je suis dans la vie

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「LAST SHOW」@パルコ劇場(2回目)

内容を知っているので、最初ほどの衝撃があるか、どんな風に自分の思いが変わるのか、ちょっと判断しかねた。ましてや、母と鑑賞したので、こういう話を母が受け入れられるか、少し怖かった。つまらない、と思われたらいやだな、と思った。ということは、多分、この芝居に結構思い入れができてしまったからかもしれない。
なるべくネタバレなしで雑感だけ記したい。
最初ほどの衝撃は確かに無かった。ただ、何故、ここで父親(風間杜夫)がこういうことを言うのか、ゆっくり追う事ができた。ジワジワと若夫婦を襲う狂気が、寂しく、悲しく感じられた。
ひとりひとりの抱えているものが、小出しに、いい具合にこちらに提示される。中でも、父親とワタベ(古田新太)の抱えてきたもの、背負ってしまったものは、年を経ているだけに、こちらとしてはぐうの音も出ないほどの説得力がある。タクヤ北村有起哉)の滑稽なまでの純粋さも、ナカジマ(中山祐一朗)の天邪鬼なのに熱い思いも、二人の中年の捩れてほどけなくなったままの硬い心の前では、ただの幼さでしかない。父親VS息子、ワタベVSナカジマというところだろう。
溶けて吐き出された中年の思いは、ほどけることなく、しかし何かを提示する。それは形を変えて、二人の若者に注ぎ込まれる。憧れ、という美しささえ伴って。
傷つくことは怖い。自分の世界を侵食されるのは不快だ。なのに、壊され、立ち直れないほどの痛みを、人は心のどこかで望んでいるのだろうか。そこから、また新しい世界が現れることを、何故か知っているのかもしれない。そして変化を恐れないで、受け止めたものだけが見る世界、その先を知る事に意味があることを。世界の果ての先に、また果てがあることをどこかで信じたいのだ。
その2×2のシチュエーションの鎹となっているのが、ミヤコ(永作博美)である。女が女である事の悲しさ、強さ、そして男にはない何か。ミヤコの言葉は救いなのか、標なのか。それほどの重さや、メッセージはないけれど、4人の男はどこかでミヤコを意識し、ミヤコを礎に何かを探しているようにも見える。永作さんと風間さんの二人のシーンは、とても印象的、とまではいかないが、風間さんの濃さが永作さんの可憐さで中和される。風間さんの完成された起伏の演技に、軽やかに渡り合っている。これがもっと自我の強い、ファムファタール気味の女優だったら、濃すぎて食傷気味になり、この芝居の軸が失われていただろう。
市川しんぺーさんのシーンでは、図らずも泣いてしまった。なんで、ここで泣くんだろうと思った。でも、結局は、誰でも一度は思ってしまったシンプルな言葉。母を隣にして、私は申し訳なさと感謝を同時に思わずにはいられない。
北村君は今回は抑え気味の演技だ。でも、他の人の台詞をしっかり受け止める。とても余裕がある。貫禄のある若手。この人をあえてこの位置においた、長塚君の観察力、演出力はなかなかすごい。この役を他の俳優がやったら、薄味にしかならない。薄いものが、少しずつ形を変えて、色や空気を変えていく。最初と最後で表情がまったく違う。その移り変わりを表現する事、短い時間の舞台で人生を表現する事、それらにおいて北村君の力量はいかんなく発揮される。そして、最後のシーンは、北村君でなければできなかったと思う。北村君を見ていてゾクゾクするのはそういう時だ。
話のショッキングな描写に反して、この芝居の本来の持つ意味はとてもシンプルで、分かりやすい。1回目ではそこまで受け取れなかったのは、やはりまだ修行が足りないということだろう。
母はというと、すんなりと受け入れたようだ。この日は、中日&平日ということもあり、客席もリラックスしていた。面白かったのは、母ともう一人後ろの方にいた男性が、周りとは違うところで笑っていた事だ。笑いのツボが違う、といえばそれまでだが、「へえ、そこで笑うんだ」という発見もあった。余裕があり、内的なキャパが大きいというのは、やはりどんな事でも必要だが、「ものをみる」ということに関しては最重要事項かもしれない。まったく、年を経るのは恐ろしい、しかし強くなるということだ。受け入れて、許すという作業が苦でなくなるということなのかもしれない。
終わった後に、よかったんじゃない?という母の言葉に、少しほっとした。そして、何かを知る事、理解する事、それらは優しい気持ちから生まれるわけではないのだ、という話をした。それでも、やはり知る事、理解する事はいいことなんだと思う。そのことで私たちは何かを得るはずなのだから。