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アイデンティティの喪失が生み出す悲劇〜『サイプラス・アヴェニュー』上野ストアハウス

『サイプラス・アヴェニュー』リーディング公演。

国際演劇協会日本センターの「ワールド・シアター・ラボ」という海外現代戯曲の翻訳と上演を行なっている事業の公演。本作は日本初訳初演。

  • 作:デビッド・アイルランド(David Ireland)
  • 翻訳:石川 麻衣
  • 演出:稲葉 賀恵

(あらすじ)
北アイルランドベルファスト。富裕層の多いサイプラス・アヴェニューに住むユニオニストプロテスタント系英国残留派)のエリックはカウンセリングを受けに精神科医の元を訪れる。娘のもとに生まれた孫娘が、ユニオニストと敵対するシンフェイン党の党首ジェリー・アダムスに瓜二つである、ととんでもないことを言い出したため家族との軋轢が生じたというエリック。極度のアイデンティティ・クライシスに陥っているようだ。精神科医に自身のことを語り出し、徐々に浮き彫りになる差別と偏見と憎悪。アイデンティティを探る語りが行き着く先は…。

2020年4月にロイヤル・コート劇場での配信版(以下RC配信版)を観た際に、とてもショッキングで印象的だった。その時は理解が追いついてない箇所も多かっため、ぜひ邦訳で見たいと思っていた作品。

舞台上には大きめなほぼ正方形の木製のテーブルが斜めに置かれている。四面に一脚ずつ椅子があり、客席の位置よっては俳優の顔が見えない場合もあったが、基本的にはこちらから表情が見える。その後ろに出演者6人分の椅子が並べてあり、出番の際に際にテーブルに着くもしくは前に立って語る。動きの演出も多いので本公演とさして変わらない。テーブルの上にはシンプルな白いペンダントライトが吊り下がっており、光の強弱の演出もあった。

開演前BGMでベルファスト出身のヴァン・モリソン の曲がいくつかかかる(曲名後述)。"Cyprus Avenue" で音量が上がり、開演のオープニングとなる。

エリック(大森博史)精神科医・ブリジット(金沢映実)と向かい合って話すシーンから始まる。ブリジットは「黒人の女性」なのだが、メイクなどなく台詞のみでの示唆。ここは日本人で上演する場合どうするのか。台詞で長々と言及されるので必要ないのかもしれないが、ロイヤル・コート版での視覚的な効果は絶大であった。アイルランド系戯曲でマクドナー作の「スポケーンの左手」(2015年)で、岡本健一が黒人青年の役を演じた時は、濃いめのドーランを塗っていた。演出上必要だとしても、ブラックフェイスの表現は今はなかなか難しいかとは思う。

大森さんは細い体に沿ったスタイリッシュなスーツ姿。その清潔感と、丁寧な台詞回し、眼鏡(これは小物というより私物?)の雰囲気から、ぱっと見知的な品のあるエリックに見える。日本語の翻訳もですます調で、英語より精神科医との距離感が違う。RC配信版は主人公はかなり最初からヤバい空気がムンムンで、これ頭おかしい人だな…としょっぱなから分かる。が、大森エリックは初対面のブリジットに対して最低限の礼儀を意識している。いかんせん先の展開を知っている身としては、大森エリックは上品すぎやしないか?と最初は思った。しかしゆっくり、本当にゆっくりとエリックの狂気が変化していく様は全体的に見て整合性があった。

この演出、もしくは大森さんの役作りは、この難しい設定の人物を分かりやすくして、日本の観客を芝居に入り込みやすくしている。最初から振り切った狂人で、ブラックジョークの過ぎた台詞は、本国で歴史的背景を理解している観客ならありだ。アイルランド、しかも北アイルランドベルファストという、同じ民族でプロテスタントカトリックで対立した歴史を持つ土地が舞台。エリックはアイルランド人であるが、英国王党派でアイルランド人を「フィニアン」と呼んで蔑み憎んですらいる。そんな底に根強く潜む差別や偏見、過去にこだわり現代を拒絶するその内面を、遠く離れたアジアの観客が理解するためには、大森さんのスピード感はちょうどはまって良かった。丁寧な口調も、エリックが本来はサイプラス・アヴェニューに住むミドルクラスという設定が分かる。そしてその演技プランは、後半に出てくるスリム(大石将弘)という過激な思想の労働者階級の青年との対比へとつながり、結末とのコントラストの一つになっていた。

エリックの妻バーニー(つかもと景子)と娘ジュリー(李そじん)の存在も、邦訳だとより身近に感じた。バーニーは陽気で社交的なちょっとおせっかいな母親然としたキャラで、ジュリーは健康的で教養ある自立した現代的な女性だということが分かる。この辺りの関係性は日本の家族にも通じる面がある。

