je suis dans la vie

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我愛すゆえに、我あり~『エゴイスト』ヒューマントラストシネマ渋谷

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あらすじ(公式より)

14 歳で⺟を失い、⽥舎町でゲイである⾃分を隠して鬱屈とした思春期を過ごした浩輔(鈴木亮平)。今は東京の出版社でファッション誌の編集者として働き、仕事が終われば気の置けない友人たちと気ままな時間を過ごしている。そんな彼が出会ったのは、シングルマザーである⺟(阿川佐和子)を⽀えながら暮らす、パーソナルトレーナーの龍太(宮沢氷魚)。

自分を守る鎧のようにハイブランドの服に身を包み、気ままながらもどこか虚勢を張って生きている浩輔と、最初は戸惑いながらも浩輔から差し伸べられた救いの手をとった、自分の美しさに無頓着で健気な龍太。惹かれ合った2人は、時に龍太の⺟も交えながら満ち⾜りた時間を重ねていく。亡き⺟への想いを抱えた浩輔にとって、⺟に寄り添う龍太をサポートし、愛し合う時間は幸せなものだった。しかし彼らの前に突然、思いもよらない運命が押し寄せる。

観客の(ゆるやかな)変化

その昔、『二十歳の微熱』を夜の新宿の映画館に見に行った時、観客はほぼ男性しかおらず、女性客は映画ファンぽいのが自分含め2、3名。『二十歳の微熱』はPFFスカラシップ作品で映画好きの間で評判高かった。とはいえPFFもだが、テーマが当時はまだ一般的に周知されてるというのではなかった気がする。夜の上映だったのは配給の都合もあったのだろうが、土地柄もあり、その時の私は、彼らのテリトリーに足を踏み入れた招かれざる客だった。

本作はキャストのファンも多いのか、客席の半分以上は女性客。しかし男性も多く、雰囲気の親密さから見るに男性のカップルもいた。平日昼の渋谷、SNSでの評判の高さもあってか満席で、みながそれぞれ映画を楽しんでいた。作品の話題性、俳優の演技など、様々な宣伝の効果などもあるとは思うが、ゆるやかかもしれないがはっきりした変化を客席に感じた。

『二十歳の微熱』の橋口亮輔監督の、当時を振り返るインタビューがあった。いかに30年近く前に革新的な事をしていたか、そして世間の認知度が今とどれだけ違ったか。あの作品はとても象徴的な作品だったので、世に出してくれて本当にありがたいし、出会えて良かったと思っている。

そうそう、主役のオーディションに大森南朋さんが来てたんだよね。

表現の変化

同性愛表現を色々な視点からきちんと撮っている。一歩踏み込んで、というよりはひとつひとつの表現を丁寧に扱っているのが分かる。セックスシーンは「インティマシー・コレオグラファー」が入ったという。特に龍太が様々な男性客に性的サービスをするシーンは、エロスというよりは「仕事を誠実にこなす」感があってすごかった。綿密な振付であった。

ここは見ながら、自分の2022年ベスト1にした『パリ13区』を思い出した。こちらは男女間のセックスがメインだが、かなり大胆な表現でありながら、まったく不快感がなく、美しいダンスを見ているような高揚があった。撮影時もそれを意識した演出だったそうで、俳優はまったく不快感なく撮影していたという。(対して撮影が過酷だったと、あのレア・セドゥをして苦言を呈されたのは『アデル、ブルーは熱い色』なので、比べてみると面白いかも)。

古い映画人の古い価値観だと「セックスシーンはオトコが興奮してなんぼ」なのかもしれないが(←まごうことなき「古い映画人」への嫌味ですぅ~)、今作は「俳優に配慮することは、ひいては観客への安心感と礼儀」というのを徹底してた。これは先日見た『夜、鳥たちが啼く』にも感じた。エロスを感じるな、というのではない。その作品がフィクションであり、そのうえで楽しむという事を、俳優の安全を無視してまでするなと言ってるのだ。

前半と後半の印象の差

実は本作を見に行くかどうか迷っていた。というのもよくあるキラキラ系同性愛のお涙頂戴ものなのかなと思っていた、

前半は確かに恋人が亡くなるまでのシンプルな話なのだが、後半はテーマは同じなのだが、違う印象の話が展開する。あまりに違いすぎて、フランソワ・オゾンならサスペンス風味にしてたと思う。

