je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

マクベス夫人とはいったい誰だったのか?〜『レイディマクベス』よみうり大手町ホール

f:id:star-s:20231022215202j:image

ベースはもちろんシェイクスピアの『マクベス』。こちらはマクベス夫人ことレイディ・マクベスを主役にした、現代の架空の国の戦争の物語。一心同体のカップル、絶え間ない戦争、男に傷つけられる女、支配者と兵士、世襲、母と娘。新しいテキストに散りばめられた新たな世界の中で、天海祐希が「穢いは綺麗、綺麗は穢い」を体と言葉で換骨奪胎する。

キャリアに悩む女性としてのマクベス夫人

レイディマクベス天海祐希)は元戦士で、マクベスアダム・クーパー)とかつては共に戦場を生き抜いてきた同志でもある。しかし出産によって体を痛め、今は家庭で夫マクベスを支えている。その夫も、長びく戦争で心身ともに衰弱している。命をかけて産んだ娘(吉川愛)に対しては、自分のキャリアを奪った存在として見てしまっているのか、レイディの態度は冷たい。

レイディはマクダフ(鈴木保奈美)やバンクォー(要潤)に、かつての戦場での功績や苦労を自慢する。どれだけ自分は素晴らしい戦士だったか。その横で言葉少ない元同僚のマクベスと戦士レノックス(宮下今日子)は、いまだ続く戦争に緊張が途切れていない様子だ。

レイディがダンカン王(栗原英雄)殺しへ傾いていく気持ちの流れは、彼女の「仕事のキャリア」への未練に端を発している。一心同体の夫へその思いを託しているが、夫はそのプレッシャーに耐えかねており二人はすれ違う。やがて燻ぶり続けたレイディの野心と欲望が、歪に積み重なっていったための悲劇、という設定だ。

職場のセクシャルハラスメントや性差、仕事と家庭のバランス、女性のキャリア、現代における問題を盛りこんでいる。女戦士レノックスも「妻」がいる設定で、同性婚もあるようだ。

マクベス夫人がなぜあれほどまでに夫を王にしたかったのか?という部分を現代的に分かりやすくしたところはある。

現代に寄せつつ、欲望に翻弄される人々の狂気の芝居が、原作戯曲を踏襲する。また『ホロウクラウン』のように王冠に呪われる世界も。それでもシェイクスピアとは全く違う、新しい物語ではあり。もしシェイクスピアが現代にいて書くとしたら?というような視点もあった。

レイディを取り巻く人たち

マクベス役のアダム・クーパーは英語台詞と日本語台詞の両方あったが、あまり話さない設定になっている。これは戦場でPTSDを負ってしまった影響とも取れるし、また「男性らしさを強要された男性ゆえの苦悩」という、そちらも現代的な問題を反映している。

ただせっかくアダム・クーパーをキャスティングしたのだから、もうちょっと台詞あってもよかったのでは?一人英語台詞にして、日本人キャストとの差異を際立たせることで、マクベスの孤独や夫婦のコミュケーション不和を表現するのもありだったのではと思う。英語台詞で娘が父の言葉を「翻訳」するシーンがあったが、意訳にしてて、そこは微妙なずれが面白かった。マクベスが本当に言いたいことをいくらか分かってるのは、娘だけというようにも捉えられた。日本人観客の多くが英語が分からない、という弊害あれど、字幕にするとか、思い切って観客に分からないのを演出にするのもありだったと思う。

魔女はいつ出てくるんだ?と思ったら「マクダフ、バンクォー、レノックスの顔を持った幽霊(レイディが戦場で殺した敵)としてレイディの前に現れる」という二役設定になっており、ここはうまいなと思った。

娘の存在はラストへつながるし、レイディの苦悩の原因となる新たなキャラとして効果的だった。彼女が事の流れを振り返るようなモノローグで、物語の案内をする。この名のない娘は、物語の外側にいることがあるために、まるで彼女の存在は透明な幽霊のようでもある。

