je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

愛さなくてはという逃れられない呪いについて~『たかが世界の終わり』テアトル新宿

 

dai7sedaizikken.wixsite.com

知らせるために、

言うために、

ただ言うためだけに、

間近に迫った手の施しようのない僕の死を、

"pour annoncer,

dire,

seulement dire,

ma mort prochaine et irrémédiable”

(”Juste la fin du monde” Jean-Luc Lagarce 「まさに世界の終わり」斎藤公一訳)

あらすじ

ルイ(藤原季節)は、余命1年であることを知り、長年会うことのなかった家族のもとへ帰郷する。戸惑いながらも歓迎しようとする母(銀紛蝶)と年の離れた妹・シュザンヌ(佐藤蛍)、初めて会う弟の妻・カトリーヌ(周本絵梨香)。家長となった弟・アントワーヌ(内田健司)はあからさまに不快感を表し、家族の会話は次第にぎくしゃくしていく。ルイは自分の死期を伝えようとするが、皆ルイに話す隙を与えない。

1995年に38歳で亡くなったジャン=リュック・ラガルスの自叙伝的な作品。

「配信演劇」から映画館へ

2020年10月、コロナ禍により様々なエンターテイメントが中止を余儀なくされ、劇場も閉鎖されたようにひっそりとしていた。蜷川さんに師事した若手俳優のユニット・第7世代実験室(通称ダイナナ)が「配信演劇」として本作を発表した。

私が見たのはアーカイブ配信された翌年の2月。もともと2017年に日本公開されたグザヴィエ・ドランの映画版を見ていて、とても好きな作品だった。

今回「俳優藤原季節特集上映」の一作として、スクリーンで本作を見られる稀有な機会ということで友人を誘い見に行った。

ワンカットで110分。タブレットで鑑賞していた時には気にならなかったが、俳優の動きに張り付くライブ感あるハンドカメラ映像は、大きなスクリーンだとかなり揺れが大きく感じた。しかしより効果も大きかった。会話劇の中の見えない心の揺れを表しているようであり、舞台演劇が持つライブ感もより伝わる。そして俳優の表情や仕草も新たな発見があった。

「母と息子」から「兄と弟」へ

映画版を先に見ていたので、配信を見た時は映画の印象に引きずられていた。まず映画版だとアントワーヌが兄でルイが弟となっている(ルイが主人公で帰郷する設定なのは同じ)。アントワーヌは「有害な男性らしさ」を持つ暴力的なキャラクターとなっている。またドラン作品では「母と息子」の歪な関係、「双生児か姉弟のように親しい絆があるが反発も同じだけ大きい」、という設定が必ず盛り込まれており、映画版ではよりルイが中心となっている。その映画版の印象が強かったためか、ダイナナ版を見た時にもルイの抑圧や孤独を中心に見てしまっていた。

今回は二度目というのもあり、原作の「兄と弟」の関係の描き方がかなり肝なんだなと気づいた。いわゆる家父長制で、兄を跡取りとすることが一般的ならば、アントワーヌは本来は家長にならなかった。「兄と弟」の立場の逆転が、ルイが家族の中で浮いている大きな理由だ。またそれでもたらされたアントワーヌの苦悩も見え、彼はもう一人の主人公で、ルイと対を成しているようにも見えた。

アントワーヌを演じる内田健司さんは、映画版の印象に引きずられることなく、兄弟の対比を軸に演出し演じていた。ルイの死の気配よりも、生によりもたらされたそれぞれの孤独の方が印象に残った。原書で「アベルとカイン」「放蕩息子」との比較の解説もあり、内田演出はかなり原作戯曲に忠実だったといえる。

母役の銀紛蝶さんは安定した演技で、内田演出の軸を支える。久しぶりのルイとの邂逅に喜びながらも、アントワーヌのそれまでの奉仕に気を遣う。カトリーヌ役は家族の中で唯一の血縁者ではないが、周本さんが内田さんとのさすがの阿吽の呼吸が、劇中でのルイの「他者性」をより引きたてる。シュザンヌはルイに近づこうとして引き離される(あるいは無視される)。それはシュザンヌがルイと年が11歳も離れていて、実はよくルイを知らない、家族との関係も知らない、という悪意なき無邪気さを佐藤さんは屈託なく演じる。

結局なぜ皆ルイをこれほど拒否するのか?もちろん長きにわたる不在、家族をないがしろにしたルイの非情、都会に住むルイと田舎の家族、という分かりやすい背景がある。そして皆が「ルイの病気のことを知らない」「そもそもルイの事をよく知らない」という共通項で、ルイ以外の人間はつながっている。さらに家族という集団が持ちやすい「それぞれが本来持つ他者性(あるいは個人としての特性)を認めない、認めたくない」枠組みの中で会話が進んでいき、そこに入れないルイはどんどん孤立する。かといって他の家族がよりまとまるわけでもなく、むしろそれぞれの孤独も浮き彫りになる。そしてそれを引き起こしたルイを追い出そうとする。

「他者性」に関して言えば、藤原季節さんだけがこの中で「蜷川組」でも「ダイナナ」でもない、というのもルイにはぴったりだった。舞台となった、コロナ禍のさいたま芸術劇場の大スタジオというホームで演じるダイナナメンバーと、そこに迷い込んだかのような藤原季節という俳優。イントロダクションからして象徴的だった。

長いモノローグ、詩の朗読のように浮遊する独白は、ただでさえ難しい翻訳劇として入りにくい面もある。銀紛蝶さんはもちろん、ダイナナメンバーのさすがのシェイクスピアで培ったであろう台詞まわしが功を奏し、すぐにリズムに乗った。ルイがその独白を聞き入る演出にしたのは、藤原季節の特性にとても合っていた。映画でも舞台でも、彼は相手役がいる時はその声を受け止める。その演技がいつもよい。そして自分の独白が誰も聞いていなくとも、自分の世界を作り出す。まさにルイそのものだった。

