je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

近づいては離れ~『ジェーンとシャルロット』(Jane par Sharlotte)渋谷シネクイント

Jane

2023年7月16日(日)ジェーンバーキン、パリの自宅で死去。

日本での映画公開が決まっており、監督のシャルロットが来日予定だったのだが、ジェーンの看病のために中止になったとの報を聞き、そこまで悪いのかと心配していた折の知らせ。Triste Dimanche...

 

シャルロットによるジェーン

原題は「Jane par Sharlotte」で、直訳は「シャルロットによるジェーン」である。あくまで、娘であるシャルロット・ゲンズブールが監督という立場の目を通して、という主題。邦題も決して間違ってはいないし、いわゆる母と娘という愛情関係を美しく表した直截的タイトルとしては悪くない。しかし、ジェーンの波乱万丈な、そこに家族としてどうしても「巻き込まれた」観のあるシャルロットの人生や、二人の女優としてのそれぞれのキャリアも含めて考えると、シャルロットが実の母親に対して「par Sharlotte」という俯瞰的なタイトルにした意味も深いと思わせる点が作品の中にも散りばめられている。

原題は、家族の愛憎と、女優としてと人間としての母ジェーンへの尊敬の念が混在しているのを表している。

距離感のある母と娘

最初はコロナ禍前、二人が日本に旅している時の映像から。京都の茶室でお茶を楽しんだり、裸足で庭を歩いたりする様はぱっと見は仲の良い姉妹のような親子の姿だ。しかし、いざシャルロットがジェーンにインタビューを始めると、なんとなくぎこちない。ジェーンのシャルロットへのコメントに距離を感じる。

おそらくシャルロットがカリスマ性のある俳優であることに、同じ俳優として畏怖を感じている、のは分かるのだが、娘である、ということをあえて脇にやっているような感じがした。二人とも優しいウィスパーボイスで、フランス語の発音のフワフワ感もあるので、一見そうは見えないかもしれないが、この時のジェーンはちょっと意地悪っぽくも見えた。

もちろん、血がつながった、しかも同性の家族というのは意外とそんな部分はあるだろうと思う。近いがゆえの甘え、嫉妬もあるだろう。他人には見せない部分でもある。

この後に撮影はいったん中断され、二年ほど間が空いたという。

姉ケイトの死

二人の間をつなぐもののひとつに、シャルロットの姉のケイト・バリーの死がある。

映画のところどころで、ジェーンはケイトの事を思い出す。クライマックスで、昔の家族のホーム・ムービーを見ながら、耐えきれず撮影を止めた。彼女にとって決して癒えることのない痛み。

シャルロットにとっても姉ケイトは大きな存在で、ニューヨークに移住したのはケイトとの思い出があるパリにいたくないという事からである。

シャルロット自身もつらい出来事を、あえて母に向き合わせる。とてもシビアで、しかし映画監督としての目線がしっかり分かる場面であった。ここでまさにJane par Sharlotte のタイトルが集約された。

ケイトの方が愛されていたのでは、自分は母にとってどういう存在なのか。シャルロットにとっても長年わだかまっていた思いに決着をつけたシーンでもある。

結局、ケイトの死はジェーンにとって彼女を特別なものにしてしまった。けれどそれを共有できるのは、家族としてケイトと長く同じ時間を過ごしたシャルロットしかいなかった。

セルジュ・ゲンズブールの大きな影

途中、パリのヴェルヌイユ通りにあるセルジュの家(メゾン・ゲンズブール)に二人で行くシーンがある。

外壁はアーティスティックな絵が描かれ、中はセルジュの芸術がそのまま時を止めたような有り様だった。ジタンの吸い殻、レペットの白いジジ。ジジはジェーンが勧めて履くようになった、セルジュの代名詞ともなった一品。

交際していたブリジット・バルドーの大きなパネル、黒い壁紙に映えるアート作品や写真。どれもきちんと並べられて、不在の主をずっと待っているようだった。

ジェーンの部屋もそのままになっており、ジェーンが使っていた香水の瓶も化粧品も綺麗に並べられていた。「まだ香るかしら」とジェーンがひとつ手に取り蓋を開ける。一瞬、時のとまった部屋の時間が動き出すような。

