je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

演劇は世界に何をもたらすのか~太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』東京芸術劇場プレイハウス

太陽劇団『金夢島』

あらすじ(公式より)

時は現代。病床に伏す年配の女性コーネリアは、夢の中で日本と思しき架空の島「金夢島(かねむじま)」にいる。そこでは国際演劇祭で町おこしを目指す市長派とカジノリゾート開発を目論む勢力が対立していた。夢うつつにあるコーネリアの幻想の島では、騒々しいマスコミや腹黒い弁護士、国籍も民族も様々な演劇グループらが入り乱れて、事態はあらぬ方向へと転がっていくのであった……。

太陽劇団 (テアトル・デュ・ソレイユ Théâtre du Soleil)について

創立者で演出家のアリアーヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)が主宰する太陽劇団。1964年に創立され、もうすぐ60年を迎えるフランスの老舗の劇団。他民族・多国家の劇団員から成り、「集団創作」というスタイルで知られている。パリ郊外のヴァンセンヌの森にあった旧弾薬倉庫(カルトゥーシュリ)を活動拠点としている。

今回初めて観劇したのだが、確かに個よりも集団を意識した作品作りだった。主役のコーネリアという女性はいれど、彼女は案内役であり大きな軸というわけではない。彼女が見る夢が入れ子構造のように舞台上に引き出されていく。いったい何人俳優がいるのか。今回は日本の能や歌舞伎などの日本的舞台様式を模しており、黒子や能面的な肌色のマスクなどで俳優の特徴や個性が分かりにくいため、集団としての動きが目立った。場面転換では大きな装置を動かしているのだが、転換の素早さはもちろん、足音やセットの移動音をほぼ感じさせない技術が素晴らしかった。演出や音響もあるが、転換含めて間合いで観客の集中を途切れさせないのは、劇団を長く続けていることと、その創作スタイルが所以であろう。

アリアーヌは1939年生まれで、ナチス占領下のフランスを経験している。うちの父と同い年の84歳ということだが、そのパワーに圧倒された。

スペクタクルな演劇世界

あらすじの通り、病床のコーネリアが日本にいると勘違いして、その夢の中の話を黒子的なポジションの守護天使の男に話している。その夢うつつの舞台が「金夢島」なのだが、演劇祭の人間関係や政治的あれこれはかなり日本的で、実話なのかなと思ったり。

現市長と反対派とか、カジノリゾートを目論む外国人とか、村的な人間関係、過疎化問題、などなど。一応ここが「物語」として流れてはいくのだが、テレ東の2時間ドラマぽいなと思っていた。元ネタはなんだったのだろう。

物語軸よりも、演劇祭に参加している各国の芝居が練習風景として差し込まれていくのだが、こちらの方が見ごたえがあった。香港の劇団は独立運動を、中東の劇団は宗教と人種で分断された歴史を、人形劇団は新型コロナが中国で発生した際の中国の対応を皮肉たっぷりに、アフガニスタンの劇団やブラジルの劇団も。時事を切り取ったり、戦争の悲劇を描いたり。全体主義や独裁への批判的目線が主だった。

日本の市民劇団のシーンは大衆演劇的な表現で、歌舞伎や能を模したものよりこちらの方が日本的な部分をよく表現してるなと思った。大衆演劇の方が太陽劇団との共通点が多いからしっくりくるのかもしれない。

『夏の夜の夢』に出てくる『ピラマスとシスビー』の引用や、聖書の「放蕩息子の帰還」、能・狂言・歌舞伎の引用はもちろん、日本的なセットや背景の浮世絵など、あらゆる物語やモチーフが咀嚼する暇なく繰り広げられる。見ているだけで精一杯だったが、それだけでも楽しい舞台だった。何故かヘリコプターに乗るダイナミックな演出があり、ほぼ話の筋には必要ないのだが、フランスのナントの「ラ・マシン (La Machine)」のパフォーマンスぽくて楽しかった。つくりものの舞台で見せる夢、という表現にぴったりだし、遊び心がある。

日本を愛する異邦人が見たファンタジーとしての日本

アフタートークで能、狂言、歌舞伎、太鼓などは実際に指導を受けたという。あいにくコロナ禍で大変だったそうだが、Zoomで専門家からしっかりトレーニングされたというだけあり、かなり丁寧に作っていた。あくまで太陽劇団としての表現なのだが、デフォルメしすぎたり、外連味強かったり、人種的な笑いに転じたりというのは感じなかった。

基本フランス語の台詞に字幕上演で、日本人にも分かりやすくするためなのか、フランス語の台詞まわしも比較的ゆっくりで聞きやすく理解しやすい。日本語台詞も相当練習したのが分かる。他の国の言語も多国籍劇団らしく、うまく散りばめていた。

人種的な表現がまったくなかったわけではない。フランス人が裸でうろちょろするとこは、日本とフランスの違いを面白おかしく表現していた。ここはちょっと自虐ギャグ?

肌襦袢をつかった裸体の表現は、昔のドリフぽさもあり、大人計画でこういうの見たことあったので、オリジナルでなくてどこか日本の劇団とかから拝借したのか。

全体的にアリアーヌもしくは劇団から見た日本像なので、日本であって日本でない世界を見せられてる面映ゆさはぬぐい切れない。「こんなに好きになってくれてありがとうね~」とは思うのだが、そうかこういうところに惹かれるのか、という不思議さが先立ってしまうのだ。フランスの公演時はどういう反応だったのか。

この面映ゆさは『アメリカン・ユートピア』と『フレンチ・ディスパッチ』を見た時に限りなく似ていた。前者は「白人が描く多民族文化」で、後者は「アメリカ人の見たフランス文化」みたいな感じ(でいいか自信ないがとりあえず)なのだが、表現としてのすばらしさよりも、現実とのずれの方が気になってしまうのは私だけではないと思う。

とはいえ日本も散々海外への憧憬を、愛という免罪符で時に素っ頓狂な表現でアートや文化に出しまくってきたので、よその事はいえまい。

仮面の使い方について

アフタートークの質問で「仮面は人種的ステレオタイプのように感じる」というのがあり、アリアーヌさんがショックを受けていた。「能面をオマージュしたもので、日本への愛を表現しています」とのことだった。

私も実は最初この仮面表現に違和感があった。コーネリアやフランスにいる現実世界の登場人物は仮面はなくそのままだが、夢の中の登場人物は全員仮面をかぶっている。日本人役だけでなく、外国人の役も同じものを被っているので、日本人を模しているわけではない。

