je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

愛さなくてはという逃れられない呪いについて~『たかが世界の終わり』テアトル新宿

 

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知らせるために、

言うために、

ただ言うためだけに、

間近に迫った手の施しようのない僕の死を、

"pour annoncer,

dire,

seulement dire,

ma mort prochaine et irrémédiable”

(”Juste la fin du monde” Jean-Luc Lagarce 「まさに世界の終わり」斎藤公一訳)

あらすじ

ルイ(藤原季節)は、余命1年であることを知り、長年会うことのなかった家族のもとへ帰郷する。戸惑いながらも歓迎しようとする母(銀紛蝶)と年の離れた妹・シュザンヌ(佐藤蛍)、初めて会う弟の妻・カトリーヌ(周本絵梨香)。家長となった弟・アントワーヌ(内田健司)はあからさまに不快感を表し、家族の会話は次第にぎくしゃくしていく。ルイは自分の死期を伝えようとするが、皆ルイに話す隙を与えない。

1995年に38歳で亡くなったジャン=リュック・ラガルスの自叙伝的な作品。

「配信演劇」から映画館へ

2020年10月、コロナ禍により様々なエンターテイメントが中止を余儀なくされ、劇場も閉鎖されたようにひっそりとしていた。蜷川さんに師事した若手俳優のユニット・第7世代実験室(通称ダイナナ)が「配信演劇」として本作を発表した。

私が見たのはアーカイブ配信された翌年の2月。もともと2017年に日本公開されたグザヴィエ・ドランの映画版を見ていて、とても好きな作品だった。

今回「俳優藤原季節特集上映」の一作として、スクリーンで本作を見られる稀有な機会ということで友人を誘い見に行った。

ワンカットで110分。タブレットで鑑賞していた時には気にならなかったが、俳優の動きに張り付くライブ感あるハンドカメラ映像は、大きなスクリーンだとかなり揺れが大きく感じた。しかしより効果も大きかった。会話劇の中の見えない心の揺れを表しているようであり、舞台演劇が持つライブ感もより伝わる。そして俳優の表情や仕草も新たな発見があった。

「母と息子」から「兄と弟」へ

映画版を先に見ていたので、配信を見た時は映画の印象に引きずられていた。まず映画版だとアントワーヌが兄でルイが弟となっている(ルイが主人公で帰郷する設定なのは同じ)。アントワーヌは「有害な男性らしさ」を持つ暴力的なキャラクターとなっている。またドラン作品では「母と息子」の歪な関係、「双生児か姉弟のように親しい絆があるが反発も同じだけ大きい」、という設定が必ず盛り込まれており、映画版ではよりルイが中心となっている。その映画版の印象が強かったためか、ダイナナ版を見た時にもルイの抑圧や孤独を中心に見てしまっていた。

今回は二度目というのもあり、原作の「兄と弟」の関係の描き方がかなり肝なんだなと気づいた。いわゆる家父長制で、兄を跡取りとすることが一般的ならば、アントワーヌは本来は家長にならなかった。「兄と弟」の立場の逆転が、ルイが家族の中で浮いている大きな理由だ。またそれでもたらされたアントワーヌの苦悩も見え、彼はもう一人の主人公で、ルイと対を成しているようにも見えた。

アントワーヌを演じる内田健司さんは、映画版の印象に引きずられることなく、兄弟の対比を軸に演出し演じていた。ルイの死の気配よりも、生によりもたらされたそれぞれの孤独の方が印象に残った。原書で「アベルとカイン」「放蕩息子」との比較の解説もあり、内田演出はかなり原作戯曲に忠実だったといえる。

母役の銀紛蝶さんは安定した演技で、内田演出の軸を支える。久しぶりのルイとの邂逅に喜びながらも、アントワーヌのそれまでの奉仕に気を遣う。カトリーヌ役は家族の中で唯一の血縁者ではないが、周本さんが内田さんとのさすがの阿吽の呼吸が、劇中でのルイの「他者性」をより引きたてる。シュザンヌはルイに近づこうとして引き離される(あるいは無視される)。それはシュザンヌがルイと年が11歳も離れていて、実はよくルイを知らない、家族との関係も知らない、という悪意なき無邪気さを佐藤さんは屈託なく演じる。

