羽ばたきと鳴き声、車のブレーキ音。ちょうど救急車が近くを通り、サイレンの音が響いた瞬間もあった。自分の座っていた場所の真後ろから、トンカチのような音もしたし人の話声も。隣家の2階の窓はずっと開いており、明かりもついていたが、ついぞ人影は見えなかった。劇中ラジオを使用するのだが、録音ではなくその時の放送を使っているようで、コロナ関連のニュースなど流れてくる。雑音は排除されないが、芝居は進む。

全く外界と隔離されてるわけではない、劇場ではない場所。しかし何故だかふっと自己が透明になるような感覚、周りの景色と同化しているような。暗闇の劇場でなくとも、山奥のロックフェスでなくとも、同じ感覚はあるものだなと不思議な気持ちになった。コロナ禍でなければあったろうか、というのも皮肉だが不思議なものである。

 

芝居が終わって拍手をしようとしたら、住宅街なのでご遠慮を〜と止められる。家屋は図鑑houseというアパレルブランドのアトリエ兼住宅、ということだった。改装中だが中を見せてもらえた。衣装もこちらが担当されてたということで、またここで何か見られるかもしれない。

 

キダ役の藤家矢麻刀さんが印象に残り、どのような経歴かなと調べてたらプリッシマの所属。北村有起哉さんが以前所属されていたところで、事務所の作品選びや社長さんのこだわりなど、所謂芸能事務所的でない所がよかった。北村さんが所属を変えられてからはあまり知らなかったが、若手の育成をされているのか。藤家さんはこちらをざわざわっとさせる雰囲気があって、振り幅がどの位あるか気になる。

マチダ役の黒澤多生さんは途中「タヌキ役」にもなるのだが、これがまた象徴的。小柄で顔立ちも親しみがある感じなのだが、何とも小動物的な掴めなさがある。町田役も家にいつの間にか入ってきた闖入者のようで、浮いているのに馴染んでいる。人のようなそうでないような。後日他の作品で見た時も似た印象を抱いたので、ウンゲの表現においては重要な俳優さんなのだろう。

 

そういやチケットが葉っぱだった。

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その辺も化かされた感があって楽しかった。

NODA・MAP『フェイクスピア』@東京芸術劇場プレイハウス

ネタバレありです。

 

初っ端「誰もいない森で木が倒れたら音はするのか」のモノローグ。

これは伊坂幸太郎の小説にも出てきたような(出典忘れた)。シュレーディンガーの猫のような物理の話が哲学的に用いられる。

今作では声や音がキーになるので、このフレーズなのであるが、私はコロナ禍になってから誰もいない劇場、無観客配信などを見てこのフレーズをずっと思い出していた。演劇に限らずだが、人が何かをしてそれを人に見せることで、観客がいないということ。それでも成り立つのか、それでいいのか。配信も映像を残すこともあまりしない(赤鬼は配信してたので驚いたが)野田さんの、何か今へのメッセージのようにも思えた。

 

全く前知識を入れないように見に行った。シェイクスピアとイタコが出てくるのは分かっていた。それがどう展開するのかまでは、想像しないようにしてフラットな気持ちで。

シェイクスピアは野田さんがフェイクスピアとして出てきたわけですが、おちょくりまくってますなー。笑うというかびっくりしたわー。ラッパー姿やってみたかったんだね…。確かにシェイクスピアの弱強五歩格のリズムや韻文は、ラップ的であり、野田さんの洒落言葉遊びにぴったりくる。言葉というものを突き詰めて、たかが言葉、されど言葉、周り巡って意味を成さぬくらいの軽さへ変貌したり。この辺りは、宇多田ヒカルが日本語やラップで歌うことについてのインタビューを思い出したり。

昨年夏夢見た時に、安室奈美恵とかNiziUの歌が出てきて、野田さん若いね?と思ってたが、お子さんの影響があるそうで。言葉への飽くなき探究心たるや。

四大悲劇の再現のくだりはおかしくて、素晴らしくて。橋爪功さんと高橋一生さんの台詞回し、ずっと聴いていたい。高橋さんの女形シェイクスピア見たいわー。というかこのキャストで本編シェイクスピアが見たい。

あとここで高橋さんが役が抜ける時にバタンと倒れるんだけど、その時双眼鏡でたまたまお顔を見たら白目むいててさらに笑ってしまった。

 