仮面マスクは肌色で目と鼻の穴と口のところだけ穴があいている。肌色でストレッチ素材なので、厚手のストッキングを顔に被っているようにも見える。ストレッチ素材のためか、鼻の凹凸が消えて、少し目も小さく見えてしまうので、いわゆるアジア的な顔を表現していると勘違いしても仕方ないかもしれない。表情も消してしまうので、よく揶揄された「アルカイックスマイル」も思い出してしまった。

能面を模したのであれば、本当の能面のような硬質なタイプにするとか、お祭りのお面的なものでもいいかも。多分マスクは使いやすさを優先していて、人種的意図は全くなかったであろうが、使用した意図はもう少し掘り下げてもとは思った。

個人的には多国籍な演劇世界を表現してたので、人種や国にとらわれない世界を表現するための道具として、というようならよかったかもと思った。

「ブラックフェイス」の問題もいまだあるので、アジア圏の表現の問題は今後いろいろ出てくるだろう。

演劇による「美」は世界に「和」をもたらすのか

終演後のアフタートークはアリアーヌさんと、東京芸術祭総合ディレクター・宮城聰さん。通訳さんと劇団員も壇上に。

冒頭、宮城さんが「演劇による美は世界に和(平和)をもたらすのか」という、なかなか難しい問いを投げかける。宮城さんは「それについては自分は疑問がぬぐえない、それを言ってしまうのは傲慢ではないか」と常々思ってたそうだが、太陽劇団の公演を見て、アリアーヌさんの意見を聞きたかったのだという。

それについてアリアーヌさんは

ドストエフスキーが美が世界を救うと言っていた気がする。美は気持ちよいもの、しかし平和を望んでいない人にまで和をもたらさない。ナチスも音楽や美術を楽しんでいた。しかし、美を探求せずに制作はできない。美=和でなはい。」

「美は問題を解決することはできないが、人々を落ち着かせることはできる」

というとても芯の強い言葉が返され、宮城さんも楽しそうにうなずいていた。

その後「宮城さんのいう傲慢であるというのはよく分からない。どういうこと?」

とアリアーヌさんが問い詰めてて、宮城さんがあわわとなり。

アリアーヌさんは否定的な意見を受けるのが苦手というより、劇団として確固たるスタイルがあり、自分の表現への哲学があり、そこに自信があるのかなと思った。

それ以外にも

  • 演劇という道具で戦うという事は特権。人々に生きる喜び(美しいものや静かな時間)を与えること。
  • 絶望するためにやっていない。絶望と戦うためにやっている。
  • 公金をもらって、観客にチケットを買ってもらっている。
  • 演劇とはオアシスだが、現実を否認するものではない。

など印象的な言葉が多かった。フランスはナチス支配下にあった影響で全体主義や独裁主義への拒否反応が大きい。また議論したり市民が権利のために戦う文化が根付いている。漠然とした美というより、もっと現実につながった表現やアートへの意識が強い発言が多く、この辺は日本と違う部分かもしれないと思った。

Q&Aではあまり時間もなかったのもあって、細かいところまで聞くことはできなかったが、観客側の質問も幅広く盛り上がった。

「感謝」「癒し」「悟り」という言葉がランプに書かれていて、その意図は?という質問があったが、わりと感覚的に選んだようであった。電話の表現の効果や、鶴の意味なども、観客が思うほど深く掘り下げていたわけでもなかったようだった。

観客側は、特に異文化の観客は言語化することで意味を求め納得したいのかもしれないが、舞台上にあったものがやはりすべて、というのはどの演劇にも言える。

この劇団が持つ「感覚的な鋭さ」というのはまさに演劇的で、舞台でしかないものだった。「賛否どちらにせよ、もっと観客側も感覚を鋭くせねば、真の和はもたらされない」とでも投げかけてくるような刺激を受け取った公演だった。

 

  • 東京芸術祭総合ディレクター・宮城聰さんのコメント内にアリアーヌさんの発言の引用あり。

tokyo-festival.jp

マクベス夫人とはいったい誰だったのか?〜『レイディマクベス』よみうり大手町ホール

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ベースはもちろんシェイクスピアの『マクベス』。こちらはマクベス夫人ことレイディ・マクベスを主役にした、現代の架空の国の戦争の物語。一心同体のカップル、絶え間ない戦争、男に傷つけられる女、支配者と兵士、世襲、母と娘。新しいテキストに散りばめられた新たな世界の中で、天海祐希が「穢いは綺麗、綺麗は穢い」を体と言葉で換骨奪胎する。

キャリアに悩む女性としてのマクベス夫人

レイディマクベス天海祐希)は元戦士で、マクベスアダム・クーパー)とかつては共に戦場を生き抜いてきた同志でもある。しかし出産によって体を痛め、今は家庭で夫マクベスを支えている。その夫も、長びく戦争で心身ともに衰弱している。命をかけて産んだ娘(吉川愛)に対しては、自分のキャリアを奪った存在として見てしまっているのか、レイディの態度は冷たい。

レイディはマクダフ(鈴木保奈美)やバンクォー(要潤)に、かつての戦場での功績や苦労を自慢する。どれだけ自分は素晴らしい戦士だったか。その横で言葉少ない元同僚のマクベスと戦士レノックス(宮下今日子)は、いまだ続く戦争に緊張が途切れていない様子だ。

レイディがダンカン王(栗原英雄)殺しへ傾いていく気持ちの流れは、彼女の「仕事のキャリア」への未練に端を発している。一心同体の夫へその思いを託しているが、夫はそのプレッシャーに耐えかねており二人はすれ違う。やがて燻ぶり続けたレイディの野心と欲望が、歪に積み重なっていったための悲劇、という設定だ。

職場のセクシャルハラスメントや性差、仕事と家庭のバランス、女性のキャリア、現代における問題を盛りこんでいる。女戦士レノックスも「妻」がいる設定で、同性婚もあるようだ。

マクベス夫人がなぜあれほどまでに夫を王にしたかったのか?という部分を現代的に分かりやすくしたところはある。

現代に寄せつつ、欲望に翻弄される人々の狂気の芝居が、原作戯曲を踏襲する。また『ホロウクラウン』のように王冠に呪われる世界も。それでもシェイクスピアとは全く違う、新しい物語ではあり。もしシェイクスピアが現代にいて書くとしたら?というような視点もあった。

レイディを取り巻く人たち

マクベス役のアダム・クーパーは英語台詞と日本語台詞の両方あったが、あまり話さない設定になっている。これは戦場でPTSDを負ってしまった影響とも取れるし、また「男性らしさを強要された男性ゆえの苦悩」という、そちらも現代的な問題を反映している。

