je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

劇場というラビット・ホール〜『兎、波を走る』東京芸術劇場プレイハウス

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(※ネタバレしますので、これから観劇される方はご注意ください。)

「“潰れかかった遊園地”を舞台に繰り広げられる “劇中劇(ショー)”のようなもの」

「そして、そこに“アリス”が登場する」

(HPイントロダクションより抜粋)

具体的な内容に触れている箇所はこれだけである。が、これも知らずに見た方がよい。もしくは今作については、ある程度モチーフについて分かっていた方がよいかもしれない。野田さんの作品は、ある大きなテーマを後半に見せるのが大きな仕掛けで、それをネタバレしない事がNODAMAP観劇における暗黙の了解になり、驚き感動することがよしとされている。私も何度もその仕掛けに酔い、時に涙し、心揺さぶられる快感を感じたが、今回ばかりはこれはあえて内容を露わにして、あらゆる人に知らしめるべきではとも思った。

さまざまな演劇とのつながり

客入れBGMは古いソウルミュージックが最初に。アレサの "A Change" 、声ですぐ分かる。アレサはいつも入ってるので、選曲者の好みなのだろう。ニーナ・シモン高田渡RCサクセション高橋幸宏坂本龍一。曲名はすぐには出てこないが、聞いたことのある曲や声が響く。

開演前、薄暗い舞台の床に月のクレーターの模様が見える。兎の住むという場所のイメージ。

上手と下手から演者が出てきて、いつのまにか芝居が始まる。

タイトルロールの兎、の役らしい高橋一生が、地球の6分の1の重力の月の上を歩くようなスローモーションでやってくる。先日、鈴木杏さんが『エンジェルス・イン・アメリカ』でまさに同じ動きをしており(演出は鈴木さん提案からの意図的なオマージュ)、直後に本家で見ることになりコールアンドレスポンスみたいだった。野田さんが鈴木さんのそれを見たかどうかは分からないが、縁深き二人なのでおそらく知ってはいたのではないか。さらに、本作のキーワードの一つがー「こだま」であったり、『エンジェルス〜』と演出面で通じるものもあり、舞台と舞台が時空を超えて繋がっているかのような不思議を感じた。

他の作品との繋がりは他にもあった。野田版『真夏の夜の夢』を2020年秋に演出したシルヴィヴ・プルカレーテの幻想的な美術や衣装のイメージ、映像技術を効果的に配した演出などは影響があったのではないか。1992年の野田演出を見ていないのだが、近年の映像技術(プロジェクションマッピング等)の進歩を考えると、今どのように取り入れるか大いに参考にしたのではと思う。そして、今回のモチーフの『不思議の国のアリス』は野田版夏夢でもモチーフとして使われている。ちなみに2022年の『守銭奴 ザ・マネー・クレイジー』への応援コメントで、野田さんはプルカレーテを「大好きな演出家」と絶賛している。

もう一つ思い出したのは、今年4月に公演のあった、ゆうめいの『ハートランド』。こちらを野田さんは観劇され褒めていたそう。池田亮の作品にはVtuber、バーチャル、アバターメタバースが出てくる。それ自体は今さら珍しいモチーフではないが、演劇に落とし込む時にゆうめいはかなりうまく、そして独自の世界観として表象できていると思う。野田さんの今作では、参考にしたとまではいえるか分からないが、演劇というアナログの中でデジタルをどのように扱うのか?否定するのか受け入れていくのかという逃れられない問題について、野田さんならではのアプローチと、作品世界への落とし込み方は流石であった。仮想現実というモチーフを『ハートランド』では池田さんは救いとして描いたが、野田さんはまた少し違う扱い方をしている。しかし頑固な年寄りの否定的な姿勢ではなく、かといって若い世代への媚びでもない。時代が変わろうとも、人間の中にあるまだ限りないであろう力を信じている、とでも言うような強い意志を込めている。それはこれまでの作品の中にもあった。

ハートランド』とのテーマとしての共通項もあったが、それは後述。

幾重にも重なる時空の仕掛け

舞台には大きな滑り台のセットがある。黒い背景(仕切り)の真ん中にダイヤ型の小窓が現れて、広がっていくと後ろに新たなスペースがある。その仕切りが全開になり、奥のスペースが広がる鏡が奥壁面いっぱいになり、人の姿が幾重にも重なる。『鏡の国のアリス』のイメージ。

月の模様があるステージ真ん中には穴が出現して、アリスや兎がやってくる。いわゆる異世界へ続く「ラビット・ホール(兎の穴)」である。巨大な懐中時計が振り子のように時を刻む。奥の世界から前面への移行は前述の『エンジェルス〜』のセットにも似ている。あるいは、夢幻能の「過去と現在/現実と異世界」の表現にも通じる。分離する滑り台は、橋掛かりのようにも。能の世界観は『フェイクスピア』でもあったので、さほど珍しいとはいえないが、今作は二つの違う世界が兎の穴で通じている、というはっきりした形があった。

珍しいとはいえないが、仕切りやレイヤーで見せないところと見せる部分を細かく分けた異化効果は『守銭奴』でのプルカレーテの演出に似たものもあった。というより、お互いに影響があるのだと思う。

劇中劇の設定ベースで、元女優(秋山菜津子)の経営する「遊びの園」で催される芝居にアリスが出てくる。芝居を書く作家1(大倉孝二)と作家2(野田秀樹)は最後の芝居を書こうと競っている。再開発を目論んでいるシャイロック・ホームズ(大鶴佐助)、さらに第三の作家(山崎一)も混じり、混沌を極める。脱兎(高橋一生)、アリス(多部未華子)、アリスの母(松たか子)は、劇中劇の登場人物なのか、はたまた幻なのか現実と異世界を行き来する存在としている。

実は作家1の名はチエ・ホウフ(知恵豊富)で、作家2の名はベルト取ると・ブレる人。それぞれ名劇作家の子孫である。元女優もとある名作の登場人物の名が由来。「潰れかかった遊園地」のイメージはーその作品世界も被せている。シャイロックはおそらくシェイクスピア作品からだし、ピーターパンの話も混じり、縦横無尽に時空が重なる。作家2はしきりに「閉鎖された劇場」についての未練と怒りを愚痴っていたり(青山円形かコクーン?)、LGBTに言及するセリフもあったり、時事にも触れているが、どんどん世界は目眩く変わって惑わされる。

混沌と滅びゆく遊園地の中で確かなこと。

それはアリスの母はアリスを探していて、その鍵は兎が握っている。

細工は流々、仕掛けは上々

いよいよ核心に近づくにつれ、そうだろうなという予感はあった。

というより、兎と波がタイトルにあった時に、私の頭には新潟の海のイメージがあった。春先に新潟に行ったという偶然もあった。

そして私はなぜか『フェイクスピア』の感想でその事件について脈略なく触れている。

NODA・MAP『フェイクスピア』@東京芸術劇場プレイハウス - je suis dans la vie

予感とか予言とかではなく、野田さんが「忘れてはいけない事件(しかし忘れられていく)」という事を描く限りは、必ずこれはいつかやるだろうと思っていた。

北朝鮮の日本人拉致事件横田めぐみさんがアリスであり、アリスの母は母・早紀江さんである。

松たか子さんはとても慎重に、そして多少の戸惑いも隠さず、演劇というフィクションの中でもぶれずに、子を探す母を演じた。決してそれ以上にもそれ以外にもならぬよう。パンフで松さんが「自分でなくてもいいのでは?」という不安があった(役柄がというよりカンパニーの俳優陣のうまさに押されてということらしい)そうだが、いやいや松たか子でよかった。この人がいる時代にいて良かったとしみじみ思った演技。もっと激情や主張を前面に出してこちらの涙の堤防を暴力的にも打ち壊す俳優は、いくらでも思いつくし上手い人もいるだろう。が、しかしこの役はそれではいけない。現在進行形の事件の母親の言葉、幾重にも積み重なった、まさに時空を超えた想いを伝えるには、その事を「分かったふり」だけの俳優ではできない。松たか子の迷いと、それでも着実に前進する、ただそれだけの演技ででしかできないものだった。

多部未華子さんの存在は、もうまさにその声。あの「遠くにこだまする呼び声」は、残酷なまでに観客に訴えかける。

AIやメタバースが出てくるが、ある意味演劇は現実世界を再現するもう一つの世界とするなら、これほど残酷で悲しく、しかし強い表現があっただろうか。声だけでなく、多部さんの小柄で、いつまでも少女のような姿も残酷すぎるほどだった。