舞台セットを見た時、柱が左奥に高いもの(シテ柱)、右奥に低いもの(笛柱)があり、後にパンフで能舞台を模してるということが分かった。能は詳しくないが、山を舞台にしてること、黒い柱はまるでこげ落ちた木の幹にも見えること、星の王子さまの飛行機、高橋一生の「あたま下げろ」「あたま上げろ」の意味深な台詞への既視感、と最初から記憶がチリチリしながら呼び起こされていく。そして思い出したくない、という気持ち。

日航ジャンボ機墜落事故の話か、雲仙・普賢岳の噴火かどちらかだろうと思いながら見ていた。多分前者だとは思っていた。後者は視覚イメージが一瞬重なった。「降りられない山」のイメージ。

気がついてからは、もう笑いをとる台詞のどれにも反応できなくなってしまった。そうか、フェイクはあの時に生まれ肥大した、たくさんの流言、死者も生者も渦に巻き込むニュースと記事。真実とフェイク、今も長く続く陰謀説、はまるで今のコロナ禍に闊歩するネットの言葉にも通じる。

 

事故の当時、私は群馬県にいた。父の実家が前橋で、毎年お盆はそこで過ごしていた。事故が起こって、何が何だか分からない中、毎日届く上毛新聞はそれまでの地方紙特有のローカルなのどかさではなく、尋常でない覇気が文字の大きさや写真、文章にこもっていた。その辺は「クライマーズ・ハイ」を読んだときになるほど、と思った。中曽根首相の記事のくだりなんかも、記憶にあり。「沈まぬ太陽」はまた違った視点で、エンタメフィクションの読み物としてうまくできていた方ではないかと思う(映画はダメダメだったが)。

群馬は山に囲まれ、赤城颪の空っ風に上州人はさらされ鍛えられる。父と弟は登山が趣味で何度も友人を亡くしている。群馬の谷川岳は人が一番多く死んだ山として有名だ。私はスキーはやるのだが、長野や新潟の雪山と群馬のそれはどこか違う気がする。玄人好みというか、初心者には優しくはない。

死の影を漂わせている山という場所。真面目な顔で、群馬の人は少なからず「やはり群馬の山に呼ばれたのか」と言っていた。こういう事言うととオカルト的なニュアンスになってしまうが、群馬は険しい厳しい山が多いので救難が大変だったのは事実だ。

私がこの事故をひどく覚えて、ずっと気にかけている理由のもう一つは、生存者に同じ年頃の女性がいたからだ。そして彼女はずっと好奇の目に晒されていた。夏休みが明けて学校のクラスの男子が、彼女の容貌について不謹慎にも楽しそうに話題にしているのを、本当に気持ち悪く感じた。あの時初めて、他人の不幸をエサにする、ということのエグさをかなり長期間味わった気がする。テレビも新聞も雑誌も、ずっとそうだった。ネットがなかったからよしとは言えず、プライバシーを守るとか、個人情報の保護とかルールがない分、日本中に過剰なほどの悲惨と悲壮のイメージが蔓延した。

それだけに、その事も含めて、今作を見ている間中、ずっと胸焼けのような気持ち悪さがずっとあった。泣いてる人も多かったが、泣けなかった。事故に対する捉え方の距離感の問題だと思うが、死んだ人よりも生きてる人の方が恐ろしい、あの状態を思い出してしまう。自分のエゴもむくむくとあったあの頃。同情する期間はとっくに過ぎて、私はその女性のために忘れてあげること、彼女がもう晒されないこと、誰よりも幸せであってほしいと他人ながらずっと案じていた。そのためにも思い出しちゃいけないとずっと思っていた。

今作への批判はちらほらあって、早すぎる、不謹慎だという声もある。もっともだと思う。実際にあった事故の、しかも死者と生者の交わりを描いて、ましてや死んでいった人の言葉をテーマに創作するという豪胆さ。野田秀樹悪魔に「やっていいこととやっちゃあいけないことがある」と諭されたと言うだけの題材である。

実際、私も2、3日はそう感じた。怒りまでいかないが、野田さんの好奇心ゆえと思われた非情さに疑問があった。

ただそのコトバの一群、それを舞台で再現したのは本当に感服した。高橋一生の覚悟を決めた気概、伊原さんと川平さんのアシスト、そして村岡希美さんの声!(素晴らしすぎた)、完璧にただ事実を演じることだけに集中した瞬間。リアルにはフェイクは勝てない。信じたからこそのフィクションという創作。