ラガルスの病と1990年代のフランス

ラガルスは1995年にエイズで亡くなっている。本作はすでに病を知ってから執筆されたので、どうしても重ねてしまうのだが、ラガルスの他の作品と傾向は変わらないそうで、内田演出はそこにはっきりとはつなげていないのもよかった。

結局ルイはなぜ死ぬのか?というのはこの芝居では語られない。

しかし原書の方で「歴史と文化」「ラガルスの人生」の年表が対比で記載されており、HIVの悲劇の歴史が、ラガルスの人生に影響を与えなかったとは言い難い。(以下X(旧Twitter)で自分で気になるとこだけ訳したのをツリーにまとめました)

1980年代初頭にフランスでエイズ患者(フランスではSida)が初めて死亡し、1981年に同性愛の非処罰化が定められるなど、実はオープンそうなフランスでもHIVという悲劇によって同性愛の歴史が徐々に変化していく。人工妊娠中絶を合法化した政治家シモーヌ・ヴェイユの映画を先日見たのだが、ヴェイユは1994年にエイズ患者と相対し、病院での不遇な扱いにショックを受けているシーンがあった。ヴェイユは「エイズは人道的に対応すべき」と発言し、国連エイズサミット開催に尽力している。

エンジェルス・イン・アメリカ」でもあったが、HIVを同性愛だけの忌むべき病として隠し無視したために、対応が遅れ感染が拡大した。それはフランスでも例外ではなかったということだ。その背景には宗教と家父長制はおおいに関係しているだろう。

家族の中で語ることを許されないルイの苦悩は、この時代のラガルスのアイデンティティの苦悩でもある。演劇という枠の中でやっと息をすることが許される。作品として表現することで。

いないものとして無視されることの苦痛。あるがままで愛されない、受け止めてもらえないことから自分を偽るしかないことのアンバランス。

ラガルスと同じ年に生まれ、1993年に同じ病で亡くなった映画監督シリル・コラールもまた『野生の夜に』で愛したいけれど愛せないことの苦悩、病を受け止められない苦しみを描いている。

エイズが死の病でなくなった現代に生きるドランも、いまだ自身のアイデンティティを受け入れてもらえない苦痛というテーマを映画に込めている。

あくまで勝手な自説(アントワーヌのアイデンティティについて)

(ここはあくまで自説、なので、戯曲を深読みしすぎているとは思うのですが、メモとして。またドラン作品の一部ネタバレに触れるので注意してください)

内田さん演じるアントワーヌ。時々薬指にはめられた結婚指輪をしきりにいじっていた。イライラして抜こうとするような仕草。カトリーヌへの暴力的な対応など、彼が明らかにこの結婚、家庭の状況に満足していないのを表している。本来長兄として家を継ぐはずだったルイの登場によって、そのことを思い出して徐々に苛立つ。さして意味のない仕事、家長としての責任の重圧、つまらない田舎の生活、等々。

去っていったルイは本来なるべき自分だった、かもしれないという勝手な羨望、嫉妬。

そこをふと深読みしたのだが、ルイとアントワーヌが背中合わせの対なら、アントワーヌにはラガルス自身も投影されている。とすればアントワーヌもクイアとしての隠されたアイデンティティがあったのでは?という読み方もできる。アントワーヌの最後の独白はルイへの拒絶であり、自身の否定とも取れる。

それはちょっと深読みしすぎでは、とも確かに思うのだが、ドランのいくつかの作品で、ゲイの主人公に対して「有害な男らしさを持つ年上の男性(もしくは兄)」というのがしばしば出てくる。今までの作品なら同性愛を抑圧する社会の代弁もしくはメタファーとして出てくる。テネシーイリアムズなら『熱いトタン屋根の猫』で家父長制の象徴としての父親、『欲望という名の電車』のスタンリーしかり。『ガラスの動物園』では父親の不在という設定が本作に通じる。

ドラン作品の場合は、その「男らしい男性」が主人公に惹かれる(『トム・アット・ザ・ファーム』)。ストレートであったと思っていた男性が、隠された自分のアイデンティティに気づく、というのがたまに描かれる。

兄弟でゲイというのはちょっと深読みがすぎるが、アントワーヌがもう一人のルイ、というのはあながち悪くない解釈ではと思う。内田演出がどこまでアントワーヌ像を掘り下げていたかは分からないが、家父長制の抑圧のメタファーとしてのキャラだけではない部分も感じた。

はみだしっ子』との類似点

すっかり忘れていたのだが、2021年に配信を見た時に『はみだしっ子』について言及していた。確かにルイの台詞の端々に似ている描写が多い。

 

今回は兄弟の関係に注視していたので、台詞に重きを置きすぎないようにしていたためかあまり思い出さなかった。それでもルイが「愛せない事」について語るたびに、むしろ「バカヤロー愛してやるのに」(by サーニン)も思い出したし、あとこれも。

「人は...いつになったらとき放たれるんだろう/ 愛せない事の罪悪感から」

これは4人が養子に行くときにグレアムが叔父さんに「(養親を)愛せなかったら?」と問うた時に叔父さんが「仕方ない」と答えた後のモノローグ。

カインとアベルの話もあったし、家族という枠組み、人と人がつながっていることと孤独の対比、あるいは孤独そのものの表現に通じるものがある。

生きるという宿命について

ラストに白く覆われたセットの中で彷徨うルイとアントワーヌ。その二人きりの瞬間だけ、二人はやっと邂逅したともいえる。しかし、白い布は引き潮のように引いていく。ルイが故郷から体も心も離れていき、アントワーヌと家族はその遠くへ埋もれていくのを表現している。