家を追い出されたエリックにジュリーが「友達のところでも行きなさいよ」と言うが、エリックは「友達はいない」と言う。そんなことないでしょ、いるでしょうと言われて「俺の友達はバーニーの友達だ」という部分。日本の定年退職後の男性が、会社以外に交友関係がないことに気づいた時に発してそうな言葉トップ5に入ってそうだ。家庭にも社会にも居場所のない悲劇。

家族とのやりとりの後、エリックの語り(精神科医への告白)は一人語りへとなる。さまざまな過去のエピソードの中で、彼が自己のアイデンティティに迷っていることが分かってくる。自分はアイルランド人か?いや忌むべきフィニアンではない!強烈な自己否定と、腐臭のしてきそうな自己肯定が、長台詞でこちらになだれ込んでくる様は圧巻。

 

(※この後、ラストとRC配信版へのネタバレに触れます)

後半、過激な思想を持つスリムと公園で出会うことでエリックは、自分の思想をさらに過激に方向転換していくことになる。

スリムは口調も荒っぽく知性もない若者。RC配信版ではスキンヘッド、黒ずくめ、目出し帽をかぶるなど、いかにもテロリストな雰囲気である。RC配信版では実はスリムはエリックのもう一人の人格という設定なので、二人の年齢が少し近いように見えた。今回、大石さんはストリート系ファッションの若者風で、これはおそらく「若い頃のエリック」という演出かと思う。ラストのエリックの台詞から考えるに、エリックが若い頃にアルスター義勇軍(UVF)に参加していた(もしくは傾倒していた)頃の姿なのではないか。そうならば、その青年が、家庭を持ち裕福なサイプラス・アヴェニューに移り住むまでにどのような生き方をしていたのか。それはそれで傍目には平凡ながら幸せな様子だったのではないか?と想像できる。娘ジュリーの現代的で偏見のない様子を見てもそう取れる。

それだけにラストは、大森エリックが序盤上品であっただけに悲劇性が増す。エリックは娘と言い争いの末殴り殺す。そしてスリムとまた公園で会い、議論し、スリムにすら拒否される。スリムはエリックを殺す代わりに自分を殺す。スリムがエリックの分身である設定は本公演ではないが、スリムが死ぬことでエリックは最後のブレーキをなくすことになる。

そうして「仇敵ジェリー・アダムスが化けている孫娘」をスリムに殺してもらえなくなり、エリックは自分で手を下す。それを妨げようとした妻バーニーも惨殺する。

テーブルを叩いたり、打ち付けたりする大きな音を暴力の表現にする。死んだ人はそのままテーブルについて動かないという演出のなかで、最後赤ん坊が殺される時に、李そじんさんがその不快な音に一瞬眉間をしかめる演技をするなど、限られた動きの中での効果的な演出が際立ってよかった。

最後はブリジットとの対話に戻り、実はここまですべての話がエリックの告白であったと分かる。ブリジットは殺人の告白を聞いていたという、背筋がヒヤリとするラスト。

そして最後のエリックの言葉が、なんとも本人にとっては満足げで、ほんのり喜びすら伝わる。現実の残忍な事件で「やり遂げた」というようなコメントを残す犯人をいくつか思い出し、さらにゾッとする。

前述したように、本作は北アイルランドの問題があり、ベルファストの土地の持つ特殊な政治的状況が背景にある。RC配信版でもショッキングなことは同じだが、ベルファストの風景を差し込み、どこか郷愁すら誘い、あたかもエリックのバックグラウンドへ理解を誘うかのような演出がある。エリックの残忍極まりない凶行から、彼の複雑な心理を日本人が根本から理解するのは難しい。

しかしどの国でも、自身の古い価値観に縛られ凝り固まった人間が周りに非難され孤立し、さらにその考えが捻じ曲がっていくという構図はよくある。日本でも、政治的思想だけでなく、貧困や家庭問題からエスカレートした事件は散見している。日本あるいは外国でこの戯曲を公演する場合、エリックという人間をどのように見るかというのがポイントになるだろう。

たとえば「友達はいない」という台詞は、もしかしたら昔内乱の時に同志を失ったということを示唆しているかもしれない。アイルランドの歴史を分からなくとも、なぜそのような台詞を発しているのか?想像を馳せてみることにも、翻訳戯曲を上演する意義は大いにある。