何かとてつもなく非道い、悲しい、もしくは人の力の及ばぬ事が起きた時、時間が経ってから芸術に落とし込まれることが必然とするなら、それはいつからならいいのか。どれだけ時間が経てばいいのか。ルールはない、もしかしたらモラルなど真っ先に一番遠くに飛ばされる。芸術の名の下に何をしてもいいのか、誰かを傷つけるとしてそれは価値がある事なのか。

この件で、私が個人的に思い出すのは、中国に駐在中のある出来事だ。中国の大学の語学学校に通っていて、各国からの留学生がたくさんいた。大体が二十代。ある時、日本人の女子学生が韓国人の同級生に、つたない中国語で「あなたは北と南のどっちの出身なの?」と尋ねていた。韓国人の男子学生は「僕は韓国だけど、北の方の出身だよ」と答え、日本人の子は「そうじゃなくて、北の韓国なの?南の韓国なの?」としつこく聞いていた。韓国の子が困っていたので、これはなんかおかしいと思い、間に入って、日本人の子を廊下に連れ出し質問の意図を聞いた。そうしたら

「英語で北朝鮮は"North Korea" 、韓国は"South Korea"だから、どっちも韓国だと思ってた」

とのことが判明した。なんと彼女は北朝鮮拉致被害者の帰国を知らなかった、北緯38度線のことも知らない。二つの国があることを知らなかった。拉致被害者帰国の時に彼女が幼かったとはいえ、その後もニュースで散々やっているのに。自分の国のことですら風化してしまう。他の三十代の知人は台湾が中国だとずっと思っていたという。年齢の問題だけではないかもしれない、日本人が疎すぎるのか、私が耳年増すぎるかもしれない、教育の問題なのかもしれない。

分かっているのは、事件も事故も風化して、情報は曖昧になっていく。

その事を語ること、ましてや第三者がわざわざ伝えることの意義とは。だからこそ「イタコ」を芝居に出したのかもしれないと思う。イタコですよというエクスキューズ、これはあくまでフィクションで演劇であるということ。どこからどこまで事実で創作か、あの言葉以外は曖昧だ。曖昧にすることで、問題提起をしているのかとも取れる。どうせ人は自分が信じたものしか、見たようにしか判断しない。ならば徹底してフェイクにフィクションの層を厚く積んだ。言葉というフェイクの中に、真実のリアルな言葉を。木を隠すなら森の中。真実の言の葉は深い森に。

「誰もいない森で木が倒れたら音はするのか」

この問いはアンチテーゼとも取れるが、私はコロナ禍の中、配信で多くの演劇や音楽に触れ、せめて少しでも好きなアーティストの活動を見守った。実際に現地に行けるようになったとて、声も出せない。表情もマスクで隠れて反応は見えない。がしかしはちきれんばかりの拍手を、私だけでなく多くの人が拍手という音にのせていた。「拍手は飛べない鳥の羽ばたきのよう」とは三原順の作品の中のセリフだが、そんな悲しい音だとしても、私たちが心を伝えられる僅かな手段だ。言葉の代わりに飛ぶ真実の音である。

誰かが森に木があることを知っている、遠くから拍手があることを演者が聞こえなくとも知ってはいる、ならば音はするのではないだろうか。

誰もいない森にいるような気持ちで日々過ごしていることも多い昨今、森に深く分け入り歩き続けるか森に留まるか抜け出そうともがくか、皆が音を求め探している。フェイクの言葉に絡め取られる人も多い。今回ばかりは、自分なりに生きて辿り着くことでしか答えはない。

リライトして再演することも多い野田さんだが、今作が何らかの形で再演される日はあるのだろうか。その時にまた言葉は別の意味や解釈を含むように感じる。

シェイクスピアとその息子としてのフェイクスピアを事故に絡めるのは、フェイクという言葉が肝ではあるが、それでテーマに切り込んでいたかというのは疑問が残った。言葉、言の葉、ギリシャ神話や星のお王子様なども絡めていたが、シェイクスピアについては私の理解不足も大きいと思うが、しっくりこなかった。シェイクスピアには実は息子がいて、早逝しているので、そのエピソードを絡めてくるかなと思ったらそこはなかったし。まさかと思うけど、あの格好したかっただけとかはないとは思うけど。

