je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「LAST SHOW」楽日@パルコ劇場(3回目)

※ネタバレ少しあるかも。注意してください。
やっぱり、楽日は空気が違う。開演のブザーが鳴って、幕が開くまでの時間、いつもよりざわつきが小さい。幕が開き、出演者にも心もち、表面張力のような軽く張りつめた緊張感があった。ひとつひとつの台詞を噛みしめて、間をギリギリの長さまで引き寄せ、終わりの瞬間を惜しむ(もしくは待ち焦がれている)かのようだった(主観です。実際はそんな事なかったかも)。
佇む北村有起哉君の横顔と長い手足、不敵な微笑を浮かべた中山祐一朗さんのファーストシーンは、しばらく印象的に私の中に残るだろう。有起哉君が出た「ハローアンドグッドバイ」のラストシーンと同じくらい。祐一郎さんの紺色のニューバランスも(同じの持ってます)。
ああ、もうなあ、長塚君はなんでこういうの書けちゃうかなあ。血みどろだし、死にそうだし、ずたぼろだし。憎しみの連鎖は、意外とこういうところが発端だったりするかもな。国、宗教、人種、もとを正せば人で、枝分かれして家族になって、他人が混ざって。でも、断ち切らないのは、人は前に進んでいって、変化して。それが自然で、醜くて当たり前だったりして。
タクヤ(北村)のアホなまでの人の良さも、ナカジマ(中山)のかっこよさも、カツヤの見たくないものを見てきてしまった目と、ワタベの境界を超えてしまった愛の前では、本当になすすべが無い。ナカジマが思わずワタベの言葉に感動してしまったように、己の醜さをさらけ出した人の前で、常識なんて上っ面で生きてる大多数の人は、それまでのように醜さをネガティブなくくりではとらえられなくなる。
タクヤが「俺を殺せよ!」と声を限りに叫んでも、「人の気持ちの分からない奴だ!俺が苦しめたいのはお前なんだよ!」とカツヤに一蹴されるみじめさ。その時、親に愛されなかった悲しみでもなく、子を愛せない人への哀れみでもなく、愛しすぎてしまった人の中に、自分の過去を見る。もしくは人に見せない自分の果てを。
愛と憎しみについて考えた。「thin line between love and hate」と歌ったのはクリッシー・ハインド。「人を愛した時にはさ/人種とか国籍とか性別とか/そんなことはポテトチップスぐらいなもの」と歌ったのはチバ。時々、愛は憎しみと同義語になる。薄い皮膜さえ溶けて、シャム双生児のように同化してしまう(まさに「半神」)。愛を称えるのは、なんと簡単で愚鈍だろうと思う。人が愛について想い語り歌う時、それは憎しみの卵を常に温めているのに。
歪んだ愛は、時に真実だったりする。最後のシーンになり、暗転へ向かうその時、私は、自分の愛について想った。「誰が死んだら一番悲しい?」という問いを、ふと先日、人に向けた時、私自身の頭の中には、あの人のことしかなかった。あの人がいなくなったら、多分、気が狂うだろう。狂わなくても、私は何か大きく抉り取られて、欠片のまま生き永らえなくてはいけない。それが私の不幸で、私の至福。
北村君は、この日は楽日ということもあってか、いつもより熱があった。この人の炎は、赤く大きく踊り、すべて焼きつくすそれではなく、青やオレンジのじわじわと、でもメラメラとした底からの強さを持った炎だ。今回の役も、浅はかで無邪気で、薄い青年なのに、その中の小さな炎を見つけ出して、生命を吹き込んでいる。過剰でなく、空気のようにバランスよく自然に。この日の父親に向けた叫びも涙も、じんわりとした熱を持ってこちらに届けてくれる。この人の演技は、投げっぱなしじゃない所がイイ。とても優しくて、ちょうどいい歩幅で見せてくれる。
中山さんは投げっぱなしっていうか、無頓着なのか、天然なのか、騙し上手だなあ。結婚 詐欺師とか向いてそう。ああ、腹立つ。でも、憎めないのー、みたいな。役者じゃなかったら、漁師とか登山家とか向いてそう。世界各国に恋人がいたりして(褒めすぎか?)。好きになったら泣くけど、友達になって月を見ながら酒を酌み交わしたい(迷走中)。
今日はたくさんの関係者も来ていた模様。伊達暁くん、村上淳さん、そして大森南朋さん。日本の映画界、演劇界を担う人たちは何を思ったかな。舞台上も客席も熱かった。日本も捨てたもんじゃないねえ。