人は、愛さなくてはならない、劇場は開かれていなければならない、芝居が始まったら止めることはできない、疫病があろうとも生きて進まなくてならない。

けれどなんのために?なぜ?それを問うてしまったらすべて止まってしまう。コロナ禍での配信演劇(しかもワンカット)というなんともカウンター的な表現の本作。

結局、答えはない。

ラガルスも三原順ももういない。ドランはいるが映画を撮るのをもうやめるという。でもまた湧き出るように、隠された思いが出てくる。どこかからか。抑圧された者たちの、忘れ去れそうになった、話すことを禁じられた言葉たちがやってくる。それをせめて見届け、受け止めることの目と耳と心(あと知性と寛容!)がある人でありたい。

 

心を可視化する~『パリの記憶(Revoir Paris)』(ネタバレなし)

日仏学院の「映画批評月間」で『パリの記憶』(Revoir Paris)を見てきました。本公開されていない(公開も未定)なので、重要なネタバレなしで。

www.youtube.com

ロシア語の通訳をしているミア(ヴィルジニー・エフィラ)はカフェでテロの襲撃に巻き込まれ、一命をとりとめる。三か月が過ぎ、体は少しずつ回復していたが、仕事にも復帰できず、パートナーとの関係もうまくいっていない。事件の記憶がすっぽりないことが、彼女の心を重くし、やがて記憶を取り戻そうとするが...。

2015年11月13日に起きたパリ同時多発テロ事件の物語。あくまでフィクションではあるが、最初の方に襲撃のリアルな様子、生存者の実際の体験やコメントが反映されているであろう脚本なので、見る時には注意した方がよい。(これだけは注意喚起としてネタバレします)

ミアがどのように記憶をたどり、自分と向き合うかがメインなので、基本的には静かに見てはいられる。ミア目線なので、ミアが分からないことは観客も分からない。一緒に謎解きをしておくような構成。ミアの心は見えないが、映画という魔法のフィルターで可視化されていくような体験だった。

主演のヴィルジニー・エフィラが台詞少ないながらも、知的で、しかし弱さも強さも併せ持つ情感豊かな人間像を静かな演技で魅せる。『ベネデッタ』の激しい炎のような姿と違いすぎてびっくりした。

出演シーンは多くはないが、レオス・カラックスの娘であるナスーチャ・ゴルベワの佇まいと静かな抑えた演技が素晴らしい。カラックスの作品には出てるとはいえ、俳優としては初めての演技だと思うが、かなりうまい。カメラの前で俳優がすべきことをよく分かっている。

ブノワ・マジメルは相変わらずフェロモンダダもれで(これだけでネタバレか?)、しかしハンサムだがちょっと崩れた愛嬌のある雰囲気は、全体的に緊張感のあるストーリーに時折緩みを与えてくれて心地よい。相変わらずまつ毛にマッチ載りそう。

パリのテロ多発事件は、当時事件にあやうく巻き込まれそうになった日本人のブログとかを見てたのでよく覚えている。その後フランスに転勤の話があったりもしたので(色々あってなくなった)ちょっと調べたりしていた。

映画を見て、パリ市民に大きな傷となっているのを感じた。時が少し過ぎ、映画として表現できるようになったということなのだろうか。果たしてその是非は分からないのだが、一人の人間の心に焦点を当てた表現は、事件そのものを映画にするよりももっと胸に迫った。

日本だとなかなかこういう表現の映画が少ない気がする。どうしても作家性を打ち出すとマイナー(=興収が少ない)になってしまうからなのかもしれないが、フランス映画を見ていると、かなり表現の幅が広いので観客の受容が広かったり、芸術へのサポートがしっかりしてるんだなと思ってしまう。いわゆる売れ線の邦画を批判したくはないが、分かりやすさと観客を信頼している作品作りを同時にできているとは言い難いので...。

 

11月10日にはやはりこの事件を描いた『ぼくは君たちを憎まないことにした』も公開される。こちらも見たい。

nikumanai.com

近づいては離れ~『ジェーンとシャルロット』(Jane par Sharlotte)渋谷シネクイント

Jane

2023年7月16日(日)ジェーンバーキン、パリの自宅で死去。

日本での映画公開が決まっており、監督のシャルロットが来日予定だったのだが、ジェーンの看病のために中止になったとの報を聞き、そこまで悪いのかと心配していた折の知らせ。Triste Dimanche...

 

シャルロットによるジェーン

原題は「Jane par Sharlotte」で、直訳は「シャルロットによるジェーン」である。あくまで、娘であるシャルロット・ゲンズブールが監督という立場の目を通して、という主題。邦題も決して間違ってはいないし、いわゆる母と娘という愛情関係を美しく表した直截的タイトルとしては悪くない。しかし、ジェーンの波乱万丈な、そこに家族としてどうしても「巻き込まれた」観のあるシャルロットの人生や、二人の女優としてのそれぞれのキャリアも含めて考えると、シャルロットが実の母親に対して「par Sharlotte」という俯瞰的なタイトルにした意味も深いと思わせる点が作品の中にも散りばめられている。

原題は、家族の愛憎と、女優としてと人間としての母ジェーンへの尊敬の念が混在しているのを表している。

距離感のある母と娘

最初はコロナ禍前、二人が日本に旅している時の映像から。京都の茶室でお茶を楽しんだり、裸足で庭を歩いたりする様はぱっと見は仲の良い姉妹のような親子の姿だ。しかし、いざシャルロットがジェーンにインタビューを始めると、なんとなくぎこちない。ジェーンのシャルロットへのコメントに距離を感じる。