高橋一生さんは、フェイクスピアに次いで、事件の核心部に近い、難しい役柄だった。

北朝鮮工作員の成り立ち、拉致方法の再現、脱北、よど号、38度線。現在進行形でなにも解決していないのに、頭の隅にあるのにそれでも薄れていく。

幾重にも重ねたレイヤーを剥がすと、そこにあるのは母の時空を超えて変わらぬ思い。

いや、その思いの一片すら、私たちは理解してない。だから忘れてしまう。思い出すまで忘れている。

母と娘の着ている青い服、えくぼ、美しい夕焼けの家路、母を呼ぶ声、娘を探す母。「チラチラ」「うじとじごく」という言葉、タイトルのアナグラム。たくさんの目眩くレイヤーの中で、野田さんは観客の脳にねじりこむように大事な事を印象付けていく。忘れるな、忘れてはいけない。

政府認定の拉致被害者|外務省

横田めぐみさんについて(外務省HPより)→https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000095556.pdf

劇場というラビット・ホール

前述の『ハートランド』では、失踪した息子を探す父が出てきて、残されたメタバースの中で息子の足跡を見つける。それは救いであり、もしかしたら息子はまだどこかにいるという希望を父親に与える。

今作では、アリスの母はアリスの行方を知る兎に出会い、その行方を知る。まったく手掛かりのない時に比べたら、その時の情報はどれだけの希望であっただろうか。

今作は決して希望を見出すものでも、過ぎた時を見返す「物語」ではない。フィクションではないからだ。

これほどまで不条理で信じ難い事件を、どうしたら人の心に刻むことができるか。TVの向こうの現実へ辿り着くには、フィクションのレイヤーを剥ぎ取るにはどうしたら。野田さんの切なる表現への願いは、今回は憎しみと悲しみと怒りと決意をより強くはっきり感じた。

できることなら、演出家も俳優も観客も、そこにあるのは夢の世界だとて、劇場というラビットホールは常に現実世界に繋がっていることを忘れないでほしい。それがすべてに希望へ変化する。AIでない我々に残された能力はそれだけかもしれない。

  • 美術セット

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帰り道、池袋の地下道で見たポスター。怒りしかない。
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劇場を出てスマホで関連事項を検索した時に出てきたニュース。悔しい。悲しい。腹が立った。

北朝鮮「拉致は解決済み」と表明 国連シンポ計画を非難(共同通信) - Yahoo!ニュース

母性という命題のその先へ〜イキウメ『人魂を届けに』

久しぶりのイキウメ観劇、『人魂を届けに』。

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あらすじ(公式より抜粋)

人魂(ひとだま)となって、極刑を生き延びた政治犯は、小さな箱に入れられて、独房の隅に忘れもののように置かれている。
耳を澄ますと、今もときどき小言をつぶやく。

恩赦である(捨ててこい)、と偉い人は言った。
生真面目な刑務官(安井順平)は、箱入りの魂を、その母親(篠井英介)に届けることにした。

芝居を見た瞬間と後で印象が変わる。繰り返され積み重なった「母性」の違和感が、パキッと音を立てるように変わる。男性ばかりのキャストの意味も。肯定と否定、賞賛と批判。背中合わせの人と人でない何か。

浜田信也さん(山小屋の住人・葵役)のジェンダーレスな演技と、安井順平さん(山小屋を訪れる刑務官・八雲役)のコミカルな台詞まわしが全体バランスを取る。いつもは受けの演技の藤原季節くん(山小屋の住人・棗役)がここではベテランに身を任せる。しかし出過ぎないよう慎重に。そのくらい全体はあやうい。台詞を受け取るこちらもあやうかった事に後で気づく。

投げる、落とす、倒れる。それをキャッチする。
掬うと救うはよく似てる。観客も投げられていた言葉、台詞、視線、空間、メッセージ、をどれだけ受け止めていたか。掬い上げた量、質、もしくはその内容そのもの。受けた瞬間にそれぞれに変異しているかもしれない何か。まさにタイトル通り、届けられた人魂のカケラを観客も持ち帰っているのかもしれない。

女性キャストがいない事の意味を、見ながらずっと考えていた。おそらくあえてなのだと。女性排除、なのではなく隠された家父長制、有害な男らしさやマチズモに対する男性性批判。

それがはっきり分かったのは、篠井英介さん演じる、皆に「お母さん」と呼ばれている山鳥に対して、公安の陣(盛隆二)が放った言葉。山鳥ジェンダーについて言及した暴力的な言葉、それはひいては女形としてキャリアを積んできた篠井さんにも放たれているかのような現実味を帯びてヒヤリとする。

もちろん、これは芝居の上での重要な仕掛けではあるのだが「篠井さんは女形だから山鳥は女である」という観客側の思い込みを逆手に取り、その思い込みこそどうなのだと突きつけられている恐ろしさも感じた。我々という観客は篠井英介という俳優を見る時に安易に型にはめて、そして自分自身をもそれを受け止める観客を演じる、というドラマツルギーに囚われていたのではないか。それは果たしてどうなのか。その予定調和を壊し、昨今のジェンダーフリーLGBTへの理解の方向性は正解なのか、とまで意識を飛ばした。

トリッキーではあるが表象としてなるほどと思う反面、使う人間が注意しなければならないなとも思った。もちろん、篠井さんは納得されているだろうし、作・演出の前川さんとの信頼関係はもとより、他演者とスタッフの理解もあっての台詞であるのは分かる。というかそうでなければならないし、成り立たない。個人的に気になったのは、たといそのような誠実な相互理解があったとしても、演技とはいえ毎日その言葉を繰り返し聞くことになる篠井さんへの影響は若干気になった。という事も含めて、俳優・篠井英介のチャレンジと勇気恐るべしとも思うシーン。

というような事をつらつら思いながら、ある種の答えを導き出したのは棗役の藤原季節の台詞であった。山鳥の意思を継ぎ、同じお母さんとなって人を「掬い(救い)」たい、キャッチャーになりたいという棗。陣の放った言葉すらもキャッチし、その言葉に粉々になりかけた山鳥を再生させてはいなかったか。

浜田さんがシームレスに女性役(八雲の妻役)へ変貌する時、それは確実に女という記号を示していたが、棗のジェンダーは不思議とずっと不確定であった。それは初めからあって、一番最初に幼い印象を受ける髪型におやと思った。藤原くんは年相応の役を演じている時はロングにせよショートにせよ、額を出している事が多い。額を隠す時は目にかかるくらい長めなことが多い。今回は学生のように全体的に少し短めに、前髪も目にかからない微妙さに整えられていた。その幼さの演出はジェンダーの色、つまるところ性的な色気を排除する効果があった。反して浜田さんは頬骨がかくれるくらい前髪長めで女性的なシルエットを意識されてたので、これは意図的なヘアメイクだったのではと思う。

次世代の棗の男とも女とも言及しない、年齢にもとらわれないふんわりした佇まいは、今の藤原季節にぴったりではなかったか。とても微妙な演出だし、もしかしたら私の勝手な思い込みかもしれないが、これ結構大事なことなのではと受け止めた。

棗が山小屋の「母」となった時、もしスカートをはき、女性らしい仕草があったとして、それはもうその頃にはそれまでの女という意味は成していないかもしれない。

体制批判や常識と呼ばれるものへの疑問が大きなテーマではあるが、母性という大きな命題にもかすかな疑問を込めている。男だけの世界で繰り広げられたある種ディストピアな芝居を見ながら、女とはいったいと考える。母性は救いなのか、もしくは救いのメタファーが母性であるだけなのか。その言葉の強さと虚しさの壁の向こうに何かあるのかもしれない。

ところで、つらいときに「お母さーん」って言っちゃうのは冗談のように思えるのだが、交通事故で救急行った時にめちゃくちゃ痛くて「お母さーん!いたーい!」と叫んだので、語呂がいい呪文みたいなものではないかと思っている。お父さんだとなんだかおさまりが悪い気がする(これも偏見か)。

「魂を削る」という言葉がネガティブに使われるが、心が主語になると「心を砕く」「心配り」とか優しい響きを持つので、魂ってなに、とかも思ってみたり。

 

