je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

『虹む街』KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ

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作・演出 タニノクロウ

神奈川芸術劇場プロデュース。長塚圭史芸術監督がいよいよ本格始動したKAAT。

野毛の飲食店街が舞台である、安藤玉恵さんが出演というチラシ情報で気にはなっていて、友人のおすすめもあり。

インスタライブでタニノさんと長塚さんのトークを見たりはしたけど、横浜市民が演者として参加してるとかゆるめの情報だけで観劇。若いおしゃれな雰囲気の男性が多かったり、客席もいつもと違う雰囲気。

舞台は野毛をモデルにした飲食店街のコインランドリーに集う、近辺で生活する人たちの一日。セットは中心にコインランドリー、右は中華料理屋、インドレストラン、左にルビィという店名のスナック、小さなタバコ屋、左端はシャッターの閉まった店。コインランドリーの上はフィリピンパブ。他にも風俗店や飲食店のネオン。全ての店名が変換間違いのような、異国で見る間違った日本語のような、はたまた新しい言語のような綴りになっている。

ずっと舞台にいるのはおそらくは風俗店の店員らしき男。男はずっとピンクとブルーの洗濯済みのタオルを丁寧に畳み続ける。彼は話さないけれど、そこにやってくる近隣の人々の動作や言葉を眺め、時に反応し、優しく受け入れる。

台詞は少ない。というかない。そして話される言葉は外国語が多い。

中華料理屋の母と幼い娘が店にくるシーン。娘はずっと「ウオシャンヤンゴウ!ウオシャンヤンゴウ!」と叫ぶ。母親はなだめ諭しているようだ。「我想养狗」(犬を飼いたい)だなと気づいた時に、娘が「犬がほしい」と日本語で話す。観客への補足のようでもあるが、娘は日本の地元の学校に通っていて日本語での会話も多いのかもと想像する。母親は一貫して中国語で「ちゃんと勉強したら飼ってもいい、宿題をしろ」というような事を話し、店に戻ると娘はカウンターでずっと勉強していた。

インドレストランの男二人は使用してる言語はヒンディー語のようだが、片方が時々英語を交えてたので、もしかしたら兄弟ではなく出身コミュニティーが違うのかもしれない。兄弟のようで友達なのか。天気をやけに気にして、店を閉めてビールを飲んだり、歌ったり、ゲームしたり自由な国民性。

英語と中国語は分かるのでつい脳内翻訳してしまうのだが、これは意味が分からない方が楽しめるかも、と思い訳すのをやめた。結果それでよかったように思う。全部分かればそれはそれでストーリーがもっと論理的につながるかもしれないが、街の中での喧騒は意味をなさないようにこの芝居を流れる景色のように見て感じる。会場と一体化したセットからして、そういう作りなのだと、すぐに気づかせる。

その中で一番日本語のセリフの多い安藤玉恵さん演じるコインランドリーの店主。足が悪く、どことなく卑屈な雰囲気で、食べてばかりで意地汚い女。かといってストーリーテラーなわけでもない。言葉ではないところで他との関係を示す難しさ。

それをサポートしているのがタオルを畳む男であり、女に餃子を分け与えるフィリピンパブの店長である。女を中心とするなら、男二人は他の点をつなげる支点、もしくは結び目のようだ。男二人は日本語話者であるというのは何となく示される。言葉は重要ではない、が捕捉ツールになる。

そういえば結び目というと、男が雨漏りの応急措置でタオルを結んでつなげて、女がやらなくていいと言う印象的なシーンがあった(結んだタオルは残される)。少ないセリフと動きとセットがうまくリンクする、そんな場面が自然に配置されていた。

 

言葉を言葉として意識しない、とはいえ残る言葉もいくつか。中華料理屋の女が太極拳を教えるとき「ヨウラン」という言葉を幾度か言う。これは「揺籠(ヨウラン)」という中国語で、名詞なのだがここでは動詞的に使っている。中国在住時のヨガの先生が太極拳も教えている人で、ゆっくりした動作を教えるときにこの言葉を多用していた。子供を抱いてゆっくりゆりかごのように揺らすような仕草。言葉がわからずとも、動作と雰囲気で和むシーン。

フィリピンパブの店長が餃子をテイクアウトところは「チャオズ」しか言わない。餃子の発音はジャオズなので、チャオズと発音したのはそう聞こえているのか、中華料理屋の女の出身地方の発音がそうなのかもしれない。他の中国語は解してないように見える。いつも頼むから、よく使う言葉だけ覚えた感じだ。インドレストランの男らと賭け事をしている時も言葉少なだが通じ合っている。賭けという共通言語の中で、お金や大事な部分だけ確認している。

