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『未練の幽霊と怪物ー「挫波」「敦賀」』KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ

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岡田利規 作・演出

本来ならば、2020年に6月に上演されていた演目。コロナ禍で中止となり、リモートで制作し映像として発表されている(こちらは未見)。満を持しての劇場での上演である。

ちなみに観劇したのは2021年6月、コロナ禍開催が物議を醸しまくっていたオリンピック直前である。これを書いているのは8月、オリンピックはとうに終わり、パラリンピック開催中。書かなかったのは私の勝手な都合だが、色々過ぎてから思い返してみれば、不思議と色々な線が見えてきてならない。

 

能の表現形式を借りた上演。セットはほぼなく舞台は低い平土間、能舞台と同じくメインは正方形で、下手に続く橋掛かりの道。美術はバミリのようなテープ、橋掛かり横に小さなカラーコーンのような照明。

全体照明は白色で明るく、終始変わらなかった。パンフ内で美術の中山英之さんによれば、照明にも工夫があったようなのでちゃんと見ておけばと後悔。イギリスのグローブ座内から見上げた丸い空(グローブ座は円形の野外劇場で上から見るとアルファベットのO(オー)の文字に見える)をイメージしているということだ。照明に強調された演出を施さないという演出。そういう意味では不自然な自然、とでも言おうか、照明によって印象を変えられたシーンは全くなかった。終始舞台全体を照らす白色の照明は、どこにも影ができにくいくらいはっきりと演者を見せており、見やすかった。これは中山さんが建築家というのもあるのだろうか。劇場という建築の中で、ホールという限られた空間のイメージの捉え方が生理的である。舞台は非現実であるけれど、現実との境のない空間を作る。

劇場という結界の中で、観客は外から見えない限られた現実を生きる。という意味では建築は限りなく舞台に近い。建築という結界の中で、人は役割を与えられて演じる演者のようである時がままある。

演奏者(囃子)はメインの平土間の奥に並ぶ。反して歌手(謡)の七尾旅人さんは舞台上ではなく上手の端にいる。機材や音響の都合もあるのだろうが、歌手が俳優と同じ舞台に乗らないことでより歌の存在感が重要になる。俳優が演じ踊る間、ずっと声が響き、声だけが一体化する。

音楽監督で演奏もしていた内橋和久さんの、ダクソフォンという楽器がこれまた印象的。打楽器のようで、弦楽器のようで。音が動物や自然の音のように感じるので、これ楽器?なんの音?と時折思いつつも、違和感はなく。七尾さんとのセッションなのか、計算されている演奏なのか、分からない感じも、曖昧でふわふわした感覚が心地よかった。

 

シテは石橋静河さん、ワキは栗原類さん、アイは片桐はいりさん。

栗原さん演じる旅行者が下手から出てきた時、ランウエイじゃんと思ったのは私だけではあるまい。ご本人にしたら俳優として出てるので、褒め言葉ではないかもしれないが、何をしたわけでもないのに一瞬パッと目を引く出方は武器だと思う。服の着こなしが一番ハマってて、衣装じゃない感じ。普段から着てます、私おしゃれな旅行者なんです感。ましてや設定がもんじゅのある白木地区に来た旅行者、謡の説明があれど言わなくても「よそもの」感がばっちり。その後に地元の人役の片桐さんに「(よその人は)こういうことが分かってないんだよね」と拒否されるくだりでの、どう反応したらと佇む感じ。あまり動きも表情の変化もないのだが、ただ「いる」ということが能のワキとしては最高なんでは。そしてしつこいようだが衣装の着こなしが最高。

石橋さんは旅行者と接する波打ち際の謎の女。彼女は自分の子供のようにもんじゅを嘆く。そして後シテでは「核燃料リサイクル政策の亡霊」として舞う。リサイクルとしての回転もあるのだろうが、もんじゅ本体としても受け取れるような、淡々とした無機質な軸回転。ここはバレエを基礎としている石橋さんの体幹の強さに感嘆。悲しみや未練を言葉として発する「女」と、無機質な動きの「怪物」との対比。体のラインを拾わない衣装は、動きに沿うことも翻ることもあまりないが、むしろその無機質性や踊りの特質に合っていた。

片桐さんは表情も台詞も動きも他より一際大きく、じわじわと間を詰めて、空気を切り裂くように物語を仕切る。出ている時間はワキの半分もないかもしれないが、坐波の方にも出ており、都度発するエネルギーが半端ない。

坐波でワキをつとめた太田真吾さんが、パンフでまさに白木地区を訪ねた話を書いている。2020年の本作上演前に白木地区へ取材へ行き、その最中に延期決定を聞く。からの更なる各地への取材(感染予防は徹底されている)は読み応えがあった。表題の「観光客に何が可能か?」は「演劇に何が可能か?」に置き換えることもできる。豊岡市の「演劇におけるまちづくり」での住民と外部から来た演劇人との温度差についても、実際に現場へ旅した演劇人の目線であり、複雑な「観光客」的な目線が混在していた。政治家と演劇人と、地元に寄り添っているのは果たしてどちらなのか。メディアの表面的な取材だけでは見えてこない部分はあるだろう。このあたりの問題は演劇のみならず、地方のアート系イベントにも通じる。活動に意義はあるだろう、効果もあるだろう、しかし弊害も生まれ、それが育てば「怪物」になる可能性もある。奇しくもこれを書いている数日前に2021豊岡演劇祭は中止となった。

(参考記事)

