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終わりが始まりの物語~『ジョン王』Bunkamuraコクーン

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1998年に始まった蜷川幸雄彩の国シェイクスピア・シリーズ。本来なら2021年公演の『終わりよければすべてよし』で37作すべての公演は完了するはずであった。『ジョン王』はそのひとつ前の36作目として、2020年6月に上演予定だったが、奇しくもシェイクスピアの時代にも人々を恐怖と混乱に陥れた「疫病」によって中止を余儀なくされた。

2022年末、若い頃に蜷川幸雄に鍛えられた小栗旬を主演に、当初のキャスティングとほぼ同じで上演されることになる。期せずして、シリーズ最後となった本作。戯曲を読み、ストラトフォード・フェスティバルの公演を配信で観たが、ジョン王というあまり魅力があるとはいえないタイトルロールと、いささか暗く地味な物語が、どのように演出されるか不安もあったが、なんとも度肝を抜かれる斬新な舞台であった。

あらすじ(公式より)

イングランド王ジョン(吉原光夫)の下へ、先王リチャード1世の私生児だと名乗る口の達者な男が現れる。ジョンの母エリナー皇太后はその私生児・フィリップ・ザ・バスタード小栗 旬を親族と認め従えることを決める。
そこへフランス王フィリップ2世吉田鋼太郎からの使者がやってくる。ジョンは、正当な王位継承者である幼きアーサーに代わってイングランド王となっていたが、「王位をアーサーに譲り、領地を引き渡すよう」に要求しにきたのだ。それを拒んだジョン王は、私生児を従えてフランスと戦うために挙兵する。
まんまと王族の仲間入りをした私生児は、権力者たちの愚かなふるまいを鼻で笑いながらも、戦争へと巻き込まれていく。
アーサーの存在が疎ましいジョン王は、腹心の臣下であるヒューバートに、恐ろしく非情な命を下す。この決断が、ジョン王と私生児の運命を大きく狂わせるのだった。
権力者の思惑に振り回され、世界は混迷を極めていく―――

(※演出についてネタバレしまくります。これから観劇予定の方はご注意を。)

予想を鮮やかに裏切る演出

開演前、舞台には大きな門のセットがあり、開いており奥が見える。そのうち、開演15分前くらいだったろうか。その奥の搬入ハッチが開いて外の駐車場と渋谷の景色が見える。かすかに雑踏の音も聞こえる。ちょうど「高瀬物産」のトラックが駐車しており、作業中のようだった。高瀬物産は業務用食材卸の会社で、飲食関係の仕事の経験があれば知っているのではと思う。私も大学時代に喫茶店のバイトをしてた時に、高瀬物産に牛乳や食材の注文をしていた。

なんてことを懐かしく考えていたら、赤いパーカーを深く被った少しゆったりめのデニム(ロールアップしてたか?)にスニーカーの男性が外からふらりと外から入ってくる。けれんみなく、ふらりと。まるで渋谷をうろついてた青年が、迷い込んでしまったかのように。舞台上をうろつき、珍しそうにセットを見てスマホで写真を撮りだす。次第にその男性が小栗旬であることに皆気づく。どのような演出だろうと思っていたら、そでから金髪の少年(ジョン王の甥のアーサー)が走ってきて転ぶ。同時期に天から大きな人形がドン!と音を立てて落ちてくる。

オープニングから何か予兆を感じさせつつ、何故か現代の姿をした主役の出現いう違和感。上から降ってきた人形は、その後のアーサーの飛び降り自殺を予感させるためのものかと思っていたが、そんな予想も裏切られる。人形はその後も何体かランダムに大きな音とともに落とされる。中にはただの肉片の形をしたものもある。脈絡なく落とされ、そのまま放置され、舞台はそれを気にせず進行する。アーサーの死だけではなく、たくさんの死体がその周りを埋め尽くしていたのだと言わんばかりに。

演出について一番えっ!と思うのはやはり歌であろう。オープニングの後の本編、冒頭の月明かりの中で中村京蔵が舞い、吉原光夫が歌う。吉原光夫迎えての公演だから、サービスかなと思いきや、なんと主要なキャストが歌うミュージカル的な演出が続く。

フランス王子ルイ(白石隼也)とジョン王の姪・ブランシュ(植本純米)が歌う「赤い花白い花」。二人は敵国同士の政治的思惑で結婚させられるが、それを超えて心を通わせるのが分かる。歌の表現力で伝わりやすく、というのもあるが、この曲が単にラブソングというのではなく、日本のフォークソングであるというのに、おや?と思う。その後もずっと70年代頃の反戦運動が背景にあるフォークの曲が続く。アーサーの母・コンスタンス(玉置玲央)が息子の死に狂乱するシーンで歌う「涙そうそう」なども印象的だ。歌詞を読み返すとメッセージが詰まっており、外国の昔の物語の中に、日本の反戦歌が入り込むという違和感をうまく利用していた。雰囲気だけでなく、その中のメッセージを強く伝えるために。