結局なぜ皆ルイをこれほど拒否するのか?もちろん長きにわたる不在、家族をないがしろにしたルイの非情、都会に住むルイと田舎の家族、という分かりやすい背景がある。そして皆が「ルイの病気のことを知らない」「そもそもルイの事をよく知らない」という共通項で、ルイ以外の人間はつながっている。さらに家族という集団が持ちやすい「それぞれが本来持つ他者性(あるいは個人としての特性)を認めない、認めたくない」枠組みの中で会話が進んでいき、そこに入れないルイはどんどん孤立する。かといって他の家族がよりまとまるわけでもなく、むしろそれぞれの孤独も浮き彫りになる。そしてそれを引き起こしたルイを追い出そうとする。

「他者性」に関して言えば、藤原季節さんだけがこの中で「蜷川組」でも「ダイナナ」でもない、というのもルイにはぴったりだった。舞台となった、コロナ禍のさいたま芸術劇場の大スタジオというホームで演じるダイナナメンバーと、そこに迷い込んだかのような藤原季節という俳優。イントロダクションからして象徴的だった。

長いモノローグ、詩の朗読のように浮遊する独白は、ただでさえ難しい翻訳劇として入りにくい面もある。銀紛蝶さんはもちろん、ダイナナメンバーのさすがのシェイクスピアで培ったであろう台詞まわしが功を奏し、すぐにリズムに乗った。ルイがその独白を聞き入る演出にしたのは、藤原季節の特性にとても合っていた。映画でも舞台でも、彼は相手役がいる時はその声を受け止める。その演技がいつもよい。そして自分の独白が誰も聞いていなくとも、自分の世界を作り出す。まさにルイそのものだった。

ラガルスの病と1990年代のフランス

ラガルスは1995年にエイズで亡くなっている。本作はすでに病を知ってから執筆されたので、どうしても重ねてしまうのだが、ラガルスの他の作品と傾向は変わらないそうで、内田演出はそこにはっきりとはつなげていないのもよかった。

結局ルイはなぜ死ぬのか?というのはこの芝居では語られない。

しかし原書の方で「歴史と文化」「ラガルスの人生」の年表が対比で記載されており、HIVの悲劇の歴史が、ラガルスの人生に影響を与えなかったとは言い難い。(以下X(旧Twitter)で自分で気になるとこだけ訳したのをツリーにまとめました)

1980年代初頭にフランスでエイズ患者(フランスではSida)が初めて死亡し、1981年に同性愛の非処罰化が定められるなど、実はオープンそうなフランスでもHIVという悲劇によって同性愛の歴史が徐々に変化していく。人工妊娠中絶を合法化した政治家シモーヌ・ヴェイユの映画を先日見たのだが、ヴェイユは1994年にエイズ患者と相対し、病院での不遇な扱いにショックを受けているシーンがあった。ヴェイユは「エイズは人道的に対応すべき」と発言し、国連エイズサミット開催に尽力している。

エンジェルス・イン・アメリカ」でもあったが、HIVを同性愛だけの忌むべき病として隠し無視したために、対応が遅れ感染が拡大した。それはフランスでも例外ではなかったということだ。その背景には宗教と家父長制はおおいに関係しているだろう。

家族の中で語ることを許されないルイの苦悩は、この時代のラガルスのアイデンティティの苦悩でもある。演劇という枠の中でやっと息をすることが許される。作品として表現することで。

いないものとして無視されることの苦痛。あるがままで愛されない、受け止めてもらえないことから自分を偽るしかないことのアンバランス。

ラガルスと同じ年に生まれ、1993年に同じ病で亡くなった映画監督シリル・コラールもまた『野生の夜に』で愛したいけれど愛せないことの苦悩、病を受け止められない苦しみを描いている。

エイズが死の病でなくなった現代に生きるドランも、いまだ自身のアイデンティティを受け入れてもらえない苦痛というテーマを映画に込めている。

あくまで勝手な自説(アントワーヌのアイデンティティについて)

