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演劇は世界に何をもたらすのか~太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』東京芸術劇場プレイハウス

太陽劇団『金夢島』

あらすじ(公式より)

時は現代。病床に伏す年配の女性コーネリアは、夢の中で日本と思しき架空の島「金夢島(かねむじま)」にいる。そこでは国際演劇祭で町おこしを目指す市長派とカジノリゾート開発を目論む勢力が対立していた。夢うつつにあるコーネリアの幻想の島では、騒々しいマスコミや腹黒い弁護士、国籍も民族も様々な演劇グループらが入り乱れて、事態はあらぬ方向へと転がっていくのであった……。

太陽劇団 (テアトル・デュ・ソレイユ Théâtre du Soleil)について

創立者で演出家のアリアーヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)が主宰する太陽劇団。1964年に創立され、もうすぐ60年を迎えるフランスの老舗の劇団。他民族・多国家の劇団員から成り、「集団創作」というスタイルで知られている。パリ郊外のヴァンセンヌの森にあった旧弾薬倉庫(カルトゥーシュリ)を活動拠点としている。

今回初めて観劇したのだが、確かに個よりも集団を意識した作品作りだった。主役のコーネリアという女性はいれど、彼女は案内役であり大きな軸というわけではない。彼女が見る夢が入れ子構造のように舞台上に引き出されていく。いったい何人俳優がいるのか。今回は日本の能や歌舞伎などの日本的舞台様式を模しており、黒子や能面的な肌色のマスクなどで俳優の特徴や個性が分かりにくいため、集団としての動きが目立った。場面転換では大きな装置を動かしているのだが、転換の素早さはもちろん、足音やセットの移動音をほぼ感じさせない技術が素晴らしかった。演出や音響もあるが、転換含めて間合いで観客の集中を途切れさせないのは、劇団を長く続けていることと、その創作スタイルが所以であろう。

アリアーヌは1939年生まれで、ナチス占領下のフランスを経験している。うちの父と同い年の84歳ということだが、そのパワーに圧倒された。

スペクタクルな演劇世界

あらすじの通り、病床のコーネリアが日本にいると勘違いして、その夢の中の話を黒子的なポジションの守護天使の男に話している。その夢うつつの舞台が「金夢島」なのだが、演劇祭の人間関係や政治的あれこれはかなり日本的で、実話なのかなと思ったり。

現市長と反対派とか、カジノリゾートを目論む外国人とか、村的な人間関係、過疎化問題、などなど。一応ここが「物語」として流れてはいくのだが、テレ東の2時間ドラマぽいなと思っていた。元ネタはなんだったのだろう。

物語軸よりも、演劇祭に参加している各国の芝居が練習風景として差し込まれていくのだが、こちらの方が見ごたえがあった。香港の劇団は独立運動を、中東の劇団は宗教と人種で分断された歴史を、人形劇団は新型コロナが中国で発生した際の中国の対応を皮肉たっぷりに、アフガニスタンの劇団やブラジルの劇団も。時事を切り取ったり、戦争の悲劇を描いたり。全体主義や独裁への批判的目線が主だった。

日本の市民劇団のシーンは大衆演劇的な表現で、歌舞伎や能を模したものよりこちらの方が日本的な部分をよく表現してるなと思った。大衆演劇の方が太陽劇団との共通点が多いからしっくりくるのかもしれない。

『夏の夜の夢』に出てくる『ピラマスとシスビー』の引用や、聖書の「放蕩息子の帰還」、能・狂言・歌舞伎の引用はもちろん、日本的なセットや背景の浮世絵など、あらゆる物語やモチーフが咀嚼する暇なく繰り広げられる。見ているだけで精一杯だったが、それだけでも楽しい舞台だった。何故かヘリコプターに乗るダイナミックな演出があり、ほぼ話の筋には必要ないのだが、フランスのナントの「ラ・マシン (La Machine)」のパフォーマンスぽくて楽しかった。つくりものの舞台で見せる夢、という表現にぴったりだし、遊び心がある。

日本を愛する異邦人が見たファンタジーとしての日本

アフタートークで能、狂言、歌舞伎、太鼓などは実際に指導を受けたという。あいにくコロナ禍で大変だったそうだが、Zoomで専門家からしっかりトレーニングされたというだけあり、かなり丁寧に作っていた。あくまで太陽劇団としての表現なのだが、デフォルメしすぎたり、外連味強かったり、人種的な笑いに転じたりというのは感じなかった。

基本フランス語の台詞に字幕上演で、日本人にも分かりやすくするためなのか、フランス語の台詞まわしも比較的ゆっくりで聞きやすく理解しやすい。日本語台詞も相当練習したのが分かる。他の国の言語も多国籍劇団らしく、うまく散りばめていた。

人種的な表現がまったくなかったわけではない。フランス人が裸でうろちょろするとこは、日本とフランスの違いを面白おかしく表現していた。ここはちょっと自虐ギャグ?