おそらくシャルロットがカリスマ性のある俳優であることに、同じ俳優として畏怖を感じている、のは分かるのだが、娘である、ということをあえて脇にやっているような感じがした。二人とも優しいウィスパーボイスで、フランス語の発音のフワフワ感もあるので、一見そうは見えないかもしれないが、この時のジェーンはちょっと意地悪っぽくも見えた。

もちろん、血がつながった、しかも同性の家族というのは意外とそんな部分はあるだろうと思う。近いがゆえの甘え、嫉妬もあるだろう。他人には見せない部分でもある。

この後に撮影はいったん中断され、二年ほど間が空いたという。

姉ケイトの死

二人の間をつなぐもののひとつに、シャルロットの姉のケイト・バリーの死がある。

映画のところどころで、ジェーンはケイトの事を思い出す。クライマックスで、昔の家族のホーム・ムービーを見ながら、耐えきれず撮影を止めた。彼女にとって決して癒えることのない痛み。

シャルロットにとっても姉ケイトは大きな存在で、ニューヨークに移住したのはケイトとの思い出があるパリにいたくないという事からである。

シャルロット自身もつらい出来事を、あえて母に向き合わせる。とてもシビアで、しかし映画監督としての目線がしっかり分かる場面であった。ここでまさにJane par Sharlotte のタイトルが集約された。

ケイトの方が愛されていたのでは、自分は母にとってどういう存在なのか。シャルロットにとっても長年わだかまっていた思いに決着をつけたシーンでもある。

結局、ケイトの死はジェーンにとって彼女を特別なものにしてしまった。けれどそれを共有できるのは、家族としてケイトと長く同じ時間を過ごしたシャルロットしかいなかった。

セルジュ・ゲンズブールの大きな影

途中、パリのヴェルヌイユ通りにあるセルジュの家(メゾン・ゲンズブール)に二人で行くシーンがある。

外壁はアーティスティックな絵が描かれ、中はセルジュの芸術がそのまま時を止めたような有り様だった。ジタンの吸い殻、レペットの白いジジ。ジジはジェーンが勧めて履くようになった、セルジュの代名詞ともなった一品。

交際していたブリジット・バルドーの大きなパネル、黒い壁紙に映えるアート作品や写真。どれもきちんと並べられて、不在の主をずっと待っているようだった。

ジェーンの部屋もそのままになっており、ジェーンが使っていた香水の瓶も化粧品も綺麗に並べられていた。「まだ香るかしら」とジェーンがひとつ手に取り蓋を開ける。一瞬、時のとまった部屋の時間が動き出すような。

セルジュは、決まった位置からものを動かすと怒り狂う、というエピソードを聞いたことがあるが、ジェーンの家や別荘の生活感ある、捨てられないままものにあふれ雑然とした様子を見ると、一緒に住んでる時は大変だったろう。

セルジュが酒など色々問題がある人でありながら評価されているのは、その溢れる芸術性ゆえだ。結局、ジェーンも彼の問題に悩まされ別れを決意し、それは幼いシャルロットにも傷を残したろう。しかしホーム・ムービーに映るプライベートの姿のセルジュは、連れ子のケイトも、実子のシャルロットもわけへだてなく家族として愛している優しい父親に見えた。多くは語らずとも、いくつかのエピソードにジェーンのセルジュへのたゆまなかった思いが見え、シャルロットにとってもそれを知る貴重な瞬間であったろう。

とはいえ、シャルロットに遠慮して悪口を言わなかっただけかもしれない。DVと酒乱で離婚したのだから。最初の夫(ケイトの父親)についてはかなり悪しざまに言うシーンがあり、3人目の夫のジャック・ドワイヨンについては悪口ではないが、生活習慣で合わない面があったなどわりとざっくらばんに告白していた。

ちなみにメゾン・ゲンズブールは近く一般公開されるらしい。シャルロットはそのためにもジェーンを連れてきて、止まっていた時間を動かしたかったのだろう。

シャルロットの広く深い視点

シャルロットは言葉では語らなかったが、映像を見ているとどんどんジェーンを見る目線が優しくなっていくのが分かる。なおかつ、とても俯瞰的に、時にシビアに。監督として一人の人間、女優、アーティストを見る目に変化する。

シャルロットと末っ子のジョー(これがまた幼い時のシャルロットを瞬間思い出させる!)とジェーンのシーンは、シャルロットが母である事に気づく。母親としての目線が、そのまま自分の母親にも向けられ、時にジェーンがシャルロットの娘のように見えたりもする。そのため、どんどんジェーンがシャルロットに心をほどいていく様が、これは他の監督でできたろうか?と思わせる。

「Jane par Sharlotte」のタイトルは「Jane B. par Agnes V.(アニエス v. によるジェーンb)」へのオマージュであると思われる。もしアニエス・ヴァルダならば、いくらか可能であったかもしれないが。

幸せでいて、シャルロット

シャルロットのモノローグが時折はさまれる。ジェーンへのラブレターといえる美しい詩は、唯一彼女の私的で内的な面を見せる。最後の方の、波打ち際のシーンの前のモノローグは、年老いた親を持つ人、かつて親を亡くした人に特に響く。

映画でジェーンは生き生きと笑い、歌うが、私たちはもう彼女がここにいないことを知っている。

私はシャルロットと同じ年齢で、彼女が10代の頃からずっと活動を見ている。突然長い髪を切って、昔のジェーンのような髪型にした時は、いったい何があったのかと動揺した(インタビューを読んだら別に理由はなかった)。

フランスきってのセレブカップルの子で、そして生まれもってのカリスマで時代のアイコンでたくさんの人に愛されながら、いつも不安そうな目で所在なくいる彼女へ、あこがれと同時にどうか彼女が幸せでいますようにと思っていた。夫であるイヴァン・アタルは交際時代から映画の共演などで見ていたので、末永く仲良くいてほしいといまだに願う。つまり単なるミーハーなファンである。そういう意味では私は圧倒的にジェーン目線ではなく、シャルロット目線でこの映画を見た。

