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ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

劇場というラビット・ホール〜『兎、波を走る』東京芸術劇場プレイハウス

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(※ネタバレしますので、これから観劇される方はご注意ください。)

「“潰れかかった遊園地”を舞台に繰り広げられる “劇中劇(ショー)”のようなもの」

「そして、そこに“アリス”が登場する」

(HPイントロダクションより抜粋)

具体的な内容に触れている箇所はこれだけである。が、これも知らずに見た方がよい。もしくは今作については、ある程度モチーフについて分かっていた方がよいかもしれない。野田さんの作品は、ある大きなテーマを後半に見せるのが大きな仕掛けで、それをネタバレしない事がNODAMAP観劇における暗黙の了解になり、驚き感動することがよしとされている。私も何度もその仕掛けに酔い、時に涙し、心揺さぶられる快感を感じたが、今回ばかりはこれはあえて内容を露わにして、あらゆる人に知らしめるべきではとも思った。

さまざまな演劇とのつながり

客入れBGMは古いソウルミュージックが最初に。アレサの "A Change" 、声ですぐ分かる。アレサはいつも入ってるので、選曲者の好みなのだろう。ニーナ・シモン高田渡RCサクセション高橋幸宏坂本龍一。曲名はすぐには出てこないが、聞いたことのある曲や声が響く。

開演前、薄暗い舞台の床に月のクレーターの模様が見える。兎の住むという場所のイメージ。

上手と下手から演者が出てきて、いつのまにか芝居が始まる。

タイトルロールの兎、の役らしい高橋一生が、地球の6分の1の重力の月の上を歩くようなスローモーションでやってくる。先日、鈴木杏さんが『エンジェルス・イン・アメリカ』でまさに同じ動きをしており(演出は鈴木さん提案からの意図的なオマージュ)、直後に本家で見ることになりコールアンドレスポンスみたいだった。野田さんが鈴木さんのそれを見たかどうかは分からないが、縁深き二人なのでおそらく知ってはいたのではないか。さらに、本作のキーワードの一つがー「こだま」であったり、『エンジェルス〜』と演出面で通じるものもあり、舞台と舞台が時空を超えて繋がっているかのような不思議を感じた。

他の作品との繋がりは他にもあった。野田版『真夏の夜の夢』を2020年秋に演出したシルヴィヴ・プルカレーテの幻想的な美術や衣装のイメージ、映像技術を効果的に配した演出などは影響があったのではないか。1992年の野田演出を見ていないのだが、近年の映像技術(プロジェクションマッピング等)の進歩を考えると、今どのように取り入れるか大いに参考にしたのではと思う。そして、今回のモチーフの『不思議の国のアリス』は野田版夏夢でもモチーフとして使われている。ちなみに2022年の『守銭奴 ザ・マネー・クレイジー』への応援コメントで、野田さんはプルカレーテを「大好きな演出家」と絶賛している。

もう一つ思い出したのは、今年4月に公演のあった、ゆうめいの『ハートランド』。こちらを野田さんは観劇され褒めていたそう。池田亮の作品にはVtuber、バーチャル、アバターメタバースが出てくる。それ自体は今さら珍しいモチーフではないが、演劇に落とし込む時にゆうめいはかなりうまく、そして独自の世界観として表象できていると思う。野田さんの今作では、参考にしたとまではいえるか分からないが、演劇というアナログの中でデジタルをどのように扱うのか?否定するのか受け入れていくのかという逃れられない問題について、野田さんならではのアプローチと、作品世界への落とし込み方は流石であった。仮想現実というモチーフを『ハートランド』では池田さんは救いとして描いたが、野田さんはまた少し違う扱い方をしている。しかし頑固な年寄りの否定的な姿勢ではなく、かといって若い世代への媚びでもない。時代が変わろうとも、人間の中にあるまだ限りないであろう力を信じている、とでも言うような強い意志を込めている。それはこれまでの作品の中にもあった。

ハートランド』とのテーマとしての共通項もあったが、それは後述。

幾重にも重なる時空の仕掛け

舞台には大きな滑り台のセットがある。黒い背景(仕切り)の真ん中にダイヤ型の小窓が現れて、広がっていくと後ろに新たなスペースがある。その仕切りが全開になり、奥のスペースが広がる鏡が奥壁面いっぱいになり、人の姿が幾重にも重なる。『鏡の国のアリス』のイメージ。

月の模様があるステージ真ん中には穴が出現して、アリスや兎がやってくる。いわゆる異世界へ続く「ラビット・ホール(兎の穴)」である。巨大な懐中時計が振り子のように時を刻む。奥の世界から前面への移行は前述の『エンジェルス〜』のセットにも似ている。あるいは、夢幻能の「過去と現在/現実と異世界」の表現にも通じる。分離する滑り台は、橋掛かりのようにも。能の世界観は『フェイクスピア』でもあったので、さほど珍しいとはいえないが、今作は二つの違う世界が兎の穴で通じている、というはっきりした形があった。

珍しいとはいえないが、仕切りやレイヤーで見せないところと見せる部分を細かく分けた異化効果は『守銭奴』でのプルカレーテの演出に似たものもあった。というより、お互いに影響があるのだと思う。

劇中劇の設定ベースで、元女優(秋山菜津子)の経営する「遊びの園」で催される芝居にアリスが出てくる。芝居を書く作家1(大倉孝二)と作家2(野田秀樹)は最後の芝居を書こうと競っている。再開発を目論んでいるシャイロック・ホームズ(大鶴佐助)、さらに第三の作家(山崎一)も混じり、混沌を極める。脱兎(高橋一生)、アリス(多部未華子)、アリスの母(松たか子)は、劇中劇の登場人物なのか、はたまた幻なのか現実と異世界を行き来する存在としている。