サスペンスには寄らないのは、ドキュメント的な撮り方にも起因する。酔いそうなハンドカメラ(実際途中で退席してた人がいた)は、スマホで浩輔の生活を映しているかのようだ。ハンドカメラはどこまで効果があったか分からないが、モノローグや説明が少ないため、登場人物の真意は提示されたもので推し量る。

他愛無い会話のシーンもエチュードであるが、むしろリハちゃんとしたようでかなり練りこんでいる。浩輔の友人たちは実際の原作・高山真さんのお友達やゲイコミュニティの一般の方々で、演技力を考えてエチュードにしたのかもしれないが、うまくそのリアルを切り取っている。みな良かったが、特に結婚届のエピソードの彼の常時優しく繊細なまなざしが、演技を超えて手に取るような感覚がありとてもよかった。

鈴木亮平さんは肉体はもちろん、顔や仕草もけれんみ無いように気をつけてる感じが、色々隠さなくてはならない役柄にうまくハマってる。もちろん、自身がセクシャル・マイノリティでない事を重々分かった上で、真摯に浩輔という役を表現する気概に壮絶さすら感じた。

宮沢氷魚さんは捉え所のない笑顔が、今までは爽やかな雰囲気にしかならなかったが、今回はその笑顔の下の真意を測りづらいところが作品の謎部分にリンクする。

そして、果たしてタイトル「エゴイスト」の意味とは。前半と後半でかなり印象が変わるのではと思う。

個人的には浩輔の父(柄本明)が言った「出会ってしまったのだからしょうがない」がすべてだと思う。ここは映画の『メッセージ』を彷彿とさせたのだが、今ちょうどその原作の『あなたの人生の物語』を読んで、映画の腑に落ちない点が少しだけすっきりした。人生は不可逆的で起こってしまったことをなかったことにはできない。

「もう一度やり直せるとしたら?」という問いを浩輔にかけたら、彼はもう一度同じことをするだろう。出会わないという選択肢はない気がする。10万円を20万円にしたら龍太は生きていたのか、という問いは野暮なのである。

ここは実家の猫が亡くなった時のことも思い出した(またかよ)。ミミが亡くなった時に、母が「うちに閉じ込めておかなければ、もっと自由に暮らせたのに。不妊手術しなければ子供も持てたのに」とわけの分からないことを言って嘆いていた(子供云々はまったく人間的価値観すぎて笑ってしまった)。それに対して、「野良猫だったらあの性格では1年も持たないし、25年も生きられたのはうちに来たおかげ。不妊手術しないとそれこそ癒着やら感染症もあって長生きしなかったよ」とあまりに現実的な答えを私がしたが、果たしてやはり母の嘆きはあまりおさまらなかった。

つまり、「もしかしたら自分と会ってなければもっと幸せだったのかも」なんて思うのもまた「愛」なのではないでしょうか、と思うのである。

Wの悲劇~「ただの女になっちゃう」

最初の方で映画『Wの悲劇』について触れてるシーンがあり(元ネタはアーウィン・ショウ『愁いを含んで、ほのかに甘く』)。ここはあくまで、ゲイコミュニティでこの映画のあれこれが鉄板ネタになっている、というだけのエピソードのようだ。

しかし、本作と『Wの悲劇』はある設定で被るところがある。

映画『Wの悲劇』で若い女優の卵(薬師丸ひろ子)が、年上のお金持ちパトロンとのエピソードを話すシーンで「彼とはお金だけの関係じゃない。愛情でつながっていた」「一度だけ映画に行って、ハンバーガーとジュースを彼に自分の稼いだお金でごちそうしたら彼は喜んだ」というのがあり。龍太が浩輔に援助を受けている事、愛情ゆえなこと、受けてる側が若く美しく夢があること、など共通している。援助されたお金についての説明も、かなりリンクする。龍太が浩輔にコーヒーをおごるシーンは特に『Wの悲劇』のハンバーガーのくだりを思い出した。

