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ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

都会の中心でイーハトーブを語る~『祈冬』季節と朗読(藤原季節×高井息吹)

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藤原季節さんの朗読イベント❝『祈冬』季節と朗読❞に行ってきました。

朗読×音楽をコンセプトに、藤原さんと新宿のライブハウスMARZの八十嶋淳さんの共同企画。今回は第三弾だそうです。

前回の時に気になって結局タイミングが合わず。今回は大好きな宮沢賢治ということもあり、チケットを取ってみました。

ライブハウスの中の小劇場

会場はライブハウス、地下にあり、受付やロッカー地下1階。受付でドリンクチケットを別途購入、バーカウンターも1階なのでそちらで飲み物を受け取る。地下2階が会場で1階から見下ろせる吹き抜けのような形のため、天井が高い。そのためステージ幅は大きくはないけれど、高さがあり開放感がある。スタンディングのキャパは200~300といったところ。今回は朗読イベントなのでパイプ椅子が設置されており、80弱の椅子+立ち見で90名程度の収容か。

開演前、ステージは幕が下りているがかすかに透けて見える。SEは幻想的な雰囲気で、幕にシンプルな幾何学的映像が映る。幕の向こう、上手に楽器、下手に椅子が一脚。ステージ真ん中に客席に降りる階段があり、階段から会場真ん中あたりまで白い布が花道のように敷いてある。

幕が上がると、ステージ全体に、白い布の装飾。奥の方にはいくつか細長いカーテンのように垂れ下がり、ステージ上も白地の布が幾重にか敷いてあった。素材も少し違っているのもあり、シンプルな美術ではあるが、白いコクーンのような舞台は、今回の冬の世界観をイメージさせる演出効果があった。雪はもちろん、それに付随する冬の風や光、すべて真っ白な中でも動いている自然世界を表現していた。

演劇的な詩の朗読

最初は藤原さんの朗読。椅子に座り、『宮沢賢治全集』を開く。『春と修羅』の中から、主に宮沢賢治が妹・トシ子の死の前後について描いた詩を数編朗読する。(下記分かったものだけ)

一編目は「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」で有名な詩。宮沢賢治に詳しくなくとも、教科書で触れた人も多いであろう。他の詩もだが、藤原さんはこの詩では特に岩手・花巻の方言を用いていた。トシ子の台詞の部分は特にそれを強調して、より演劇性を増していた。今まで方言でこの詩を聞いたことがなかったので、なるほどと思う箇所がが多く、今までより詩の内容を深く感じた。「あめゆじゅ~」もだが「Ora Orade Shitori egumo」の部分は、今まで不明瞭な外国語のよう(賢治の詩に出てくるドイツ語のよう)であったが、トシ子の死の床のイメージがより明確になった。

藤原さんは本を持ってはいたが、ほとんどページはめくらなかったので、本は小道具で暗唱してたのだろう。長い詩を暗記するのはなかなか難しいと思うが、演劇的な表現にしたことでなめらかに聞こえ、こちらもだれずに聞くことができた。

高井息吹さんの歌とその声も、詩の内容を邪魔しない、イメージを共有できるものだった。

軽やかだが堅実な一人芝居

後半は宮沢賢治の童話『雪渡り』。こちらは朗読ではなく、身体表現も大きく、小物も使い、どちらかというと一人芝居。ただあまり露骨に演劇的にせず、会話の部分も台詞ではなく本文の一部として発声する意識を感じた。童話という特性もあり、親が子に物語を読むような雰囲気も少しあった。朗読や芝居というより、「語り」という表現が近い。この方法は藤原さんが朗読を選択した時に、誰かに教わった経験があってなのだろうか。独自に朗読手法を見出したというより、ある程度勉強した形があって、独りよがりな見せ方でないのは好感が持てた。