ただせっかくアダム・クーパーをキャスティングしたのだから、もうちょっと台詞あってもよかったのでは?一人英語台詞にして、日本人キャストとの差異を際立たせることで、マクベスの孤独や夫婦のコミュケーション不和を表現するのもありだったのではと思う。英語台詞で娘が父の言葉を「翻訳」するシーンがあったが、意訳にしてて、そこは微妙なずれが面白かった。マクベスが本当に言いたいことをいくらか分かってるのは、娘だけというようにも捉えられた。日本人観客の多くが英語が分からない、という弊害あれど、字幕にするとか、思い切って観客に分からないのを演出にするのもありだったと思う。

魔女はいつ出てくるんだ?と思ったら「マクダフ、バンクォー、レノックスの顔を持った幽霊(レイディが戦場で殺した敵)としてレイディの前に現れる」という二役設定になっており、ここはうまいなと思った。

娘の存在はラストへつながるし、レイディの苦悩の原因となる新たなキャラとして効果的だった。彼女が事の流れを振り返るようなモノローグで、物語の案内をする。この名のない娘は、物語の外側にいることがあるために、まるで彼女の存在は透明な幽霊のようでもある。

 

(※下記、本作のラストのネタバレに触れていますのご注意ください)

帝王切開の悲劇

最後はレイディは、王になったマクベスが衰弱しきって戦場への指示が出せなくなったのを見て撃ち殺す。レイディは王冠を受けるが、片割れである夫を失ったために狂う。そして母親を娘がその銃で殺し、娘が王となる。

ここは原作における「女から生まれたものはマクベスを殺せない」という「帝王切開トリック」から来ている。原作では「自然分娩でなく母の腹を破って(帝王切開)生まれたマクダフがマクベスを殺す」のだが、ここでは「母の腹を裂いて出てきた娘がレイディを殺す」というラストになった。

(※帝王切開での出産は昔は死ぬことを意味していたので「女から生まれた」のではなく「死体から生まれた」ことを意味している。帝王切開=女から生まれていない)

ここもレイディが女たる所以の悲劇となっており、最初から最後までレイディは「女」であることを枷としているのは、テーマとしては統一はされているが、個人的にはしっくりこない部分だった。天海さんが強い女性を演じ、その中にある問題を彼女が発するのはたいへん説得力があるのだが、もし本当に現代的にするのならば、性差における問題を悲劇のままにオチにするのはどうなのかと思った。

一心同体のマクベス夫妻

パンフでは松岡和子先生の「マクベス夫人には名前がない」ということについての解説があり、新たな視点と解釈が広がる。また文庫本の訳者解説にも、マクベス夫妻の一人称複数表現「We(私たち)」について書かれているので併せて読むと大変面白い。

マクベス夫妻は愛し合う一心同体のカップルで、分かちがたい絆で結ばれている。他のシェイクスピア作品に比べても、これだけ「カップル」がフィーチャーされてるのはそうそうない。

松岡先生の訳と新解釈により、マクベス夫婦がニコイチだったことが証明され、この上演にも反映されている。

マクベス夫人とはいったい誰だったのか?(個人的な解釈)

マクベスとレイディが同等な関係にあり、他のシェイクスピア作品に比べると新しいカップル像を表現したのであれば、当時としてはかなり斬新であったと思う。

その中で、ではシェイクスピアは果たして男女の同等を表現したかったのか?というと時代的にちょっと違うのかもという疑問に当たる。

「私たち」を主語にすることで二人を主人公にする、新たな表現だったのかもしれないし、夫婦愛を描きたかったのかもしれぬ。

私がこのところ思っているのは、シェイクスピアは創作の上でノンバイナリーな側面があったのでは?ということである。作家が「異性」を描くときにどういうアプローチをしただろうか、ということを考える時に、ざっくり2つに分けると、「自分の外側にある理想または現実の異性像」を描く人と、「自分の中にある自己としての異性」を描く場合がある。シェイクスピアは後者に近い気がするのである。

十二夜』『間違いの喜劇』などで異性装が出てくるのは、当時の男性俳優のみの上演ゆえの演出というのが大きな理由だ。一人何役もするので、そこをトリッキーに演出に組み込んだ創作だったろう。しかしそれを難なく表現したのは、創作者としてのシェイクスピアの中では、ジェンダーへの境が曖昧な部分があったのではないか?という気もする。

マクベスの場合は、夫と妻が表裏一体で、実は一人の人間だった、という解釈もありなのではないか。マクベス夫人は、マクベスが殺人を実行するために作り出したもう一つの人格、というとらえ方もできる。戯曲で夫人の死は言葉によってしか表現されない。あれだけ存在感あるのに、彼女の死は説明台詞でしか語られない。そこで存在が曖昧となるのは、もともと存在しなかったからでは、という解釈もできる。魔女や幻がたくさん出てくるからありえなくはない。

あるいは女性を主役に書きたかったが、いろいろあってできなかった、というのもあるかも。この辺りの解釈は他の作品を読み込んで、考えてみたい。

コントロールできないのは夢も現実も同じ〜ケムリ研究室No.3『眠くなっちゃった』世田谷パブリックシアター

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あらすじ

近未来の架空の国。人口は減り、気温は下がり、食物は少なくなり、人々は中央管理局なるものに監視・管理されている世界。

娼婦のノーラ(緒川たまき)は夫ヨルコ(音尾琢磨)と暮らしている。住んでいるアパートの大家・ダグ(福田転球)の妻.・ウルスラ犬山イヌコ)らの家族、アパートの住人、娼婦の仲間たちも、抑圧された日々に慣れつつもなんとか生き抜こうとしている。ある時ノーラの元に新しい指導観察員・リュリュ(北村有起哉)がやって来る。

日々の小さな変化がそれぞれの生活に影響を及ぼしていく。

コラージュされたディストピア世界

近未来ディストピアでSFな設定。しかしテクノロジーが進化した社会ではなく、むしろ技術は後退している(あるいは制限された)かのよう。レトロな雰囲気が昔のSF映画を思い起こさせる。

アパートの雰囲気や近隣の音が聞こえてきそうなダクト、「なんの肉を食べてるか分からない」というカニバリズムを想像させる台詞は『デリカテッセン』的世界観。全体的には『ラ・ジュテ』を思い出した。パンフではそれは出てこないが、主に参考にしたという『未来世紀ブラジル』のテリー・ギリアム監督が撮った『12モンキーズ』の元ネタは『ラ・ジュテ』である。リュリュがノーラに固執するところは、よくあるファムファタルものではあるが『ラ・ジュテ』ぽさがある。

ナイフ投げのくだりはまさに『橋の上の女』。ストーリー自体はそれらの映画とは関係なく、ところどころの雰囲気や手触りが、そのものずばりなぞるというより、モンタージュやコラージュのようにバラバラに切り取ったものをパズルのようにカンパニーの世界にはめて、さらに彩っている。元ネタを知らなくても世界観をたっぷり楽しめるが、映画好きだとおや、と思うところが多かった。