映画『Wの悲劇』がどの程度伏線として意識されていたかは分からないが、それもあって、龍太が浩輔の愛情(エゴ)をどういう風に受け取ってたのか、見極めるところはどのあたりなんだろう?と前半はずっと思っていた。

コラボのミルクコーヒーを飲みながら、ちょっと龍太の気持ちにを思った。浩輔が与えてくれるものやお金、そのことに深い意味を考えたり邪な考えや疑いが入るには、龍太はあまりにも苦労しすぎてたし、貧しかったのだと思う。それをピュアの一言でおさめてしまうのは、あまりにも悲しい。当てはまる言葉などないかもしれない。

濃厚なラブシーンや笑顔より、龍太が浩輔を想っているのを感じたのは、浩輔の部屋のダイニングにある一脚だけの豪奢な椅子のあるテーブルで龍太がコーヒーを飲みたいと言った時だ。あのスペースは浩輔の一人だけの空間であるのは説明なくとも分かる。結局なんとなく浩輔に流されるが、あの時確かに、龍太は浩輔の世界に入りたいと意思表示しているのである。

ちなみに、映画『Wの悲劇』ともとになったアーウィン・ショーの小説の女優の話には、あるトリックがあり、それがみどころ。そしてなぜ私がこんなに映画『Wの悲劇』にこだわるかというと、薬師丸ひろ子の大ファンで、夏木静子の原作(映画では劇中劇)とシナリオ本買うくらいでした。学校でさんざん真似したわよ!本作の原作の高山真さんとは同年代なので、多分同じ頃に同じことしてたんだろうな。私はひろ子ちゃんの「顔ぶたないで!私女優なんだから!」をさんざんやりましたが、浩輔が劇中言った「女になっちゃう」は三田佳子様の台詞ですね。クドカンもファンだそうで、この年代の必修科目なんだわね~。そうそう、蜷川先生が演出家の役で出てるのよ。灰皿投げないかしらとドキドキしたのを覚えてるわ。

その「ただの女になっちゃう」の台詞はネタとして扱われているが、最後に浩輔がトイレの鏡に向かって眉毛を整えようと、しかし嗚咽して崩れるシーン。あれはまさに「女優がただの女になる」のオマージュではないだろうか。ブランドものの服を鎧に、細い眉で武装しても、愛や恋という人間の業に逆らえない。

エゴイズムとジェネロジテ égoïsme et générosité (ややこしい身勝手な余談)

ここからは個人的なメモ的余談です。

エゴイスト、エゴイズムの定義は「身勝手、利己的」。浩輔は自身の行動がエゴイズムでしかなく、龍太を不幸にしたのではと苦しむ。

しかし、エゴイズムの語源のラテン語「エゴ ego」というのは、「自我・自己」であり、決してネガティブな意味ではない。むしろ、浩輔や龍太というセクシャル・マイノリティの立場の人々にとっては、常にegoは自身からのみならず、社会的にも隠されおさえられている状態にあるといえる。

デカルトが提唱した有名な「我思う、ゆえに我あり(Je pense, donc je suis)」は、「自分を含めた世界のすべてが虚偽だとしても、それを疑う自分の存在だけは確かだ(意訳)」ということで、決して自己中心やナルシズムという単純な意味ではない。(この辺の理論証明はややこしいので省略します。あくまで簡単な前提として)

浩輔は自分の存在を自分で認める作業をずっと行ってきた。そうしなければ生きていけなかっただろう。彼の服装や、美しいものしか認めないとでもいいそうな部屋のインテリアから見て分かる。単なる自己愛ではなく、社会的にないもの、見えないものとされてきた立場の彼が、必死に築き上げた城なのである。

しかしそれでも、人と関わり、愛を求める人であっただろうことは、龍太やその母との関わりだけでなく、友人との風景にも表れる。特にケーキのシーンでは、美味しいものを友人と分かち合いたい、という彼の美徳を表現している。おそらくたくさんの美しい事、素晴らしいことを愛する人に分け与えたい人だったのだろう。