セルジュは、決まった位置からものを動かすと怒り狂う、というエピソードを聞いたことがあるが、ジェーンの家や別荘の生活感ある、捨てられないままものにあふれ雑然とした様子を見ると、一緒に住んでる時は大変だったろう。

セルジュが酒など色々問題がある人でありながら評価されているのは、その溢れる芸術性ゆえだ。結局、ジェーンも彼の問題に悩まされ別れを決意し、それは幼いシャルロットにも傷を残したろう。しかしホーム・ムービーに映るプライベートの姿のセルジュは、連れ子のケイトも、実子のシャルロットもわけへだてなく家族として愛している優しい父親に見えた。多くは語らずとも、いくつかのエピソードにジェーンのセルジュへのたゆまなかった思いが見え、シャルロットにとってもそれを知る貴重な瞬間であったろう。

とはいえ、シャルロットに遠慮して悪口を言わなかっただけかもしれない。DVと酒乱で離婚したのだから。最初の夫(ケイトの父親)についてはかなり悪しざまに言うシーンがあり、3人目の夫のジャック・ドワイヨンについては悪口ではないが、生活習慣で合わない面があったなどわりとざっくらばんに告白していた。

ちなみにメゾン・ゲンズブールは近く一般公開されるらしい。シャルロットはそのためにもジェーンを連れてきて、止まっていた時間を動かしたかったのだろう。

シャルロットの広く深い視点

シャルロットは言葉では語らなかったが、映像を見ているとどんどんジェーンを見る目線が優しくなっていくのが分かる。なおかつ、とても俯瞰的に、時にシビアに。監督として一人の人間、女優、アーティストを見る目に変化する。

シャルロットと末っ子のジョー(これがまた幼い時のシャルロットを瞬間思い出させる!)とジェーンのシーンは、シャルロットが母である事に気づく。母親としての目線が、そのまま自分の母親にも向けられ、時にジェーンがシャルロットの娘のように見えたりもする。そのため、どんどんジェーンがシャルロットに心をほどいていく様が、これは他の監督でできたろうか?と思わせる。

「Jane par Sharlotte」のタイトルは「Jane B. par Agnes V.(アニエス v. によるジェーンb)」へのオマージュであると思われる。もしアニエス・ヴァルダならば、いくらか可能であったかもしれないが。

幸せでいて、シャルロット

シャルロットのモノローグが時折はさまれる。ジェーンへのラブレターといえる美しい詩は、唯一彼女の私的で内的な面を見せる。最後の方の、波打ち際のシーンの前のモノローグは、年老いた親を持つ人、かつて親を亡くした人に特に響く。

映画でジェーンは生き生きと笑い、歌うが、私たちはもう彼女がここにいないことを知っている。

私はシャルロットと同じ年齢で、彼女が10代の頃からずっと活動を見ている。突然長い髪を切って、昔のジェーンのような髪型にした時は、いったい何があったのかと動揺した(インタビューを読んだら別に理由はなかった)。

フランスきってのセレブカップルの子で、そして生まれもってのカリスマで時代のアイコンでたくさんの人に愛されながら、いつも不安そうな目で所在なくいる彼女へ、あこがれと同時にどうか彼女が幸せでいますようにと思っていた。夫であるイヴァン・アタルは交際時代から映画の共演などで見ていたので、末永く仲良くいてほしいといまだに願う。つまり単なるミーハーなファンである。そういう意味では私は圧倒的にジェーン目線ではなく、シャルロット目線でこの映画を見た。

この映画を撮ることで、シャルロットはいくつかの謎や、思い込み、呪縛から解き放たれたのではないか。それだけジェーンはシャルロットにとって大きな存在だった。愛する人を愛したい、理解したい、受け入れたい。とてつもなく重く、しかし広く深いシャルロットの心の叫びが聞こえるかのようだった。

Jane par Sharlotte

 

 

最近書いたシャルロット主演の映画についての感想です。しかしふざけすぎているかも。

star-s.hatenablog.com