これは現代映画の中で名作をオマージュするというのも違っていた。その場合どうしてもオリジナルの方が勝つからである。今回はトレースの跡は感じられず、演劇だからできるのか、ケラさんだからなのか。

引き込む声、恐怖の演技、ステージングの妙

削ぎ落とされたテキストのシンプルさが、俳優の演技をより際立たせる。

脚本の質の高さも起因するが、俳優の声がより生かされる演出でもあった。

奈緒さんの可愛いけれど決して媚びてはいない強さの声、母性的で優しいけれど悲しみも感じる犬山イヌコさんの声、などなど。

そして声が脚本でも大きなキーになっているのだが、北村有起哉さん演じるリュリュの奥さんの「声」を、実際の北村さんの奥様が声だけ出演している。設定も含めて、なかなかエモいシーンだったので、ケラさんぽいのか?ぽくないのか?おおっと思いました。

演技については芸達者な方ばかりなので当たり前だが、むしろその演技の高さはあえて控えめに演出されていたと思う。コメディにせず「笑い」を封じたために、それを武器とする俳優さんらの新たな面が引き出されてもいた。

山内圭哉さん、福田転球さんなどはいくらでも笑いを取れる俳優だが、あえて抑えていることで元々の演技の良さ(怖さ)が分かる。近藤公園さん、野間口徹さんらはコメディなら「ボケ」のポジだが、「ツッコミ」がない事で淡々とした空気が強く出て、こちらも怖さがある。

そう、笑いを抑えると「怖さ」に転じる。何かを制限されている、抑えている、というのは恐怖を引き出す。

松永玲子さんと山内さんのシーンは唯一2人とも必死すぎて、とても安心して笑える部分もあった。ただやはりこちらも爆笑するというよりは、ニヤニヤする程度の笑いしかない。

木野花さんに至っては、恋多き老女(というかほぼ色情狂?)なトンデモ設定なのだが、木野さんの凛とした雰囲気とのギャップが凄い。

小野寺修二さん率いるカンパニーデラシネラのステージングと、自ら演じる道化師のコレオグラフィーに魅了された。演劇という夢の世界、サーカス、ディストピア世界が出会い重なり通じ合う。

昨年、東京芸術祭で小野寺さんが演出した野外劇『嵐が丘』を観たのだが、ステージング、パフォーマンスがまことに素晴らしく、演劇における身体性を使った表現の果てしなさを感じた。同じような感覚が中屋敷法仁さんの演出『ペリクリーズ』にもあり、自分がこれから観たい演出はこっちなのかなと気づきもあった。既存のダンスでも演技でも、それ以外の何かの型にはまった表現でもない、俳優の体を使った新しい表現。老若男女問わず、ジェンダー表現にも偏らないそれは、すごく現代的で未来的で魅力的だ。

※ここからラストのネタバレに触れますので注意⚠️)

果たしてここは何処なのか

ノーラの記憶を吸った(見た)ボルトーヴォリ(篠井英介)は、今までとは違う衝撃を受け脳が破壊(もしくは狂った)されたかのように倒れる(おそらく死ぬ)。今までは誰かの記憶は、曲一曲分くらいの刺激しかない、ちょうどいい嗜好品だったはずだ。ノーラの記憶は致死量を超えた麻薬だった。人を狂わせるほどの、果たしてそれはなんだったのか。ノーラが殺人や享楽、いわゆるモラルが欠如しているという仄めかしは所々にあった。確かに罪人だったのかもしれないが、ノーラは自由で愛に満ちた人でもあった。犯した罪が許されるか否かは別として、生きることに前向きで愛を諦めない純朴さ。その底なしの人間らしさにボルトーヴォリはやられてしまった。

けれどきっとそれは、人間が本来持っている当たり前の感情というものではなかったろうか。抑制された世界で、失われつつあった心。リュリュはそれに惹かれた。

最後の人間らしさを持ったノーラが「眠くなっちゃった」と雪舞う中、リュリュの腕の中で目を閉じるラストシーン。芝居は終わり、世界が終わる。

ディテイルは違うが、『ラ・ジュテ』の記憶を巡る話にも通じる。タイムマシンこそ出てはこないが、『猿の惑星』のような感覚もある。実はこれは近未来ではなく、現在、もしくは過去。ただ時空を巡っているだけ。

あるいはこれはノーラの見ている夢で、登場人物も劇世界もすべてノーラの夢の話。そして「眠くなっちゃった」と言った瞬間にパッと暗転した瞬間は、客席にいた私たちでさえも消えてしまったかのような恐怖があった。

ケラさん作品を多くは見ていないが、わりと笑いのリズムやナンセンスで煙に巻かれてしまうので、今までは感想が書きにくかった。

今回は笑いを封じた事で「恐怖」が感じられた。しかしホラーやサスペンスのように襲いかかるような分かりやすいそれではなく、もっと紗がかかったような手ごたえのない、床の下に壁の向こうに見えないけれど隠れているような、幽霊よりももっとふんわりした優しい手触りの恐怖だった。

劇団かケラさん単体プロジェクトなら、もっと恐怖は恐怖でしかなかったのではないか。パートナーでありファムファタルであり、失うことも得ることもすべて託し託される、誰よりも信頼する緒川さんの存在あってこその、手応えはないが確実にそこにあるとでもいうような、不思議な手触りの物語だった。

おまけな余談

今回4日のマチネのチケットを取っていたのですか、「9月30日に世田谷パブリックシアターの舞台機構に発生した予期せぬ深刻なトラブル」により10月1日から7日までの7公演中止という出来事があり。大焦りしました。

だって北村有起哉さんが舞台に出るの久しぶりなんだもんよ〜!2月に主演映画の舞台挨拶があって、その時「もうすぐ舞台やります」ってわざわざ伝えてくださった。やはり舞台はご本人にも大事な場なのではと。

そして北村有起哉が舞台でこそ輝くことを信頼し、あるがままの力と魅力を見せてくれたケラさんに感謝しかない。

日程の都合で行けなかったであろう方も多いと思うが、これは同じメンバーで再演をしてほしい。

愛さなくてはという逃れられない呪いについて~『たかが世界の終わり』テアトル新宿

 

dai7sedaizikken.wixsite.com

知らせるために、

言うために、

ただ言うためだけに、

間近に迫った手の施しようのない僕の死を、

"pour annoncer,

dire,

seulement dire,

ma mort prochaine et irrémédiable”

