je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

NODA・MAP『フェイクスピア』@東京芸術劇場プレイハウス

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ネタバレありです。

 

初っ端「誰もいない森で木が倒れたら音はするのか」のモノローグ。

これは伊坂幸太郎の小説にも出てきたような(出典忘れた)。シュレーディンガーの猫のような物理の話が哲学的に用いられる。

今作では声や音がキーになるので、このフレーズなのであるが、私はコロナ禍になってから誰もいない劇場、無観客配信などを見てこのフレーズをずっと思い出していた。演劇に限らずだが、人が何かをしてそれを人に見せることで、観客がいないということ。それでも成り立つのか、それでいいのか。配信も映像を残すこともあまりしない(赤鬼は配信してたので驚いたが)野田さんの、何か今へのメッセージのようにも思えた。

 

全く前知識を入れないように見に行った。シェイクスピアとイタコが出てくるのは分かっていた。それがどう展開するのかまでは、想像しないようにしてフラットな気持ちで。

シェイクスピアは野田さんがフェイクスピアとして出てきたわけですが、おちょくりまくってますなー。笑うというかびっくりしたわー。ラッパー姿やってみたかったんだね…。確かにシェイクスピアの弱強五歩格のリズムや韻文は、ラップ的であり、野田さんの洒落言葉遊びにぴったりくる。言葉というものを突き詰めて、たかが言葉、されど言葉、周り巡って意味を成さぬくらいの軽さへ変貌したり。この辺りは、宇多田ヒカルが日本語やラップで歌うことについてのインタビューを思い出したり。

昨年夏夢見た時に、安室奈美恵とかNiziUの歌が出てきて、野田さん若いね?と思ってたが、お子さんの影響があるそうで。言葉への飽くなき探究心たるや。

四大悲劇の再現のくだりはおかしくて、素晴らしくて。橋爪功さんと高橋一生さんの台詞回し、ずっと聴いていたい。高橋さんの女形シェイクスピア見たいわー。というかこのキャストで本編シェイクスピアが見たい。

あとここで高橋さんが役が抜ける時にバタンと倒れるんだけど、その時双眼鏡でたまたまお顔を見たら白目むいててさらに笑ってしまった。

 

舞台セットを見た時、柱が左奥に高いもの(シテ柱)、右奥に低いもの(笛柱)があり、後にパンフで能舞台を模してるということが分かった。能は詳しくないが、山を舞台にしてること、黒い柱はまるでこげ落ちた木の幹にも見えること、星の王子さまの飛行機、高橋一生の「あたま下げろ」「あたま上げろ」の意味深な台詞への既視感、と最初から記憶がチリチリしながら呼び起こされていく。そして思い出したくない、という気持ち。

日航ジャンボ機墜落事故の話か、雲仙・普賢岳の噴火かどちらかだろうと思いながら見ていた。多分前者だとは思っていた。後者は視覚イメージが一瞬重なった。「降りられない山」のイメージ。

気がついてからは、もう笑いをとる台詞のどれにも反応できなくなってしまった。そうか、フェイクはあの時に生まれ肥大した、たくさんの流言、死者も生者も渦に巻き込むニュースと記事。真実とフェイク、今も長く続く陰謀説、はまるで今のコロナ禍に闊歩するネットの言葉にも通じる。

 

事故の当時、私は群馬県にいた。父の実家が前橋で、毎年お盆はそこで過ごしていた。事故が起こって、何が何だか分からない中、毎日届く上毛新聞はそれまでの地方紙特有のローカルなのどかさではなく、尋常でない覇気が文字の大きさや写真、文章にこもっていた。その辺は「クライマーズ・ハイ」を読んだときになるほど、と思った。中曽根首相の記事のくだりなんかも、記憶にあり。「沈まぬ太陽」はまた違った視点で、エンタメフィクションの読み物としてうまくできていた方ではないかと思う(映画はダメダメだったが)。

群馬は山に囲まれ、赤城颪の空っ風に上州人はさらされ鍛えられる。父と弟は登山が趣味で何度も友人を亡くしている。群馬の谷川岳は人が一番多く死んだ山として有名だ。私はスキーはやるのだが、長野や新潟の雪山と群馬のそれはどこか違う気がする。玄人好みというか、初心者には優しくはない。

死の影を漂わせている山という場所。真面目な顔で、群馬の人は少なからず「やはり群馬の山に呼ばれたのか」と言っていた。こういう事言うととオカルト的なニュアンスになってしまうが、群馬は険しい厳しい山が多いので救難が大変だったのは事実だ。

私がこの事故をひどく覚えて、ずっと気にかけている理由のもう一つは、生存者に同じ年頃の女性がいたからだ。そして彼女はずっと好奇の目に晒されていた。夏休みが明けて学校のクラスの男子が、彼女の容貌について不謹慎にも楽しそうに話題にしているのを、本当に気持ち悪く感じた。あの時初めて、他人の不幸をエサにする、ということのエグさをかなり長期間味わった気がする。テレビも新聞も雑誌も、ずっとそうだった。ネットがなかったからよしとは言えず、プライバシーを守るとか、個人情報の保護とかルールがない分、日本中に過剰なほどの悲惨と悲壮のイメージが蔓延した。

それだけに、その事も含めて、今作を見ている間中、ずっと胸焼けのような気持ち悪さがずっとあった。泣いてる人も多かったが、泣けなかった。事故に対する捉え方の距離感の問題だと思うが、死んだ人よりも生きてる人の方が恐ろしい、あの状態を思い出してしまう。自分のエゴもむくむくとあったあの頃。同情する期間はとっくに過ぎて、私はその女性のために忘れてあげること、彼女がもう晒されないこと、誰よりも幸せであってほしいと他人ながらずっと案じていた。そのためにも思い出しちゃいけないとずっと思っていた。

