je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

深淵にのみこまれる境界〜『OTHELLO』滋企画@こまばアゴラ。

f:id:star-s:20240427001443j:image

青年団の佐藤滋さんが「 大好きな仲間と、やりたいことを、やりたいようにやる。」というコンセプトから始まったという滋企画。

今回はシェイクスピアの『オセロー』、演出はニシサトシさん。

ブラックフェイスをしないオセロー

現代口語調、俳優5人、セットなしパイプ椅子のみ。

タイトルロールのオセロー役の佐藤滋さん(父ブラバンショーとの二役)以外の4人の俳優は女性。イアゴーとデズデモーナの二役を演じるのは伊東沙保さん。

ほか3人の女性俳優は、同じ赤のジャージの衣装でその他の役を担う。キャシオー、侍女エミリア、情婦ビアンカを主に演じる。俳優の性別と役の性別はほぼ同じになる演出で、イアゴー、キャシオーなどの主要な役も女性の設定になっていた。そのためイアゴーとエミリア、キャシオーとビアンカカップルは同性カップルの設定となる。

男1人、他は女性。これは、オセローが「白人の中の黒人」であるという設定を、「女性の中で男性1人」というシチュエーションに置き換えている。昨今の「ブラックフェイスをしないオセローをどのように演出するか?*1」という難題への一つの最適解になっていたのではと思う。

また、男性が主要な役を占めるシェイクスピア作品において、女性俳優の機会を広げ演劇の多様性を目指すという意味もあったかもしれない。

弱き者汝の名はロダリーゴーズ、あるいはオセロー、あるいは

開幕前、コロスの3人が前説よろしく、観客に「シェイクスピアの全作タイトルを言うチャレンジ」をした。確認するのは観客で、この日は一作だけ抜けていた(十二夜だったか?)。埃鎮めの効果もあったが、この3人の存在を印象づける。

この3人は「ロダリーゴーズ」(ズは複数を表すs)として3人でロダリーゴーを演じる。コロスのように3人で噂話のような会話をして、主軸の関係性、物語の流れ、メッセージやテーマをこちらに暗示するような狂言回しの役割があった。

佐藤さんのオセロー像は、序盤のオリジナルの独白によってはっきりと提示される。世間知らずの幼さもある素直な人間的な弱さ、出自からの自己評価の低さや自信のなさ、デズデモーナへのまっすぐな愛情を、真っ正直に民衆へ向かって告白する。観客は市民となりそれを聞き、オセローへの強い同情と共感を感じずにはいられない。

しかしそれは、やがてイアゴーとの愛憎めぐる関係や、デズデモーナとの愛と行き違い、そして他の人間とのすれ違いの原因となり、悲劇をより深くする。

アゴーは「自分が女だから」低評価されたと思う。 ロダリーゴーズが終盤近く、理解し合えない悲しみとそれでも微かな希望を信じようとする語らいのシーンは、女達がずっと虐げられてきた歴史の事を話しているようだった。

クライマックスにオセローがデズデモーナを手にかけるシーンは、何度かリフレインされ、まるでこれは世界中で何度も繰り返された逃れられない愛情のすれ違いによる悲劇を描く。それに至るまでの伊東さんの、絶望がつみ重なっていく演技は、最後の懇願の台詞をより強く響かせる。

どれも「男と女の」という話をしているようだ。しかし、それは違う立場、大きな枠でも置き換えられる。人種、宗教、社会、あらゆる差別、国。その中で幾度も繰り返されて、今も続く戦争を思い起こさせる。

アゴー/デズデモーナという深淵

伊東さんはイアゴーとデズデモーナという、全く逆のキャラクターを演じている。共通しているのはオセローにとって重要な人物であり、オセローと深い愛情と信頼で結ばれて、誤解によって崩壊する関係性。

観劇した後に、これはタイトルを「イアゴー/デズデモーナ」に変えた方がよかったのでは、と思った。実際チラシに伊東さんの名が一番最初に出ている。実質的にも主演は伊東さんらしい。

オセローと女性2人の愛憎の物語は、決して男女のそれとは違う。イアゴーは女性だがオセローへの憎しみは性的な愛情から発しているのではないように、伊東さんは注意深く演じていた。そこは原作に忠実に。