この映画を撮ることで、シャルロットはいくつかの謎や、思い込み、呪縛から解き放たれたのではないか。それだけジェーンはシャルロットにとって大きな存在だった。愛する人を愛したい、理解したい、受け入れたい。とてつもなく重く、しかし広く深いシャルロットの心の叫びが聞こえるかのようだった。

Jane par Sharlotte

 

 

最近書いたシャルロット主演の映画についての感想です。しかしふざけすぎているかも。

star-s.hatenablog.com

 

 

猛暑の夜の夢(4)~Fuji Rock Festival―フジロックフェスティバル2023二日目参戦記(ヘッドライナー・エピローグ)

Foo Fighters (グリーンステージヘッドライナー)

GGPの後にオレンジで待ち合わせ。どこもものすごい行列で、ソフトクリーム買うのに1時間弱。誰が言うともなく、ヘッドライナーまで体力温存するために、ぐったりのんびり。オレンジに届くヘヴンのUAの声、移動中に聞こえたVaundy の声。

グリーンはいい感じに人が集まってたが、そこそこ余裕あり。

私は中間地点の椅子観戦エリアで座って見ることに。他は前方のスタンディングへ。

この時点でどうも熱中症ぽかったらしく、顔だけ熱くて仕方がなかった。ポカリの売り場でイオンウオーターを飲みなんとかひとごこちついたが、万が一は先に早めに宿に帰るかと思案。

なことを思っていたらライブ始まり。椅子エリアと思いきや割と皆立ってた。ちょうど通路の境目だったので、座っててもスクリーンは見えたし、ステージも少しは見える。「All My Life」でドン!とあげて、ステージも客席もわっと火が付く。隣が中学生くらいのお子さんをつれた4人家族だったので、お子さんがご両親の影響を受けてるのかな、という感じでほほえましい。

フェスが面白いなと思うのは、これだけビッグネームでも、古株やコアなファンの反応と、私とか世代的に聞いてはいるがライトリスナーな層、フェスをただ楽しみたい層などが全部シームレスに混じっている。単独ライブでもライト層はいるが、フェスだとその数がかなり多い。

都会のフェスとまた違うのは、フジの場合、ここまで来るのに時間と体力気力を必要とするので、そもそも参加することに意義がある的な感じで、誰が誰のファンとかそうじゃないとか会場に入るとどうでもいいのがよい。

体調がよければ一人でホワイトやヘヴンも行きたかった。熱中症は改善していたが、もう足もクタクタだった。

のんびり座って、野外ステージの音響もあるけどデイヴ・グロールの声量に圧倒されたし、グランドファンクレイルロードの「We're an American Band」みたいなある種クラシックな音圧とバンド構成も心地よかった。途中トイレ行って戻ってきたら、ものすごく音が厚くなってて??と思ったらギターが増えてた。デイヴのドリフっぽいMCも和んだ。

そんな感じでゆっくり見てたので、ちょうどステージ中央の屋根の上を、ライブ始まりに下手にあった月が上手へ半円描くように動いていくのも時々眺めていた。

バテバテで宿に戻り、なんとか風呂に入り、夜食も食べ。いろいろあれど、ケガもなく無事終了。

いろいろ思い出

途中涼を求めてドラゴンドラへ。これスキーシーズンはめちゃ高で、もともとのリフト代+αで払えなくて乗ったことなかった。普通だと山頂まで高速リフトを乗り継いでいくが、これだと一本で行ける。シーズンオフだと安くて、フジの時は特別運行してるので、確かに貴重な機会。大変だったのは、チケット買って乗り場に行くまでがすごい坂道。誰も転ばなくてよかった。

ドラゴンドラ命名ユーミン

これ山の稜線がすごくきれいな色になってた。カメラ越しで一瞬色が変わって、マジックタイムみたいな感じ。

ドラゴンドラ

フェスではフェス飯を堪能できなかったけど、次の日おいしいコーヒーや蕎麦やら、お土産買い物やら堪能。新潟いいとこ~。

猛暑の夜の夢(3)~Fuji Rock Festival―フジロックフェスティバル2023二日目参戦記(GGP編)

GOGO PENGUIN(フィールドオブヘヴン)

2020年の夏は来ぬ

思い返せば、2020年のフジロックに出演予定だったゴーゴーペンギン。当時GONDAWANAからブルーノートへレーベル移籍し、バンド名を冠したアルバムを引っ提げてのフジロック初参加。日本では2018年のブルーノートとライブハウスツアーが好評だったので、フェスでたくさんの人の目にとまりブレイク必至、と思っていた時のコロナ禍。フジロック中止。

ロブ脱退からの再スタート

そして時間は流れ、いつのまにやらドラムが変わり、レーベルも新たにソニー系列のXXIMになり。今回、ニューアルバムも出てバンドとして再スタート、という中での久しぶりの来日がフジロックリベンジ。どのくらい変わってるのか、どういうアプローチになるのか、まったく分からず、ドキドキと不安。

というのも、以前のドラムのロブ・ターナー、彼の存在はあまりに大きかった。マシンのような正確さと、極限まで感情による波やブレをおさえ、そしてぎゅっと音をとらえて離さないようなストイックなドラミングは、こうして言葉にすると個性のないように聞こえる。けれどその極限まで崩さない姿勢が、ベースのニック・ブラッカの爆ぜる瞬間を引き出し、ピアノのクリス・アイリングワースの澄んだピアノの繰り返し寄せる波のような音の粒を際立たせる。

