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アンビバレントで誠実な演出〜『ジュリアス・シーザー』PARCO劇場

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難解な福田恒存訳であえて上演すること、この時代にオールフィメールキャストでやるということ、この二点はかなりチャレンジだったと思う。特にジェンダー表現は今という時代にどう表現するか否が応でも注目される。その上で一人称をそのまま「俺」で通すというのもどうなるのか気になっていたが、意外とそこはすんなり受け入れられた。

大股で歩いたり、大きく腕を広げたりの分かりやすい男性的な所作も、決してけれんみだけではなく、視覚的な演劇的効果が大きい。女性が男性になりきる、のではなくそういう「振り付け」だと感じた。ヘアメイクも特に男性に寄せてないし、衣装もローマの衣服「トガ」をイメージしてはいるが、女性的なラインのドレスに見える。いわゆる「女性が男性を演じる」という手法だと、どうしても宝塚には及ばないので、この方式は正解であったし森演出の主旨に沿っていたと思う。

女性に置き換えてセリフを変えたり、大筋や設定を変更したり(SFや現代に置き換えるといった)小手先の演出をしないのも、潔い。そして女性が演じる事で、むしろ男性性や男性優位社会の歪な面、隠された弱さや人間味などがより分かりやすく提示されていく。

殺陣をプロがきちんとつけていることで、流れの大事なアクセントになる。血生臭い男の戦いの力強さが消される事なく、かといって女の細腕で行われる事の視覚的事実もわざわざ消す事なく。そのアンビバレンスが常に丁寧に提示され、観客は見届ける事を余儀なくされる。

それらの一見相反するような演出は、森新太郎さんの意思そのままであるかのようだ。にわかフェミニストぶって付け焼き刃のジェンダーフリーな演出を流行りでやってしまう上演より、男性社会の男性側としての自分を自覚し、それに迷いながらも真摯に立ち向かったのが分かる。もちろんそれだけではいまさら足りぬ、遅すぎるという意見もあろう。ただその森演出の今の等身大の誠実さを受け入れ、体当たりで応えた女性俳優陣の舞台の上のことがすべてである。

吉田羊さんはその完璧な美貌で引きつけ、憂いを帯びた清廉な表情とわずかな体の動きだけで、頑なでナイーブで哀しいブルータスを演じた。ブルータスの持つ潔癖ともいえる正義感が、この裏切りの連鎖の火蓋を切る。破滅に向かうことを予知しながら、自分の正義を最後まで信じる潔さは、悲しいのに懐の深さすら感じさせる。彼女の皮膚の薄そうな横顔が美しすぎて、同性ながらもその唇に触れてみたい衝動にかられた。

シルビア・グラブさんは森演出「メアリ・スチュアート」での高貴で艶やかなエリザベス一世が記憶に新しいが、出てきた瞬間に一瞬で分かるカリスマ性はシーザー役においてもいかんなく発揮された。見た目の華やかさもだが、コスチュームプレイに慣れていることも大きいのでは。ご本人はそれほどシェイクスピアはじめストレートプレイに思い入れはないようだが、今後も森演出の大事な核となるであろう。

アントニー役の松井玲奈さんは悪くはなかった…。難読な台詞もこなしていたし、大事な演説のシーンも目を引くものはあった。が、しかし。なんというか薄い、引っ掛かるところがない。他の3人のベテランがうますぎて、彼女だけが浮いて見える。アントニーの位置的にそれでもいいのだが、他の演者と絡む際の噛み合わせがしっくりこない。パンフで蜷川版でアントニー役を演じた藤原竜也に心酔しているようで、それもよくないのではと思った。どことなく藤原くんのモノマネっぽくなり、自分の中にまで落とし込めてない感じがした。顔芸は顔の大きい藤原くんだから成り立つので、顔の小さい彼女はしない方がいいのでは。見どころの演説のシーンの立ち居振る舞いは彼女の良いスタイルを生かし、しっかり見せてはいたが、彼女でなければ、というほどでもなかった。演技というよりワンマンショーのように見えるのだ。演説シーンはブルータスとの対比が肝だが、吉田ブルータスの「情に訴える」部分の情が深すぎるともいえる演技プランなので、そこに呼応した感じがあったらより良いかもしれない。私が市民なら吉田ブルータスにほだされて、アントニーの演説は聞き流していたかもしれぬ。それから声を低くして演じていたが、むしろ地声で普通に話した方が良かったのでは?他の演者は「男性的に演じる」ということに重きをおいていないので、彼女だけ宝塚的演出のようだった意図が分からなかった。

今回、私的に白眉だったのはキャシアス役の松本紀保さんだった。彼女の色白でむっちりした女性的な体のラインを見せる衣装や、優しい母性的な声音から出る男性的な台詞の一見不調和な感じが、むしろ今回の森演出の意図を一番体現していたのではと感じた。森演出は本来のテキストの意図とは違ったところで笑いが起こることが多いが、今回はほぼなかった。それでもキャシアスの出演シーンは少しだけ肩の力が抜ける。9幕のブルータスとのやりとりは女子高生の可愛らしいやりとりのようにもみえ微笑ましい。そんな可愛らしさもあるのに、でんと地に根を張ったキャシアス像は力強く、松本さんが自分なりにきっちり落とし込んだ俳優としての底力を感じた。