『his』の時の藤原季節くんのインタビュー。

「普遍的な感情だと胸を張っていえるように、「これは“ただの”同性愛者の映画ですよ」と言えるように世の中がなっていかなきゃなと思いました。」

 

ゲイカップルを演じた藤原季節「これは“ただの”同性愛者の映画です」 | bizSPA!フレッシュ

 

正直、映画は演出含めて制作の理解等々未熟な所があったけれど、藤原季節はこれを経て『たかが世界の終わり』の舞台配信に挑んだんだなと思うと、とても演技を慎重に考えてるのかなと思う。
イキウメでの演技も、これらが反映されていたように思う。

SFでシュールなグリーンライトヨコハマ~『虹む街の果て』KAAT

一昨年、同KAATでの公演『虹む街』。その続編と聞き、当時一緒に行った友人とともに観劇しました。

『虹む街の果て』KAAT外観

ペインティング参加イベント(4月13日)

4月の中旬に、この公演の舞台セットを塗る「ペインティング参加イベント」があり、面白そうなので行っておりました。

KAATの中スタジオに、前回と同じ舞台セットが組まれており、それを緑色に塗るというもの。枠組みと大道具が組まれているのみで、空っぽのなにもない各部屋の壁を塗る。私が行ったのは平日昼前のためか、人もまばらで、演出のタニノクロウさんとスタッフが黙々と作業していらっしゃいました。

グラデーションのようにいろいろな濃さの緑色の塗料があり、それをそのまま使ったり、混ぜたり、水に溶いたりしたのをスポンジに含ませ、ペタペタと板のセットに塗っていきます。塗り方は自由。私は1時間半弱いたので、一枚ほどの壁を塗りました。点描画っぽいイメージで塗ってみました。背が低いので、上の方は塗り残しができてしましましたが、全体の最終的な仕上げは美術の方がされるとのことでした。

私が塗ったのは前回インドレストランだった所。奥の壁を塗りました。

水性塗料を水に溶かし、スポンジに含ませ塗る。

タニノさんとも少しお話したりでき、最後の方は「こういう感じで塗ってください」など細かい指示も。ちょっと制作に参加した気分。前回も出演されていた馬さん(中華料理屋の店主役で実際にも中華街のお店のオーナー)がちょうどいらしてて、少し中国語でお話したりもできました。この時点では、どんなお芝居になるのかは全く分からず...。

近未来ヨコハマ

公演では観劇前に舞台セットを回遊見学できるとあり、実際にどんなセットになったか近くで見ることができました。前回はコロナ禍制限もあり、見ることはできたけれど、中までは入れず。

私が塗ったとこもきれいに仕上がっておりました。全体像は照明も緑系で、小道具も緑。横浜や野毛をイメージした歓楽街だった前回から、さしずめ「近未来世紀末シティ・ヨコハマ」、映画『ブレードランナー』のようでもあり。

『虹む街の果て』舞台セット

旧・中華料理屋には謎の植物が育てられて、旧・インドレストランには調理器や太鼓が並べられ、姉妹のいたカラオケスナックは小さな傘が並んでおり(その時に「スワローズの傘みたい」と言った友人の言葉が後に当てはまることに...)。前回コインランドリーは閉店したので、そこは廃墟となっているのは分かっていたけれど、周りの店も朽ちているようでとても不気味。真ん中に謎のスマイルマークの球体があったり。

芝居の前に今回は出演者の紹介。前回から出演の馬さんがチャイナドレス姿で中国語でひとりひとり紹介していく。モニターに字幕が出て、前回は台詞が分からないような設定だったが、今回は分かるようにするのかな?と推測。

といろいろ考えつつも、結局ずっとその予想がはまることはほぼなく。

ストッキングを洗い、干す女性。2階から釣り糸をたらし、靴を吊り上げようとする男性。段ボールでできたロボットのコスで動く人。歌う女、自販機の中からゼリーや食べ物を持ってくる男、ループする物語を語り聞かせる老人。細切れにいろいろな行動をするが、意味はないようで生産性も生活感もなくとてもシュールだ。ただ、彼らがここで何かしら寄り添って生きているだろう、というくらいの和やかさはあった。共同体、コミュニティ、寄り合い。

前作は台詞が少ないほぼ寡黙劇で、時折話される外国語も分からない部分が多くとも、その端々に彼らの生活や人間関係が感じられた。今回は字幕はあれど、関係性や前回とのつながりは説明されないし解明もされない。 

歌と音楽、そして踊り、が大きな軸になっており、ミュージカル的でもあった。渡辺庸介さんのパーカッションを軸に、アリソン・オパオンさんのギターと歌、ジョセフィン森さんの歌うメロウなアレンジの「マテリアル・ガール」。ラストは全員で大合唱の大団円。よく分からない世界観に音楽というツールで巻き込まれるようにつれて行かれた。

まさかの東京ヤクルトスワローズ

途中DJに合わせて、皆で旧・スナックに入ってクラブのように踊っているのだが、小さな傘を持って踊る様はさしずめ「東京音頭」で傘を掲げるスワローズファンのようであった。横浜なのに。ベイスターズじゃないのか。そういえば緑色は最近のスワローズのイベントユニの色でもあるがまさか。そっちは「さあ、ミドれ。」が合言葉だそうだが、偶然の一致にしてはできすぎな気が。タニノさんがスワローズファンだとかそういうオチではないですよね?

2023 TOKYO燕パワーユニホームデザイン発表! | 東京ヤクルトスワローズ

トランスフォームしたヨコハマ世界という希望

前回との世界観はセットの再利用と、一部演者が再登板というくらいであまりにも違っていた。が、馬さんがメカ犬(上の写真のタバコ屋の前にいる白い物体がそれ)を撫でていたり、その間に「犬を飼いたい」という娘の声のサンプリングが響く。馬さん演じる中国人の女は果たして、前作と同じ女なのか、娘はどうなったのか、はたまたここは未来なのかそれともパラレルワールドなのか。想像はつきない。

スマイルマークの球体は実は遠くからやってきた宇宙人だったとか、謎の隕石を皆で追ってたり。ラストに向けて謎の宇宙設定が見えてくる。この世界は「球体宇宙人」→「植物の芽」→「人間を肥料?として育つ植物」→「それを原料としたゼリー」となっており、さらにそのゼリーを喰らう球体宇宙人という謎のサイクルがあった(これは配られた注意書きの図柄で気づく)。

生活感のない人間たちはただの肥料なのか、彼らは街に閉じ込められた囚人のようにも見える。緑色のつなぎは囚人服のようだ。歌い踊るのは「育つ」ために必要な作業なのかもしれない。彼らはなんのためにそこにいるのか?果たしてここは地球なのか。宇宙人と共生しているのか、はたまた従属関係があるのか。関係性はここでも見えない。

なかなかシュールだが、前回と同じなのは、そこに意味を見出すことにこの芝居の面白さはないということだ。ナラティブがない。

結局「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というのは永遠の主題である。それを芝居という表象で具現化したらこうなりました、というようにも取れる。

街の灯りがとてもきれいねヨコハマ グリーンライトヨコハマ~

という歌詞が意味もなく頭をめぐり。

緑に染まる景色は、前回より一層まったく横浜的ではなく、果たして県民参加型演劇がこれでいいのだろうかとちょっぴり思いつつ。けれど、このようなまったく媚びのない芝居もどんどんやってしまう芸術監督とKAATの懐の広さにちょっと感激もしたり。

トランスフォームした近未来都市は、東京ではありがちで現実的で手垢のついた世紀末観になるが、横浜の地のこの世界はよりファンタジックで今までにないものだったようにも感じる。変化していくこと、終末に向かっていくこと、それは果たして絶望だけなのか。ここに来なければ分からない、というのは演劇の魅力であるなら、この芝居はまさにそうだったと言えるでしょう。

予定調和になってしまったら面白くない、どんどん実験していってほしい劇場です。

なんだかんだまた巻き込まれ、飲み込まれ楽しんでしまった不思議体験でした。

「モノや食べ物に幸せはない」という深ーいメッセージを受け取りつつ、ランチでトルコ料理に舌鼓をうち、山下公園のバラを見て、横浜グルメを散々テイクアウトで持ち帰り、シュールな芝居は芝居として、現実の横浜も欲望のままに堪能しまくった1日でした。