今作への批判はちらほらあって、早すぎる、不謹慎だという声もある。もっともだと思う。実際にあった事故の、しかも死者と生者の交わりを描いて、ましてや死んでいった人の言葉をテーマに創作するという豪胆さ。野田秀樹悪魔に「やっていいこととやっちゃあいけないことがある」と諭されたと言うだけの題材である。

実際、私も2、3日はそう感じた。怒りまでいかないが、野田さんの好奇心ゆえと思われた非情さに疑問があった。

ただそのコトバの一群、それを舞台で再現したのは本当に感服した。高橋一生の覚悟を決めた気概、伊原さんと川平さんのアシスト、そして村岡希美さんの声!(素晴らしすぎた)、完璧にただ事実を演じることだけに集中した瞬間。リアルにはフェイクは勝てない。信じたからこそのフィクションという創作。

何かとてつもなく非道い、悲しい、もしくは人の力の及ばぬ事が起きた時、時間が経ってから芸術に落とし込まれることが必然とするなら、それはいつからならいいのか。どれだけ時間が経てばいいのか。ルールはない、もしかしたらモラルなど真っ先に一番遠くに飛ばされる。芸術の名の下に何をしてもいいのか、誰かを傷つけるとしてそれは価値がある事なのか。

この件で、私が個人的に思い出すのは、中国に駐在中のある出来事だ。中国の大学の語学学校に通っていて、各国からの留学生がたくさんいた。大体が二十代。ある時、日本人の女子学生が韓国人の同級生に、つたない中国語で「あなたは北と南のどっちの出身なの?」と尋ねていた。韓国人の男子学生は「僕は韓国だけど、北の方の出身だよ」と答え、日本人の子は「そうじゃなくて、北の韓国なの?南の韓国なの?」としつこく聞いていた。韓国の子が困っていたので、これはなんかおかしいと思い、間に入って、日本人の子を廊下に連れ出し質問の意図を聞いた。そうしたら

「英語で北朝鮮は"North Korea" 、韓国は"South Korea"だから、どっちも韓国だと思ってた」

とのことが判明した。なんと彼女は北朝鮮拉致被害者の帰国を知らなかった、北緯38度線のことも知らない。二つの国があることを知らなかった。拉致被害者帰国の時に彼女が幼かったとはいえ、その後もニュースで散々やっているのに。自分の国のことですら風化してしまう。他の三十代の知人は台湾が中国だとずっと思っていたという。年齢の問題だけではないかもしれない、日本人が疎すぎるのか、私が耳年増すぎるかもしれない、教育の問題なのかもしれない。

分かっているのは、事件も事故も風化して、情報は曖昧になっていく。

その事を語ること、ましてや第三者がわざわざ伝えることの意義とは。だからこそ「イタコ」を芝居に出したのかもしれないと思う。イタコですよというエクスキューズ、これはあくまでフィクションで演劇であるということ。どこからどこまで事実で創作か、あの言葉以外は曖昧だ。曖昧にすることで、問題提起をしているのかとも取れる。どうせ人は自分が信じたものしか、見たようにしか判断しない。ならば徹底してフェイクにフィクションの層を厚く積んだ。言葉というフェイクの中に、真実のリアルな言葉を。木を隠すなら森の中。真実の言の葉は深い森に。

「誰もいない森で木が倒れたら音はするのか」

この問いはアンチテーゼとも取れるが、私はコロナ禍の中、配信で多くの演劇や音楽に触れ、せめて少しでも好きなアーティストの活動を見守った。実際に現地に行けるようになったとて、声も出せない。表情もマスクで隠れて反応は見えない。がしかしはちきれんばかりの拍手を、私だけでなく多くの人が拍手という音にのせていた。「拍手は飛べない鳥の羽ばたきのよう」とは三原順の作品の中のセリフだが、そんな悲しい音だとしても、私たちが心を伝えられる僅かな手段だ。言葉の代わりに飛ぶ真実の音である。

誰かが森に木があることを知っている、遠くから拍手があることを演者が聞こえなくとも知ってはいる、ならば音はするのではないだろうか。

誰もいない森にいるような気持ちで日々過ごしていることも多い昨今、森に深く分け入り歩き続けるか森に留まるか抜け出そうともがくか、皆が音を求め探している。フェイクの言葉に絡め取られる人も多い。今回ばかりは、自分なりに生きて辿り着くことでしか答えはない。

リライトして再演することも多い野田さんだが、今作が何らかの形で再演される日はあるのだろうか。その時にまた言葉は別の意味や解釈を含むように感じる。

シェイクスピアとその息子としてのフェイクスピアを事故に絡めるのは、フェイクという言葉が肝ではあるが、それでテーマに切り込んでいたかというのは疑問が残った。言葉、言の葉、ギリシャ神話や星のお王子様なども絡めていたが、シェイクスピアについては私の理解不足も大きいと思うが、しっくりこなかった。シェイクスピアには実は息子がいて、早逝しているので、そのエピソードを絡めてくるかなと思ったらそこはなかったし。まさかと思うけど、あの格好したかっただけとかはないとは思うけど。

 

イタコといえば、誰を呼びたいというパンフの出演者へのアンケート。皆さんやはり近親者が多い。野田さんの答えがらしくて苦笑い。

私は誰を呼びたいかなー、と考えた時、色々思い出しはしたけど、やっぱり昨年亡くなった実家の猫かな。人間は怖いもの。