兵庫・豊岡で市長交代 どうなる演劇のまちづくり: 日本経済新聞

「オリザ氏のせいで市民活動が妨げられた」は事実誤認、豊岡市長が発言訂正|総合|神戸新聞NEXT

ところで、白木地区でのエピソードは本作に通じているので、何故敦賀のワキが太田さんでなかったのか謎ではある。

 

・「挫波」

シテは森山未來さん、ワキは太田信吾さん、アイは片桐はいりさん。

森山未來について書かねばなるまい。オリンピックの開会式の森山未來、挫波の森山未來、これは地続きになっている。

最初のシテは日本の建築家。建築中の新しい国立競技場について旅行者に語る。コンペで圧倒的支持を得ながら、政治的な思惑から反故になったあのザハ・ハディドの建築プランのことだ。

圧巻は後シテで、その「実現しなかった建築」の思念を体現化したような舞であった。おそらくはザハの怨念と捉えた向きも多かったと思うが、パンフ内で美術の中山さんが「ザハはそんなことは思わない」というアドバイスもあり、変更したとの事。確かに人というよりは、化け物という動きで、明らかにこの世のものではない。無機質な敦賀の後シテとは対照的であった。石橋さんのベースがクラシックバレエである事と、森山さんのルーツがジャズやタップと多岐に渡るという違いもあるのか。はいつくばりうねる体、緩やかに体を覆う衣装から見える四肢は思ってもない方向に捻れているように見える。春先にシンエヴァ見ていたので、これはビースト化したエヴァ…!などふざけたことも考えていたが、そのくらいやばいものを見た感覚があった。舞台という結界に封じ込められた魔物であった。

これを見たときはコロナ禍でのオリンピックの是非が論議され、開会式のあれこれはまだだったように思う。この踊りこそ象徴的で開会式にふさわしい、しかしあまりに批判的に取られるから無理かななどと思っていたら、あの開会式である。開会式の踊りは1972年のミュンヘンオリンピック中に殺害されたイスラエル選手への追悼だが、鎮魂や慰霊という意味では共通している。

元々のMIKIKOさん案からキャスティングされてた経緯もあるが、森山さんがインスタでMIKIKOさんのみならず、小林さんや岡田さんにも言及しているところを見ると、挫波の舞を念頭にあってのこの開会式であったのは明々白々。実現しなかったザハ建築と、延期された2020年のオリンピックとそれに付随するトラブルによって消えたクリエイターたちの無念がここでつながる。ザハ建築の怨念を体現した森山未來が、それに成り代わったデザインの建築物で踊るというのはなんたる皮肉、と思っていたが、終わってみればこれほどしっくりくることもない。

この踊りを見たのよ、生で見たのよ、とどこへとはなく誇りたい気持ちにすらなった。開会式が無観客であったこともあり、森山未來の一世一代の鎮魂の舞、それは神奈川の大きくはない舞台上では観客に見届けられ浄化された。

ところで上記で美術はグローブ座のO(アルファベットのオー)の形(ほぼ正円)を参考にしていると記したが、新国立競技場は屋根がなく上から見ると数字の0(ゼロ)の楕円形に見える。似たような形の空が見える舞台で、森山未來が踊ったというのも面白い因縁である。

太田さんは旅行者で建築中の新国立競技場を見ている。ジョギングでもするようなスポーツウエアで、時折足をストレッチのようにひねったり伸ばしたりする。ゆるゆるとした動作は気にはならないが、時間の経過を緩やかにする。催眠術の小道具のようだ。栗原さんのワキとはまた違う存在感。栗原さんのワキが瞬間で時空を止める「静」のワキなら、太田さんのそれは緩やかに動く「動」のワキだった。

パンフでワキは「美容室の鏡」という喩えがあり、観客はシテをワキを通じて見ている。その構造は意識して感じるものではないが、栗原さんと太田さんを見ていると、彼らがいることでワンクッションあり、こちらは得体の知れない怪物を安心して受け入れることができる。

片桐さんはここでも近所に住む人間のリアルな言葉を吐き出す象徴的な「人間」を演じる。謡の歌とは違う、話す言葉は言霊のように蠢いてこちらを刺激する。個々の声というよりは、どこかでネットで聞いた噂話のようで、受け止めたワキのそばで残る。それを後シテで浄化される一連の流れは儀式だ。

福島の原発にも通じる話ではあるが、今までの鎮魂の表現に比べて違うのは、それにまつわるすべて、未練の怪物を引き起こしたそもそもの原因を包括して、なんもかんも成仏させようというパワーを感じた。もちろん批判的視点はしっかりあれど、では批判対象を批判するだけで終わりでいいのか、という視点もある。そしてそこに観客も巻き込んで、ひいては森山未來の開会式に至るまで、メタ的創作ではとさえ思った。この話は延々と続くのかもしれない。石橋さんがぐるぐると舞ったもんじゅの回転のように、私たちも結局はいろいろなシステムの一部分でしかない。

劇場を出た後に、横浜スタジアムの横を通った。オリンピックで野球の会場に使用されるので、その準備をしていた。中は見えず高いフェンスに囲まれているハマスタ

 

(余談)
そういえば、私は国立競技場にほど近い高校に通っており、体育祭も国立競技場でやったりしたし、大学時代にはサッカーの試合の時の売店のバイトをしていた。旧国立競技場がなくなるのはちょっと寂しい気もしたが、ザハ建築はわりと楽しみにしていた(そういう意味で言うと旧国立競技場の未練というのもあるな)。今作の舞台美術の中山英之さんは、ザハに憧れて建築家になったという熱いザハ推しなのだが、この方も国立競技場近辺の高校に通っていたらしい。ネット記事でインタビュー読んでたら、なんかこの人同じ学校なのでは…と思われるエピソードがちょいちょいあった。