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ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

配信観劇その14 『欲望という名の電車 (A Streetcar Named Desire)』(National Theatre, 2014)

ナショナルシアターライブアットホーム、『欲望という名の電車』。

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28日までの配信。

演出:ベネディクト・アンドリュース

出演:ジリアン・アンダーソンベン・フォスターヴァネッサ・カービー

 

舞台は長方形のスタンリーの家。奥にバスルーム、その手前にスタンリーとステラの寝室、寝室には鏡台とベッド、一番大きなスペースはキッチンダイニング。ダイニングセットの横に粗末な簡易ベッド。これがブランチのスペースとなる。ダイニングと寝室は薄いカーテンで仕切られる。

家具は白で統一され、まるでIKEAの売り場のように味気ない。電話は現代的で子機の形。スマホはさすがに出てこないが、小道具はいくらか現代的でシンプル。電気は裸電球である。

服装もステラがスキニージーンズを履いていたりする。ブランチもヴィトンのボストンや、シャネルっぽいハンドバック、ウェッジヒールを履く。

すべて壁はなく、入り口のドアとバスルームのドアのセットと柱が何本か。入り口の横に上階のユーニスの部屋へ行く階段。

セットの雰囲気はこんな感じ。

客席は丸くそのセットを囲むように配置されている。これはセットが回転する仕組みになっており、その動きに合わせた配置。セットの外側の空いたスペースは家の外の通りとして使う。

見ている最中これに気づかず、カメラがぐるぐる回っているのかと思っていた。カメラは固定(設置場所は複数)なので、画面は客席からの視線となる。回らない時もある。

丸見えの舞台が回転するので、視点がころころ変わる。ブランチの視線の中に入ったり、スタンリーの視線に入ったり。背中しか見えなくなって表情がわからない時も。全くすべて見えない瞬間もある。近くなったり遠くなったり。

これは誰か一人のキャラクターに感情移入しないで、客観的な視点を持てた。観客は彼らの生活を覗き見する。それ以上踏み込めない距離感を保つ。
ぐるぐる回るイメージはこれが分かりやすいかも。画面ちょっと暗め。

 

主演のジリアン・アンダーソンはじめ、俳優のまるで原作から出てきたかのような容貌。特にミッチは原作通り、大柄で朴訥な雰囲気そのまま。スタンリーとステラは少し現代的な雰囲気もある。スタンリー役の俳優さんがタトゥーがあるので、なお凄みがある。ただこの方、カーテンコールの時は「あれ?こんなに小柄だつたかしら?」と思うくらい優しい雰囲気だったので、スタンリーの存在感の大きい表現がとても良かった。

ジリアン・アンダーソンは「Xファイル」のスカリー、近年だとTVドラマ「ハンニバル」の精神科医ベデリア役。クール・ビューティのイメージの彼女がブランチをどう演じているか、いい意味で覆される。彼女の鼻にかかった不自然すぎるくらいの気取った発音とハスキーボイスは、ブランチの人を不快にもさせる不安定感を表現するにぴったりだった。そして彼女の歩んできた生まれの良さと、その後の過酷さも含んでいる。

今まではどうしてもブランチの女性としての哀しさに共感しがちだったが、今回はセットの演出もありスタンリーの心の動きがよく分かった。ブランチがどれだけ何度も心ない言葉で傷つけていたか。ブランチの存在は、暑い夏の風呂場の蒸気のようにジワジワと不快にさせていたのだ。

そうするとブランチはいつから狂っていたのか、という話になるが、今作の演出ではまあ最初からなんだろうなと。最後のシーンでブランチが暴れて、しかし一転して冷静に医者の腕を取るシーンも、正気を一瞬取り戻したというのではない演出になっている。

その事が最初から分かっていれば、ステラもスタンリーも対応が変わったかというと、またそうでもないかもしれない。が、最悪の悲劇は起こらなかったかもしれない。

物語なのでそうもいかないが「ブランチが最初から狂っていた」という前提のもとに見ると、スタンリーの怒りや憤りは致し方ないものと思えてくる。スタンリーはポーラックだの豚だの侮辱されまくっているが、彼はただの乱暴者ではない。仲間に慕われ、仕事もきちんとしている。自分で散らかした皿を片付けたりもしていたが、ト書きにあったかな?他でこの演出あっただろうか?

英語で見て腑に落ちたのは「俺はポーラックじゃない!アメリカで生まれたアメリカ人だ!」の部分で、ブランチが気取った英語(嘘くさいフランス語なまりみたいな)の発音だが、スタンリーは言葉遣いはともかく、発音は普通の若い男性のアメリカ英語だったように聞こえた(もしかしたらポーランド訛りなのかもしれないが)。彼はアメリカ人として戦争に行き、プライドもあるのにあんな風に言われたらそりゃつらい。自分は一生懸命生きてるのに、なんだこの女は!って思っても仕方ない。

ミッチだけはいつ見てもほんと彼だけはかわいそうだな〜と思う。家族の話に巻き込まれた他人だから。まあ作品中の唯一の救いでもあるけど。

ステラも今までは男を見る目がない、天然でスタンリーに依存してて、ブランチに振り回されるだけの妹キャラと思ってたけど、スタンリーとも対等にやり合い、彼の弱さも受け止めて、めんどくさいブランチの世話も気にせずチャキチャキやるし。生活能力が高く、順応性もあり、家族への情の深い、そんな人としての強さが表現されていた。このステラはスタンリーを責めつつも、彼の行動をどうにか納得し飲み込み人生を続けていくだろう。2人がこの後別れるかもしれないという選択肢はほぼ消える。

戯曲の完成度が高く、普遍的な話でもあるが、現代アメリカにおいて上演する場合、スタンリーやステラの演出によってかなり印象を変えてくるものだなと思った。単なる男尊女卑や、女性の立場の低さだけを強調すると、現代との価値観のズレが出る。そこを踏まえた演出になったのではと思う。

 

音楽の使い方が良く、暗転をほとんど使わず、暗めのカラーライトと音楽で場面転換する。前半は不穏なギターリフ。後半使われた歌はわかる分だけ下記。

・クリス・アイザック"Wicked Game"

・Swans "Lunacy"

Cat Power "Troubled Water"

暗いライトの中で、演者が着替えたり、次の場面の準備をしたりするが、演技の延長線のようでここも面白い演出だった。