輪ゴムをぎゅーっと極限まで、切れそうになるまで引っ張って、ぽーんと遠くまで飛ばす、あの感じに似ている。と言って分かってもらえるか。

新しいドラムのジョン・スコットと共に作ったニューアルバム『EVERY THING IS GOING TO BE OK』を聞いても、新しいバンドの音はどうなっているのか、よく理解できていなかった。ソニーなのでめちゃくちゃ音はいい。ブルースペックCD(BSCD2)ってこんなに違うの、とマニアでなくとも分かる。けれど雑音とかひずみが少ないことで、クリアすぎたのも判断がしかねた原因かも。何より、曲が明るい。ポップスのような明るさ、アートワークの青い空と白い雲と鳥。ボーカルがあれば歌詞で判断できるのかもしれない。そういう面では、各曲のタイトルが以前より具体的だ。

という思いを抱えてフィールドオブヘブンへ。(前置き長っ)

安定と変化の共存したライブ

昼間の殺人的な暑さが落ち着き、雲で日差しが和らいで、微かに風も感じられた(それでも熱い)夕刻の少し前。

1曲目は新譜から「We May Not Stay」。アルバムでは中盤で、クリスの鍵盤のリフの美しさとバンドの初期からあるアンニュイなイメージの音。そこから初期の定番曲「Bardo」へ。この辺りは大きくイメージが変わった雰囲気はない。映画ならば静かに始まるイントロダクション。

けれど、ドラムのジョンの軽快さはどうだろう。なんという軽やかさ、自由さ!

ロブのドラムがひたすら内に潜んでからの爆ぜを誘うバネのような飛び方なら、ジョンのドラムには羽があった。あちこちを飛び回り、軽やかに、時に止まり木を見つけ羽を閉じる。ロックフェスというのも鑑みてなのか、時に手数を増やして音を激しくしてみたり。ちゃんと分からなかった部分も多いが、他二人のアドリブもかなりあったのでは。

セットリストは新譜と旧曲から半分ずつくらい。

GGP Fuji rock fest 2023 set list

これとラストに「Protest」。ロブが最後に参加した『GOGO PENGUIN』からは1曲もなし。エレクトロ色が強い曲が多いアルバムなので、バランスゆえの選曲なのかもしれないが、ジョンによる「Kora」や「F MAJ PIXIE」も聞いてみたい。

選曲もだが、実際にライブで見て聞くと「安定と変化の共存」というイメージがあった。序盤の自己紹介的なイントロダクションで、お初の観客と久しぶりのリスナーを誘い、中盤に場が温まったところで新譜から「Friday Film Special」「Saturnine」「Everything Is Going to Be OK」の流れは、新しくなったバンドの音をのびのびと楽しそうに。

そして定番曲「Murmuration」。不穏な宗教的な音はそのままに、より広がりを感じさせる。

ロブとジョンとどちらがいい、好みだ、というのではないということに気づく。曲は作った人のものであるか、演奏する人のものであるか、はたまた聴く側のものとなるのか(著作権的な意味ではなく)。そういう境目のようなものが、グラデーションになって溶けていく。変わらないことも、変わることもあるけれど、ただただ音は時間とともに前へ進んでいくものだった。この世界は誰のものでもなく、けれどここに人がいて、音がある。フジロックのステージはよりそれを強く思い出させた。

新曲「You're Stronger Than You Think」から名曲「Hopopono」への流れは秀逸で、タイトルの意味もさることながら、コロナ禍を超え、それでもまだ続くであろう世界の持つ苦悩を知りつつ、進むことを「選び」それを祝福せんとするように聞こえた。

後で思い出したのだが、ここ数年でニックは母と兄を病で亡くしている。その頃の様子はSNS越しの少ない情報でも、彼の喪失がひどく大きいものであるのは感じ取れた。それがどのくらい影響があったかは計り知れないが、新譜のメッセージのある曲タイトルと新しい音作りへのチャレンジ、彼自身を鼓舞するかのような「声」が聞こえてくるかのようなライブだった。

 

 

フジロックのステージがよくわかる記事。クリスのピアノ、坂本龍一の影響はいくらかあるんだろうなとは思っていた。ジョンの経歴のなんと幅の広い事か!

rollingstonejapan.com

猛暑の夜の夢(2)~Fuji Rock Festival―フジロックフェスティバル2023二日目参戦記(当日編)

タイトルはシェイクスピアの『夏の夜の夢』からもじったのですが、だいたいフジの日程と夏夢の時間軸が似てる。ただ劇中三日しかないので、前夜祭含めるとフジは三日半、月曜日の「帰るまでが遠足です」ルールなら四泊五日なのでどちらかというとロミジュリなのだが、そっちはそっちで五日目が長い。

夏夢二日目はカップルが駆け落ちして、ボトムがロバになってあれやこれやとお祭りになるので、ちょうど参加者も多いフジ二日目にぴったりかと。仮装してる人もいたり、なんといっても森(というか山)の中だし~。

我々もパックに魔法をかけられて、しばし夢の中。というには暑すぎた!

行く前にkaiさんが「2019年のように豪雨になったら...言霊いいたくないけども」とネガってたので、「天気予報は晴天だよ、ポジ言霊も残します~」と励ましたら、こっちの言霊の方が強くなってしまったのかバリバリの晴れ、暑い暑すぎた。

しかしこの手の言霊は基本信じてないです。亡くなった姑が雨が降ると「私は晴れ女だから雨が降ったのは他の人のせい」とよく言ってて。その割に一緒にでかける時の晴れ率は半々だったので絶対関係ねえ!とずっと思ってました。非科学的すぎ。天気予報見よう。気象衛星ひまわりを信じよう。そして山の天気は分からん!(おや?)