違和感の正体

違和感、というのがおそらく演出上のキーワードで、その最たるものは小栗旬演じる「私生児」である。そもそも戯曲でも、私生児はその出自があやしい。一応リチャード獅子心王落胤(貴族の妻の母親が獅子心王の寵愛を受けていた)で、顔も兄とは似てなくて王族の方に似てる云々のくだりがあるが、この辺も本当かどうか確かめる術はない。彼は王家に突然やってきた「異邦人」もしくは「侵入者」なのだ。そもそもの戯曲の設定をより強調した前述のオープニング演出であり、それゆえに私生児の役割がだんだんと分かってくる。私生児は、現代の渋谷からシェイクスピアの世界に迷い込んだ現代人なのだ。今流行りのマルチバースや転生もののようでもあるせいか、あまり戸惑いなく皆受け入れているようだった。王族の仲間となり鎧をまとうまでは赤いパーカーのままで、時折台詞に「ぶっちゃけ」なんてあったりする。具体的な説明はないが、彼の目線は観客と同じ目線である、と刷り込まれる。

マルチバースもしくはタイムリープものといえば『戦国自衛隊』にも似た雰囲気があり、私生児の独白は物語の中よりも私たち観客の世界により近い。

なぜそのような演出なのか。吉田鋼太郎は2020年当初の演出は「寓話的に」とする予定だったようだ。シリアスな台詞劇で、カリスマ性のない王の話はけれんみたっぷりな演出で楽しませるのも正解であろう。しかし昨今の世界情勢を鑑みて、反戦をテーマに演出することに変えたという。

私生児は私たちを物語の中の「戦争」へ誘い、その悲劇、恐怖、怒り、理不尽を私生児の姿を通じて感じる。そして戦争の名のもとに死に行く人が、名もなき人がいるということにも気づく。私生児の持つ「違和感」は「リアル」でもある。物語に没入させ、フィクションのけれんみの世界の中で、私生児の持つ目線の違和感だけがかすかな「リアル」として残り続ける。

他にも「違和感」は散在する。中村京蔵さんの台詞は松岡和子訳ではなく坪内逍遥訳を使う。本編冒頭の踊りもしかり、所作も和的な雰囲気をかもす。吉原光夫さんは、絶叫芝居の中で彼の声だけがフラットで小さく聞こえる。もちろんさすがのはっきりした台詞まわしだが、周りが吉田鋼太郎的台詞まわしの中、ぽかっと空いた隙間のような違和感がある。これはパンフであえて吉原さんの演技プランを生かしたということだった。間合いも他の俳優と違う感じがしたが、かえってジョン王の孤独や卑屈さを強調する表現につながっていた。そして一人だけ東北弁のヒューバート(高橋努)。ここは見てる間はベタな演出すぎる(東北弁にすることで朴訥で情に厚い地方人というあ短絡的なステレオタイプなキャラ作り)というのはどうかと思ったが、イギリスの地でなぜか日本の方言という「違和感」という意味では印象が強く残ったし、日本人が演じる翻訳劇いう特色をより生かしているとも思う。いろいろな人間がいる、という事を印象付けるときに声や言葉は、このような台詞劇では大きく意味を持つからだ。

カーテンコール、芝居が終わりキャストが一列に並ぶ。拍手を受け、俳優として観客にお辞儀をする。俳優が素に戻り、舞台と客席が交じる安堵の瞬間。その時、一人だけ拍手に反応せず、立ち尽くすのが一人いる。小栗旬、いや私生児がそこにまだいる。

他の俳優が捌けても私生児は立ち尽くし、鎧をつけたまま。すると門の奥からスモークが焚かれ、現代の戦闘服を着た戦士(高橋努)がこちらに銃口を向けてやってくる。ゆっくりとあたりを見回し、敵を警戒するかのように。構えた大きなライフルは、私生児と対峙する。私生児は最初剣を抜き緊張が走る、がすぐに剣を置き、鎧を脱ぎブーツを脱ぐ。すると、赤いパーカーにジーンズでスニーカーの、オープニングの青年に戻る。青年は戦士を置きざりに、また渋谷の街へと戻っていく。ハッチは閉められ、戦士だけが舞台に残る。戦士が銃口を向ける先は客席だ。まるで、そこであったことは本当なのだとつきつけるかのように。