たまたまだが「ジェネロジテ」という言葉を調べていた。日本語にぴったりした訳がないのだが、辞書では「寛大、寛容、気前の良さ」という意味がある。デカルトはジェネロジテをよりよく生きるため、情念に流されない美徳と位置付けている。この辺はキリスト教の教えの影響があるので、もっと深い意味が含まれていると思う。施しや同情ともまた違う、「惜しみなく与える」というような意味もある。

浩輔は神を信じない、と言っていたが、原作の高山さんは外語大の仏語出身なので、おそらくはこの辺りの哲学的考えに触れていると思う。それらを具体的に覚えていなくても、もともと高山さんが浩輔と同じ美徳を持っているというのなら、哲学と仏文は切っても切れない中なので、考える機会は多かったのでは。

浩輔の「与える」という行動を愛情に起因する「美徳」と位置付けるには、その後にとてもとても残酷なことが押し寄せてしまう。しかも人知の及ばない出来事である。

あの時、浩輔が援助を申し出た時、それは愛する人を独り占めしたいというエゴイズムだったかもしれぬ。お金を与え、美味しいものを与え、与えるだけの一方的な身勝手だったのかもしれぬ。けれど浩輔は見返りを期待していない。彼はもしそのお金が踏み倒されても、傷つきはしても憎みはしなかっただろう。恋愛で傷つき傷つけてきたであろう、数多の人生のキャリアから、またその教養の高さからそうではないかと推測するのもある。おそらく、彼は同じセクシャル・マイノリティとして、龍太の複雑な状況を助けたいというのもあったろう。「ウリ」をやめてほしいというのは、独占欲だけではなかったはずだ。

そういう類のお金だったろうし、二人の関係もそのように丁寧に構築されていったのだと想像する。それは浩輔が確固たる美学を持っていた故ではないか?

情念だけに流されないための月10万円という浩輔の「高邁な精神=ジェネロジテ」は、龍太がその持つ意味と共に受け取ったことにより、龍太から浩輔へのジェネロジテが発生した。龍太もまた、浩輔との関わりで、抑え続けていた自我・自己(ego)を得たのではないか。「母親に本当の仕事の話ができる」という真実を話せる、というのも解放された自己を見せることだ。

浩輔は一人でその自分の存在を証明してきたが、龍太とその母との交わりによって新たな自己存在を見つけた。本作は高山さんの哲学の話でもあり、「エゴイスト」のタイトルはただそのまま受け取るには、深い愛情に満ちて、だからこそ観客の心を動かす。

ちょっとまとまりにくいし、反論もあるであろう。

私の恩師が亡くなった時の、親友であった教授の追悼文を先日やっと読むことができた。死の床の友人を前に、無力な自分に苦しんだ思いと友情にあふれた言葉が続き、最初に読んだときは号泣した。二人の研究を通じた信頼関係を、私もよく知っていたからだ。

その最後に綴られた聖書の一節が本当に美しく、救われた。

「これらのものは滅びる。しかしあなたはそのまま永久に変わらない」(ヘブライ書)

この言葉を選んだ教授に、私はデカルトや哲学を教わった。正直いい生徒ではなく、講義の半分も理解できていなかったと思う。よく単位が取れたものだ。しかし教授は敬虔なクリスチャンであることは印象に強くあり、私が聖書の講義を別に取っていたのはその影響も少なからずあった。そのため、教授がこの言葉に至った感情はよく分かった。

私は学問としてのキリスト教は学んだが、信仰はない。この言葉を引用したのは、救いを聖書の教えにつなげたいわけではない。救われた、と言ったのは、その教授が喪失の際に辿った感情がこの言葉に集約されているからだった。

高山さんが恋人のことを物語に記したのは、失ったことを書いたのではなく、まだ存在し変わらないことを確かめたかったのではないだろうか。

高山真さんも恋人も、恩師もその友人も、もうこの世にいない。しかし月並みだが、誰かの心にいつもいるような気がするのだ。思い出であったり、その教えであったり、目に見えない、小さな欠片だとしても。

「我思うゆえに、我あり」ならば、「我君思うゆえに、君あり」もいけんちゃう?デカルトさーん。と高山さんと同じパリジェンヌ学科卒(※学校は違います)の私は思うのです。

ま、私なんかの話より、このコラムがすべてを網羅してるのですが。クソババアも愛の言葉ですね。

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