大森エリックのじっくりと掘り下げて邦訳を生かした人物像、大石スリムの強烈だが不確かな手触りの残る存在感、つかもとさんと李さんの親近感を感じさせるリアルな芝居、金沢さんのエリックを唯一受けとめる母性的な演技。そして「ト書き」を担当した森寧々さん、静かに裏方に徹してると思いきや、赤ん坊の泣き声による不穏な効果の素晴らしさ。照明や小道具も含めて、リーディングを超えた演出は見応えがあった。

本国では初演(2016年)と再演(2019年)で戯曲が違うそう。本公演は初演版らしい。そして2020年に見た配信版は初演と再演のハイブリッドということらしい。

※(追記)翻訳の依頼があったのは2017年。その後、初演と再演の比較で、翻訳者の判断により2016年版をもとに初稿を昨年改訂、とのこと。

 

ロイヤル・コート配信版を見た時の感想はこちら👉配信観劇その④ “Cyprus Avenue(サイプラス・アヴェニュー)” (Royal Court Theatre, 2016) - je suis dans la vie

ロイヤル・コート配信版の予告映像

<開演前の曲(ヴァン・モリソン)>
  • “Madame George" : 歌詞にサイプラスアヴェニュー、サンディーロウ、ダブリンの名称が出てくる。
  • “Ballerina”
<翻訳者石川麻衣さんのコラム>

コロナ禍のアイルランドの雰囲気が分かる。(2020年5月ごろ)

コロナ終息に向けて:各国レポート(20)アイルランド | 多言語翻訳リベルのブログ

<まじめな余談>

エリックの台詞で笑いを引き起こすところがある。RC配信版では人種差別の台詞で客席が湧く。今回はRC配信版を見てたらしい人が幾人か笑っていたが、客席は終始重苦しい雰囲気だった。このような芝居で笑うことに相容れない、不謹慎だという意見も見た。日本人の感覚だとそうなるのかなとも思うが、ここは演出をどのようにするかで効果を出せるのではとも思う。前半に笑いがあればあるだけ、ラストへの恐怖感は身近に感じる。

演劇(あるいは文化全般)における笑いとは「喜」「楽」だけではないのでは?と考えていたらこんな記事に。

「王子失踪す」山上たつひこ氏|日刊ゲンダイDIGITAL

「笑いを解体してみると、陽気の素材ではできていないですね。悪意や不安、意味のない優越感など、心地よいものの対極の成分でできているんです。実は、楽しそうなものが何もない。笑いって陰気なんですよ。だから人間って笑いながら、恐怖や怒りを収めるためにお題目を唱える生き物なんだな、と改めて思いました。」

笑いとは恐怖は紙一重、とは楳図かずお先生の名言。映画「ゲットアウト」しかり。この辺の感覚を取り入れつつ、笑いを記号的なエンタメのみにせず、かといって重く真面目なだけの戯曲にしない演出家及び俳優というと誰がいるか。

 

戯曲集を無料でいただけたのだが、註釈に映画『ザ・コミットメンツ』の台詞への言及が。RC配信版見た時に、黒人についての台詞でコミットメンツの事をちらりと思い出してたんだが、そもそもその台詞の引用があったという註釈(スリムが他の映画と勘違いしている設定)。映画はダブリンの労働者階級のミュージシャンがソウルバンドを組むという、ある種まっとうな青春ストーリーなのだが、アイルランド貧困層の生活がリアルに描写されている。北アイルランドのスリムがどういう意図でダブリンの映画を見て、はたまた何故その台詞を覚えていたのか、ということも考えると面白い。しかもその台詞は「白人が黒人音楽をやること」についての台詞なので、エリック(=スリム)が黒人のカウンセラーに会った時にもしやその事がリンクしたのかもとも取れる。

<邦訳について気になったところメモ>

この辺は完全に好みなので良しあしは別として。

  • 翻訳戯曲では「アバズレ」となっていたが、公演では「女性器」に。原書を確認できてないので、bitch じゃなくcunt だろうか。日本語で下世話な言い回しでもいいが、エリックの年齢や現在の環境、知性的な役作りとすると下世話にしないことで効果になった。
  • 「フィニアン」は訳をつけなかったのは良い。わかりづらいが、キーワードとして何度も出てくるし、一定の理解は得られる。多分こういうことだろうと推測できる。ブリジットは「フィニアンとは?」って聞いてたが、カウンセリングの場所はベルファストではないということか?もしくは若いベルファスト民はフィニアンという言葉を知らないのか。もしくは知っててあえて聞いているか。
  • 「リスペクト」「ファッキン」などの言葉がそのまま出てきたが、このニュアンスは日本でもよく使われるからということで出てきたのだとは思う。がこの手のは和製英語化してるので、あえて日本語に変換したほうがいいかも。
  • 「クラック」もそのまま出てきたが、ここは合う日本語があれば合わせてもいいかも。