(”Juste la fin du monde” Jean-Luc Lagarce 「まさに世界の終わり」斎藤公一訳)

あらすじ

ルイ(藤原季節)は、余命1年であることを知り、長年会うことのなかった家族のもとへ帰郷する。戸惑いながらも歓迎しようとする母(銀紛蝶)と年の離れた妹・シュザンヌ(佐藤蛍)、初めて会う弟の妻・カトリーヌ(周本絵梨香)。家長となった弟・アントワーヌ(内田健司)はあからさまに不快感を表し、家族の会話は次第にぎくしゃくしていく。ルイは自分の死期を伝えようとするが、皆ルイに話す隙を与えない。

1995年に38歳で亡くなったジャン=リュック・ラガルスの自叙伝的な作品。

「配信演劇」から映画館へ

2020年10月、コロナ禍により様々なエンターテイメントが中止を余儀なくされ、劇場も閉鎖されたようにひっそりとしていた。蜷川さんに師事した若手俳優のユニット・第7世代実験室(通称ダイナナ)が「配信演劇」として本作を発表した。

私が見たのはアーカイブ配信された翌年の2月。もともと2017年に日本公開されたグザヴィエ・ドランの映画版を見ていて、とても好きな作品だった。

今回「俳優藤原季節特集上映」の一作として、スクリーンで本作を見られる稀有な機会ということで友人を誘い見に行った。

ワンカットで110分。タブレットで鑑賞していた時には気にならなかったが、俳優の動きに張り付くライブ感あるハンドカメラ映像は、大きなスクリーンだとかなり揺れが大きく感じた。しかしより効果も大きかった。会話劇の中の見えない心の揺れを表しているようであり、舞台演劇が持つライブ感もより伝わる。そして俳優の表情や仕草も新たな発見があった。

「母と息子」から「兄と弟」へ

映画版を先に見ていたので、配信を見た時は映画の印象に引きずられていた。まず映画版だとアントワーヌが兄でルイが弟となっている(ルイが主人公で帰郷する設定なのは同じ)。アントワーヌは「有害な男性らしさ」を持つ暴力的なキャラクターとなっている。またドラン作品では「母と息子」の歪な関係、「双生児か姉弟のように親しい絆があるが反発も同じだけ大きい」、という設定が必ず盛り込まれており、映画版ではよりルイが中心となっている。その映画版の印象が強かったためか、ダイナナ版を見た時にもルイの抑圧や孤独を中心に見てしまっていた。

今回は二度目というのもあり、原作の「兄と弟」の関係の描き方がかなり肝なんだなと気づいた。いわゆる家父長制で、兄を跡取りとすることが一般的ならば、アントワーヌは本来は家長にならなかった。「兄と弟」の立場の逆転が、ルイが家族の中で浮いている大きな理由だ。またそれでもたらされたアントワーヌの苦悩も見え、彼はもう一人の主人公で、ルイと対を成しているようにも見えた。

アントワーヌを演じる内田健司さんは、映画版の印象に引きずられることなく、兄弟の対比を軸に演出し演じていた。ルイの死の気配よりも、生によりもたらされたそれぞれの孤独の方が印象に残った。原書で「アベルとカイン」「放蕩息子」との比較の解説もあり、内田演出はかなり原作戯曲に忠実だったといえる。

母役の銀紛蝶さんは安定した演技で、内田演出の軸を支える。久しぶりのルイとの邂逅に喜びながらも、アントワーヌのそれまでの奉仕に気を遣う。カトリーヌ役は家族の中で唯一の血縁者ではないが、周本さんが内田さんとのさすがの阿吽の呼吸が、劇中でのルイの「他者性」をより引きたてる。シュザンヌはルイに近づこうとして引き離される(あるいは無視される)。それはシュザンヌがルイと年が11歳も離れていて、実はよくルイを知らない、家族との関係も知らない、という悪意なき無邪気さを佐藤さんは屈託なく演じる。

結局なぜ皆ルイをこれほど拒否するのか?もちろん長きにわたる不在、家族をないがしろにしたルイの非情、都会に住むルイと田舎の家族、という分かりやすい背景がある。そして皆が「ルイの病気のことを知らない」「そもそもルイの事をよく知らない」という共通項で、ルイ以外の人間はつながっている。さらに家族という集団が持ちやすい「それぞれが本来持つ他者性(あるいは個人としての特性)を認めない、認めたくない」枠組みの中で会話が進んでいき、そこに入れないルイはどんどん孤立する。かといって他の家族がよりまとまるわけでもなく、むしろそれぞれの孤独も浮き彫りになる。そしてそれを引き起こしたルイを追い出そうとする。

「他者性」に関して言えば、藤原季節さんだけがこの中で「蜷川組」でも「ダイナナ」でもない、というのもルイにはぴったりだった。舞台となった、コロナ禍のさいたま芸術劇場の大スタジオというホームで演じるダイナナメンバーと、そこに迷い込んだかのような藤原季節という俳優。イントロダクションからして象徴的だった。

長いモノローグ、詩の朗読のように浮遊する独白は、ただでさえ難しい翻訳劇として入りにくい面もある。銀紛蝶さんはもちろん、ダイナナメンバーのさすがのシェイクスピアで培ったであろう台詞まわしが功を奏し、すぐにリズムに乗った。ルイがその独白を聞き入る演出にしたのは、藤原季節の特性にとても合っていた。映画でも舞台でも、彼は相手役がいる時はその声を受け止める。その演技がいつもよい。そして自分の独白が誰も聞いていなくとも、自分の世界を作り出す。まさにルイそのものだった。

ラガルスの病と1990年代のフランス

ラガルスは1995年にエイズで亡くなっている。本作はすでに病を知ってから執筆されたので、どうしても重ねてしまうのだが、ラガルスの他の作品と傾向は変わらないそうで、内田演出はそこにはっきりとはつなげていないのもよかった。

結局ルイはなぜ死ぬのか?というのはこの芝居では語られない。

しかし原書の方で「歴史と文化」「ラガルスの人生」の年表が対比で記載されており、HIVの悲劇の歴史が、ラガルスの人生に影響を与えなかったとは言い難い。(以下X(旧Twitter)で自分で気になるとこだけ訳したのをツリーにまとめました)

1980年代初頭にフランスでエイズ患者(フランスではSida)が初めて死亡し、1981年に同性愛の非処罰化が定められるなど、実はオープンそうなフランスでもHIVという悲劇によって同性愛の歴史が徐々に変化していく。人工妊娠中絶を合法化した政治家シモーヌ・ヴェイユの映画を先日見たのだが、ヴェイユは1994年にエイズ患者と相対し、病院での不遇な扱いにショックを受けているシーンがあった。ヴェイユは「エイズは人道的に対応すべき」と発言し、国連エイズサミット開催に尽力している。