この世界は続くのかどうか。馬さんの「再見」はあるのかないのか。

また次回も楽しみ~。

  • 前回の『虹む街』の観劇ブログはこちら。

『虹む街』KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ - je suis dans la vie

「祝福せよ」は聖なる祈りか禍々しい呪文か〜『エンジェルス・イン・アメリカ』第二部「ペレストロイカ」新国立劇場小劇場

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第二部あらすじ(公式より)

ジョーの母ハンナ(那須佐代子)は、幻覚症状の悪化が著しいハーパー(鈴木杏)をモルモン教ビジターセンターに招く。一方、入院を余儀なくされたロイ・コーン(山西敦)は、元ドラァグクイーンの看護師ベリーズ浅野雅博)と出会う。友人としてプライアー(岩永達也)の世話をするベリーズは、「プライアーの助けが必要だ」という天使(水夏希)の訪れの顛末を聞かされる。そんな中、進展したかに思えたルイス(長村航希)とジョー(坂本慶介)の関係にも変化の兆しが見え始める。

第二部「ペレストロイカ」構成

  • 第一幕「射精」(1985年12月)

  • 第ニ幕「反移住の書簡ーシグリッドへ」(1986年1月)

  • 第三幕「腹鳴ー蠢動する事実は鱗で覆われた精神にまさる」(1986年1月)

  • 第四幕「ジョン・ブラウンの亡骸」(1986年1月)

  • 第五幕「天国ー私は天国にいる」(1986年1月)

  • エピローグ「ベセスダ」(1990年1月)

スピード感ある第二部演出

鈴木杏さんが第一部のアフタートークで「第一部は起承転結の起だけ」といった通り、第二部は怒涛の展開。

プライア―と別れたルイスは、同僚のジョーと関係を持つ。しかし歪な関係性だ。ルイスは自身がゲイであることは受け入れているが、エイズで苦しむ恋人を見捨てたことや、イデオロギーなどに悩み、そこから逃げる手段としてジョーと関係を持っている。ジョーはゲイであることを受け入れられないまま、ハーパーとの関係にも悩む中、流されるようにルイスに溺れる。

ハーパーは変わらず薬に依存して、ジョーとの関係は悪化する一方。姑のハンナは助けてくれているのか、よく分からない。やがて死と生のはざまに迷うまでになる。

ロイ・コーンはずっと病院にいる。担当看護士ベリーズとのアイデンティティを巡る会話や、エセル・ローゼンバーグの幽霊に苦しむことで、ゲイであることを含めて複雑な自己を観客に晒し、そして死へ向かっていく。

プライア―も病に苦しみ、天使の啓示に惑わされる。

それぞれを結んでいるのが、黒人でゲイのベリーズである。登場人物は一堂に介するわけではないが、ベリーズのブレない言葉や行動は、現実世界で彼らをつなぐ。

苦しむ中で、それぞれが自分の道を探し出す。ハーパーとプライア―の邂逅は、互いの死の淵での想像の世界なのでかなりドラスティックではある。しかし彼らがどれだけ苦しんでそこからまた歩き出すか、という演劇的な表現としては最適であった。まさに第二部タイトルの「ペレストロイカ=再構築」である。

俳優陣の快演

脚本が素晴らしく、作品としての完成度はそれだけでもすごいのだが、キャスティングのバランス、俳優の演技力に魅せられた。

やはり鈴木杏さんは出色で、精神的に追い詰めれているときの目の色、トリップしている時の開放感、宗教や家族と向き合った時のまっすぐすぎる悲壮感。そして何より、ジョーから旅立つときの強く鮮やかな姿。コントラスト、グラデーションが素晴らしい。

那須さんは一番役が多く、早替えのテクニックも見どころだが、どの役を演じていても、那須さんだと気づかない(休憩時のホワイエで「声でやっと那須さんって分かった」という観客の声が聞こえた)。

山西さんのロイ・コーンは熱演、しかし力わざだけでなく、その複雑な強さ弱さ、そしてゲイであることをひたすら否定し続ける矛盾のキャラクターを、悩みながらも細かく表現していた。

水夏希さんの天使はやはり荘厳、でもちょっとキュート。岩永さんのプライア―は繊細で魅力的。長村さんのルイス、坂本さんのジョー、それぞれ人間的な弱さや浅ましさを忌憚なく演じていた。どちらも同情すべき点はあるのだが、脚本の意図をきちんと組んで、あえてより同情しにくいキャラに終始していたように思う。浅野さんのベリーズは安定したキャラで、その分強く打ち出しにくい。しかし全体のバランスを保つ演技だった。

「祝福せよ」とは

1980年代から1990年代のエイズ禍を、現代のコロナ禍に重ねて見ることももちろん。東西冷戦のありようを、現在の世界の、ロシアとウクライナや、欧米との関係に重ねるのもできるだろう。モルモン教ユダヤ教の話も、今の日本の新興宗教の事件、そして家父長制の及ぼした歪さも、重ねるというよりは地続きである。

ゲイの登場人物たちが社会的になきものとして扱われている様や、女性であるハーパーが苦しむさまは、可視化されいくらか理解の広がった現代でさえ変わらない課題だ。

天使は「進むな、移動するな、進歩するな」という。それはどういう意味なのか?

エイズ禍を生き延びたプライア―は、最後に客席に向かい「祝福せよ!」と叫ぶ。長丁場の観劇のカタルシスもあり、ついスタオベしてしまったが、果たしてこの台詞は現代において「祈り」なのか。我々を縛る「呪文」にもなりえるな、と少々自戒の気持ちも持った。

新型コロナウイルスHIVウイルスもなくなっていない。戦争も終わっていない。とらえようによっては、悪い方に向かっているとも言える。

見えるものを見ようとしない人々は、本来見えないものを見ていたハーパーやプライア―達より愚かなのではないか?

時代を超えて、むしろ一度立ち止まり、見つめるために、この芝居がこの先も再演され、そしていつか本当にただの寓話になる日が来ることを祈りたい。

演出等で気になった点など

ベリーズは黒人設定なのだが、今回あからさまな「ブラックフェイス表象」ではなかった。が、日焼けをしたような感じなので、日焼けなのかメイクなのか判断しづらい。衣装や髪の毛の色などで、ベリーズドラァグ・クイーンであるバックグラウンドは理解できたので、肌の色を視覚的に見せる必要はなかったのでは...とも思った。

カラフルなバミリがたくさんあって、演出上大道具をたくさん移動するのに必要なんだなと。その色合いも、黒子さんの動きも、すべて演劇的で、これはなかなか楽しい演出効果だった。

終わりの始まり:起~『エンジェルス・イン・アメリカ』第一部「ミレニアム迫る」新国立劇場小劇場

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第一部あらすじ(公式より)

1985年ニューヨーク。
青年ルイス(長村航希)は同棲中の恋人プライアー(岩永達也からエイズ感染を告白され、自身も感染することへの怯えからプライアーを一人残して逃げてしまう。モルモン教徒で裁判所書記官のジョー(坂本慶介)は、情緒不安定で薬物依存の妻ハーパー(鈴木杏)と暮らしている。彼は、師と仰ぐ大物弁護士のロイ・コーン(山西惇)から司法省への栄転を持ちかけられる。やがてハーパーは幻覚の中で夫がゲイであることを告げられ、ロイ・コーンは医者(那須佐代子)からエイズであると診断されてしまう。
職場で出会ったルイスとジョーが交流を深めていく一方で、ルイスに捨てられたプライアーは天使(水夏希)から自分が預言者だと告げられ......