肌襦袢をつかった裸体の表現は、昔のドリフぽさもあり、大人計画でこういうの見たことあったので、オリジナルでなくてどこか日本の劇団とかから拝借したのか。

全体的にアリアーヌもしくは劇団から見た日本像なので、日本であって日本でない世界を見せられてる面映ゆさはぬぐい切れない。「こんなに好きになってくれてありがとうね~」とは思うのだが、そうかこういうところに惹かれるのか、という不思議さが先立ってしまうのだ。フランスの公演時はどういう反応だったのか。

この面映ゆさは『アメリカン・ユートピア』と『フレンチ・ディスパッチ』を見た時に限りなく似ていた。前者は「白人が描く多民族文化」で、後者は「アメリカ人の見たフランス文化」みたいな感じ(でいいか自信ないがとりあえず)なのだが、表現としてのすばらしさよりも、現実とのずれの方が気になってしまうのは私だけではないと思う。

とはいえ日本も散々海外への憧憬を、愛という免罪符で時に素っ頓狂な表現でアートや文化に出しまくってきたので、よその事はいえまい。

仮面の使い方について

アフタートークの質問で「仮面は人種的ステレオタイプのように感じる」というのがあり、アリアーヌさんがショックを受けていた。「能面をオマージュしたもので、日本への愛を表現しています」とのことだった。

私も実は最初この仮面表現に違和感があった。コーネリアやフランスにいる現実世界の登場人物は仮面はなくそのままだが、夢の中の登場人物は全員仮面をかぶっている。日本人役だけでなく、外国人の役も同じものを被っているので、日本人を模しているわけではない。

仮面マスクは肌色で目と鼻の穴と口のところだけ穴があいている。肌色でストレッチ素材なので、厚手のストッキングを顔に被っているようにも見える。ストレッチ素材のためか、鼻の凹凸が消えて、少し目も小さく見えてしまうので、いわゆるアジア的な顔を表現していると勘違いしても仕方ないかもしれない。表情も消してしまうので、よく揶揄された「アルカイックスマイル」も思い出してしまった。

能面を模したのであれば、本当の能面のような硬質なタイプにするとか、お祭りのお面的なものでもいいかも。多分マスクは使いやすさを優先していて、人種的意図は全くなかったであろうが、使用した意図はもう少し掘り下げてもとは思った。

個人的には多国籍な演劇世界を表現してたので、人種や国にとらわれない世界を表現するための道具として、というようならよかったかもと思った。

「ブラックフェイス」の問題もいまだあるので、アジア圏の表現の問題は今後いろいろ出てくるだろう。

演劇による「美」は世界に「和」をもたらすのか

終演後のアフタートークはアリアーヌさんと、東京芸術祭総合ディレクター・宮城聰さん。通訳さんと劇団員も壇上に。

冒頭、宮城さんが「演劇による美は世界に和(平和)をもたらすのか」という、なかなか難しい問いを投げかける。宮城さんは「それについては自分は疑問がぬぐえない、それを言ってしまうのは傲慢ではないか」と常々思ってたそうだが、太陽劇団の公演を見て、アリアーヌさんの意見を聞きたかったのだという。

それについてアリアーヌさんは

ドストエフスキーが美が世界を救うと言っていた気がする。美は気持ちよいもの、しかし平和を望んでいない人にまで和をもたらさない。ナチスも音楽や美術を楽しんでいた。しかし、美を探求せずに制作はできない。美=和でなはい。」

「美は問題を解決することはできないが、人々を落ち着かせることはできる」

というとても芯の強い言葉が返され、宮城さんも楽しそうにうなずいていた。

その後「宮城さんのいう傲慢であるというのはよく分からない。どういうこと?」

とアリアーヌさんが問い詰めてて、宮城さんがあわわとなり。

アリアーヌさんは否定的な意見を受けるのが苦手というより、劇団として確固たるスタイルがあり、自分の表現への哲学があり、そこに自信があるのかなと思った。

それ以外にも

  • 演劇という道具で戦うという事は特権。人々に生きる喜び(美しいものや静かな時間)を与えること。
  • 絶望するためにやっていない。絶望と戦うためにやっている。
  • 公金をもらって、観客にチケットを買ってもらっている。
  • 演劇とはオアシスだが、現実を否認するものではない。

など印象的な言葉が多かった。フランスはナチス支配下にあった影響で全体主義や独裁主義への拒否反応が大きい。また議論したり市民が権利のために戦う文化が根付いている。漠然とした美というより、もっと現実につながった表現やアートへの意識が強い発言が多く、この辺は日本と違う部分かもしれないと思った。

Q&Aではあまり時間もなかったのもあって、細かいところまで聞くことはできなかったが、観客側の質問も幅広く盛り上がった。

「感謝」「癒し」「悟り」という言葉がランプに書かれていて、その意図は?という質問があったが、わりと感覚的に選んだようであった。電話の表現の効果や、鶴の意味なども、観客が思うほど深く掘り下げていたわけでもなかったようだった。

観客側は、特に異文化の観客は言語化することで意味を求め納得したいのかもしれないが、舞台上にあったものがやはりすべて、というのはどの演劇にも言える。

この劇団が持つ「感覚的な鋭さ」というのはまさに演劇的で、舞台でしかないものだった。「賛否どちらにせよ、もっと観客側も感覚を鋭くせねば、真の和はもたらされない」とでも投げかけてくるような刺激を受け取った公演だった。

 

  • 東京芸術祭総合ディレクター・宮城聰さんのコメント内にアリアーヌさんの発言の引用あり。

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