フィリピンパブの女性たちが店長に歌を歌い、感謝をするシーン。ここも一人日本語が他よりできる女性がいて、店長に何かを話している。タガログ語と英語と日本語のチャンポンは、彼らのドラマを具体的には示さないが、店長が涙ぐむまでの流れは秀逸だった。2階のフィリピンパブは店員の影しか映らないのだが、最初はただ楽しそうに歌い踊る風俗店の音が、店長とのやりとりを経てより情感ある影と音になる。パブの女が踊る相手は店長なのか。彼らの歌や声が明るければ明るいだけ、その影も濃くなるように見える。

 

スナックのママと常連の女、ラジオ好きの愚痴っぽいタバコ屋の男、雨の中プラカードを持ってただ立っているだけの男。いつものようにコインランドリーに寄り、最後の日をいつものように過ごす。洗濯物を同じ洗濯機にぽいぽい入れていくのはどうなのかと思ったが、最後にそれぞれの洗濯物を引き取って行くところでこれもまた比喩なのだと気づく。

 

明日から男はどこか別のところでタオルを畳む、フィリピンパブの店長は餃子を女に分け与えることはない、中華料理屋の娘は犬を飼うかもしれない。雨が降ってもプラカードの男にレインコートはないかもしれない、ラジオの男はどこで愚痴を言うのか。結び目もほどけて、点が少し減って線がなくなる。つながり続けるところと、離れるところ。少しだけ変わる、そんなに変わらないかもしれない日常。

KAATの近くに中華街があるのだが、コロナ前は道に観光客がいっぱいで先が見えないほどだった。ハマスタで試合がある日は野毛の飲み屋街はブルーのユニフォームでごった返す。ビールの匂い、シウマイの蒸した香り、海風と潮の香り。

タニノクロウさんが実際に横浜近辺をリサーチして、あくまで架空の街ではあるけれど、どこかで見た日本の繁華街の、外国人が多くいる街角がうまく再現できていると思った。

海外に住んでいた時、もしくは海外旅行をした時、国ごととか宗教でお店の場所は区切られ離れていることが多いように思う。生活圏の住居と職場が隣接しているパターンが多いからだろうし、言語的なことや宗教的な理由もあるだろう。人種間や宗教の争いを避けるためもある。コミュニティーができれば自然と区切られる。日本の場合、その辺はいいかげんで、タイもインドもパキスタンも一緒になってたりする。小さな駅の飲食店街に中華と韓国料理と和食とイタリアンが同じ軒先に並んでいる。日本ならではかもしれない。

横浜近辺、黄金町あたりなどのカオスな、都内の渋谷や新宿辺りの喧騒とはまた違う雰囲気もよく出ていた。

日本語話者が日本人だという事を示すこともない。男も女も店長も、タバコ屋の男も、もしかしたら違う国の出身かもしれない。言わなくてもいい、言いたくないのかもしれない。それも全部包んでいる街と店の感じがリアルな日本のようで、理想郷のようでもある。

これだけ人種や言語や宗教がごった煮で、イデオロギーを絡めてないのも上手いなと思った。あえて排除したというのではなく、市井の人たちの日常生活の見えるとこだけを表現したらこうなる。それでも薄っぺらくないのはリサーチの綿密さと、実際に市民と交流してきちんと見たからだと分かる。

終演後セットを近くで見られて撮影も。以前は奥まで見られたそうだがコロナ対策もあり残念。それでもとても良い体験。

チラシを見直してたら「劇場(KAAT)へ、旅をしに行こう。」の惹句が。まさにまさに。こんな時だからこそ、異国情緒あふれる横浜の劇場へどうぞ。

 

どうでもいい話なのだが、フィリピンパブの店長役の緒方晋さんの見るからに「雇われバーのマスター」感すごい(実際はフィリピンパブの店長だが)。すぐにマスターだなって。中日ドラゴンズの阿部選手っていう人のあだ名がマスターなんだけど、その人にすごい似てて。阿部選手は野球のユニフォーム着てるのにマスターって言われてるから、服装とかじゃないんだと思う。緒方さんもペニノで「ダークマスター」を演じていたというのもあるのかもしれないけど、何着てても「雇われマスター」のジャンルの人っているよねー。