第二部あらすじ(公式より)
ジョーの母ハンナ(那須佐代子)は、幻覚症状の悪化が著しいハーパー(鈴木杏)をモルモン教ビジターセンターに招く。一方、入院を余儀なくされたロイ・コーン(山西敦)は、元ドラァグクイーンの看護師ベリーズ(浅野雅博)と出会う。友人としてプライアー(岩永達也)の世話をするベリーズは、「プライアーの助けが必要だ」という天使(水夏希)の訪れの顛末を聞かされる。そんな中、進展したかに思えたルイス(長村航希)とジョー(坂本慶介)の関係にも変化の兆しが見え始める。
第二部「ペレストロイカ」構成
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第一幕「射精」(1985年12月)
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第ニ幕「反移住の書簡ーシグリッドへ」(1986年1月)
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第三幕「腹鳴ー蠢動する事実は鱗で覆われた精神にまさる」(1986年1月)
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第四幕「ジョン・ブラウンの亡骸」(1986年1月)
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第五幕「天国ー私は天国にいる」(1986年1月)
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エピローグ「ベセスダ」(1990年1月)
スピード感ある第二部演出
鈴木杏さんが第一部のアフタートークで「第一部は起承転結の起だけ」といった通り、第二部は怒涛の展開。
プライア―と別れたルイスは、同僚のジョーと関係を持つ。しかし歪な関係性だ。ルイスは自身がゲイであることは受け入れているが、エイズで苦しむ恋人を見捨てたことや、イデオロギーなどに悩み、そこから逃げる手段としてジョーと関係を持っている。ジョーはゲイであることを受け入れられないまま、ハーパーとの関係にも悩む中、流されるようにルイスに溺れる。
ハーパーは変わらず薬に依存して、ジョーとの関係は悪化する一方。姑のハンナは助けてくれているのか、よく分からない。やがて死と生のはざまに迷うまでになる。
ロイ・コーンはずっと病院にいる。担当看護士ベリーズとのアイデンティティを巡る会話や、エセル・ローゼンバーグの幽霊に苦しむことで、ゲイであることを含めて複雑な自己を観客に晒し、そして死へ向かっていく。
プライア―も病に苦しみ、天使の啓示に惑わされる。
それぞれを結んでいるのが、黒人でゲイのベリーズである。登場人物は一堂に介するわけではないが、ベリーズのブレない言葉や行動は、現実世界で彼らをつなぐ。
苦しむ中で、それぞれが自分の道を探し出す。ハーパーとプライア―の邂逅は、互いの死の淵での想像の世界なのでかなりドラスティックではある。しかし彼らがどれだけ苦しんでそこからまた歩き出すか、という演劇的な表現としては最適であった。まさに第二部タイトルの「ペレストロイカ=再構築」である。
俳優陣の快演
脚本が素晴らしく、作品としての完成度はそれだけでもすごいのだが、キャスティングのバランス、俳優の演技力に魅せられた。
やはり鈴木杏さんは出色で、精神的に追い詰めれているときの目の色、トリップしている時の開放感、宗教や家族と向き合った時のまっすぐすぎる悲壮感。そして何より、ジョーから旅立つときの強く鮮やかな姿。コントラスト、グラデーションが素晴らしい。
那須さんは一番役が多く、早替えのテクニックも見どころだが、どの役を演じていても、那須さんだと気づかない(休憩時のホワイエで「声でやっと那須さんって分かった」という観客の声が聞こえた)。
山西さんのロイ・コーンは熱演、しかし力わざだけでなく、その複雑な強さ弱さ、そしてゲイであることをひたすら否定し続ける矛盾のキャラクターを、悩みながらも細かく表現していた。
水夏希さんの天使はやはり荘厳、でもちょっとキュート。岩永さんのプライア―は繊細で魅力的。長村さんのルイス、坂本さんのジョー、それぞれ人間的な弱さや浅ましさを忌憚なく演じていた。どちらも同情すべき点はあるのだが、脚本の意図をきちんと組んで、あえてより同情しにくいキャラに終始していたように思う。浅野さんのベリーズは安定したキャラで、その分強く打ち出しにくい。しかし全体のバランスを保つ演技だった。
「祝福せよ」とは
1980年代から1990年代のエイズ禍を、現代のコロナ禍に重ねて見ることももちろん。東西冷戦のありようを、現在の世界の、ロシアとウクライナや、欧米との関係に重ねるのもできるだろう。モルモン教やユダヤ教の話も、今の日本の新興宗教の事件、そして家父長制の及ぼした歪さも、重ねるというよりは地続きである。
ゲイの登場人物たちが社会的になきものとして扱われている様や、女性であるハーパーが苦しむさまは、可視化されいくらか理解の広がった現代でさえ変わらない課題だ。
天使は「進むな、移動するな、進歩するな」という。それはどういう意味なのか?
エイズ禍を生き延びたプライア―は、最後に客席に向かい「祝福せよ!」と叫ぶ。長丁場の観劇のカタルシスもあり、ついスタオベしてしまったが、果たしてこの台詞は現代において「祈り」なのか。我々を縛る「呪文」にもなりえるな、と少々自戒の気持ちも持った。
新型コロナウイルスもHIVウイルスもなくなっていない。戦争も終わっていない。とらえようによっては、悪い方に向かっているとも言える。
見えるものを見ようとしない人々は、本来見えないものを見ていたハーパーやプライア―達より愚かなのではないか?
時代を超えて、むしろ一度立ち止まり、見つめるために、この芝居がこの先も再演され、そしていつか本当にただの寓話になる日が来ることを祈りたい。
演出等で気になった点など
ベリーズは黒人設定なのだが、今回あからさまな「ブラックフェイス表象」ではなかった。が、日焼けをしたような感じなので、日焼けなのかメイクなのか判断しづらい。衣装や髪の毛の色などで、ベリーズのドラァグ・クイーンであるバックグラウンドは理解できたので、肌の色を視覚的に見せる必要はなかったのでは...とも思った。
カラフルなバミリがたくさんあって、演出上大道具をたくさん移動するのに必要なんだなと。その色合いも、黒子さんの動きも、すべて演劇的で、これはなかなか楽しい演出効果だった。