je suis dans la vie

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母性という命題のその先へ〜イキウメ『人魂を届けに』

久しぶりのイキウメ観劇、『人魂を届けに』。

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あらすじ(公式より抜粋)

人魂(ひとだま)となって、極刑を生き延びた政治犯は、小さな箱に入れられて、独房の隅に忘れもののように置かれている。
耳を澄ますと、今もときどき小言をつぶやく。

恩赦である(捨ててこい)、と偉い人は言った。
生真面目な刑務官(安井順平)は、箱入りの魂を、その母親(篠井英介)に届けることにした。

芝居を見た瞬間と後で印象が変わる。繰り返され積み重なった「母性」の違和感が、パキッと音を立てるように変わる。男性ばかりのキャストの意味も。肯定と否定、賞賛と批判。背中合わせの人と人でない何か。

浜田信也さん(山小屋の住人・葵役)のジェンダーレスな演技と、安井順平さん(山小屋を訪れる刑務官・八雲役)のコミカルな台詞まわしが全体バランスを取る。いつもは受けの演技の藤原季節くん(山小屋の住人・棗役)がここではベテランに身を任せる。しかし出過ぎないよう慎重に。そのくらい全体はあやうい。台詞を受け取るこちらもあやうかった事に後で気づく。

投げる、落とす、倒れる。それをキャッチする。
掬うと救うはよく似てる。観客も投げられていた言葉、台詞、視線、空間、メッセージ、をどれだけ受け止めていたか。掬い上げた量、質、もしくはその内容そのもの。受けた瞬間にそれぞれに変異しているかもしれない何か。まさにタイトル通り、届けられた人魂のカケラを観客も持ち帰っているのかもしれない。

女性キャストがいない事の意味を、見ながらずっと考えていた。おそらくあえてなのだと。女性排除、なのではなく隠された家父長制、有害な男らしさやマチズモに対する男性性批判。

それがはっきり分かったのは、篠井英介さん演じる、皆に「お母さん」と呼ばれている山鳥に対して、公安の陣(盛隆二)が放った言葉。山鳥ジェンダーについて言及した暴力的な言葉、それはひいては女形としてキャリアを積んできた篠井さんにも放たれているかのような現実味を帯びてヒヤリとする。

もちろん、これは芝居の上での重要な仕掛けではあるのだが「篠井さんは女形だから山鳥は女である」という観客側の思い込みを逆手に取り、その思い込みこそどうなのだと突きつけられている恐ろしさも感じた。我々という観客は篠井英介という俳優を見る時に安易に型にはめて、そして自分自身をもそれを受け止める観客を演じる、というドラマツルギーに囚われていたのではないか。それは果たしてどうなのか。その予定調和を壊し、昨今のジェンダーフリーLGBTへの理解の方向性は正解なのか、とまで意識を飛ばした。

トリッキーではあるが表象としてなるほどと思う反面、使う人間が注意しなければならないなとも思った。もちろん、篠井さんは納得されているだろうし、作・演出の前川さんとの信頼関係はもとより、他演者とスタッフの理解もあっての台詞であるのは分かる。というかそうでなければならないし、成り立たない。個人的に気になったのは、たといそのような誠実な相互理解があったとしても、演技とはいえ毎日その言葉を繰り返し聞くことになる篠井さんへの影響は若干気になった。という事も含めて、俳優・篠井英介のチャレンジと勇気恐るべしとも思うシーン。

というような事をつらつら思いながら、ある種の答えを導き出したのは棗役の藤原季節の台詞であった。山鳥の意思を継ぎ、同じお母さんとなって人を「掬い(救い)」たい、キャッチャーになりたいという棗。陣の放った言葉すらもキャッチし、その言葉に粉々になりかけた山鳥を再生させてはいなかったか。

浜田さんがシームレスに女性役(八雲の妻役)へ変貌する時、それは確実に女という記号を示していたが、棗のジェンダーは不思議とずっと不確定であった。それは初めからあって、一番最初に幼い印象を受ける髪型におやと思った。藤原くんは年相応の役を演じている時はロングにせよショートにせよ、額を出している事が多い。額を隠す時は目にかかるくらい長めなことが多い。今回は学生のように全体的に少し短めに、前髪も目にかからない微妙さに整えられていた。その幼さの演出はジェンダーの色、つまるところ性的な色気を排除する効果があった。反して浜田さんは頬骨がかくれるくらい前髪長めで女性的なシルエットを意識されてたので、これは意図的なヘアメイクだったのではと思う。

次世代の棗の男とも女とも言及しない、年齢にもとらわれないふんわりした佇まいは、今の藤原季節にぴったりではなかったか。とても微妙な演出だし、もしかしたら私の勝手な思い込みかもしれないが、これ結構大事なことなのではと受け止めた。

棗が山小屋の「母」となった時、もしスカートをはき、女性らしい仕草があったとして、それはもうその頃にはそれまでの女という意味は成していないかもしれない。

体制批判や常識と呼ばれるものへの疑問が大きなテーマではあるが、母性という大きな命題にもかすかな疑問を込めている。男だけの世界で繰り広げられたある種ディストピアな芝居を見ながら、女とはいったいと考える。母性は救いなのか、もしくは救いのメタファーが母性であるだけなのか。その言葉の強さと虚しさの壁の向こうに何かあるのかもしれない。

ところで、つらいときに「お母さーん」って言っちゃうのは冗談のように思えるのだが、交通事故で救急行った時にめちゃくちゃ痛くて「お母さーん!いたーい!」と叫んだので、語呂がいい呪文みたいなものではないかと思っている。お父さんだとなんだかおさまりが悪い気がする(これも偏見か)。

「魂を削る」という言葉がネガティブに使われるが、心が主語になると「心を砕く」「心配り」とか優しい響きを持つので、魂ってなに、とかも思ってみたり。

 

『his』の時の藤原季節くんのインタビュー。

「普遍的な感情だと胸を張っていえるように、「これは“ただの”同性愛者の映画ですよ」と言えるように世の中がなっていかなきゃなと思いました。」

 

ゲイカップルを演じた藤原季節「これは“ただの”同性愛者の映画です」 | bizSPA!フレッシュ

 

正直、映画は演出含めて制作の理解等々未熟な所があったけれど、藤原季節はこれを経て『たかが世界の終わり』の舞台配信に挑んだんだなと思うと、とても演技を慎重に考えてるのかなと思う。
イキウメでの演技も、これらが反映されていたように思う。