 

イタコといえば、誰を呼びたいというパンフの出演者へのアンケート。皆さんやはり近親者が多い。野田さんの答えがらしくて苦笑い。

私は誰を呼びたいかなー、と考えた時、色々思い出しはしたけど、やっぱり昨年亡くなった実家の猫かな。人間は怖いもの。

『終わりよければすべてよし』@彩の国さいたま芸術劇場大ホール

彩の国シェイクスピアシリーズ公演37作目、全作品公演の最終作品です。

近年チケットが平日だろうと取りにくいプロダクションで、今回ばかりは逃したくないと思い、お友達に優先で取っていただきました。ほんとにほんとにありがとうございます。

そのお陰もあり、比較的前の方で全体も見え、演者の表情も確認でき。特に吉田鋼太郎さんと藤原竜也さんの“顔芸”がしっかり確認できてよかった。というのもこの作品、喜劇なのかシリアスなのか判断しにくく、顔芸が出た時点で笑っていいのね、と。ちなみに最初に顔芸らしきものが見られたのは吉田さんの吐血シーンだと思うんですが、場面が場面だけに笑いにくい、顔色も悪いし。その後の展開が分かってれば笑えるんですけどね。

パンフでは吉田さんは喜劇と断言されてるので、もっとそっちに振り切った演出もあるかも。観劇した日は終盤の日程で、他の演者のノリもできあがってて、リズムよく喜劇とシリアスのちょうど良い塩梅。

しかし全編観たところで、終わりよければすべてよし、なんて景気のいい題名のくせに、どこもヨシ!じゃないような…。何が一体ヨシ!なのさ。漢字なら吉、由、善、好、佳、義、っていい感じの字ばかりに変換される、表も裏もなさそうな言葉。日本語の漢字は読みが多いので、全く違う意味の言葉となるケースが多々あるというのに、よしはせいぜい「止し」くらい。大体がWellの意味になっている不思議な音。

 

なぜ見た人がもやもやするかというと、ポイントはやはり、

「自分を好いてない男に固執して、騙して子供まで作って結婚を既成事実のもとに成立させる」

という主人公ヘレンの価値観に、特に女性は共感が持ちにくいのだろう。

もちろん現代の価値観で見るからこその違和感はベースであるとして。おそらく当時もこのヘレンの行動については、当時もその違和感あってこそ演劇としての面白さがあったのだと思う。

イギリスは独自の国教会があるので、シェイクスピアが離婚がご法度のカトリックの影響が強い国(今作はフランス)を舞台にしてると必ず結婚ネタ、処女ネタが出てくる。ロミジュリとか。ハムレットも処女ネタあるし。そして若干おちょくっているようにすら感じる。観客がこれを観て「あら離婚できないの、可哀想〜w」と思っていたかどうかは分からないけど、宗教的な違いから生まれた価値観の違いを物語に落とし込んでるのか。

あと、シェイクスピア自身は若くしてできちゃった婚なので、自虐もあるのかな。処女性への言及が全編通してあるというのも、よくある処女信仰やロリータ趣味や、日本の貞淑な妻的なイメージだけじゃなくて「女しか子供の父親が誰か分からない」という当時の男性側の懐疑が長らくあったからだとか。カソリックじゃない日本もそれがあるから、変な法律が長らく横行してたわけだけど。今はDNA鑑定あるからね。ビバ科学の進歩!ビバ科捜研!ラララ科学の子〜。

 

今作はおそらくだが、まず「ベッドトリック」ありきで作られているので、まとまりが若干弱めなのかな?とも思った。薬のからんだ伏線はロミジュリ、「ベニスの商人」では言葉のトリック(今作ではバートラムがヘレンに書いた手紙が言質となる)があるが、どちらも今作より前で、この辺はシェイクスピアのよくあるパターンでしかない。必ずしもトリックが今作が問題作と言われる所以となるには、絶対的な理由ではないかも。そういえば、ベニスは蜷川さんが内容があまり好きでなくて演出したがらなかったらしいので、今作もどうだったかなと想像してしまう。私は子供の頃に読んだシェイクスピア作品で楽しかったのがベニスなのだけど、あれはトリックが楽しかったんだなー。蜷川さんが嫌だった理由は別なので、それはそれで納得でしたが。