一部が3時間半、二部が4時間の計7時間半の長編。2日連続で観劇。とにかく長く、しかし濃い観劇だったので、整理しつつ。まずは幕タイトル。時代背景が分かる。

第一部「ミレニアム迫る」構成

  • 第一幕「悪い知らせ」(1985年10月~11月)
  • 第ニ幕「試験管の中で」(1985年12月)
  • 第三幕「まだ無意識の中、夜明けへと前進」(1985年12月)

配役について

俳優は8人、メインの役(上記あらすじ参照)とそれ以外に俳優が何役か担う仕組み。これは原作脚本に指定があり、演出側の指定ではないとのこと。那須佐代子さんはメインはジョーの母親ハンナだが、一部ではそれほど出番は多くない。しかし冒頭で印象的な語りを観客に向かって話すラビ役、ロイ・コーンの主治医役、と両方とも男性役を担い、これがまたハマっており、一瞬誰だか判断しかねるくらいだった。天使役の水さんも那須さんと同じくらい複数役を担っている。

HIV、AIDS、そして宗教

HIV、というより当時は「エイズ」という呼称の方が有名だった80年代中ごろ。自分はまだ中学生だったか。父親ががん研にいたこともあって、その言葉を認識したのは他より早かったかもしれない。父がアメリカの研究者に聞いた話とかいくらかあったように思う。日本語にすると「後天性免疫不全症候群」となるので、免疫系の研究をしていた父はその病の成り立ちに興味があったようだった。

どちらにしても、初期に入ってくる情報は真偽のほどは分からないことばかりで、日本でその脅威が迫ったのはもう少し後だったか。同性愛者のみがかかる病、という誤った認識の方が強く、好奇の目線の情報ばかりだったのではないか。キース・へリングが1990年2月、フレディ・マーキュリーが亡くなったのが1991年末で、有名人が亡くなってきて一般に周知されつつあったように思う。

舞台となる1985年、NYでエイズはすぐそこにあった。しかしレーガン政権下でそれはタブー視され放置された。そして静かに蔓延した。

蔓延した理由の背景には、アメリカの家父長制、資本主義、東西冷戦に対抗するための強い男のイメージ、それらは同性愛者そして女性を含むマイノリティをすべて対岸におしやるものだった。

ジョーとハーパーの夫婦はモルモン教徒で、宗教的にもマイノリティでもある。ジョーはなおかつ共和党支持者として強いアメリカの男性としての仮面をかぶる枷もある。彼はゲイとしての自分を常に抑圧して生きているクローゼットだ。妻のハーパーは彼を愛するがゆえにそれに気づいて悩んでおり、またおそらくもともとの自身の生い立ちゆえにさらに心を病んでいる(ただし、その生い立ちゆえにジョーに惹かれたと思われる箇所も見受けられる)。

ルイスとプライア―はオープンリーゲイで、友人の看護士ベリーズ浅野雅博)もそうだが、決して世間一般に受け入れられているようではない。ルイスはユダヤ系でもあり、宗教的、政治的な側面も描かれる。

ロイ・コーンというアメリカの大きな影

ロイ・コーンは唯一実在の人物である。物語はあくまでフィクションだが、彼の人物像系は実際のものだ。共和党の黒幕弁護士、パワハラの権化のようなこの男も、エイズにかかり実はゲイだと観客は知るが、決して自分でそれを認めることはしない。それも強く、エイズではなくただのがんだと言い張る。

この日のアフタートークで、山西さんより「ロイ・コーンはトランプ元大統領の若い頃のメンターだった」というエピソードを聞き、現代と作品のつながりを感じた。

<スペシャルコラムその3>多彩な登場人物――わけてもロイ・コーン――について ~『エンジェルス・イン・アメリカ』~ | 新国立劇場 演劇

濃密で深い会話劇

細かくシーンが転換して、だいたいが二人の会話劇である。夫婦の会話、恋人同士、友人同士、上司と部下、医者と患者、看護士と患者、行きずりの関係、などなど。二人というシンプルだが濃密な関係の会話から、色々なことが掘り起こされていくのが見どころだ。

しかし、それ以外に「預言者プライア―と天使」とか、「プライア―とご先祖様」、「ハーパーと想像の友人ミスター・ライズ」がちょこちょこ出てくる。病で苦しんでいる時のプライア―と、薬でハイになった時のハーパーは、それぞれ「現実から離れた世界」でのシーンがある。これは一人の内面世界を掘り下げる意味もあり、また芝居の世界観を広げる役割もあった。

夢と現実を行き来する美術

舞台美術は、大きな枠がまずあり、その奥にもう一つ舞台の枠がある。二重構造になっている。舞台上に段差はないが、奥の方の枠が本舞台より狭い。時折、奥の舞台の幕が引かれ手前だけになる。手前の世界と奥の世界が別になる時、また同じ空間になる時もある。「入れ子構造」「額縁構造」というのか。メタ的な表現も見受けられた。

舞台セットの使い方は様々で、必ずしも規則性はないのだが、奥の舞台から手前の主舞台に移行する動きがある時は、ハーパーがトリップしてる時で「現実」から「夢(想像)」の世界に入る表現になる。この「移行(または移動)」するという舞台セットを使った動きは、上記に記した「濃密な会話劇」と「内面世界を掘り下げる」というこの作品の世界観を視覚的に強める効果があった。演じる側はコントラストをつけるのがなかなか難しかったのではとも思った。

アフタートーク

第一部上演後にアフタートーク。上手からさん、山西惇さん、那須佐代子さん、鈴木杏さん、坂本慶介さん、演出の上村聡さん。司会は中井美穂さん。

覚えてるとこだけ書き出します。

鈴木杏さん

  • オーディションは申し込み番号が一番だった。上村さんがびっくりしていた。鈴木さんは作品のファンで絶対やりたかった。当初は天使の役と思って応募。
  • 若手が多い、という話題で、自分は年齢的に若手?と問うが皆にベテラン枠でしょと言われる。
  • ハーパーが夢の世界で南極の雪の中を歩くシーンで、上村さんが何もない舞台でそれをどう演出するか迷っていた時に、鈴木さんが「野田秀樹さんみたいなの?」って言ったら上村さんがそれを採用。鈴木さんは「言わなきゃよかったかな」と苦笑い。上村さんは採用してよかったとのこと(※スローモーションで大きく動く動作が確かに野田地図っぽさはあり)。
  • 第一部は起承転結でいうと「起」です。第二部で大きく物語が動きますので、ぜひ第二部も見てください。

坂本慶介さん

  • オーディションは上村さんの『斬られの仙太』で同じくオーディションを経て出演した経験のある伊達暁さんに勧められて。伊達さんは事務所の先輩とのこと。
  • オーディションの時は痩せてたが、役作りで増量。一時期増量しすぎた。パンフの写真はその頃なので、パンパンだね~とちょっと皆に冷やかされる。

那須佐代子さん

  • メインの役の出演が多くはないが、他の役がたくさんあるので早替えがたいへん。特に第二部は早替えがみどころ。男性役もできて面白かった。
  • オーディションの時は、年齢が上なのではまる役があるか分からなかった。
  • 鈴木さんと同じ「I♡NY」のTシャツを着ていて、司会になぜか聞かれる。公演中に誕生日を迎えた人に上村さん?からプレゼントされたとのこと。
  • この日は那須さんのお誕生日!

山西惇さん

  • ロイ・コーンの人物造形は難しかった。この人を芝居上とはいえ、魅力的に演じていいのだろうかという葛藤があった。もっと悪い人とした方がいいのではないかとも悩んだ。
  • ロイ・コーンの役の反動で、プライア―の先祖役をやる時はとても楽しかった。はじけて演じている。
  • 若手の俳優の皆は難しい役をよくやっていてすごい。自分が若い時はこんなにできなかった。
  • この日はオーディションの時の服装。役作りで体重を落としたので、ちょっとゆるい。

上村さんはそれぞれのお話に一緒にお話ししてるのが多く、割愛。小田島聡史さんの翻訳や、演出、舞台美術の話など。

毎度おなじみクマさんは、ミスター・ライズ(ハーパーのイマジナリーフレンド)とプライア―のコス。

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おフランス版の波よ聞いてくれっへェェ〜!〜『午前4時にパリの夜は明ける』

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あらすじ(公式より)

1981年、パリ。結婚生活が終わりを迎え、ひとりで子供たちを養うことになったエリザベートシャルロット・ゲンズブール)は、深夜放送のラジオ番組の仕事に就くことに。そこで出会った少女、タルラ(ノエ・アビタ)は家出をして外で寝泊まりしているという。彼女を自宅へ招き入れたエリザベートは、ともに暮らすなかで自身の境遇を悲観していたこれまでを見つめ直していく。同時に、ティーンエイジャーの息子マチアス(キト・レイヨン=リシュテル)もまた、タルラの登場に心が揺らいでいて…。
訪れる様々な変化を乗り越え、成長していく家族の過ごした月日が、希望と変革のムード溢れる80年代のパリとともに優しく描かれる。

(※今回とても不真面目な調子で書いてます。ネタバレはありまぁす☆

アラフィフの星・シャルロットさま〜

わたくし何を隠そうシャルロット・ゲンズブールと同じ年でして。あと同じ蟹座(どうでもいい)。

彼女がデビューした頃は日本で何度目かのフランスブームがあって、映画やファッションが新しい時代を迎えてた頃。アニエス・ベーのボーダー、バレエシューズ、メンズのデニム、ハイネックニット、真っ赤な口紅。シャルロット・ゲンズブールはその中でも一番のアイコンだった。彼女が表紙のCutはまだうちにある。

その彼女も同じアラフィフかあ〜と見に行ったのですが、まあ変わらずかわいい。天使のような可憐さ。

もちろん皺も年相応、相変わらず細い体だけどちょっとたるみはあったり。でも化粧っ気のないのはもともとで髪の毛もボサボサなのはトレードマーク。何よりあのお母さんゆずりのこちらの心まで緩ませる笑顔は全然変わらない。

なんなんなんなん〜この魅力。彼女だってきっと人生色々あって、辛酸も舐めてきたでしょう。実際、お姉さんを亡くした事がつらずきて、パリからNYに住まいを移したと聞く。50代になるのが嫌だったというインタビューも読んだ。

でもあの子供の頃と変わらないあの笑顔と、あの囁くようなスウィートボイスを聞くと、スクリーンにいるだけでそれだけで優勝じゃん?

