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白い闇と透明な黒の魔術的映像〜『ノベンバー』横浜シネマリン

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おまじないの思い出

小学生くらいの時に、ローティーン向けの雑誌を持ってきてた同級生がいて、その中の「好きな人を振り向かせるおまじない」みたいな特集記事を嬉々として皆で見ていた。それは「白魔術」とかいう類で、誰かを呪ったりしないし、自分にも悪いことは起こらない、というものだから安全だ、というのがその同級生のおすすめポイントだった。

いわゆる「魔術」や「魔法」は悪魔と契約するもので、引き換えに寿命やら魂を差し出したり、何かしらのリスクを伴うとされている。これは国や宗教に関わらず、わりと広く認識されているようだ。

白い闇と透明な黒の世界

映画『ノベンバー』の舞台はエストニアの雪深い村。村は貧しく殺伐としており、ただ生きることに貪欲で、盗みも日常茶飯事、お互いを信用もしていない。悪魔と契約して使い魔「クラット」を作り出す風習があったり、「死者の日」には死者と交わる。キリスト教の礼拝にも行くが、聖体拝領のホスチアを使って呪いの銃弾を作ったり、善も悪もごちゃ混ぜである。

主人公の少女・リーナは村の青年・ハンスに恋をしているが、ハンスは領主の男爵令嬢に恋をしている。この悲しい三角関係が物語のベースになる。

リーナはハンスの心をこちらに向けるために魔女に指南を仰ぎ、ハンスは悪魔と契約して雪だるまで「クラット」を作り出し恋の悩みを語る詩人となる。

この映画は恋の儚さを美しく描いているが、ただ美しいだけではない。よくある「誰かの恋が叶う時には影で誰かが泣いている」という『人魚姫』的展開、もしくは好きなもの同士が一緒に亡くなるロミジュリのような心中ものという古典的ドラマツルギーをやすやすと裏切る。そしてそれを台詞や言葉ではなく、最後まで映像で描き出す。

終わった時にあれっ、と拍子抜けするくらい理解できてないのに、全くモヤモヤせずすっきりしている。言葉でなく、映像がすうっと頭に染み込んでいく感じだった。

降り積もる雪が溶けて、リーナとハンスの恋物語もどこかへ流れていくのだろうか。モノクロの映像は、そのコントラストを存分に利用して、雪の「白い闇」をラストに「透明な黒」へと還元し、その中に観客も溶け入り、沈み込むような感覚に陥らせる。

親しみとおかしみのディテール

モノクロでゴシックな美しい映像美だが、最初に出てくるジャコメッティの彫刻のような「クラット」がアンバランスでちょうどよい具合のおかしみを担う。宮沢賢治の『月夜のでんしんばしら』を思い出した。他にも漫画の『亜人』(あれもジャコメッティっぽい)とかティム・バートンのキャラクターを思い起こさせる。悪魔に魂を入れてもらう設定と、「仕事をくれ」と何かしら働きたがる性質は、『陰陽師』の式神のようだ。

他にも意味は分かりにくいが、おかしみを誘うシーンがいくつかある。父親が勝手に決めた結婚相手にニーナが「あんたは豚と結婚するんでしょ?」と真剣にいうくだりや、疫病が動物に化けて村へやってきた時に村人がやった対処法とか。女中に恋する男が、自分のある部分を媚薬としてパンに入れて女中に食べさせようとするシーンは画面からその媚薬が匂い立つ様だった。

村人たちは知性も教養もないのだが、なんとなく親しみがわく。この映画のもう一つの魅力である。それは、おそらくどの国も、大昔から生き抜くための「生活の知恵」としてあらゆることをして、時には祈りや呪いや、悪魔すらも利用していた事を、現代に生きる私たちもなんとなく知っているからだ。

その中で、ニーナとハンスは恋することで傷つき成長し、知性も生まれていく。恋の喜びと悲しみを同時に覚え、その中で自己犠牲や相手の幸せを自分の幸せとすることなども自然と覚えていく。ニーナの恋に悩む姿を月夜に吠える狼に表現したり、男爵令嬢のふりをしてハンスと向き合うニーナのベール姿は美しく、雪景色を特に上手に使っていた。

おまじないはおまじないでしかない

冒頭に書いた「恋のおまじない」はどんなものだったかはよく覚えていない。結局誰かやったのかも知らないから、効き目があったのかも確認は出来なかった。多分、いや絶対ないだろう。愚かではあるがかわいらしい思い出である。

しかし悲しいかなそれから何十年経っても、その「おまじない」的なものを信じている同年代の人間が多いことにぞっとすることがある。信仰宗教だったり、マルチだったり。アロマ、健康食品、化粧品、健康器具等々。そこにはお金がからみ、幼い恋心のような美しいお話も生まれない(恋心があればいいというのではない)。自分の信じたものを証明するために、人を騙すことを嬉々としてやる。自分にリスクを課さず、他人を搾取するのはもはや呪いでも魔法でもない。我々の祖先が何もない時代から生き抜くためにがむしゃらに行ってきたトライアンドエラーではなく、ただただ自己中心的な承認欲求オバケが闊歩して行う恐ろしい犯罪である。エストニアの悪魔もドン引きである。

おまじないはおまじないでしかないと学ばなかった人々がいる現代世界と、そのおまじないを映像美として表現した映画の世界、どちらが宮沢賢治が目指した「ほんとうのさいわい」に近いのだろうか、とちょっと思ったりする。