そんな他の作品との共通点など考えてるうちに、思い出したのは『冬物語』。これも夫婦が色々あって(これも夫側がひどい)、色々ひどい事が起きて、でも後で妻が産んだ子供が生きてることが分かって〜からの大団円。しかもこの大団円の方がよほど力技だったのだが、なんだか納得しやすい。こちらの方がよほど終わりよければすべてよし!である。冬物語は今作の後に書かれているので、執筆年度によって、描写がブラッシュアップされたとかあるのだろうか。

今作は人が死なない、しかし死や病の影があるのも、喜劇に振り切れない理由かもしれない。もしかしたらだが、黒死病(ペスト)の流行があっての頃なので、死を直接的に描くのを避けたとかあるのだろうか。王様が助かること、バートラムが怪我(もしくは梅毒)を負って戻ってくることなどのことの方が実は強いメッセージなのかもしれない。

 

松岡和子さんの今作品翻訳は未読ですが、かなりヘレンとルシヨン伯爵夫人との距離が近く、また未亡人とダイアナとの団結力も強調されており、シスターフッド的な演出も現代的に取り込んでるのはパンフでも見受けられ、興味深い。吉田さんの演出もより松岡さんの意図を掬って、吉田さんの迷いも松岡さんの台詞に救われたのではという点もちらほら。この辺りは時代の流れによってまた変わっていく部分かな。

夫人とヘレンの関係は、元々「養子と養母」でもあり「嫁と姑」にもなる不思議な関係。多分、戦争があったり疫病(ペスト)があって、男性は死にやすい頃だったから、夫人は息子に対してある程度死にゆくものという覚悟がある、故に娘を大事にしてるのかなと。自身も夫が亡くなっているし、おそらく台詞にはないが他にも子供を亡くしているからこその養子なのかも、とか台詞にないが予測される部分もある。

そして宮本裕子さんの演じる夫人と、少しボーイッシュな石原さとみさんのヘレンは、たまたまですが同性愛な雰囲気も感じられた。エロスではなく、アガペーに近い、性愛を超えた感じも。これは宮本さんと石原さんの雰囲気から、現場で生まれたケミストリーなのでは。キャストが変われば、また台詞や演出も変わっていく部分かもしれない。

フェミニズム観点からのアプローチも多く、パンフにも解説あったのは、女性が自身の権利を強く主張できるのは「結婚」だけだった。シェイクスピアの作品は、男がどうしようもなくて女が頑張っているのが多いのは、それが物語になるのもだけど、シェイクスピア自身が身分が低く弱者で、女性の登場人物に自身を反映してたのもあるのでは?あと女性の観客の方が好意的であったという事実もあるそう。エリザベス一世も太客だったそうだし。

 

ペストといえば王様が患ってる病はそれだよね。それを治してもらったんだから、そら王様はヘレンをめちゃ優遇するわけですよ。その重大さを分かってないバートラム空気読めなさすぎでは?とも取れるあの感じ。ヘレンに「貧乏医者の娘が!」ってバートラムが馬鹿にするシーンがあるんだけど、医学博士の娘としては相当ムカついて、ヘレンに共感同情しまくったのですが、直後の王様の強権発動っぷりには溜飲が下がりまくったので、当時もこのシーンは人の心を強く動かしたのではと。

 

王制が未だ強いイギリス、天皇制が現存する日本、そしてどっちも子供が結婚で色々揉めててヤヴァイのが共通。結婚は個人の自由であるべき!でも王様大事!そして義理と約束は果たすべき!その辺も現代に置き換えて比較できるのがおもしろい。

 

石原さとみさんのヘレンは一途で、ともすれば狂気のような女を真っ直ぐに演じていて応援したくなるような熱演。『アデルの恋の物語』のイザベル・アジャーニを思い出しました。ショートカットでハスキーボイスなのも、少年ぽさがあって彼女なりのヘレン。

藤原竜也さんは、クズ男を案外楽しそうに演じてて。カイジのせいか顔芸がネタっぽくなってどうなのかなと思ってたけど、「プラトーノフ」の時に逆手を取ったように振り切った感じだったので、もう喜劇はこの路線で極めてほしい。