とまあ感想は終わってしまう。

というわけにもいかないので、内容に触れますと。

シャルロット演じるエリザベートは、夫が女をつくって出て行ってしまい途方にくれる。ずっと専業主婦で、働いたことがほぼない。どうしたらいいの、と年老いた父親に泣き崩れる。やっと採用された仕事も、データの保存し忘れで1日でクビ。賢そうな大学生の娘には「保存の仕方おしえたよね⁇」と呆れられる。息子は思春期の高校生で頼りにならず。

時代が1980年代、ということだけでなく、なんだか今でもよくありそうな話である。ミッテランが首相になった1981年の5月から始まるこの映画は、市民が政治に積極的で先進的でありそうなフランスでさえ、その「よくある事」はあったのだと気づく。

しかし夜中に聞いていたラジオに手紙を書いた事で、その電話応対の仕事に就くことに。

フランス版『波よ聞いてくれ

「クズ男に捨てられる」「金はない」「突然ラジオ局に勤めることに」という流れから、「あれ、これ沙村広明の『波よ聞いてくれ』と同じじゃね?」と、どうでもいいことに気づいた私。

もしかしてこれからエリザベートが深夜ラジオデDJビューして、自分を捨てた夫に向けて

「お前は地の果てまでも追いつめて殺す!」

とか叫び、カレー屋でバイトしながら、ラム肉を腐らせて隣人に迷惑をかけ、怪しい新興宗教施設で拉致され、雪山で熊と戦うのかしら。とドキドキしながら見ていたのですが、もちろんそんな事はありませんでした。

エリザベートは終始メソメソ・よわよわモード。仕事でミスしてメソメソ。それを慰めてくれた同僚とムードに流されてやっちゃったけどすぐ振られてメソメソ。メソメソ勢いで元夫の留守電に恨み言を言い続けたりして、自己嫌悪になるヤンデレ街道まっしぐらなキャラ。決してミナレのように別れた男にカポイエラの技をキメて、溜飲を下げたりはしない。まあミナレも一人の時は泣いてたりしてまあまあ可愛いとこもあるが。

とうとうお金に困って父親に援助を頼むシチュエーションもミナレもあったけど、そこもおフランスなので、親に金をせびるシーンなのに美しい親子愛になったりする。(ミナレの父親の対応についてはお察し)

若い女の子を助けるのはミナレと同じ。ミナレはマキエを兄の支配から解放する手伝いをし、エリザベートはタルラを一時でも家族の一員として受け入れる。ここは見てて、『波よ聞いてくれ』は実はフェミニズム漫画であり、女性の孤立と、その先のシスターフッドについても描いていたのかという気づきがあった(作者はそこまで考えてたか知らんが...)

そもそもエリザベートがラジオ局に勤めたのは、「夜の乗客」というリスナーのお悩み相談をする番組を、夜中眠れず聞いててファンになったのがきっかけである。ミナレはたまたまDJになるのだが、元々ラジオリスナーであり、マキエもラジオによって新しい人生を拓いていく。

エリザベートが採用されるのも、「夜の乗客」の人気パーソナリティ・ヴァンダ(なんとエマニュエル・ベアール!)が彼女の身の上話を聞いて、同情したゆえである。ここもシスターフッド的なシーンだ。ちなみに『波よ~』でも似たような女性キャラが出てくる。

「夜の乗客」はリスナー参加型の番組で、夜中に言えぬ思いを告白する人々が集う。タルラもその一人であった。ラジオ番組はコミュニティであり、セーフスペース、セーフティネット的機能を果たすことがある。これは他の媒体ではそう起こらないのではないか。『波よ~』でも北海道地震のエピソードでは、ミナレの緊急DJが真夜中の被災者を落ち着かせ、慰める。

ラジオ局という舞台で、たまたまとはいえ、本作と『波よ聞いてくれ』これだけ共通してるのはなかなか面白かった。

途中ヴァンダが番組をお休みした時に、エリザベートが代行するシーンがあるのだが、シャルロットのスウィートボイスはもうちょっと聞いていたかった。もちろんミナレのように波よ聞いてくれっへェェ〜!」とかいかれたタイトルコールはしないのである。

映画の原題は "Les Passagers de la nuit" でラジオ番組名の「夜の乗客」の意味なのだが、こっちの方がいいよねえと思う。邦題も悪くはない方だが、タイトルになんでも「パリ」って入れると集客がいい日本人のツボをついててあざとい。

なんだかんだシャルロット・ゲンズブールだからね?

そして7年の月日の中で、エリザベートはラジオ局の仕事も続けて、図書館のパートもしつつ。そんで図書館によく来る年下の男性にデートに誘われ、なんやかやうまくいき。娘も息子も育って自立して。それなりにがんばって生きていく様が描かれるのですが。

その年下彼氏とデートする前に、エリザベートが口紅を同僚に借りて塗るんですが、超適当なのにかわいい!ほぼすっぴん、櫛を通してなさそうなラフな髪、ジーンズにブーツ、革ジャン、適当に塗った赤い口紅。そんなのシャルロット・ゲンズブールだからいいんじゃん!としか思えませんでした。日本のアラフィフ向け女性誌に絶対載ってなさそうなコーデ。まあ狙って撮ったシーンなんだろうけど、口紅貸してくれた同僚の「かなわないなあ」という表情が絶妙でした。

フランス女性の生き方の歴史をかいま見る

フランスだから日本だから、という括りにしなくても、女性だからこその生きにくさを描いてて、ただオシャレなパリの映画だけではないのも見どころ。

エリザベートが離婚してどうしようとなってるのも、フランスは一人親家庭や福祉に手厚いのでは?と思ったけど、PACSが始まったのは1999年だし、80年代はまだまだ男性優位の家父長的結婚制度が主流だったのかなあとも。ミッテラン就任後のフランスだけど、それほど政治の話は出てこない。でもその時代の変化、をさりげなく見せている。

ホームレス少女・タルラの描き方も、若い女性の貧困が問題視されているというのを当時フランス人の先生に授業で聞いたのを思い出した。タルラ演じるノエ・アビタの演技や存在感がとても印象的で、台詞が少なくともタルラの持つ複雑性や悲しさ、取り巻く環境の悲惨さを感じる。エリザベートを取り巻く人生を描く物語なので仕方ないが、タルラはもう一人の主人公として最後まで掘り下げてもよかったのでは、と思った。特に彼女が去ることになってしまった理由がちょっと納得しづらい。あの後、どうなっちゃったの...と。でもそれも含めてフランスの有り様なのかな、とも思う。

 

  • シャルロットもエイジングに悩む。美魔女なんちゃらにはまらなくてよかった。さすがジェーン・バーキンとも唸る記事

エイジングのお手本はジェーン・バーキン! 50歳になったシャルロット・ゲンズブール、ナチュラルに年を重ねたいと明かす - セレブニュース | SPUR

  • オマージュ、元ネタ分からなくても楽しめたけど、昔のパリの風景を楽しむならこんな映画はいかが?という記事。

『午前4時にパリの夜は明ける』でオマージュ…名匠に愛された80年代に輝くパスカル・オジェの姿を追う

  • 波よ聞いてくれ』第1話試し読みはこちらで。名セリフ「地の果てまでも~」が楽しめます。大野捕手は今は中日!

