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ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

『もしもし、こちら弱いい派ーかそけき声を聴くためにー』東京芸術劇場シアターイースト

次世代演劇の若手3団体がショーケース方式での競演。

芸劇eyes番外編のvol.3、今回は副題に“弱さを肯定する社会へ、演劇からの応答“とある。「弱いい派」というネーミングと、初夏に見たウンゲツィーファの芝居が気になってチケットを取ってみた。

そもそもショーケース方式とは、と思っていたが要は3つの団体が順番に同じ舞台上で公演する。そのため個々の上演時間もコンパクトで、各団体が自分の特色を自己紹介するような感じだ。

団体ごとの転換がうまく、1番目と2番目の演目に両方とも自転車が出てくるので、暗転せず自転車を使って別の次元へ移るような演出が良かった。2番目と3番目の繋がりは暗転だったが、3番目の演目が暗闇での話なので、こちらも急激な変換でなく流れが良かった。全体制作側の演出だったらしく、一つのパフォーマンスとして成立したことで、3作品の特色をよりよく紹介できる結果になっていたと思う。

 

  1. いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』
    舞台中心に若い女性の部屋のセット、ソファや家具、女性は主にソファで寝転んでいる。その周りのセットは花屋や病院の受付や、彼女が働いているバイト先となり、女性2人が随時場面に応じてそこの店員等に扮する。女性・ハヤマはパニック障害で引きこもりになっており、そこへバイトのシフト表を持ってきた同僚の若い男性・ワタナベとのやりとりが主な話。このワタナベの対応が絶妙で、ハヤマとはただの同僚でさほど親しくもないが、つい成り行きで見捨ておけない状況にはまる。かといって彼はお節介すぎず、程よい距離感で言葉をかけていくのがなんとも心地よい。これは彼自身もハヤマとはまた違う弱さを抱えており、ハヤマの痛みは分からなくとも弱った人間にすべきことを理解している。話が進むにつれ、ハヤマとワタナベの弱さがほどけるように明かされ、彼らが少しずつシンパシーのようなものを交わす時、見ている側も彼らにその気持ちを重ねられずにはいられなくなる。そこにラジオの放送や、ハヤマの部屋の外で繰り広げられる芝居がふわりと重なるようにラストの結末へすっきりとつながる。
    背の高い男性が自転車で舞台上をグルグル回っており、そのうちハヤマの恋人であることが示唆されるのだが、実は彼は二役でワタナベの恋人役でもあった(俳優は1人だが、もちろんそれぞれの恋人は別人である)。このあたりの流れもとても上手だった。
    序章ということなので、本編は続きがあるのだろう。全体を見てみたいと思わせた。3演目の中では一番「弱いい派」のコンセプトを分かりやすく伝えていると感じた。

  2. ウンゲツィーファー『Uber Boyz』
    設定は近未来?らしく、登場人物は主にUber Boyzという配達員。配達するものもなんちゃらライフバゲッジ?で、世界は平面で縦の階層に分かれており、混沌とした雰囲気。とにかくすべてがハチャメチャで、セリフの意味も固有名詞も想像がつかない。配達員を誘導するホログラム役が「名前がコナンで衣装がワンピースのルフィでセグウエイで移動」って時点で無茶苦茶。ボーイズが配達するまでの冒険譚、ではあるがストーリーにほぼ意味はないようだ。異世界転生もの?と思っていたが、他人のやっているゲームを見ている感じであった。
    少年誌やマーベルっぽいネタがあったので、もしかして私の年齢的に分からないジェネレーションギャップかと思っていたが、周りの観客もほぼ面食らったような反応がマスク越しにも分かり、隣席の若者もほぼ引いて見てるのが分かった。
    出演者のほぼ全員が劇団の主宰をしていたり脚本を書くということから、皆でアイディアを出し合う共同制作の手法ゆえ、あえてこのような収拾のつかない、観客を面食らわせるような芝居を意図的にやっている、と途中で気づいてからは楽に観られた。とりあえずこのパワーを受け止めるというより、流れを見守るように。そんな風に芝居を見たのはあまりなかった。
    気になる点はいろいろあり、女性の存在がなく、男子中高生の閉鎖的な集まりを楽しむような感じがホモソーシャル的であり若干不快にもなったこと。セリフにそこかしこ印象的な部分はあるが、回収も説明もしない。観客に語りかけるし、笑える箇所も多いが刹那的で共有感覚は全くない。
    しかし理屈や予定調和を徹底的に無視していく、それで刺激され生み出されるものもあるかもやしれない。ふと思い出したのは、昔中学生の時に夢の遊民社の芝居を見た時のことだった。すでに絶大な人気を博していた劇団だが、13、4の子供にはなんのことやら分からず、結果しばらく芝居を見ることもなかった(贅沢な話である)。それと比べるにはあまりに違うのではと思うが、何か新しいパワーが生まれる瞬間は人に理解されにくいというのは多々としてある。この作り方が新しいとなるか、ただの内輪ノリの悪ふざけの思いつきとなるか、しばらく判断は保留してみたい。
    ちなみにこの大風呂敷をどう締めたかというと、「Uber  Boyz」というゲーム?の完成披露で、大ヒットしたのでシリーズ化!ドラマ化!などというメタオチでした。とにかくパワーで押し切った。