エンジェルス・イン・アメリカ」でもあったが、HIVを同性愛だけの忌むべき病として隠し無視したために、対応が遅れ感染が拡大した。それはフランスでも例外ではなかったということだ。その背景には宗教と家父長制はおおいに関係しているだろう。

家族の中で語ることを許されないルイの苦悩は、この時代のラガルスのアイデンティティの苦悩でもある。演劇という枠の中でやっと息をすることが許される。作品として表現することで。

いないものとして無視されることの苦痛。あるがままで愛されない、受け止めてもらえないことから自分を偽るしかないことのアンバランス。

ラガルスと同じ年に生まれ、1993年に同じ病で亡くなった映画監督シリル・コラールもまた『野生の夜に』で愛したいけれど愛せないことの苦悩、病を受け止められない苦しみを描いている。

エイズが死の病でなくなった現代に生きるドランも、いまだ自身のアイデンティティを受け入れてもらえない苦痛というテーマを映画に込めている。

あくまで勝手な自説(アントワーヌのアイデンティティについて)

(ここはあくまで自説、なので、戯曲を深読みしすぎているとは思うのですが、メモとして。またドラン作品の一部ネタバレに触れるので注意してください)

内田さん演じるアントワーヌ。時々薬指にはめられた結婚指輪をしきりにいじっていた。イライラして抜こうとするような仕草。カトリーヌへの暴力的な対応など、彼が明らかにこの結婚、家庭の状況に満足していないのを表している。本来長兄として家を継ぐはずだったルイの登場によって、そのことを思い出して徐々に苛立つ。さして意味のない仕事、家長としての責任の重圧、つまらない田舎の生活、等々。

去っていったルイは本来なるべき自分だった、かもしれないという勝手な羨望、嫉妬。

そこをふと深読みしたのだが、ルイとアントワーヌが背中合わせの対なら、アントワーヌにはラガルス自身も投影されている。とすればアントワーヌもクイアとしての隠されたアイデンティティがあったのでは?という読み方もできる。アントワーヌの最後の独白はルイへの拒絶であり、自身の否定とも取れる。

それはちょっと深読みしすぎでは、とも確かに思うのだが、ドランのいくつかの作品で、ゲイの主人公に対して「有害な男らしさを持つ年上の男性(もしくは兄)」というのがしばしば出てくる。今までの作品なら同性愛を抑圧する社会の代弁もしくはメタファーとして出てくる。テネシーイリアムズなら『熱いトタン屋根の猫』で家父長制の象徴としての父親、『欲望という名の電車』のスタンリーしかり。『ガラスの動物園』では父親の不在という設定が本作に通じる。

ドラン作品の場合は、その「男らしい男性」が主人公に惹かれる(『トム・アット・ザ・ファーム』)。ストレートであったと思っていた男性が、隠された自分のアイデンティティに気づく、というのがたまに描かれる。

兄弟でゲイというのはちょっと深読みがすぎるが、アントワーヌがもう一人のルイ、というのはあながち悪くない解釈ではと思う。内田演出がどこまでアントワーヌ像を掘り下げていたかは分からないが、家父長制の抑圧のメタファーとしてのキャラだけではない部分も感じた。

はみだしっ子』との類似点

すっかり忘れていたのだが、2021年に配信を見た時に『はみだしっ子』について言及していた。確かにルイの台詞の端々に似ている描写が多い。

 

今回は兄弟の関係に注視していたので、台詞に重きを置きすぎないようにしていたためかあまり思い出さなかった。それでもルイが「愛せない事」について語るたびに、むしろ「バカヤロー愛してやるのに」(by サーニン)も思い出したし、あとこれも。

「人は...いつになったらとき放たれるんだろう/ 愛せない事の罪悪感から」

これは4人が養子に行くときにグレアムが叔父さんに「(養親を)愛せなかったら?」と問うた時に叔父さんが「仕方ない」と答えた後のモノローグ。

カインとアベルの話もあったし、家族という枠組み、人と人がつながっていることと孤独の対比、あるいは孤独そのものの表現に通じるものがある。

生きるという宿命について

ラストに白く覆われたセットの中で彷徨うルイとアントワーヌ。その二人きりの瞬間だけ、二人はやっと邂逅したともいえる。しかし、白い布は引き潮のように引いていく。ルイが故郷から体も心も離れていき、アントワーヌと家族はその遠くへ埋もれていくのを表現している。

人は、愛さなくてはならない、劇場は開かれていなければならない、芝居が始まったら止めることはできない、疫病があろうとも生きて進まなくてならない。

けれどなんのために?なぜ?それを問うてしまったらすべて止まってしまう。コロナ禍での配信演劇(しかもワンカット)というなんともカウンター的な表現の本作。

結局、答えはない。

ラガルスも三原順ももういない。ドランはいるが映画を撮るのをもうやめるという。でもまた湧き出るように、隠された思いが出てくる。どこかからか。抑圧された者たちの、忘れ去れそうになった、話すことを禁じられた言葉たちがやってくる。それをせめて見届け、受け止めることの目と耳と心(あと知性と寛容!)がある人でありたい。

 

心を可視化する~『パリの記憶(Revoir Paris)』(ネタバレなし)

日仏学院の「映画批評月間」で『パリの記憶』(Revoir Paris)を見てきました。本公開されていない(公開も未定)なので、重要なネタバレなしで。

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ロシア語の通訳をしているミア(ヴィルジニー・エフィラ)はカフェでテロの襲撃に巻き込まれ、一命をとりとめる。三か月が過ぎ、体は少しずつ回復していたが、仕事にも復帰できず、パートナーとの関係もうまくいっていない。事件の記憶がすっぽりないことが、彼女の心を重くし、やがて記憶を取り戻そうとするが...。

2015年11月13日に起きたパリ同時多発テロ事件の物語。あくまでフィクションではあるが、最初の方に襲撃のリアルな様子、生存者の実際の体験やコメントが反映されているであろう脚本なので、見る時には注意した方がよい。(これだけは注意喚起としてネタバレします)

ミアがどのように記憶をたどり、自分と向き合うかがメインなので、基本的には静かに見てはいられる。ミア目線なので、ミアが分からないことは観客も分からない。一緒に謎解きをしておくような構成。ミアの心は見えないが、映画という魔法のフィルターで可視化されていくような体験だった。

主演のヴィルジニー・エフィラが台詞少ないながらも、知的で、しかし弱さも強さも併せ持つ情感豊かな人間像を静かな演技で魅せる。『ベネデッタ』の激しい炎のような姿と違いすぎてびっくりした。

