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現代の『素直な悪女』・吉高由里子~『クランク・イン!』本多劇場

岩松了新作『クランク・イン!』。

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あらすじ

新作映画のクランクイン準備中の一行は、人里離れた建物でリハーサル中。映画は新人女優・堀美晴の突然の死によって延期されていた。四つある控室では、主演女優・羽田ゆずる(秋山菜津子)、若手女優・宮城真里(石橋穂乃果)、ゆずるの付き人・山根たず子(富山えり子)、ベテラン女優・鈴木弥生(伊勢志摩)がそれぞれ生活している。監督の並之木(真島秀和)は別の部屋にいるが、打ち合わせと称して頻繁にやってくる。既婚者の並之木はゆずると真里とそれぞれ関係がある。そこに別の控室から訪問してくる新進女優のジュン(吉高由里子)。彼女はゆずるの大ファンだと無邪気に入り込んでくるが、どうも堀美晴の死について何か知っているようだった…。

けむに巻く岩松世界

新人女優の死を巡る謎、並之木を巡る女の争い、女優同士の駆け引き、女同士の粘着質ないさかい、付き人への執拗ないじめ、失われていく若さへの渇望、男の勝手な欲望、クリエイターのエゴイズム、ルッキズムパワハラ、セクハラ、などなど分かりやすい人間の業の深さをちりばめつつ、しかしはっきりと見せずに、暗示的なままけむに巻く。岩松ワールドに翻弄される。

その「けむに巻く」という仕掛けのほとんどが、謎の女・ジュンによって為される。彼女は突然やってきて、ゆずるへの純粋な憧れを語る。それは真実のようで、並之木の誘惑にも、他の女たちの牽制にも揺るいだりしない。裏がない。それは最後の最後まで徹底され、同性愛にも似た心の献身をゆずるへ見せ続ける。観客もジュンに翻弄され、どこへつれて行かれるのか迷ったままになる。

現代の『イヴの総て』か『虞美人草』か

しかしそんなジュンの純粋な思いに反して、彼女の行動は彼らを追い詰め、愛するゆずるをも追い詰め、思いがけなく主演の座を手にする。この流れはパンフでも語られているように、映画『イヴの総て』をベースにしている。映画と違うのは、ジュンはイヴのように「女優としての地位や成功」を奪い取るためには動いていない。彼女の目的ははっきりしない。

映画『イヴの総て』のラストでは、成功を奪い取ったイヴについた付き人の若い女優(若きマリリン・モンローが演じている)がイヴの衣装を体に当てて鏡を見るシーンで終わる。それはイヴがしたことが、やがてわが身に返ってくるという暗示である。

日本だと夏目漱石の『虞美人草』、いい気になって周りを翻弄した美女が最後破滅するという話である(破滅の仕方がめちゃ面白いのでおすすめ)。山田詠美の『ハーレム・ワールド』なんかも似た雰囲気だ。美しく自信に満ちた女性が、あるがままに振る舞ったことで陥った末路、みたいな話が分かりやすく受ける面もあるのかもしれない。『ハーレム・ワールド』の元ネタになった、スパイク・リーの『シーズ・ガッタ・ハブ・イット』(映画版)もその系譜なのだが、今見ると「女が欲望のままに生きたら罰が当たる」みたいな話で、結構ミソジニーかなと思う。男が主人公でも成功から陥落する破滅的な話はあるが、悲劇的ロマン風に同情的に描かれていることが多い。女が性的欲望を満足させたり、社会的成功を望むのは分不相応という目線がかつてはあったゆえの創作が受けた時代だったのだろう。

岩松了の脚本が、そういう分かりやすいわけもなく。ジュンの目的はいったい何なのか、分からないまま終わる。途中、ジュンが堀美晴の事件について語るシーンがあるが、ジュンは堀美晴のいったい何なのかは分からない。ずっと赤いハンドバッグを持っているが、堀美晴が持っていた赤いポシェットに似ている。でもそこもはっきりとは見せない。ジュンは幽霊のように、四つの部屋にいる女たちを惑わし、男の分かりやすい誘惑を避け続け、からまった関係の糸をさらに複雑しているのかほどこうとしているのか。

果たして、ジュンの存在により、真里は並之木との不毛な不倫関係を清算するかのごとく降板し去っていく、並之木と弥生は映画の成功を第一に他を切り捨てようとしている、たず子はとうとう痩せる。良い方向に、ともいえないがゆるやかに変化する。ジュンが崇拝していたゆずるだけが、変化せず、追い詰められ不幸になっている。

それとも、ゆずるを解放するために、ジュンが望んだ結末とも見えなくもない。そのくらい秋山菜津子の演技は毒々しくも美しく、相対する吉高由里子の無垢で純粋な美しさは、互いに引き立てあっていた。

吉高由里子だけの持つ「悪女」性

ベースは『イヴの総て』だが、吉高由里子の独特の無垢な悪女様相は、むしろブリジット・バルドー主演の『素直な悪女』を彷彿とさせた。BB演じる美女ジュリエットは、はたから見ると男に媚びてだらしなく、同性に嫌われているのだが、実はとても愛情に飢えている無垢で素直な子供のような人間だ。ジュリエットが幼い男の子と心を通わせているシーンで、その母親に「男だったら誰でもいいのね」と嫌味を言われる。それに対して「女だっていいのよ」とジュリエットは答える。男でも女でも、彼女は優しくされたいしたいと、ただそれだけを思う純粋な魂の持ち主なのだ。

悪女とは他人がつけたレッテルで、本質は違う、というのは実はずっと分かっている。みな気づいていないか、分かりやすいレッテルに視界が狭くなっている。今作で、吉高由里子は知ってか知らずか、BBのように無邪気に素直に演じている。ジュリエットとジュンが違うのは、ジュンは決して男に搾取されない、傷つけさせない。女という自我を、武器にも弱点にもしない。

男と女、というシスジェンダーの関係性で描いているようで、実は岩松了が描いているのはわりとボーダレスな性や関係性なんではないか、というのは『恋する妊婦』での鈴木砂羽の役でも感じた。

吉高由里子はドラマでもとらえどころのない、魅力的で破滅的で可愛らしい悪女を演じるとはまるが、あのあっけらかんとした雰囲気をも損なわず演出したのはさすがである。吉高由里子という女優の多面性を、隅から隅まで見せるのは至難の業だと思っていたが、今作はかなりはまり役だったのではと思う。

美術について

美術は愛甲悦子さん。昨年見た『物語なき、この世界』がとても印象的だった。コクーンではその広さや可動性を駆使したかなりダイナミックな装置だったが、今回はセットの大きな動きはなくとも、空間における可視化を強く感じた。あるはずのないドア、仕切り、階段のその下。背景の樹木のリアリティのなさ具合や距離感のあいまいさ。『物語なき~』でも思ったが、リアリティの中のケレンミのバランスがよく、とても演劇的で、視覚にうったえるセットだった。