    <参考記事>
    【特集『もしもし、こちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』】ウンゲツィーファ 『Uber Boyz』本橋龍インタビュー | 演劇最強論-ing
    ウンゲツィーファ『Uber Boyz』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』):artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

  3. コトリ会議『おみかんの明かり』
    暗闇の中、微かな懐中電灯の明かり。静けさと暗闇の演出は恐怖というよりは、気だるく心地よい。
    女が湖の向こうにいる恋人に語りかける。恋人は死者で、湖は三途の川か冥界への入り口である。さしずめ2人はオルフェウスとエウリュディケ、イザナギイザナミである。女は湖に入り恋人に会いに行こうとする、これは会えなくなった人との再会の物語…としんみりしてたらピーピーピイイイ!と激しい笛の音。
    笛の主は銀河警察官で「生者と死者が触れ合うととてつもない爆発が起こるので監視している」という突然のSF。ウンゲに続きまさかのとんでも設定であった。
    とはいえ静かな雰囲気と、生者と死者の触れ合えない切なさは存外キープされ、全体のイメージは損なわれない。触れ合えない設定は、今のソーシャルディスタンスな世界も表現されている。現実は爆発はしないが、他者からの近接により感染し死にいたる(可能性がある)という点では同じ。結局恋人同士は触れ合い、爆発は起こり女の首が吹っ飛ぶ(ここでまさかのスプラッターギャグ)。そしてまた湖の死者に会いに来る生者がやってくるリフレイン。
    静謐で簡潔な舞台美術の中に、ホラーコメディな演出と可愛らしい擬音を散りばめた脚本が不思議と成立して、独特の世界に引き込まれた。

 

パニック障害精神疾患)、ウーバー配達員(非正規)、大事な人を喪失した人、という弱者とカテゴライズされる人をそれぞれ表現しているが、どれも各々の団体の特質が出ていて、コンセプトに縛られない表現力があった。

どの団体も30歳前後から下の年齢、「失われた10年」(もしくは25年)と言われた世代である。私はバブルが弾け就職氷河期がちょうど始まる頃に社会に出たので、彼らと共有する価値観もあるが、思春期のほとんどを「失われた」と定義づけされたのはどんな気持ちだろうと思う。もちろん私たちの世代にも女性の社会的地位の低さや、今のような多様性や教養を当然としない不公平さ理不尽さはあったが、今のような行き詰まった感覚とは違うかもしれない。

私たちより上の世代が消費するだけして、流され生きてきた時代に生まれた人たちが作り出すもの。パワーや知性だけではない、今までの価値観では測れない冷静で俯瞰的な情動を感じた。今までのような反骨精神や歴史の総括だの社会批判という共通認識、もしくは個人的な経験からの掘り下げた人間物語から演劇や文化を作り、はたまたそこからありきたりな癒しや希望を提示するというだけでは、とっくに頭打ちなのだと彼らは気づいていると思いハッとさせられた。