出演シーンは多くはないが、レオス・カラックスの娘であるナスーチャ・ゴルベワの佇まいと静かな抑えた演技が素晴らしい。カラックスの作品には出てるとはいえ、俳優としては初めての演技だと思うが、かなりうまい。カメラの前で俳優がすべきことをよく分かっている。

ブノワ・マジメルは相変わらずフェロモンダダもれで(これだけでネタバレか?)、しかしハンサムだがちょっと崩れた愛嬌のある雰囲気は、全体的に緊張感のあるストーリーに時折緩みを与えてくれて心地よい。相変わらずまつ毛にマッチ載りそう。

パリのテロ多発事件は、当時事件にあやうく巻き込まれそうになった日本人のブログとかを見てたのでよく覚えている。その後フランスに転勤の話があったりもしたので(色々あってなくなった)ちょっと調べたりしていた。

映画を見て、パリ市民に大きな傷となっているのを感じた。時が少し過ぎ、映画として表現できるようになったということなのだろうか。果たしてその是非は分からないのだが、一人の人間の心に焦点を当てた表現は、事件そのものを映画にするよりももっと胸に迫った。

日本だとなかなかこういう表現の映画が少ない気がする。どうしても作家性を打ち出すとマイナー(=興収が少ない)になってしまうからなのかもしれないが、フランス映画を見ていると、かなり表現の幅が広いので観客の受容が広かったり、芸術へのサポートがしっかりしてるんだなと思ってしまう。いわゆる売れ線の邦画を批判したくはないが、分かりやすさと観客を信頼している作品作りを同時にできているとは言い難いので...。

 

11月10日にはやはりこの事件を描いた『ぼくは君たちを憎まないことにした』も公開される。こちらも見たい。

nikumanai.com

近づいては離れ~『ジェーンとシャルロット』(Jane par Sharlotte)渋谷シネクイント

Jane

2023年7月16日(日)ジェーンバーキン、パリの自宅で死去。

日本での映画公開が決まっており、監督のシャルロットが来日予定だったのだが、ジェーンの看病のために中止になったとの報を聞き、そこまで悪いのかと心配していた折の知らせ。Triste Dimanche...

 

シャルロットによるジェーン

原題は「Jane par Sharlotte」で、直訳は「シャルロットによるジェーン」である。あくまで、娘であるシャルロット・ゲンズブールが監督という立場の目を通して、という主題。邦題も決して間違ってはいないし、いわゆる母と娘という愛情関係を美しく表した直截的タイトルとしては悪くない。しかし、ジェーンの波乱万丈な、そこに家族としてどうしても「巻き込まれた」観のあるシャルロットの人生や、二人の女優としてのそれぞれのキャリアも含めて考えると、シャルロットが実の母親に対して「par Sharlotte」という俯瞰的なタイトルにした意味も深いと思わせる点が作品の中にも散りばめられている。

原題は、家族の愛憎と、女優としてと人間としての母ジェーンへの尊敬の念が混在しているのを表している。

距離感のある母と娘

最初はコロナ禍前、二人が日本に旅している時の映像から。京都の茶室でお茶を楽しんだり、裸足で庭を歩いたりする様はぱっと見は仲の良い姉妹のような親子の姿だ。しかし、いざシャルロットがジェーンにインタビューを始めると、なんとなくぎこちない。ジェーンのシャルロットへのコメントに距離を感じる。

おそらくシャルロットがカリスマ性のある俳優であることに、同じ俳優として畏怖を感じている、のは分かるのだが、娘である、ということをあえて脇にやっているような感じがした。二人とも優しいウィスパーボイスで、フランス語の発音のフワフワ感もあるので、一見そうは見えないかもしれないが、この時のジェーンはちょっと意地悪っぽくも見えた。

もちろん、血がつながった、しかも同性の家族というのは意外とそんな部分はあるだろうと思う。近いがゆえの甘え、嫉妬もあるだろう。他人には見せない部分でもある。

この後に撮影はいったん中断され、二年ほど間が空いたという。

姉ケイトの死

二人の間をつなぐもののひとつに、シャルロットの姉のケイト・バリーの死がある。

映画のところどころで、ジェーンはケイトの事を思い出す。クライマックスで、昔の家族のホーム・ムービーを見ながら、耐えきれず撮影を止めた。彼女にとって決して癒えることのない痛み。

シャルロットにとっても姉ケイトは大きな存在で、ニューヨークに移住したのはケイトとの思い出があるパリにいたくないという事からである。

シャルロット自身もつらい出来事を、あえて母に向き合わせる。とてもシビアで、しかし映画監督としての目線がしっかり分かる場面であった。ここでまさにJane par Sharlotte のタイトルが集約された。

ケイトの方が愛されていたのでは、自分は母にとってどういう存在なのか。シャルロットにとっても長年わだかまっていた思いに決着をつけたシーンでもある。

結局、ケイトの死はジェーンにとって彼女を特別なものにしてしまった。けれどそれを共有できるのは、家族としてケイトと長く同じ時間を過ごしたシャルロットしかいなかった。

セルジュ・ゲンズブールの大きな影

途中、パリのヴェルヌイユ通りにあるセルジュの家(メゾン・ゲンズブール)に二人で行くシーンがある。

外壁はアーティスティックな絵が描かれ、中はセルジュの芸術がそのまま時を止めたような有り様だった。ジタンの吸い殻、レペットの白いジジ。ジジはジェーンが勧めて履くようになった、セルジュの代名詞ともなった一品。

交際していたブリジット・バルドーの大きなパネル、黒い壁紙に映えるアート作品や写真。どれもきちんと並べられて、不在の主をずっと待っているようだった。

ジェーンの部屋もそのままになっており、ジェーンが使っていた香水の瓶も化粧品も綺麗に並べられていた。「まだ香るかしら」とジェーンがひとつ手に取り蓋を開ける。一瞬、時のとまった部屋の時間が動き出すような。

セルジュは、決まった位置からものを動かすと怒り狂う、というエピソードを聞いたことがあるが、ジェーンの家や別荘の生活感ある、捨てられないままものにあふれ雑然とした様子を見ると、一緒に住んでる時は大変だったろう。

セルジュが酒など色々問題がある人でありながら評価されているのは、その溢れる芸術性ゆえだ。結局、ジェーンも彼の問題に悩まされ別れを決意し、それは幼いシャルロットにも傷を残したろう。しかしホーム・ムービーに映るプライベートの姿のセルジュは、連れ子のケイトも、実子のシャルロットもわけへだてなく家族として愛している優しい父親に見えた。多くは語らずとも、いくつかのエピソードにジェーンのセルジュへのたゆまなかった思いが見え、シャルロットにとってもそれを知る貴重な瞬間であったろう。