今回個人的に注意したのは、「アルコールを摂取しない」「生ものは食べない、火が通ってるもののみ」「差し入れは断る」でした。

これはアウトドア好きな父の行動を思い返してのもので、「運動する前にアルコールは飲まない」としつこく言われてた。判断力低下、体力低下、脱水症状などで事故とケガのもとになるからです。

食べ物に関しては、個人的にアレルギー持ちというのが大きいのですが、昔集団でBBQやったりしてる時に、父が皆と食べるものを分けたりしており。普段食べてないものや差し入れっぽいのは避けたりなんでかなと思ってた。これは万が一集団食中毒が出た時に、一人だけでも対応できるように、という事だったそう。ということを説明しても考えすぎ~(笑)と言われそうなので言わなかったのですが。山の中だしご時世的に病院行くのもハードルがありそうなので、念のため差し入れはお断りしてました。空気悪くしてたらすみません。普通の旅行とか外出なら受け取ってました。ま、結果的に何事もなく。

GEZAN with Million Wish Collective (Green Stage)

GEZAN with Million Wish Collective (Green Stage)


思ったよりサクサクと現地に着き、グリーンステージ開始前に着。涼を求めて上手の通路脇の木陰へ。のんびり椅子に座り。

GEZAN のライブは初めてなのですが、あの大変な2021年のフジの配信、と新宿で行われた反戦デモイベント「全感覚祭 presents NO WAR0305」の配信は見ました。前者は個人的にはTHA BLUE HERBの言葉の方がグサグサきて、GEZANの方はパフォーマンスのあざやかさの方に目が行き。当時はどの出演者も開き直るか、どこ吹く風となるかしかないようにもみえ。若い層はいわれなき批判を受け止めることに精一杯の痛々しさを感じてしまい。後者は主催というのもあるのか、骨太でまっすぐ、そしてそれにきちんと呼応する周りとの連帯も感じられ、パフォーマンスもこちらの方がよく伝わった気が。

今回は夏の風吹くグリーンにぴったり。GEZAN のするどく切れ味ある歌詞も、山に響いてまさにゴスペル。歌は時折、場所によって意味を大きく変容させる。なんとなく思い出したのは、アレサ・フランクリンが1972年に行った教会でのゴスペルコンサート。意味も雰囲気もまったく違うが、場所が歌い手を選ぶ、歌い手がそこに行く。

なんてことを思い、トンボが飛び交う中でのんびり風に吹かれて音に身を任せていたら、マイクリレーで突然TOSHI-LOWが!ちゃんと赤のショートパンツだった。え、この人も山に選ばれて来たの。山の鬼なの。いたずら好きのパックかはたまたロバにされるボトムなのかも。

後でSさんが「GEZANは昔の関西のバンドの流れがある」という話に皆腑に落ちる。1970年から1980年前半くらいまでか。憂歌団とかじゃがたらとか。コミックバンドというと偏見があるかもだが、トークのノリがよく笑いにほどよく昇華し、時事を歌詞に載せる。最近ならソウル・フラワー・ユニオンとか。

というところで森脇真末味のマンガ「おんなのこ物語」を思い出す。桃色軍団というコミックバンドが出てくるのだが、ボーカルの大城のトークと歌の力は、音のない紙面からも聞こえてくる。おそらく江戸アケミやカリスマ性あるフロントマンをモデルにしてるのだが、最終話の「でも・デモ・DEMO」とかバンドという音の中での「言葉」の重さとそれを発する人間の懐の深さを感じる。

GEZANは、ちょっと見ただけでもボーカルの存在感と言葉の強さ、そしてあえてバンドであることのプリミティブな表現力。なかなか近年でこういう色んな意味で「あそび」のあるバンドってなかなかないのではと思う。そしてそれを軽やかに招き入れるフジならではの雰囲気も来てよかったと思った1本目。

ボードウオークを抜け、森へ分け入ればそこは

おなかすいたねーということで、オレンジへ移動。ボードウオークに鬼籍に入ったミュージシャンのネームボードが掲示されており。もちろんしんみりもするのですが、時期的にちょい早いお盆な気持ち。戻ってきてるかな~とか。

ボードウオーク2023

私は後で一人でフィールドオブヘブンに移動するのが分かってたので、こう行ってこうだよ~と気にかけてももらいありがたかったです。おかげで後でさくさくいけました。

オレンジ思ったより混んでるかも?と思ったけど、実は夜の方がもっと並んでた。この時食べられただけでもましだったかも。お昼も食べられなかったとか言ってた人もいた。屋根付きのテーブルエリアがあるから人が動かないのか。

そういやTwitterで一部で評判になってた「広島東洋カープカップホルダー」。「アル中ナックル」とかとんでもない別名つけられ公式であっという間に売り切れになった代物。使ってる人いるかな~と探してたけどおらず。カープファン的にはうれしいようななんというか。カープ公式はなぜこんなに売れたのかわかっているのだろうか。

カープカップホルダー | 商品詳細 - 広島東洋カープオフィシャルグッズショップ

著作権がどこにあるのか分からんのですが、来年はフジ公式で作るか。もしくはこの手のスポーツ系グッズのコラボとかもありだと思う。野球は特に観戦の便利グッズ系は充実してるし。野鳥の会のレインブーツに引き続き、どうですかね各球団の方々。

サッカーのウエア着てる人も多く、Mさん曰く、サッカーのレプリカウエアはプロユースと同じなので通気性が良く高性能なのだとか。野球も横浜と阪神、広島のウエア着てる人は見かけた。こっちは目立つからということかもしれないが。

そういえば帽子は野球のにしようかなーと最後まで悩んだ。その方がつばが長くて日よけ効果は高かったかもな、とか。

はい、続きます。

猛暑の夜の夢(1)~Fuji Rock Festival―フジロックフェスティバル2023二日目参戦記(事前準備編)

