je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

私とあなたと誰かの物語『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』

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「個人的な感情を呼び起こす、とても個人的な内容の映画」

という風に思わせてしまう物語こそが、真に素晴らしいといつもドランの映画で思う。

 

感想や批評(これが批評と呼べるかどうかは別として)は、客観的であった方がよいのではという先入観がある。実際、分かりやすい表現はだいたいロジカルだし、俯瞰的。読んでいて唸ってしまったり、膝を打つような爽快感はそういう文章にある。

 

けれど胸を締め付けるような、昔味わった甘苦い微かな思いのような、おぼろげだが強烈なイメージを瞬時に、しかも肌をざわつかせるような実感すら伴って感じさせる物語はなぜかとても個人的なエピソードであることが多い。

今作は久しぶりに、思いがけず、そんな映画体験をした。

 

グザヴィエ・ドランの新作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』は、ドランが幼少期に憧れたディカプリオへ書いたという手紙をヒントに描かれたフィクションである。

少年ルパートが憧れるドノヴァンはディカプリオと見てもいいのだが、夭折した80年代のスター、リバー・フェニックスがベースにある。

 

とはいえ、ドノヴァンの設定はスターとしては少し小物感もあり(TVスターでアメコミ映画の主役候補)、家庭問題や性志向の悩みなどリバーとは重ならない。

ちょうどリバーの生い立ちの記事を目にした後で、リバーの抱えていた問題は想像を超えるものであり、だからこそ彼はあれほどまでに光り輝いていたのだと改めて気づき、映画はあくまでフィクションであるスタンスで見ていられた(記事についてはあまりにスキャンダラスな内容であり、彼のためにも本来は掘り返すべきではなかったのではと思う)。

そんな新たな物語でありつつも、ドランが紡いだ繊細な物語の中で、なぜリバーは死んだのか?という永遠の問いにひとつの答えを出している。

それがリバーファンにとって正解かどうかはわからないが、ドノヴァンが少年に書き綴ったであろう悲しみや悩み苦しみは、先日ホアキンアカデミー賞でのスピーチ、そして引用したリバーの言葉を思い起こさせた。

そうだ、リバーは美しい人だった。太陽の輝きではなく、その奥底に澱んだ藻が揺らめいている沼の水面の月の輝きのようなさみしい美しさだったと。

 

本来は4時間あるそうで、現代と過去の時間軸、ドノヴァンとルパートのエピソードがそれぞれ交差するので、話の流れを掴むのが少し難しいかもしれない。でもドラン独特の映像美と、定番の母親との確執エピソードなど丁寧に描いているので滲み入るセリフや映像が多い。

冗長と感じる人も多いだろうし、雰囲気に乗れない人もいるかもやしれない。

しかし、この映画はドランからリバーやディカプリオへの、そして私たちへの、または私たちから誰か大事に思う遠い誰かへの、とてもプライベートな読まれることのなかった手紙のような映画なのだ。徹底的にエモいところにこの映画の良さがある(と思う)。

 

とても個人的な感想になるけれど、私にとってとても大事な映画監督シリル・コラールの映画『野生の夜に』を思い出し涙した。その映画の最後のセリフが"je suis dans la vie(僕は生きている)"で、このブログのタイトルでもあるのだけれど、シリル演じる主人公が当時は死の病であったエイズを発症し、悩み苦しみ周りを巻きこみ最後に発する言葉である。とても身勝手な主人公だったが、彼の生きる苦しみと死への恐れに何故かひどく共感した。生きることは苦しく、愛することは傷つけ傷つく、人生とは痛みを伴うもの。なのに人はすがりついてしまう。「人生は美しい」と謳う映画よりも、よりリアルだった。

 

シリルの命とアーティストとしての輝かしい未来を奪ったエイズは、今は予防薬もあり、死の病ではなくQOLは圧倒的に上がった。同性愛への差別は依然としてあるけれど、皆それぞれの幸せを自由に選択できる世界は確実に広がっている。リバーの再来といわれた美少年ディカプリオは、いい感じに垢のついた生き生きとしたおじさんになり若い女の子のお尻を追いかけている。できるだけそのままいい感じの好好爺になるのを楽しみにしている。

 

人生は相変わらず苦しくて悲しい。だけれど、ドランが描く今は、誰かを想う時、そこに光はあると指し示してくれる。