そこで観客は、芝居の中で散りばめられたたくさんの「違和感」の正体をあらためて受け取る。違和感はすべてメッセージだ。強力な警報だ。違和感を持つこと、感じること、気づくこと。平和な劇場の中にいても、世界のどこかで銃口はこちらを向いているかもしれない。具体的な物語や台詞を覚えていなくとも、その違和感の演出は強く刻まれたであろう。

蜷川幸雄はいない、がカンパニーは進む

吉田鋼太郎さんの演出が振り切った、新たなシェイクスピア劇を感じさせる舞台となった本作。『ヘンリー八世』や『終わりよければすべてよし』では、なんだかんだ蜷川リスペクトの演出だったのではと思う。

しかし今回、延期となった経緯しかり、延期になったがためのコクーンでの公演(さい芸がちょうど大規模修繕に入ってしまったため)となったことなど、舵を切り替えるための大きな始まりを感じさせる一作になったのではないだろうか。

小栗旬の存在もそれを象徴している。2003年、まだ21歳の小栗旬が初めて蜷川演出の舞台に出たのは同じコクーンの『ハムレット』のフォーティーンブラス役であった。当時その舞台を見た時は、まだ演技というものもおぼつかない、ただ美しいだけの青年だった。その後何作か蜷川演出の舞台に出て、芝居のいろはを蜷川さんに叩き込まれ、あっという間に人気俳優になったのは周知のこと。その恩師と一度は袂を分かちながらも、死の直前に邂逅しもう一度一緒にやろうと約束していたという。それは叶わず、しかしさい芸シェイクスピア・シリーズの最後の作品となった本作を彼が主演し、しかも20年前と同じコクーンであったというのはなんとも不思議な話である。そしてそのコクーンももうじきこの場所を去るというタイミング(蜷川さんがせっかくだから、もう一つの蜷川ホームのコクーンでもやれとあちらから画策したのではと思ってしまう)。小栗旬がこのシリーズの締めくくりを運命づけられていたかのようだ。

もしこれがさい芸での上演だったら同じようになっただろうか?大河ドラマの主演をやる前の小栗旬だったらどうだったろうか?いろいろ考えていくと、様々な巡り合わせの妙を感じてならない。

他のキャストももちろんニナガワカンパニーの面々が多い。そこかしこにその影を感じなくもない。しかしそこに蜷川さんはいないのだ、と感じつつもセンチメンタルな思いはなかった。吉田演出だけでなく、新しい風の吹く予感があった。

劇中使われた曲(メモ、分かるのだけ)

  • 赤い花白い花
  • 涙そうそう
  • 小さな木の実
  • 男らしいってわかるかい
  • 悩み多き者よ

その他、個人的メモ

  • ジョン王はマグナ・カルタを調印させられた人。
  • ジョン王の父ちゃんのヘンリー二世の話『冬のライオン』。昨年佐々木蔵之介主演で観たやつだ!嫁のエレノア(エレナ―)役が高畑淳子で、バチバチツンデレ夫婦善哉的家庭劇でおもろかったな~。その時のジョン役が浅利陽介くんで、卑屈な末っ子のママっ子で。まさに本作でもジョン王と母エレナ―の関係が肝になっており、サブテキストとして見ても面白い。映画はキャサリン・ヘップバーン主演。
  • ジョン王ってヘンリー王子みたいでもあるかも。鬼っ子的な。
  • フランス王子役の白石隼也さん、舞台そんなにやってないぽいんだけど、発声も分かりやすくて、けれんみ芝居もくどくなくて、観客への媚びや自己顕示欲的な演技もなくてよかった。派手さはないかもだけど、堅実な演技で周りとの呼吸もよかったし、今後も吉田シェイクスピアに出てくるかな。古典劇合いそう。
  • コンスタンス役の玉置玲央さん、ずっとROLLYキャスティングされてたっけ?と思ってました…。しかも客席近く歩いてる時、めちゃドアップで見てもROLLYぽかった。体格も声も違うので違うかなと思ったけど、メイクがROLLY
  • 吉原さんのジョン王も威厳ありつつ繊細で孤独な王様でよかったのだが、横田さんはおそらく戯曲に近い人間臭いカッコ悪いジョン王だったのかなと思う。吉田さんもジョン王を演じるので、いろいろなジョン王像があるんだろうな。横田さんをまたシェイクスピアで見たいです。
  • 招待席に俳優さんぽい人ら多かったんだけど、若い人ほど客席では静かだったなー。年配の人の方がくっちゃべってた。一般客もその傾向ある気がする。