宮本裕子さんは、他が顔芸やら絶叫芝居やらで押し出し相撲みたいな濃さの中、語り口調もリズムも違って、いいスピードコントロールに。しっとり大人の湿度。吉田さんとの相性も良い感じなので、マクベスとかどうですか。コリオレイナスもいいですね。

横田栄司さんは吉田さんと同じような声音、話し方で、まるで王子と乞食、光と影のような演出。中止になった「ジョン王」は吉田さんの役と横田さんの役の対比が面白いので、ぜひ上演してほしい。

吉田鋼太郎さん、お疲れさまでした。大役引き継いで素晴らしい。これで終わりかな、と思ってましたが、さらに吉田演出でシェイクスピア公演リローデッドもあるかもとのこと。蜷川さんが吉田さんで「テンペスト」やりたかったというのもあるし、他にも再演してほしいのあるので是非是非。

 

舞台セットが曼珠沙華の花畑だったのだけど、今作では誰も死なないのでなぜ?と思ってたら、最後に蜷川さんの遺影が。そう、これは吉田さん、スタッフ、関係者すべてからのメッセージ。終わりましたよ、蜷川さん。そう思うと、舞台奥のセットの大きな扉、あれはこの世とあの世をつなぐ扉のようにも見える。

 

そして私事ですが、4月初めに義母(姑)が亡くなり、偶然にもこの日が四十九日でした(法要はその前の週に終えた)。義母と娘のエピソードで思い出すこともあったり、曼珠沙華があったり、パローレスの印象的な台詞など、たまたまこの日に来たとはいえ偶然と呼ぶには少し出来過ぎて、ドキッとしました。

 

(追記)ペストに関しては、昨年「死の舞踏」についての研究をされている小池寿子教授のセミナーを聞きに行ったのだが、まさに今作の下敷きとなったボッカチオの「デカメロン」についても取り上げられていた。今作の元となったエピソードについてではなく、デカメロンが生まれた背景などの話だったが、世界的な疫病が流行した時には「ショックが大きいので表現活動に落とし込まれるまで時間がかかる」「文学が先に疫病を描き、後に絵が描かれる」ので、現代のコロナ禍も文学が先に来るのではないか、というお話があった。シェイクスピアがどのタイミングで今作を描いたかは分からないが、コロナ禍演劇が俯瞰的にかつ普遍的な作品として出てくるのはいつになるだろうか。現代は映像もあり、また絵画も技術や手法が多様化しているので、当時とは比較ができない部分も多いだろう。

楽しみにとは言いたくないが、その時はやってくる、それだけは分かっている。

死の舞踏 (美術) - Wikipedia

『白昼夢』@本多劇場

しばし昨年色々あり、ブログお休みしてましたが、2020年見たものなど少しずつ補遺していきたい。

久しぶりの本多劇場。はて前回いつだったか、と考えたら2019年末の『神の子』以来。同じ赤堀雅秋作品。今回三宅弘城さんが目当てだったのだが、三宅さんも2019年11月本多劇場の『鎌塚氏、舞い散る』以来。全部久しぶり。

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客入れの音楽が、ちょうどここに来ていない期間のヒット曲。最大多数の心を掴んだはずのエモい歌詞が、ワンコーラスだけ細切れに流れて全く心に残らない。2020年だけでなく、今は消費したことすら忘れる時代ということですかね。

 

セットはおなじみワンシチュエーション、日本家庭昭和ダイニング&リビング。これ、雰囲気が伯母の家に似てて。ジャラジャラしたのれんとか、台所の窓とか。伯母は綺麗好きだったから、ニラの様な匂いも小蝿も一切なかったけど。でもきっと作中でも、亡くなった母親が生きていた時は、もっと清潔にしていたのだと思わせる。

話は今までよりもっと日常的で、突拍子もない設定がなくすっきりとすらしている。台詞、暗転から次のシーンへの展開など、より削ぎ落としている。引きこもりやリストカットや、個々の設定は確かに一般的ではないかもしれないが、ほぼこの家族と同じ構成だった知人を知っている。詳細は省くが本当にほぼ同じ。それだけに、全く珍しくもない話だけに、より役者の微細な演技に集中して見ていられた。