波よ聞いてくれ|アフタヌーン公式サイト - 講談社の青年漫画誌

 

我愛すゆえに、我あり~『エゴイスト』ヒューマントラストシネマ渋谷

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あらすじ(公式より)

14 歳で⺟を失い、⽥舎町でゲイである⾃分を隠して鬱屈とした思春期を過ごした浩輔(鈴木亮平)。今は東京の出版社でファッション誌の編集者として働き、仕事が終われば気の置けない友人たちと気ままな時間を過ごしている。そんな彼が出会ったのは、シングルマザーである⺟(阿川佐和子)を⽀えながら暮らす、パーソナルトレーナーの龍太(宮沢氷魚)。

自分を守る鎧のようにハイブランドの服に身を包み、気ままながらもどこか虚勢を張って生きている浩輔と、最初は戸惑いながらも浩輔から差し伸べられた救いの手をとった、自分の美しさに無頓着で健気な龍太。惹かれ合った2人は、時に龍太の⺟も交えながら満ち⾜りた時間を重ねていく。亡き⺟への想いを抱えた浩輔にとって、⺟に寄り添う龍太をサポートし、愛し合う時間は幸せなものだった。しかし彼らの前に突然、思いもよらない運命が押し寄せる。

観客の(ゆるやかな)変化

その昔、『二十歳の微熱』を夜の新宿の映画館に見に行った時、観客はほぼ男性しかおらず、女性客は映画ファンぽいのが自分含め2、3名。『二十歳の微熱』はPFFスカラシップ作品で映画好きの間で評判高かった。とはいえPFFもだが、テーマが当時はまだ一般的に周知されてるというのではなかった気がする。夜の上映だったのは配給の都合もあったのだろうが、土地柄もあり、その時の私は、彼らのテリトリーに足を踏み入れた招かれざる客だった。

本作はキャストのファンも多いのか、客席の半分以上は女性客。しかし男性も多く、雰囲気の親密さから見るに男性のカップルもいた。平日昼の渋谷、SNSでの評判の高さもあってか満席で、みながそれぞれ映画を楽しんでいた。作品の話題性、俳優の演技など、様々な宣伝の効果などもあるとは思うが、ゆるやかかもしれないがはっきりした変化を客席に感じた。

『二十歳の微熱』の橋口亮輔監督の、当時を振り返るインタビューがあった。いかに30年近く前に革新的な事をしていたか、そして世間の認知度が今とどれだけ違ったか。あの作品はとても象徴的な作品だったので、世に出してくれて本当にありがたいし、出会えて良かったと思っている。

そうそう、主役のオーディションに大森南朋さんが来てたんだよね。

表現の変化

同性愛表現を色々な視点からきちんと撮っている。一歩踏み込んで、というよりはひとつひとつの表現を丁寧に扱っているのが分かる。セックスシーンは「インティマシー・コレオグラファー」が入ったという。特に龍太が様々な男性客に性的サービスをするシーンは、エロスというよりは「仕事を誠実にこなす」感があってすごかった。綿密な振付であった。

ここは見ながら、自分の2022年ベスト1にした『パリ13区』を思い出した。こちらは男女間のセックスがメインだが、かなり大胆な表現でありながら、まったく不快感がなく、美しいダンスを見ているような高揚があった。撮影時もそれを意識した演出だったそうで、俳優はまったく不快感なく撮影していたという。(対して撮影が過酷だったと、あのレア・セドゥをして苦言を呈されたのは『アデル、ブルーは熱い色』なので、比べてみると面白いかも)。

古い映画人の古い価値観だと「セックスシーンはオトコが興奮してなんぼ」なのかもしれないが(←まごうことなき「古い映画人」への嫌味ですぅ~)、今作は「俳優に配慮することは、ひいては観客への安心感と礼儀」というのを徹底してた。これは先日見た『夜、鳥たちが啼く』にも感じた。エロスを感じるな、というのではない。その作品がフィクションであり、そのうえで楽しむという事を、俳優の安全を無視してまでするなと言ってるのだ。

前半と後半の印象の差

実は本作を見に行くかどうか迷っていた。というのもよくあるキラキラ系同性愛のお涙頂戴ものなのかなと思っていた、

前半は確かに恋人が亡くなるまでのシンプルな話なのだが、後半はテーマは同じなのだが、違う印象の話が展開する。あまりに違いすぎて、フランソワ・オゾンならサスペンス風味にしてたと思う。

サスペンスには寄らないのは、ドキュメント的な撮り方にも起因する。酔いそうなハンドカメラ(実際途中で退席してた人がいた)は、スマホで浩輔の生活を映しているかのようだ。ハンドカメラはどこまで効果があったか分からないが、モノローグや説明が少ないため、登場人物の真意は提示されたもので推し量る。

他愛無い会話のシーンもエチュードであるが、むしろリハちゃんとしたようでかなり練りこんでいる。浩輔の友人たちは実際の原作・高山真さんのお友達やゲイコミュニティの一般の方々で、演技力を考えてエチュードにしたのかもしれないが、うまくそのリアルを切り取っている。みな良かったが、特に結婚届のエピソードの彼の常時優しく繊細なまなざしが、演技を超えて手に取るような感覚がありとてもよかった。

鈴木亮平さんは肉体はもちろん、顔や仕草もけれんみ無いように気をつけてる感じが、色々隠さなくてはならない役柄にうまくハマってる。もちろん、自身がセクシャル・マイノリティでない事を重々分かった上で、真摯に浩輔という役を表現する気概に壮絶さすら感じた。

宮沢氷魚さんは捉え所のない笑顔が、今までは爽やかな雰囲気にしかならなかったが、今回はその笑顔の下の真意を測りづらいところが作品の謎部分にリンクする。

そして、果たしてタイトル「エゴイスト」の意味とは。前半と後半でかなり印象が変わるのではと思う。

個人的には浩輔の父(柄本明)が言った「出会ってしまったのだからしょうがない」がすべてだと思う。ここは映画の『メッセージ』を彷彿とさせたのだが、今ちょうどその原作の『あなたの人生の物語』を読んで、映画の腑に落ちない点が少しだけすっきりした。人生は不可逆的で起こってしまったことをなかったことにはできない。

「もう一度やり直せるとしたら?」という問いを浩輔にかけたら、彼はもう一度同じことをするだろう。出会わないという選択肢はない気がする。10万円を20万円にしたら龍太は生きていたのか、という問いは野暮なのである。

ここは実家の猫が亡くなった時のことも思い出した(またかよ)。ミミが亡くなった時に、母が「うちに閉じ込めておかなければ、もっと自由に暮らせたのに。不妊手術しなければ子供も持てたのに」とわけの分からないことを言って嘆いていた(子供云々はまったく人間的価値観すぎて笑ってしまった)。それに対して、「野良猫だったらあの性格では1年も持たないし、25年も生きられたのはうちに来たおかげ。不妊手術しないとそれこそ癒着やら感染症もあって長生きしなかったよ」とあまりに現実的な答えを私がしたが、果たしてやはり母の嘆きはあまりおさまらなかった。

つまり、「もしかしたら自分と会ってなければもっと幸せだったのかも」なんて思うのもまた「愛」なのではないでしょうか、と思うのである。

Wの悲劇~「ただの女になっちゃう」

最初の方で映画『Wの悲劇』について触れてるシーンがあり(元ネタはアーウィン・ショウ『愁いを含んで、ほのかに甘く』)。ここはあくまで、ゲイコミュニティでこの映画のあれこれが鉄板ネタになっている、というだけのエピソードのようだ。

しかし、本作と『Wの悲劇』はある設定で被るところがある。

映画『Wの悲劇』で若い女優の卵(薬師丸ひろ子)が、年上のお金持ちパトロンとのエピソードを話すシーンで「彼とはお金だけの関係じゃない。愛情でつながっていた」「一度だけ映画に行って、ハンバーガーとジュースを彼に自分の稼いだお金でごちそうしたら彼は喜んだ」というのがあり。龍太が浩輔に援助を受けている事、愛情ゆえなこと、受けてる側が若く美しく夢があること、など共通している。援助されたお金についての説明も、かなりリンクする。龍太が浩輔にコーヒーをおごるシーンは特に『Wの悲劇』のハンバーガーのくだりを思い出した。

