je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

コントロールできないのは夢も現実も同じ〜ケムリ研究室No.3『眠くなっちゃった』世田谷パブリックシアター

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あらすじ

近未来の架空の国。人口は減り、気温は下がり、食物は少なくなり、人々は中央管理局なるものに監視・管理されている世界。

娼婦のノーラ(緒川たまき)は夫ヨルコ(音尾琢磨)と暮らしている。住んでいるアパートの大家・ダグ(福田転球)の妻.・ウルスラ犬山イヌコ)らの家族、アパートの住人、娼婦の仲間たちも、抑圧された日々に慣れつつもなんとか生き抜こうとしている。ある時ノーラの元に新しい指導観察員・リュリュ(北村有起哉)がやって来る。

日々の小さな変化がそれぞれの生活に影響を及ぼしていく。

コラージュされたディストピア世界

近未来ディストピアでSFな設定。しかしテクノロジーが進化した社会ではなく、むしろ技術は後退している(あるいは制限された)かのよう。レトロな雰囲気が昔のSF映画を思い起こさせる。

アパートの雰囲気や近隣の音が聞こえてきそうなダクト、「なんの肉を食べてるか分からない」というカニバリズムを想像させる台詞は『デリカテッセン』的世界観。全体的には『ラ・ジュテ』を思い出した。パンフではそれは出てこないが、主に参考にしたという『未来世紀ブラジル』のテリー・ギリアム監督が撮った『12モンキーズ』の元ネタは『ラ・ジュテ』である。リュリュがノーラに固執するところは、よくあるファムファタルものではあるが『ラ・ジュテ』ぽさがある。

ナイフ投げのくだりはまさに『橋の上の女』。ストーリー自体はそれらの映画とは関係なく、ところどころの雰囲気や手触りが、そのものずばりなぞるというより、モンタージュやコラージュのようにバラバラに切り取ったものをパズルのようにカンパニーの世界にはめて、さらに彩っている。元ネタを知らなくても世界観をたっぷり楽しめるが、映画好きだとおや、と思うところが多かった。

これは現代映画の中で名作をオマージュするというのも違っていた。その場合どうしてもオリジナルの方が勝つからである。今回はトレースの跡は感じられず、演劇だからできるのか、ケラさんだからなのか。

引き込む声、恐怖の演技、ステージングの妙

削ぎ落とされたテキストのシンプルさが、俳優の演技をより際立たせる。

脚本の質の高さも起因するが、俳優の声がより生かされる演出でもあった。

奈緒さんの可愛いけれど決して媚びてはいない強さの声、母性的で優しいけれど悲しみも感じる犬山イヌコさんの声、などなど。

そして声が脚本でも大きなキーになっているのだが、北村有起哉さん演じるリュリュの奥さんの「声」を、実際の北村さんの奥様が声だけ出演している。設定も含めて、なかなかエモいシーンだったので、ケラさんぽいのか?ぽくないのか?おおっと思いました。

演技については芸達者な方ばかりなので当たり前だが、むしろその演技の高さはあえて控えめに演出されていたと思う。コメディにせず「笑い」を封じたために、それを武器とする俳優さんらの新たな面が引き出されてもいた。

山内圭哉さん、福田転球さんなどはいくらでも笑いを取れる俳優だが、あえて抑えていることで元々の演技の良さ(怖さ)が分かる。近藤公園さん、野間口徹さんらはコメディなら「ボケ」のポジだが、「ツッコミ」がない事で淡々とした空気が強く出て、こちらも怖さがある。

そう、笑いを抑えると「怖さ」に転じる。何かを制限されている、抑えている、というのは恐怖を引き出す。

松永玲子さんと山内さんのシーンは唯一2人とも必死すぎて、とても安心して笑える部分もあった。ただやはりこちらも爆笑するというよりは、ニヤニヤする程度の笑いしかない。

木野花さんに至っては、恋多き老女(というかほぼ色情狂?)なトンデモ設定なのだが、木野さんの凛とした雰囲気とのギャップが凄い。

小野寺修二さん率いるカンパニーデラシネラのステージングと、自ら演じる道化師のコレオグラフィーに魅了された。演劇という夢の世界、サーカス、ディストピア世界が出会い重なり通じ合う。