NTLのオセローのように男性社会のマチズモが産んだ「有害な男らしさ」に飲み込まれる女性の悲劇ではなく、人と人が理解し合えない根源的な悲しみを描いていたように思う。

それはラストの解釈にも現れていた。原作ではデズデモーナの死後、妻のエミリアによってイアゴーの策略はバラされる。デズデモーナとキャシオーの名誉は守られ、オセローの愚行は悲劇の物語になる。今回はそこはカットされ、すべては闇に帰す。徹底した絶望感だけのラストだが、男とか女とか、上司とか部下とか、人種とか、そのような境界もいつのまにか闇にのみこまれる。

アゴーもデスデモーナもオセローも、誰も彼もただの弱い人間で、傷つき傷つけ、深淵に飲み込まれる。

従来のジェンダーフリーなキャスティングは、境界をなくすこと、あるいは曖昧なままを是とすることが多かった。ここでは境界がすべて混沌と深淵に飲み込まれていくように感じた。今回はより強い絶望のラストとなったが、見かけだけの解決でない、とても潔い演出にも感じ、なぜかスッキリした後味があった。

その中で、伊東さんの二役はとても難しいものではあったが、人間が隠し持っている深淵を体現するという点においては元来のオセローよりも救いようがない恐ろしさがあった。

オセローはその深淵に飲み込まれていく、ただの弱き人となる。シェイクスピアの主人公によくある人物像でしかない。

この深淵を描く表現は、実は冒頭からあった。イントロダクションの後、竹内まりやの「プラスティック・ラブ」がポップに流れた後に漆黒の闇が会場を包む。イアゴーと女たちの会話だけが聞こえてきて、一瞬自分の視力が失われたのではという強い不安感に襲われた。シンプルな演出だったが、冒頭とラストを繋ぐ演出を印象付ける闇だった。

音楽の使い方も印象的で、ロダリーゴーズが劇中歌うのは久保田早紀の『異邦人』。あの辺りの日本のシティポップやニューミュージック系の持つ乾いているけれど決して軽くない感じが演出に合っていた。これが演歌や昭和歌謡だとジメジメするし、90年代以降のJポップだと軽すぎる。

おまけ:オセローは大谷翔平

当初の演出プランがHPにあり、読んでいたところ大谷翔平の名前がなぜか出てくる。

演出ノート - 滋企画

「オセローって例えば、大谷翔平?」

確かに「白人の中の優秀な嫉妬される黒人オセロー」は「メジャーリーグの中で人種的マイノリティの優秀な大谷翔平」は確かに当てはまる。が、この公演があった2月初旬に大谷選手はそういった影を感じさせるものはなかった。

ちなみに、今のメジャーリーグは南米系やヒスパニックの選手も多くなっており、以前に比べると非白人選手は珍しくない。オセローに当てはめるなら、アジア人選手として人気とバッシングを両方受けて、常に戦っていたイチローの方が当てはまる。もしくは野茂や伊良部といった開拓者がそれであろう。松井はオセローにならぬよう、とても注意深かった。黒田もあからさまに公言はしていないが、差別的な状況はあったようだ。

しかし、この公演の1ヶ月後、大谷選手の突然の結婚報道の騒ぎのあと、あの事件である。まさにデズデモーナと電撃結婚したオセローと同じではないか。

しかし大谷選手はイアゴー(一平)の嘘に惑わされず、策略にはまることもなく、今も周りの信頼を裏切らぬスターであり続けている。

もちろん、彼自身の人間的な強さもあるが、それは戦ってきた先人によって積み重ねられたものも大きい。それをオセローではない大谷翔平はよく分かっている。自分には過去に現在に、味方がいるということを。嘘つきのイアゴーから彼を守ったのはそれらだと。

もしオセローを今後上演する際は、現代における人種差別のあり方も反映させるようなものも興味深い。

 

*1:白人が黒人を演ずる際に顔を黒く塗る「ブラックフェイス」は、近年は人種差別表現とされ、オセローは白人が演ずることはなくなっている。