 

(※下記、本作のラストのネタバレに触れていますのご注意ください)

帝王切開の悲劇

最後はレイディは、王になったマクベスが衰弱しきって戦場への指示が出せなくなったのを見て撃ち殺す。レイディは王冠を受けるが、片割れである夫を失ったために狂う。そして母親を娘がその銃で殺し、娘が王となる。

ここは原作における「女から生まれたものはマクベスを殺せない」という「帝王切開トリック」から来ている。原作では「自然分娩でなく母の腹を破って(帝王切開)生まれたマクダフがマクベスを殺す」のだが、ここでは「母の腹を裂いて出てきた娘がレイディを殺す」というラストになった。

(※帝王切開での出産は昔は死ぬことを意味していたので「女から生まれた」のではなく「死体から生まれた」ことを意味している。帝王切開=女から生まれていない)

ここもレイディが女たる所以の悲劇となっており、最初から最後までレイディは「女」であることを枷としているのは、テーマとしては統一はされているが、個人的にはしっくりこない部分だった。天海さんが強い女性を演じ、その中にある問題を彼女が発するのはたいへん説得力があるのだが、もし本当に現代的にするのならば、性差における問題を悲劇のままにオチにするのはどうなのかと思った。

一心同体のマクベス夫妻

パンフでは松岡和子先生の「マクベス夫人には名前がない」ということについての解説があり、新たな視点と解釈が広がる。また文庫本の訳者解説にも、マクベス夫妻の一人称複数表現「We(私たち)」について書かれているので併せて読むと大変面白い。

マクベス夫妻は愛し合う一心同体のカップルで、分かちがたい絆で結ばれている。他のシェイクスピア作品に比べても、これだけ「カップル」がフィーチャーされてるのはそうそうない。

松岡先生の訳と新解釈により、マクベス夫婦がニコイチだったことが証明され、この上演にも反映されている。

マクベス夫人とはいったい誰だったのか?(個人的な解釈)

マクベスとレイディが同等な関係にあり、他のシェイクスピア作品に比べると新しいカップル像を表現したのであれば、当時としてはかなり斬新であったと思う。

その中で、ではシェイクスピアは果たして男女の同等を表現したかったのか?というと時代的にちょっと違うのかもという疑問に当たる。

「私たち」を主語にすることで二人を主人公にする、新たな表現だったのかもしれないし、夫婦愛を描きたかったのかもしれぬ。

私がこのところ思っているのは、シェイクスピアは創作の上でノンバイナリーな側面があったのでは?ということである。作家が「異性」を描くときにどういうアプローチをしただろうか、ということを考える時に、ざっくり2つに分けると、「自分の外側にある理想または現実の異性像」を描く人と、「自分の中にある自己としての異性」を描く場合がある。シェイクスピアは後者に近い気がするのである。

十二夜』『間違いの喜劇』などで異性装が出てくるのは、当時の男性俳優のみの上演ゆえの演出というのが大きな理由だ。一人何役もするので、そこをトリッキーに演出に組み込んだ創作だったろう。しかしそれを難なく表現したのは、創作者としてのシェイクスピアの中では、ジェンダーへの境が曖昧な部分があったのではないか?という気もする。

マクベスの場合は、夫と妻が表裏一体で、実は一人の人間だった、という解釈もありなのではないか。マクベス夫人は、マクベスが殺人を実行するために作り出したもう一つの人格、というとらえ方もできる。戯曲で夫人の死は言葉によってしか表現されない。あれだけ存在感あるのに、彼女の死は説明台詞でしか語られない。そこで存在が曖昧となるのは、もともと存在しなかったからでは、という解釈もできる。魔女や幻がたくさん出てくるからありえなくはない。

あるいは女性を主役に書きたかったが、いろいろあってできなかった、というのもあるかも。この辺りの解釈は他の作品を読み込んで、考えてみたい。