そして他の俳優のプランも受け止め、引き出している。吉田ブルータスが徹底して「哀」なら、松本キャシアスは圧倒的な「楽」である。男性俳優ならここが排他的ブロマンスになるところを、松本キャシアスは軽やかで親しみある、全く違う印象を引き出した。シーザーを絡めた三角関係も、野心のドロドロした政治劇ではなく、もっと人同士の繊細な心のからみを感じさせる。

台詞を俳優が発する時、どれだけ観客にその言葉を届けられるか、というのを最近特に意識させられる。発声がきちんとして、聞き取りやすく、という技術的なことをクリアしていてもダメな場合も多い。演技がそれほどでなくても、心に伝わる場合もあるし、有名な俳優さんでなくともドキッとさせられる瞬間のある俳優に心惹かれる。

松本紀保さんがデビューされた時のTV番組を見たことがあって、父親にエスコートされたお嬢様然としたゆるふわな姿は芸能人と呼ぶには印象は弱かった。彼女の父も弟も妹もすでに役者としての地位を確立していた頃であったので、彼女の俳優としての道のりは普通の二世俳優のそれとは全く違い、さらに孤独な戦いであったであろう。そんな中、近年の俳優としての活躍が自然と聞こえてくるにつれ、いつか見てみたいと思っていたが、彼女の道のりが見えるような演技であった。

キャシアスの台詞にこんなものがある。

今よりのち、いつの世にも、

われらの手になるこの崇高な場面は、

しばしば繰り返し演じられることだろう

いまだ生れざる国々において、いまだ語られぬ言葉によって!

これはシェイクスピア劇が他の国で上演されることを予言した台詞であるとされる。この台詞を松本さんが発したのは象徴的だった。能や歌舞伎はメタ的な演出があるが、松本さんは「梨園で育った女性」という自分の背景をも噛み砕いて落とし込んでいるかのようだ。

今回のジュリアス・シーザーは日本で日本語で演じていることだけでなく、女性だけでしかも男性の言葉で演じている。それがただ物珍しい企画というのではなく、女性俳優がそれぞれ自分の言葉で語ろうとしているような演出であった。主演の4人のみならず、脇の三田和代久保田磨希らにもそれを感じた。「語られぬ言葉」は日本語だけではなく、彼女たちの言葉、とも取れるし、個々人の表現とも取れるだろう。

確かに現代に即したより話しやすい聞きやすい松岡訳ならば、もっと自由で解放された、分かりやすい演劇となったのは容易く想像できる。が、ジェンダーの問題は女性だけに限らず、やはり男性と男性優位社会、家父長制において語られる面が大きいと一般にも周知されつつある昨今、あえてこの形で上演されたことは意外に大事なことではないか。たった一人の、しかし思慮的でしかも才能ある男性演出家が、その事に気づいていること。決して男性にも女性にもどちらにもおもねることなく、自分の中の正義や公平性に向き合った演出であった。

果たして森新太郎はブルータスか、アントニーか。はたまた愛されながらも殺されたシーザーか。アンビバレンツを恐れず真摯に立ち向かう、森演出をまた見たい。荒野に立ち、ひとり歩く人間の姿を。というのはいささか森新太郎を褒めすぎに聞こえるかもしれないが、世の男性に期待することにずいぶん前から疲れてしまった「女」というラベリングをされている立場としては、本当に久しぶりに信用しても良いかもしれないと「期待」を感じた。

 

衣装は西原梨恵さん。『メアリ・スチュアート』の時に、離れた席であるのにその素材選びの確かさと、色使いに見入った。さい芸の『ヘンリー八世』『終わりよければすべてよし』でも、もしやと思ったら西原さんであった。照明がどうであれ、衣装が芝居の世界観を壊さない生地。今回も赤を基調とした色使い、そして俳優の体型や雰囲気を生かしたデザイン、ひだやプリーツの使い方、完璧であった。

メアリ・スチュアート』観劇時の感想はこちら👉『メアリ・スチュアート』世田谷パブリックシアター - je suis dans la vie

 

(追記雑感)

「男性の言葉で女性が女性の姿のまま男性を演じる」というシチュエーションに既視感があったのは、現実世界における「男性社会で働く女性」におきかえても成り立つからかもしれない。男性のつくった男性の社会で、女性が同じようなはたらきを求められたらどうかというシミュレーションにも見える。そこに生まれる齟齬。

吉田さんは特に「強い芯のある女性」を演じるのを見ることが多く、男性や世間一般が求める吉田羊像との齟齬を表現したかのようにも取れる。シルビア・グラブさんはできる女性上司っぽいイメージがはまっているようにも見えるが、それも男性社会で女性がそのように振る舞えばうまくいくというある種皮肉にも取れる。松本さんは自分らしさを失わない、比較的素直なままだが、男性しか演じることのできない歌舞伎界に女性として生まれ俳優を職業として選んだ女性の生き方とも見える。

松本さん、吉田さん、グラブさんは私とだいたい同年代のためか、感覚的に受け取りやすいのかもしれない。松井さんの若い世代のジェンダー感の比較がみえてもよかったかも。