映画『Wの悲劇』がどの程度伏線として意識されていたかは分からないが、それもあって、龍太が浩輔の愛情(エゴ)をどういう風に受け取ってたのか、見極めるところはどのあたりなんだろう?と前半はずっと思っていた。

コラボのミルクコーヒーを飲みながら、ちょっと龍太の気持ちにを思った。浩輔が与えてくれるものやお金、そのことに深い意味を考えたり邪な考えや疑いが入るには、龍太はあまりにも苦労しすぎてたし、貧しかったのだと思う。それをピュアの一言でおさめてしまうのは、あまりにも悲しい。当てはまる言葉などないかもしれない。

濃厚なラブシーンや笑顔より、龍太が浩輔を想っているのを感じたのは、浩輔の部屋のダイニングにある一脚だけの豪奢な椅子のあるテーブルで龍太がコーヒーを飲みたいと言った時だ。あのスペースは浩輔の一人だけの空間であるのは説明なくとも分かる。結局なんとなく浩輔に流されるが、あの時確かに、龍太は浩輔の世界に入りたいと意思表示しているのである。

ちなみに、映画『Wの悲劇』ともとになったアーウィン・ショーの小説の女優の話には、あるトリックがあり、それがみどころ。そしてなぜ私がこんなに映画『Wの悲劇』にこだわるかというと、薬師丸ひろ子の大ファンで、夏木静子の原作(映画では劇中劇)とシナリオ本買うくらいでした。学校でさんざん真似したわよ!本作の原作の高山真さんとは同年代なので、多分同じ頃に同じことしてたんだろうな。私はひろ子ちゃんの「顔ぶたないで!私女優なんだから!」をさんざんやりましたが、浩輔が劇中言った「女になっちゃう」は三田佳子様の台詞ですね。クドカンもファンだそうで、この年代の必修科目なんだわね~。そうそう、蜷川先生が演出家の役で出てるのよ。灰皿投げないかしらとドキドキしたのを覚えてるわ。

その「ただの女になっちゃう」の台詞はネタとして扱われているが、最後に浩輔がトイレの鏡に向かって眉毛を整えようと、しかし嗚咽して崩れるシーン。あれはまさに「女優がただの女になる」のオマージュではないだろうか。ブランドものの服を鎧に、細い眉で武装しても、愛や恋という人間の業に逆らえない。

エゴイズムとジェネロジテ égoïsme et générosité (ややこしい身勝手な余談)

ここからは個人的なメモ的余談です。

エゴイスト、エゴイズムの定義は「身勝手、利己的」。浩輔は自身の行動がエゴイズムでしかなく、龍太を不幸にしたのではと苦しむ。

しかし、エゴイズムの語源のラテン語「エゴ ego」というのは、「自我・自己」であり、決してネガティブな意味ではない。むしろ、浩輔や龍太というセクシャル・マイノリティの立場の人々にとっては、常にegoは自身からのみならず、社会的にも隠されおさえられている状態にあるといえる。

デカルトが提唱した有名な「我思う、ゆえに我あり(Je pense, donc je suis)」は、「自分を含めた世界のすべてが虚偽だとしても、それを疑う自分の存在だけは確かだ(意訳)」ということで、決して自己中心やナルシズムという単純な意味ではない。(この辺の理論証明はややこしいので省略します。あくまで簡単な前提として)

浩輔は自分の存在を自分で認める作業をずっと行ってきた。そうしなければ生きていけなかっただろう。彼の服装や、美しいものしか認めないとでもいいそうな部屋のインテリアから見て分かる。単なる自己愛ではなく、社会的にないもの、見えないものとされてきた立場の彼が、必死に築き上げた城なのである。

しかしそれでも、人と関わり、愛を求める人であっただろうことは、龍太やその母との関わりだけでなく、友人との風景にも表れる。特にケーキのシーンでは、美味しいものを友人と分かち合いたい、という彼の美徳を表現している。おそらくたくさんの美しい事、素晴らしいことを愛する人に分け与えたい人だったのだろう。

たまたまだが「ジェネロジテ」という言葉を調べていた。日本語にぴったりした訳がないのだが、辞書では「寛大、寛容、気前の良さ」という意味がある。デカルトはジェネロジテをよりよく生きるため、情念に流されない美徳と位置付けている。この辺はキリスト教の教えの影響があるので、もっと深い意味が含まれていると思う。施しや同情ともまた違う、「惜しみなく与える」というような意味もある。

浩輔は神を信じない、と言っていたが、原作の高山さんは外語大の仏語出身なので、おそらくはこの辺りの哲学的考えに触れていると思う。それらを具体的に覚えていなくても、もともと高山さんが浩輔と同じ美徳を持っているというのなら、哲学と仏文は切っても切れない中なので、考える機会は多かったのでは。

浩輔の「与える」という行動を愛情に起因する「美徳」と位置付けるには、その後にとてもとても残酷なことが押し寄せてしまう。しかも人知の及ばない出来事である。

あの時、浩輔が援助を申し出た時、それは愛する人を独り占めしたいというエゴイズムだったかもしれぬ。お金を与え、美味しいものを与え、与えるだけの一方的な身勝手だったのかもしれぬ。けれど浩輔は見返りを期待していない。彼はもしそのお金が踏み倒されても、傷つきはしても憎みはしなかっただろう。恋愛で傷つき傷つけてきたであろう、数多の人生のキャリアから、またその教養の高さからそうではないかと推測するのもある。おそらく、彼は同じセクシャル・マイノリティとして、龍太の複雑な状況を助けたいというのもあったろう。「ウリ」をやめてほしいというのは、独占欲だけではなかったはずだ。

そういう類のお金だったろうし、二人の関係もそのように丁寧に構築されていったのだと想像する。それは浩輔が確固たる美学を持っていた故ではないか?

情念だけに流されないための月10万円という浩輔の「高邁な精神=ジェネロジテ」は、龍太がその持つ意味と共に受け取ったことにより、龍太から浩輔へのジェネロジテが発生した。龍太もまた、浩輔との関わりで、抑え続けていた自我・自己(ego)を得たのではないか。「母親に本当の仕事の話ができる」という真実を話せる、というのも解放された自己を見せることだ。

浩輔は一人でその自分の存在を証明してきたが、龍太とその母との交わりによって新たな自己存在を見つけた。本作は高山さんの哲学の話でもあり、「エゴイスト」のタイトルはただそのまま受け取るには、深い愛情に満ちて、だからこそ観客の心を動かす。

ちょっとまとまりにくいし、反論もあるであろう。

私の恩師が亡くなった時の、親友であった教授の追悼文を先日やっと読むことができた。死の床の友人を前に、無力な自分に苦しんだ思いと友情にあふれた言葉が続き、最初に読んだときは号泣した。二人の研究を通じた信頼関係を、私もよく知っていたからだ。

その最後に綴られた聖書の一節が本当に美しく、救われた。

「これらのものは滅びる。しかしあなたはそのまま永久に変わらない」(ヘブライ書)

この言葉を選んだ教授に、私はデカルトや哲学を教わった。正直いい生徒ではなく、講義の半分も理解できていなかったと思う。よく単位が取れたものだ。しかし教授は敬虔なクリスチャンであることは印象に強くあり、私が聖書の講義を別に取っていたのはその影響も少なからずあった。そのため、教授がこの言葉に至った感情はよく分かった。

私は学問としてのキリスト教は学んだが、信仰はない。この言葉を引用したのは、救いを聖書の教えにつなげたいわけではない。救われた、と言ったのは、その教授が喪失の際に辿った感情がこの言葉に集約されているからだった。

高山さんが恋人のことを物語に記したのは、失ったことを書いたのではなく、まだ存在し変わらないことを確かめたかったのではないだろうか。

高山真さんも恋人も、恩師もその友人も、もうこの世にいない。しかし月並みだが、誰かの心にいつもいるような気がするのだ。思い出であったり、その教えであったり、目に見えない、小さな欠片だとしても。

「我思うゆえに、我あり」ならば、「我君思うゆえに、君あり」もいけんちゃう?デカルトさーん。と高山さんと同じパリジェンヌ学科卒(※学校は違います)の私は思うのです。

ま、私なんかの話より、このコラムがすべてを網羅してるのですが。クソババアも愛の言葉ですね。

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