イザベル・ユペールという竜巻
2020年秋に招聘され公演されるはずだった本作。コロナ禍に2度の延期を経て、やっと日本へ。
テネシー・ウィリアムズの名作の中でも、かなり悲しい恋の話であり、煮詰まった家族関係のやりきれなさが描かれている。ほかの作品は設定の面で日本人が共感する部分が少ないが、こちらは母と息子と娘という小さな家族の話である。普遍性がありとっつきはいいが、その分やりきれなさや悲劇性が胸に迫る、見るのがつらい芝居ともいえないだろうか。
しかし、母親役のイザベル・ユペールがそのすべての先入観を叩き壊す。蝶のように軽く華やかな身体性と、その淀みないリズムの台詞回し。怖さと可愛らしさが同居する、愛らしくたくましく生きるパワーに満ち溢れたアマンダ!飛び跳ね、踊り、這いずり回り、声高く笑い、叫び、怒鳴り、歌う。
英語戯曲をフランス語で上演、しかも日本で字幕付きで見るというのはどういう感じなのか、見る前は躊躇があった。しかしイザベルの歌うような台詞回しにあっという間に魅了される。"Non, non, non!" "Bon, bon, bon!" "Bien, bien, bien!" と3度リフレインするフランス語の台詞は原作戯曲ではどうなっていたのか、アドリブなのか。料理をするアマンダが包丁をまな板にバンバンバン!と叩きつける音に重なる。まるでミュージカル。フランス語で語られるこの作品は、今までとまた違う彩りを放つ。
南部の華やかな頃に想いをはせる様子は『欲望という名の電車』のブランチを思い起こさせる。しかしこのアマンダは、空回りしながらも現実や貧しさと戦っている。アメリカ的な光と影が強く相反する世界観は、イザベルというフランス人俳優によって光も影も吸い込むブラックホールのような強さを見せる。まさにレヴォリューションの国の俳優の為せるわざかもしれない。
劇場中がそんなイザベル・ユペールという竜巻に巻き込まれ、喜びに身動きできなくなっていた。
愛情あふれる演出、夢のような美術と照明
そんなイザベルの過剰とも言える存在感を受け止め、包み込むイヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出が見事。原作戯曲への深い造詣と、そこからさらに広がる愛情深い演出は、この古典の素晴らしさについてやっと辿り着いた気さえした。
ローラの引きこもりや病気の設定はそのままだが、コンプレックスとなる足をあえてミニスカートで露わにし、身体的障害を排除している。そのことにより、ジムとのダンスや恋の会話は夢のように美しく描かれる。2人の恋があっという間に終わってしまう惨めさが引き立つかと思ったが、ローラにとって「実らなかった恋」ではなく「いっとき輝いた恋の思い出」として、観客への小さな贈り物のような印象を植え付けた。
ジムは無神経な訪問者でも、ガラスのようにもろい家庭のバランスを壊す破壊者でもなく、彼自身も弱く夢見がちな一人の人間として描かれる。
記憶の物語の語り手であるトム、テネシー・ウィリアムズその人の分身ともいえるトムの、その同性愛ゆえの苦悩も描く。おそらくは今までは表現されなかったであろうトムのジムへの恋慕にも触れている。
本作はテネシー自身と実の母と姉がモデルであり、それだけに愛憎の入り組んだ演出の方が主流だったが、イヴォはそのテネシーの苦悩や愛憎を優しくくるみ、昇華している。ローラの恋をただ惨めなものとしなかったことで、ローラの姿を通したトムの(つまりはテネシーの)ジムへの恋の存在を明らかにし、観客に認めさせた。テネシーの生きた時代には決して口に出すことのできなかった同性への恋を、テネシーが作品に密かに込めたその生き様を、イヴォは祝福するかのように演出したのではないだろうか。そんな新たな視点は、イヴォからのテネシーへのラブレターのようだった。
ヤン・ヴェーゼイヴェルトの柔らかで自由な美術と照明も、作品への愛情と、プロダクションへの信頼を感じた。
長方形にくりぬかれたような舞台セットは、ウイングフィールド家の小さな家。すべてがつながったワンルームで、床も壁も天井もベルベットの絨毯のような生地で覆われている。生地の表面をなぞり浮き出る人の顔のような柄。
下手にクローゼットの戸、アマンダの衣服が散らかっている。下手中心寄りにキッチンがあり、このエリアがアマンダのスペース。上手ではローラが直に寝ており、壁側にガラス細工を収納するスペースがある。同じベルベット素材の大き目なクッションらしきものはあるが、いわゆるテーブルや椅子、ベッドという家具はない。天井には豪奢なシャンデリア。
真ん中に外の景色が見える窓と上に上る階段。階段は狭くくねっており、外がどのようになっているかは見えにくい。トムのスペースはここにはなく、彼は常に階段の外へ出ようとしている。
横長で立体感もあえてあいまいにしたセットは、スクリーンのようで、トムが思い返す記憶の映画のようだ。柔らかなベルベット、まどろむような照明。演出に寄り添うような優しさに満ちていた。
余談という名のトラウマ
この作品、トラウマのような思い出が個人的にありまして。というのも、うちの母が大昔にアマンダ役をやったことがあるのです(アマチュア芝居ですが)。
しかも家族構成がほぼ同じで、父はいますが、姉と弟で、年回りもわりとローラとトムと同じくらいの頃のこと。父、私、弟で公演を見に行った際、あまりの話の暗さに耐えきれなかったらしく、父が何も言わずに一幕目で帰ってしまったのです…。私と弟は終わった後に、見に来てくれていた従兄?と一緒に回転寿司?かなんか食べに行ったような気がするのですが、どっと疲れてて無言。
帰宅して父を問い詰めたら、シチュエーションがうちとリンクしてつらかったのだそうで。確かに当時私は独身で実家住まいで、いわゆる結婚適齢期でもあったのですが、でも仕事もしてたし!弟はまだ大学生だったかな?でも別に苦悩するという感じではなかったし。
それ以来どうも苦手な戯曲だったのですが、こんなに愛情深い話だったんだなと。