物語も、幼い兄妹が狐の幻燈会に招かれる内容で、後半は主に狐の紺三郎の舞台を見ている形になる劇中劇の感覚もある。このシチュエーションをうまく使い、途中紺三郎に扮した藤原さんが挨拶をするシーンで、観客を狐に見立てて拍手をうながすが、いやらしくない程度に参加させるのも上手だった。ここも「語り」かける技術がうまく伝わっている。

演劇の場合、舞台と観客には見えないシールドがあり、そこは超えられない。ある種の断絶がある。観客は舞台には干渉できないし、俳優の台詞は観客に語りかけることはない。しかし朗読という「語り」の場合は「誰かが聞いている」ということが前提としてある。そこをうまく使った表現だったし、題材選びもおそらくそこを狙っているかと思う。そしてそこにこだわらず、俳優として培った演劇表現ものびのびと用い、しかし自己顕示に偏りすぎないバランスのよい「語り」であった。

音楽とのコラボもうまく使っており、兄と妹が歌う「堅雪かんこ、しみ雪しんこ」や「キックキックトントン」や動物に話しかけるときのフレーズなど、歌にのせているのは良いアイディアであった。宮沢賢治の独特のオノマトペなど、前半の詩もだが、宮沢賢治の言葉は発声して読んだときにさらに良くなり世界が広がる、そこをしっかりとらえていた。

イーハトーブ宮沢賢治の心象世界の理想郷を表す賢治の造語だ。それはどんなものか、見た人はいないし誰も分からない。藤原季節、という俳優はできるだけそれに近づこうと謙虚に、しかし俳優という言葉を用いる表現者としての力を最大限生かし、都会の真ん中にそれを再現させた。トシ子への詩と、兄と妹の冒険物語をうまくつなげることで観客にも分かりやすくコンパクトに伝えていた。かといって小さくまとまらず見ごたえもあった。

その他ひとりごと~

私、藤原季節さんは好きな俳優さんですが、気になったのは最近で正直よく知らないことの方が多いです。配信舞台の『たかが世界の終わり』で、この人誰だろう?と気になったのが最初。その後、映像や舞台を見て、『空白』での演技などやはりいい俳優さんだなと思ってはいました。今回は好きな宮沢賢治だし行こうかな、とあまり深く考えず。そうしたら、会場の規模とほぼ藤原さんのソロプロジェクトの体から分かる通り、会場はガチファン(という言い方が適当なのか分かりませんが、そのくらい熱心なというニュアンスだと思ってください)がほとんどで、これはもしや「ファンの集い」的な要素が大きいのかとひるみました。実際、会場で聞こえてくる会話の中で、何度も見に来てる方や、遠方から来ているファンの方もいることがうかがえました。

ひるむと同時に、ちょっと申し訳ない気持ちにも。というのも席が最前列で、藤原さんの座る椅子のほぼド真ん前でした。ほんとにほんとにファンの方には申し訳ない…。

ただ全編通して見て、しみじみすごいなと思ったのは、決してファンのためだけのサービス的な興行ではなかったということ。観客席に降りる演出は確かにファンにとってはたまらないとは思いましたが、芝居の構造的にも決して不自然ではなかった。小さい会場を最大限利用した空間づくりだったのではと。また確かに目線を客席に向けて、目が合うような瞬間もあり、これもファンにとってはたまらないとは思いますが、朗読の「語り」と特性を生かした「演出」であることを念頭に、ぎりぎり煽情的にならないようにしていたように見えます。この辺は私がガチファンでないからこそ、そう感じた部分です。もし本当に一瞬でも「ファンサ」の視線があったら、そこには自己顕示欲や承認欲求や媚びが見えます。あれはあくまで演技のひとつで、演出だった。

だからこそ、作品作りに真摯で丁寧なのが分かったし、もっとファン以外にもこの作品が見られる機会はあってもいいのになと思いました。ただまだまだこの先も長い俳優さんなので、この活動が重なって大きく広がっていくのは、ファンの方の支えあってこそだなとも思います。