とはいえ、シャルロットに遠慮して悪口を言わなかっただけかもしれない。DVと酒乱で離婚したのだから。最初の夫(ケイトの父親)についてはかなり悪しざまに言うシーンがあり、3人目の夫のジャック・ドワイヨンについては悪口ではないが、生活習慣で合わない面があったなどわりとざっくらばんに告白していた。

ちなみにメゾン・ゲンズブールは近く一般公開されるらしい。シャルロットはそのためにもジェーンを連れてきて、止まっていた時間を動かしたかったのだろう。

シャルロットの広く深い視点

シャルロットは言葉では語らなかったが、映像を見ているとどんどんジェーンを見る目線が優しくなっていくのが分かる。なおかつ、とても俯瞰的に、時にシビアに。監督として一人の人間、女優、アーティストを見る目に変化する。

シャルロットと末っ子のジョー(これがまた幼い時のシャルロットを瞬間思い出させる!)とジェーンのシーンは、シャルロットが母である事に気づく。母親としての目線が、そのまま自分の母親にも向けられ、時にジェーンがシャルロットの娘のように見えたりもする。そのため、どんどんジェーンがシャルロットに心をほどいていく様が、これは他の監督でできたろうか?と思わせる。

「Jane par Sharlotte」のタイトルは「Jane B. par Agnes V.(アニエス v. によるジェーンb)」へのオマージュであると思われる。もしアニエス・ヴァルダならば、いくらか可能であったかもしれないが。

幸せでいて、シャルロット

シャルロットのモノローグが時折はさまれる。ジェーンへのラブレターといえる美しい詩は、唯一彼女の私的で内的な面を見せる。最後の方の、波打ち際のシーンの前のモノローグは、年老いた親を持つ人、かつて親を亡くした人に特に響く。

映画でジェーンは生き生きと笑い、歌うが、私たちはもう彼女がここにいないことを知っている。

私はシャルロットと同じ年齢で、彼女が10代の頃からずっと活動を見ている。突然長い髪を切って、昔のジェーンのような髪型にした時は、いったい何があったのかと動揺した(インタビューを読んだら別に理由はなかった)。

フランスきってのセレブカップルの子で、そして生まれもってのカリスマで時代のアイコンでたくさんの人に愛されながら、いつも不安そうな目で所在なくいる彼女へ、あこがれと同時にどうか彼女が幸せでいますようにと思っていた。夫であるイヴァン・アタルは交際時代から映画の共演などで見ていたので、末永く仲良くいてほしいといまだに願う。つまり単なるミーハーなファンである。そういう意味では私は圧倒的にジェーン目線ではなく、シャルロット目線でこの映画を見た。

この映画を撮ることで、シャルロットはいくつかの謎や、思い込み、呪縛から解き放たれたのではないか。それだけジェーンはシャルロットにとって大きな存在だった。愛する人を愛したい、理解したい、受け入れたい。とてつもなく重く、しかし広く深いシャルロットの心の叫びが聞こえるかのようだった。

Jane par Sharlotte

 

 

最近書いたシャルロット主演の映画についての感想です。しかしふざけすぎているかも。

star-s.hatenablog.com

 

 

猛暑の夜の夢(4)~Fuji Rock Festival―フジロックフェスティバル2023二日目参戦記(ヘッドライナー・エピローグ)

Foo Fighters (グリーンステージヘッドライナー)

GGPの後にオレンジで待ち合わせ。どこもものすごい行列で、ソフトクリーム買うのに1時間弱。誰が言うともなく、ヘッドライナーまで体力温存するために、ぐったりのんびり。オレンジに届くヘヴンのUAの声、移動中に聞こえたVaundy の声。

グリーンはいい感じに人が集まってたが、そこそこ余裕あり。

私は中間地点の椅子観戦エリアで座って見ることに。他は前方のスタンディングへ。

この時点でどうも熱中症ぽかったらしく、顔だけ熱くて仕方がなかった。ポカリの売り場でイオンウオーターを飲みなんとかひとごこちついたが、万が一は先に早めに宿に帰るかと思案。

なことを思っていたらライブ始まり。椅子エリアと思いきや割と皆立ってた。ちょうど通路の境目だったので、座っててもスクリーンは見えたし、ステージも少しは見える。「All My Life」でドン!とあげて、ステージも客席もわっと火が付く。隣が中学生くらいのお子さんをつれた4人家族だったので、お子さんがご両親の影響を受けてるのかな、という感じでほほえましい。

フェスが面白いなと思うのは、これだけビッグネームでも、古株やコアなファンの反応と、私とか世代的に聞いてはいるがライトリスナーな層、フェスをただ楽しみたい層などが全部シームレスに混じっている。単独ライブでもライト層はいるが、フェスだとその数がかなり多い。

都会のフェスとまた違うのは、フジの場合、ここまで来るのに時間と体力気力を必要とするので、そもそも参加することに意義がある的な感じで、誰が誰のファンとかそうじゃないとか会場に入るとどうでもいいのがよい。

体調がよければ一人でホワイトやヘヴンも行きたかった。熱中症は改善していたが、もう足もクタクタだった。

のんびり座って、野外ステージの音響もあるけどデイヴ・グロールの声量に圧倒されたし、グランドファンクレイルロードの「We're an American Band」みたいなある種クラシックな音圧とバンド構成も心地よかった。途中トイレ行って戻ってきたら、ものすごく音が厚くなってて??と思ったらギターが増えてた。デイヴのドリフっぽいMCも和んだ。

そんな感じでゆっくり見てたので、ちょうどステージ中央の屋根の上を、ライブ始まりに下手にあった月が上手へ半円描くように動いていくのも時々眺めていた。

バテバテで宿に戻り、なんとか風呂に入り、夜食も食べ。いろいろあれど、ケガもなく無事終了。

いろいろ思い出

途中涼を求めてドラゴンドラへ。これスキーシーズンはめちゃ高で、もともとのリフト代+αで払えなくて乗ったことなかった。普通だと山頂まで高速リフトを乗り継いでいくが、これだと一本で行ける。シーズンオフだと安くて、フジの時は特別運行してるので、確かに貴重な機会。大変だったのは、チケット買って乗り場に行くまでがすごい坂道。誰も転ばなくてよかった。

ドラゴンドラ命名ユーミン

これ山の稜線がすごくきれいな色になってた。カメラ越しで一瞬色が変わって、マジックタイムみたいな感じ。

ドラゴンドラ

フェスではフェス飯を堪能できなかったけど、次の日おいしいコーヒーや蕎麦やら、お土産買い物やら堪能。新潟いいとこ~。