(ここはあくまで自説、なので、戯曲を深読みしすぎているとは思うのですが、メモとして。またドラン作品の一部ネタバレに触れるので注意してください)

内田さん演じるアントワーヌ。時々薬指にはめられた結婚指輪をしきりにいじっていた。イライラして抜こうとするような仕草。カトリーヌへの暴力的な対応など、彼が明らかにこの結婚、家庭の状況に満足していないのを表している。本来長兄として家を継ぐはずだったルイの登場によって、そのことを思い出して徐々に苛立つ。さして意味のない仕事、家長としての責任の重圧、つまらない田舎の生活、等々。

去っていったルイは本来なるべき自分だった、かもしれないという勝手な羨望、嫉妬。

そこをふと深読みしたのだが、ルイとアントワーヌが背中合わせの対なら、アントワーヌにはラガルス自身も投影されている。とすればアントワーヌもクイアとしての隠されたアイデンティティがあったのでは?という読み方もできる。アントワーヌの最後の独白はルイへの拒絶であり、自身の否定とも取れる。

それはちょっと深読みしすぎでは、とも確かに思うのだが、ドランのいくつかの作品で、ゲイの主人公に対して「有害な男らしさを持つ年上の男性(もしくは兄)」というのがしばしば出てくる。今までの作品なら同性愛を抑圧する社会の代弁もしくはメタファーとして出てくる。テネシーイリアムズなら『熱いトタン屋根の猫』で家父長制の象徴としての父親、『欲望という名の電車』のスタンリーしかり。『ガラスの動物園』では父親の不在という設定が本作に通じる。

ドラン作品の場合は、その「男らしい男性」が主人公に惹かれる(『トム・アット・ザ・ファーム』)。ストレートであったと思っていた男性が、隠された自分のアイデンティティに気づく、というのがたまに描かれる。

兄弟でゲイというのはちょっと深読みがすぎるが、アントワーヌがもう一人のルイ、というのはあながち悪くない解釈ではと思う。内田演出がどこまでアントワーヌ像を掘り下げていたかは分からないが、家父長制の抑圧のメタファーとしてのキャラだけではない部分も感じた。

はみだしっ子』との類似点

すっかり忘れていたのだが、2021年に配信を見た時に『はみだしっ子』について言及していた。確かにルイの台詞の端々に似ている描写が多い。

 

今回は兄弟の関係に注視していたので、台詞に重きを置きすぎないようにしていたためかあまり思い出さなかった。それでもルイが「愛せない事」について語るたびに、むしろ「バカヤロー愛してやるのに」(by サーニン)も思い出したし、あとこれも。

「人は...いつになったらとき放たれるんだろう/ 愛せない事の罪悪感から」

これは4人が養子に行くときにグレアムが叔父さんに「(養親を)愛せなかったら?」と問うた時に叔父さんが「仕方ない」と答えた後のモノローグ。

カインとアベルの話もあったし、家族という枠組み、人と人がつながっていることと孤独の対比、あるいは孤独そのものの表現に通じるものがある。

生きるという宿命について

ラストに白く覆われたセットの中で彷徨うルイとアントワーヌ。その二人きりの瞬間だけ、二人はやっと邂逅したともいえる。しかし、白い布は引き潮のように引いていく。ルイが故郷から体も心も離れていき、アントワーヌと家族はその遠くへ埋もれていくのを表現している。

人は、愛さなくてはならない、劇場は開かれていなければならない、芝居が始まったら止めることはできない、疫病があろうとも生きて進まなくてならない。

けれどなんのために?なぜ?それを問うてしまったらすべて止まってしまう。コロナ禍での配信演劇(しかもワンカット)というなんともカウンター的な表現の本作。

結局、答えはない。

ラガルスも三原順ももういない。ドランはいるが映画を撮るのをもうやめるという。でもまた湧き出るように、隠された思いが出てくる。どこかからか。抑圧された者たちの、忘れ去れそうになった、話すことを禁じられた言葉たちがやってくる。それをせめて見届け、受け止めることの目と耳と心(あと知性と寛容!)がある人でありたい。