三宅弘城さん演じる長男は特にその「日常感」が強くうまく出ていた。陰と陽、そのどちらかではなく、薄皮一枚隔てた微妙ないやな感じがよく出ていた稀有な演出。
今までこのポジションは光石研大森南朋などが演じて、目の奥に非日常的な狂気をはっきりと感じる演出だった。けれど、三宅さんのよりもっと普通のなんでもない人という演技が、実にさりげなく作品全体に作用していた。
風間杜夫さんの父親役は1月に演じた『セールスマンの死』の父親役からの発展系にも感じた。次男を長男から庇うシーン、父性が突きつめると母性と同じものになる。あそこの風間さんは男でも女でもなかった。

このシーンに至るまでも、三宅さんが存在感を軽くして、風間さんとともに「男らしさの放棄」をした家族を、言葉や設定でなく表現しているのがグッときた。

セールスマンの死』では家父長制と資本主義の崩壊を描いており、父と息子の関係性がアメリカ的で分かりやすい。今作と似てる部分もある。父親は団塊世代で昭和のいい時代を経ているが、息子は不景気しか知らない。しかし今作では母親の不在もあってか、父親が既に家長としての責任を放棄している。ウイリー・ローマンが死なずあの後人生が続いていたら?という設定かなという捉え方もしてしまう。

1月に『セールスマンの死』を見に行った時に、赤堀さんと荒川さんが近くの席にいた。風間さんを見に来ていたのだろうが、あの時点で今作はどこまで出来ていたのだろうか。影響はどの程度あったのか気になる。

吉岡里帆さん演じる石井は、今までの赤堀作品の中で一番しっくりきた。彼女の仄暗い、おそらく自分でも持て余してしまいそうな色気をうまく使っていた。石井役を男に搾取されるかわいそうな女と演じさせるのは簡単だが、そうしない。かといってファムファタール的な崇め方もしない、母性も担わせない。以前は赤堀作品の女性に長塚圭史の女性観や、岩松了作品の非日常感を感じたが、今回は演出に遠慮がない。遠慮がないから違和感もない。風間さんにもだが、役に対して差別的目線がない。家父長制を放棄しているから、性差も実はない。ある種のジェンダーフリーな作品ともいえる。

ただ生きている人を描いているという手触りがあった。

 

前述した伯母も、知人の家庭もほとんどの人が亡くなり、もとの家族の形はもうない。特に知人の家庭はあまりいい形で終わっていないので(※事件とかではないです)、この後次男が幸せになる未来があればと思う。長男も不在に泣いてくれる妻がいるし、石井はだいたいあのタイプは平凡な男とサクッと結婚する。みんな生きていく。

 

(メモ)

・ところで火をつけたのは長男では思ってましたが、それは考えすぎかしら。だとしたら次男が外に出るきっかけは長男のおかげなのだった。

風間杜夫は老人俳優として劇作家のミューズになりそう。

・隣の席の老女3人組がずっとゲラでうるさかったが、今作の母親がいた頃は色々あっても多分笑ってごまかしつつ過ごせてたんだろうなーと。そこも知人の家と同じ。

・ヘリコプターの音なのか、飛行機の音なのか。ヘリコプターだとしたらやはり舞台は東日本なのかな。飛行機の音と思ったのは成田空港近辺か、神奈川の基地あたりの雰囲気もある。岩松了作品に出てくる田園都市線付近はわりと米軍基地の飛行機の音がする。

・三宅さんのかわいさを全く引き出さない演出でほんと赤堀さんでなかったら許さない。でもおでこにチューはやば〜い。

・唯一三宅さんの筋肉を生かした演出のクライマックス。ひきこもり設定とはいえ、荒川くんの巨体をどうにかできる三宅さん。

・まさかの夏の夜の夢ネタ。

・1月に見た『セールスマンの死』の感想も後で書きたい。今作と対比してそう。

 

『TENET(テネット)』ジョンの背筋&ヨットのことなど

予告やティーザー見た時は「時間が逆行するって?タイムリープものなの?」とよく分からなかったのですが。実際見てもよく分からなかったでーす。

見終わった後に検証サイトなど見て、なるほどと(でもよくは分かってない)。

作中で主人公の名も無き男(ジョン・デヴィッド・ワシントン)がテネットの仕組みについて説明を幾度か受けるのだけど、だいたい「体感で分かればいいよ〜」とゆるい感じで。Don't think, feelみたいな。主人公も分かってないからいいのです。

タイムリープじゃなくて、同じ時間だけ逆行(その間世界は逆回し)したら過去に戻れるのと、赤は順行、青は逆行とかくらい把握してれば。色々ツッコミどころはあるけど無視。