実は作家1の名はチエ・ホウフ(知恵豊富)で、作家2の名はベルト取ると・ブレる人。それぞれ名劇作家の子孫である。元女優もとある名作の登場人物の名が由来。「潰れかかった遊園地」のイメージはーその作品世界も被せている。シャイロックはおそらくシェイクスピア作品からだし、ピーターパンの話も混じり、縦横無尽に時空が重なる。作家2はしきりに「閉鎖された劇場」についての未練と怒りを愚痴っていたり(青山円形かコクーン?)、LGBTに言及するセリフもあったり、時事にも触れているが、どんどん世界は目眩く変わって惑わされる。

混沌と滅びゆく遊園地の中で確かなこと。

それはアリスの母はアリスを探していて、その鍵は兎が握っている。

細工は流々、仕掛けは上々

いよいよ核心に近づくにつれ、そうだろうなという予感はあった。

というより、兎と波がタイトルにあった時に、私の頭には新潟の海のイメージがあった。春先に新潟に行ったという偶然もあった。

そして私はなぜか『フェイクスピア』の感想でその事件について脈略なく触れている。

NODA・MAP『フェイクスピア』@東京芸術劇場プレイハウス - je suis dans la vie

予感とか予言とかではなく、野田さんが「忘れてはいけない事件(しかし忘れられていく)」という事を描く限りは、必ずこれはいつかやるだろうと思っていた。

北朝鮮の日本人拉致事件横田めぐみさんがアリスであり、アリスの母は母・早紀江さんである。

松たか子さんはとても慎重に、そして多少の戸惑いも隠さず、演劇というフィクションの中でもぶれずに、子を探す母を演じた。決してそれ以上にもそれ以外にもならぬよう。パンフで松さんが「自分でなくてもいいのでは?」という不安があった(役柄がというよりカンパニーの俳優陣のうまさに押されてということらしい)そうだが、いやいや松たか子でよかった。この人がいる時代にいて良かったとしみじみ思った演技。もっと激情や主張を前面に出してこちらの涙の堤防を暴力的にも打ち壊す俳優は、いくらでも思いつくし上手い人もいるだろう。が、しかしこの役はそれではいけない。現在進行形の事件の母親の言葉、幾重にも積み重なった、まさに時空を超えた想いを伝えるには、その事を「分かったふり」だけの俳優ではできない。松たか子の迷いと、それでも着実に前進する、ただそれだけの演技ででしかできないものだった。

多部未華子さんの存在は、もうまさにその声。あの「遠くにこだまする呼び声」は、残酷なまでに観客に訴えかける。

AIやメタバースが出てくるが、ある意味演劇は現実世界を再現するもう一つの世界とするなら、これほど残酷で悲しく、しかし強い表現があっただろうか。声だけでなく、多部さんの小柄で、いつまでも少女のような姿も残酷すぎるほどだった。

高橋一生さんは、フェイクスピアに次いで、事件の核心部に近い、難しい役柄だった。

北朝鮮工作員の成り立ち、拉致方法の再現、脱北、よど号、38度線。現在進行形でなにも解決していないのに、頭の隅にあるのにそれでも薄れていく。

幾重にも重ねたレイヤーを剥がすと、そこにあるのは母の時空を超えて変わらぬ思い。

いや、その思いの一片すら、私たちは理解してない。だから忘れてしまう。思い出すまで忘れている。

母と娘の着ている青い服、えくぼ、美しい夕焼けの家路、母を呼ぶ声、娘を探す母。「チラチラ」「うじとじごく」という言葉、タイトルのアナグラム。たくさんの目眩くレイヤーの中で、野田さんは観客の脳にねじりこむように大事な事を印象付けていく。忘れるな、忘れてはいけない。

政府認定の拉致被害者|外務省

横田めぐみさんについて(外務省HPより)→https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000095556.pdf

劇場というラビット・ホール

前述の『ハートランド』では、失踪した息子を探す父が出てきて、残されたメタバースの中で息子の足跡を見つける。それは救いであり、もしかしたら息子はまだどこかにいるという希望を父親に与える。

今作では、アリスの母はアリスの行方を知る兎に出会い、その行方を知る。まったく手掛かりのない時に比べたら、その時の情報はどれだけの希望であっただろうか。

今作は決して希望を見出すものでも、過ぎた時を見返す「物語」ではない。フィクションではないからだ。

これほどまで不条理で信じ難い事件を、どうしたら人の心に刻むことができるか。TVの向こうの現実へ辿り着くには、フィクションのレイヤーを剥ぎ取るにはどうしたら。野田さんの切なる表現への願いは、今回は憎しみと悲しみと怒りと決意をより強くはっきり感じた。

できることなら、演出家も俳優も観客も、そこにあるのは夢の世界だとて、劇場というラビットホールは常に現実世界に繋がっていることを忘れないでほしい。それがすべてに希望へ変化する。AIでない我々に残された能力はそれだけかもしれない。

  • 美術セット

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帰り道、池袋の地下道で見たポスター。怒りしかない。
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劇場を出てスマホで関連事項を検索した時に出てきたニュース。悔しい。悲しい。腹が立った。

北朝鮮「拉致は解決済み」と表明 国連シンポ計画を非難(共同通信) - Yahoo!ニュース