昨年、東京芸術祭で小野寺さんが演出した野外劇『嵐が丘』を観たのだが、ステージング、パフォーマンスがまことに素晴らしく、演劇における身体性を使った表現の果てしなさを感じた。同じような感覚が中屋敷法仁さんの演出『ペリクリーズ』にもあり、自分がこれから観たい演出はこっちなのかなと気づきもあった。既存のダンスでも演技でも、それ以外の何かの型にはまった表現でもない、俳優の体を使った新しい表現。老若男女問わず、ジェンダー表現にも偏らないそれは、すごく現代的で未来的で魅力的だ。

※ここからラストのネタバレに触れますので注意⚠️)

果たしてここは何処なのか

ノーラの記憶を吸った(見た)ボルトーヴォリ(篠井英介)は、今までとは違う衝撃を受け脳が破壊(もしくは狂った)されたかのように倒れる(おそらく死ぬ)。今までは誰かの記憶は、曲一曲分くらいの刺激しかない、ちょうどいい嗜好品だったはずだ。ノーラの記憶は致死量を超えた麻薬だった。人を狂わせるほどの、果たしてそれはなんだったのか。ノーラが殺人や享楽、いわゆるモラルが欠如しているという仄めかしは所々にあった。確かに罪人だったのかもしれないが、ノーラは自由で愛に満ちた人でもあった。犯した罪が許されるか否かは別として、生きることに前向きで愛を諦めない純朴さ。その底なしの人間らしさにボルトーヴォリはやられてしまった。

けれどきっとそれは、人間が本来持っている当たり前の感情というものではなかったろうか。抑制された世界で、失われつつあった心。リュリュはそれに惹かれた。

最後の人間らしさを持ったノーラが「眠くなっちゃった」と雪舞う中、リュリュの腕の中で目を閉じるラストシーン。芝居は終わり、世界が終わる。

ディテイルは違うが、『ラ・ジュテ』の記憶を巡る話にも通じる。タイムマシンこそ出てはこないが、『猿の惑星』のような感覚もある。実はこれは近未来ではなく、現在、もしくは過去。ただ時空を巡っているだけ。

あるいはこれはノーラの見ている夢で、登場人物も劇世界もすべてノーラの夢の話。そして「眠くなっちゃった」と言った瞬間にパッと暗転した瞬間は、客席にいた私たちでさえも消えてしまったかのような恐怖があった。

ケラさん作品を多くは見ていないが、わりと笑いのリズムやナンセンスで煙に巻かれてしまうので、今までは感想が書きにくかった。

今回は笑いを封じた事で「恐怖」が感じられた。しかしホラーやサスペンスのように襲いかかるような分かりやすいそれではなく、もっと紗がかかったような手ごたえのない、床の下に壁の向こうに見えないけれど隠れているような、幽霊よりももっとふんわりした優しい手触りの恐怖だった。

劇団かケラさん単体プロジェクトなら、もっと恐怖は恐怖でしかなかったのではないか。パートナーでありファムファタルであり、失うことも得ることもすべて託し託される、誰よりも信頼する緒川さんの存在あってこその、手応えはないが確実にそこにあるとでもいうような、不思議な手触りの物語だった。

おまけな余談

今回4日のマチネのチケットを取っていたのですか、「9月30日に世田谷パブリックシアターの舞台機構に発生した予期せぬ深刻なトラブル」により10月1日から7日までの7公演中止という出来事があり。大焦りしました。

だって北村有起哉さんが舞台に出るの久しぶりなんだもんよ〜!2月に主演映画の舞台挨拶があって、その時「もうすぐ舞台やります」ってわざわざ伝えてくださった。やはり舞台はご本人にも大事な場なのではと。

そして北村有起哉が舞台でこそ輝くことを信頼し、あるがままの力と魅力を見せてくれたケラさんに感謝しかない。

日程の都合で行けなかったであろう方も多いと思うが、これは同じメンバーで再演をしてほしい。