SFというより、スパイアクションもの、バディものとしても楽しめる。ジョン・デヴィッド・ワシントンの鍛え抜かれた体(背筋ヤバい)とニール役のロバート・パティンソンのはかなげ色気、セイター役のケネス・ブラナーの非道っぷり。謎がずっと続く中、どうしてもキャラがはっきりしない性質のつくりではあるけど、この3人の存在感でなんとか乗り切った。

特にジョン・デイヴィッド・ワシントンは『ブラッククランズマン』の時も思ったけど、全然濃い役者さんじゃないのにうまい。ブラナーのような七変化でもないし、憑依系天才肌でもないし、お父さんのデンゼル・ワシントンのようなアフリカン・アメリカン俳優のシンボル的存在感もない。でもうまい。マヤでも亜弓さんでもないのにうまい。紅天女役をさりげなく横からかっさらっていきそうなくらいうまい(←このたとえ、我ながらいいかげんにしたい)。

元々フットボール選手だったという経歴もあるのか、その肉体美も「役作りのためにきたえました(ドヤ)」感がないのもよい。若い頃の山田詠美先生がかぶりつきそうなタイプの天然肉体派男子ィーな感じ。

山田詠美先生といえば、昔のエッセイでデンゼル・ワシントンの話があって、彼がハイブランドのスーツを着こなしている写真の載った雑誌を大事にしてるエピソードを思い出した(私も買った)。作中でジョン・デヴィッド・ワシントンがブルックス・ブラザーズ着てたら安物扱いされた上に、仕立てたスーツ着ていったら着こなせてないと見破られシュンとなるシーンは役柄とはいえ、がんばれ〜ジョン!と思いました。

その後ポロシャツ着てるんだけど、それは彼の肉体美をより美しく見せてて結果ベストコーデ。この辺は演出の意図なのか、ジョンの持つ力なのか。

ジョンの体の話になってしまうけど、彼の背筋がいかんなく発揮されてたのはヨットレースのシーン。

空飛ぶヨットとも呼ばれるF50、これ日本艇なんですね〜。

カタマランといって二艘型(もしくは双胴船)が特徴。アメリカズカップとかでも使うやつ。でかくてめちゃくちゃ速い。セイターが走行中落とされるけど、下手したら首の骨折って死ぬ。気絶してたけど、助かったのはセイターが鍛えてたからかも。

アメリカズカップを描いた映画といえば『ウインズ』。コッポラ製作総指揮、マシュー・モディーン主演。そこで女性がタクティシャン(戦術担当)をやる描写はあるけど、クルーとなったら相当筋力がいるのでは。作中キャットがクルーやってるけど、あんな細い女性には結構きっついと思う。筋力的な意味でも体重という意味でも。

そして自分は16フィートのやってたんだけど、いつも組んでる人以外とやるのはほんとに怖かった。セイターがキャットにセイリングを教えたのだとしたら、自分の命を預けてるという事なので、2人の関係は以前は深い信頼があったともいえる。そこまでノーランが考えてるかは知らんけど。

そして作中出てくるタックやジャイブは方向転換の意味ですが、ジャイブはかなり難しいし判断間違うとひっくり返る。

ここの描写が作品の性質に結果あってるなと思ったのは、力学について"名もなき男"が「体感で物理を分かっている」という点だなと。物理の修士持ってて頭でテネットを理解してるニールと、よく分かってないけどなんか把握できてる名もなき男。名もなき男がしょっちゅう懸垂してたり、ヨットでジャイブ成功させたり、トラピーズしたりするのとかは、テネットにおける「順行」を象徴している気さえする。インタビュー読む限りは、ノーランはたまたまF50見てかっけー!ってなっただけのようではあるが。

しかしそんなめんどくさい船をさっくり操縦するジョンの背筋よ(実際の操作はプロがやってたようですが)。ここの演技はジョンが適役。少なくともここのシーンはディカプリオやブラピではできない。

テーラードスーツを着こなせない背筋、しかし世界を守った背筋、実は元アメリカズカップ代表のエージェントという設定なのかもと思わせる背筋。すべてを背筋で語り尽くすジョン・デヴィッド・ワシントン。

そうテネットはビバ⭐︎背筋の映画だったのです(と無理矢理まとめてみました)。