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俳優座プロデュース#65「ハロー・アンド・グッドバイ」@俳優座劇場(2004/7/16)


1965年、夏。南アフリカポート・エリザベス。事故で片足を失った父親と暮らしていたジョニーのもとへ、15年前家を出たきり音信不通だった姉・ヘスターが突然帰ってくる。目的は財産分与。父親の事故の保証金を探すヘスター。
というのがおおまかなあらすじだが、最初は姉弟の醜い財産争いの話かな、なんてあなどっていたらこれがどうして。醜いどころか、美しいといってさしつかえないだろう。いや、確かにに形態としては醜い。気が強く、愛なんか信じていない暴力的なヘスター。おとなしく、父親の言うなりになって、何かと言えば神に祈る弱々しいジョニー。久々の再会なのに、罵り、お互いの弱さを暴き出そうとし、相手の弱点にピンポイント攻撃。古い傷跡に塩を塗りまくる。
だけど、切なく、この世の果ての美しいふたりぼっち。姉と弟。男と女、だけどきょうだい。
ジョニーとヘスターの会話は、刺々しく、聞いている側はハラハラする内容だけれど、内容をよく聞いていると、誰よりもお互いをよく知っている。おそらく、話の中にだけ出てくる両親よりも、客観的に冷静に、少しの偏見も贔屓もなく。だから相手がどこで傷付くのかよく知っている。他人だったら許せない言葉もポンポン吐き出す。しまいには「今ここで死んでくれないか」とまで言うジョニー。ひええと思ったら、「あんたはいつもそう、私になんでも先にやれって言う。それで失敗したら笑うのよ。」なんてヘスターの切り返しには漫才並のコンビネーション。クライマックスの大ゲンカ(というよりヘスターの一方的な暴力)では、演技なのかよっていうくらいの本気っぷり。本気のゲソパン、ビンタ。水まで顔に吹きかけられていたなあ(北村君大変そう)。
私には弟がいるので、ここまで激しくはないが、ちょっぴり身につまされた。犬猫と一緒で、ケンカをしながら、どこを噛めば痛いか小さい頃から互いで学ぶ。ヘスターは本気で殴ってるし、蹴ってるし、松葉づえも本気で振りおろしていた。でも、急所は知っている。だからギリギリ大丈夫なところで加減している(はず)。私が弟とあんなケンカをしたら、まあ負けるでしょう。弟はジョニーみたいによわっちくないし。でも、弟は多分、私の一番弱いところを知っている、一番好きなことも知っている。だから怖い。でもこの世のどこかにそんな人が一人いてくれれば、人はわりあい気が休まるんじゃないかと思う。
こんな事を言っているかといって、私が弟をとても愛しているかと思ってもらったら困る。愛と理解は別物だ。だけど、姉にとって弟は、「世界で一番最初にいうなりになった男」なんである(すべての姉弟がそうだとは言わないけれど)。その存在価値は大きい。性的なことを想像するのは、それこそおぞましく滑稽ではある。けれど、ヘスターとジョニーのケンカの果ての抱擁(というより、ヘスターがしがみついてジョニーを押しつぶしている)は、下手な男と女よりもいやらしく、切なく、美しい。
姉と弟に限らず、きょうだいというのは「愛さなくてもいい肉親」だなと思う。親子は愛し愛される責務がつきまとうけど、きょうだいには実はそれがない。愛さなくても責められない。それなのに、恋人や友人にされたら、絶交となるようなことも、きょうだいではかなわない。傷つけられても、しかたないかと言わなくてはいけない。
結局、父親は亡くなっていて、財産もなくて、ヘスターは父親の荷物からは何も見つけられない。不幸せな自分にも、何かあるんじゃないかって、思い出の残骸をあさっていただけ。ジョニーは気が狂いかけていて、また孤独な生活に戻っていく。二人が素直に慈しみ合うことはなく、ヘスターは去る。だけど、また何年かして、1万マイルかけ、ヘスターが「Hello」って悪びれず帰ってくる時があるんじゃないかと思ってしまった。そしてまた大ゲンカするのかな。それはそれでいい。
小田島さんの訳は、ナチュラルで聞いていて美しい響きをもっていた。時々、二人の台詞の流れは音楽のようで、意味を追うのを忘れてしまった。妹尾さんの美術も二人きりの孤独な空間をよく引き立てていた。栗山さんと役者二人がどんな空気の中、この芝居を作り上げたのか、それも気になるところ。きっと荒々しくも、優しい想いだったんじゃないだろうか。
私事だが、北村くんみたいに可愛らしい弟でないのだけど、まあ弟がいて良かったかな、と今は思う。世界の終わるようなケンカもしたけど、TMGEやオリラブ、Bonnie Pink高村薫を教えてくれたのは奴だった。私が好きそうな映画や音楽、本、いつのまにか知っている。
弟よ、もうカルピスと偽って米のとぎ汁を飲ませたりしないから、また何かいいもの持ってきてよ。