Fuji Rock Fest 2023 Day2


何を思ったか、超久しぶりにフジロックに参戦。

たまたま私が見たいGoGo Penguin(以下GGP)と、他の友人たちが見たいアーティストが同日で、誘っていただきました。GGPは2020年のフジに出演予定で、楽しみにしてただけにリベンジ叶いやっとです。

事前準備は万事快調ってわけにはいかないみたいね

準備で試行錯誤、右往左往。心配性でついつい色々考えすぎてしまったのですが、経験者の皆さま、Twitter(現アレなやつ)でたくさん情報あって、助かりました。

宿泊先は最後まで心配だったのですが、結果かなりよく。探してくださったポンチさんありがとうございました。越後湯沢駅近辺なので、シャトルバス移動を考慮しないといけないのはあるのですが、駅近だし、お風呂も時間制限あったとはいえ融通はきき、対応もよく。館内のお部屋も清潔で使いやすかったです。

会場から近い方が圧倒的に便利ですが、やはりそこは3日間行く人オンリーだったり。LINEのフジロックコミュニティの情報も役立ちました。

新幹線は思っていたよりサクッと取れたので、考えすぎなくてよかったかも。ちょっと手間をかけすぎたのと、たまたまとはいえ一人に事務作業が集中してしまったので、これは申し訳なかった(作業偏らないようにしたんだけど、くじ運良い人がいまして)。

装備あれやこれや

  • 荒天を考え、雨具はワークマンの上下スーツ→晴天のため使用せず。しかし軽かったので負担にならず。
  • 帽子はUVのやつに防水スプレー→つば広だったので効果ありか。軽くてよき。冷却効果のあるやつの方が今後よいかも。
  • 靴は野鳥の会レインブーツのショート丈→短いので脱ぎ着が楽!蒸れない!そのせいか足もむくまなかった。今回は公式のインソールも入れ、ウオーキングソックス(新潟産)で、グリップもいい感じで歩きやすい。酷暑だったのでゴムが熱くなる。
  • 服装はTシャツ、ユニクロドライEXパーカー、ヨガレギンス、水陸両用短パン→ドライEXはエアリズムより肌にくっつかなくていいのだが、風通しが悪く熱がこもったような感じも。ただその分UPFが高いのか日焼け防止にはなる。短パンの効果は雨が降らなかったんであまり分からないけど、汗や泥もはじく感じはあり、軽い。一番よかったのはヨガで使ってたルルレモンのレギンス。薄くて伸びがよいので、サポート力がほどよい感じ。少し肌に張り付くが乾きが早いのでさほど気にならず。UV効果は古い型版なので不明。
  • 持って行ってよかった→凍らせたペットボトル。重いのでと1本減らしてしまったがあれば氷嚢にもなるので多めがよかった。紙石鹸は夜の手洗い場で場所によって液体ソープが切れてたのでまあまあ役に立ったかも。サングラスはめんどくさいかもだけど疲労軽減になった気がする。冷タオルは軽くて使いやすい。タオルホルダーは手拭いひっかけておくのに便利、すぐ乾く。スマホバッテリー(暑いからか減りが早い)。
  • 持っていかなくてもよかったかも→厚手のタオルは雨が降らないと暑さ増すだけ。手拭いでよい。液体の日焼け止めは疲れてるとめんどくさくてやらないので、塗り直ししやすいのがいい(固形ロールタイプかシート型)。スプレー型は場所を選ぶので△。ヒヤロン(叩く冷感グッズ)はかさばるわりに効果が短期すぎた。ペットボトルホルダーは使わず。
  • 持っていけばよかった→手洗い用のお水は手が冷やせるのでよい。食べ物。ポケットWi-Fi。保冷効果のある水筒は入れ替えによかったかも。給水所は早々に配布終わってたけど、こんだけ暑いと保冷効果のある水筒は役立つかと。食事運ぶ用のトレー的なものはあると便利かも。腕時計はスマホがあるからいいかと思ってたが、サッと確認できるの楽なので必要だった。

年齢的に知命、天命、あと杖家というお年頃。まさにトレッキングポールを持っていくかという話も出たりしてたので、今回は特に装備にもいろいろ考える部分が。

私は杖は危ないかなと思い持って行かなかったのですが、持って行った人は体調不良が少なかったのを考えると、効果ありかも。その代わり、椅子を持って行ったので、これはかなり良かったかも。ヘッドライナー前にかなりつらくなり(足というより熱中症気味)座って様子をみていたらそれだけでもかなり体調楽になったので。

とにかく暑かったので、次回があるならワークマンのファンウエアしかないかもしれん。でもお高いんでしょう?と思って検索したらそうでもないのもあった。普通に日常生活にほしい。

さて次回はちゃんとライブの感想を...!

 

(装備リンク)

透湿度が高めな蒸れないという高品質な雨具。ワークマンは他にも低価格で魅力的なのが多かった。

WNR001 INAREM(イナレム)レディースレインスーツ | ワークマン公式オンラインストア

 

前のロングタイプが古くなってたので、新調。ショート丈は普段使いもよさげ。

日本野鳥の会 バードショップオンライン Wild Bird バードウォッチング長靴 関連グッズ バードウォッチング長靴 ショート丈グレー

 

春に新潟に行ったときに購入。スポーツ系の圧が高めのより締め付けがないので履きやすい。土ふまずとかかとのホールド力があって歩きやすい。厚手だけど蒸れも少なかった気がする。

すいすい歩ける!軽快ウォーキングソックス - 山忠日和

 

背もたれないタイプだが、圧倒的に丈夫で軽い。傾斜があるとこでもぐらつかなかった。強度や安全性の必要なのはモンベルが良い。

モンベル | オンラインショップ | L.W.トレールチェア 33