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杉下右京も金田一耕助も助けに来ない東北時代劇サスペンス〜こまつ座『雨』世田谷パブリックシアター

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久しぶりのこまつ座観劇でした。

一時期北村有起哉さんが出演されてたのもあり、よく見に行ってたのですが、井上さんが亡くなってから新作がないというのもあり足が遠のき。今回行ってみようと思ったのは、昨年のステイホーム中に夫が『相棒』を一気見してすっかり相棒ファンになり、角田課長の愛用カップまで購入するという。その角田課長こと山西惇さんが主演ということで、久しぶりに山西さんの舞台も見たいなとチケットを取りました。

 

徳は江戸の「河原者」、金物を拾って生きる浮浪者。雨宿りで仲間と集った橋の下で「行方不明の羽前国平畠藩の紅花問屋の当主・喜左衛門」にうり二つと言われたことで、東北は山形へ。独特の方言とそもそも他人になりすますなんて無理、と一度は諦めようともするが、記憶喪失のふりをしてみたら何故かトントン拍子でうまくいく。紅花問屋「紅屋」の一人娘で喜左衛門の妻・おたかの美貌にもとらわれ、徳は喜左衛門として生きていくことに。山形弁もマスターし、嘘に嘘を重ねなんとか乗り切る。それでも正体を見破られたら殺人も厭わない。さて徳の運命やいかに…。

 

というのが大まかなあらすじ。
最下層で生きる男が、一世一代の嘘で成り上がる。しかし山西さんの演ずる徳は、悪人が魅力のヴィランもの的でも、美学のあるピカレスク的でもない。徳の行動は、ただただ誰もが持つ人間的な欲や愚かさゆえである。這いあがろうとする男の汚さや悲しさは、決して悪と一刀両断にできない。ああそうしてしまうよな、と共感すらする。徳が最初に殺す男娼の釜六、山西さんは以前にこの役を演じたという。そのためか徳が釜六を手にかけなければならない場面は特に迫力に満ちており、一気に物語の色を変える。

その後も徳は必死に山形弁を覚え、平畠の生活に馴染んでいく。最初は適当なところで財産奪って逃げようかと思っていたが、おたかに情がうつり、紅花づくりにもやりがいを見出し勉強する。そうして本当に喜左衛門として生きていくと決め、とうとう大きな犯罪に手を染めるが、最後に大どんでん返しが。

幾重にも重なる「しかけ」と「言葉」にどんどんからめとられて、はて今はどこにいるのか惑わされる。杉下右京金田一耕助も助けに来ない東北時代劇サスペンスとして見ても楽しいエンターテイメント作品。

徳は犯罪を重ねるけれど、幸せになりたい、良い生活がしたい、生きたい。そうただ「人として生きたい」というよく言えば向上心のある男である。おたかのことも愛し始めてしまうし、紅屋の仕事にも愛着を感じている。それだけにラストの徳はかわいそうで仕方ない。

ラストは杉下右京にぜひ出て来てもらって「ひとついいですか」とすべての、そして本当のことを暴いてほしいとすら思った。「いい加減にしなさい!」と徳を叱って、もう一度徳を徳として生かしてあげてほしかった。

本当の悪はなんなのか、徳はどこから絡め取られていたのか。見終わってそのことを考えずにはいられない。最初からか、途中のあれこれも、徳の犯罪のすべてもむしろ想定内だったのか。「鈴口の疣2つ」の描写は、面白おかしいが、ここが肝であったと最後に分かる。

紅屋の一人娘として、婿の喜左衛門を愛する妻として、徳を偽物と知りながら褥を共にするおたか。演ずる倉科カナは見目愛らしく、育ちの良い芯がある女性像をしっかり演じているが、その満面の笑みがずっと美しく変わらず無垢に見える分だけ、最後の場面での台詞は恐ろしくなる。彼女の嘘はどこまで嘘で、本当なのか。彼女もしかけの一つでしかないのか。

本作は井上ひさしがオーストラリアに長期滞在した時に書き上げたという。言葉の分からない土地で経験したことが、このような物語になる。人は言葉に生かされているわけではないが、言葉は生きていくために最重要なもののひとつで命綱にもなる。結局井上さんは英語は話せないままだったそうだが、違う土地に住んだ時に感じる疎外感や余所者の感覚をしかけの一つとした。物語の最後の種明かしで出てくる地方都市ゆえの縛りは、言葉をマスターしたくらいでは埋まらない。

そして、井上芝居によく出てくるアイデンティティについての物語でもある。井上さんがオーストラリアに行ったのは1976年、大して日本人が外国に多くはない時代。自分とは何か、日本とは何か、日本語とは、と否が応でも突きつけられる体験であったろう。それをこのような日本語の洪水のエンタメにしてしまう井上芝居の濃さたるや。

後期の井上戯曲は反戦や左翼的思想の強いものが多いが、今作は井上戯曲の言葉の鋭さ、物語性の強さ、舞台上演でより発揮される生命力に溢れた作品で、一番最初に「ブンとフン」を読んだ時のワクワク感を思い出した。

最後に奥の幕が開き、白装束の徳の後ろに敷き詰められた紅花が見えた。奇しくもさい芸の「終わりよければすべてよし」のセットは蜷川さんに捧げられた舞台いっぱいの曼珠沙華こまつ座は黄色や橙の明るい紅花を井上さんに。それぞれの花を見るたびに思い出す。

 

今回、席は劇団のネット先行で取ったのに2階席。こまつ座は超古参ファンのDM優先で良席が埋められるの忘れてました。引っ越してから住所変更しなかったので、劇場でDM再登録。

世田パブの2階席は全体を上から見られるのでそれはそれで良かった。
最初の橋の下のセットは、不規則な段差の大きな板とこれまた不規則に組まれた組み木のような柱。松井るみさんの作る天井も壁もないセットは、役者が動き回ることで上下左右の立体感を感じさせ、息吹いていく。
パンフで栗山民也さんが書いているように、井上芝居に込められた縦横無尽に張り巡らされたさまざまなファクター、その物語のはじまりとして、松井さんの美術イメージは観客の想像力を解放する。上から見た場合と、1列目であおりで見た場合に、かなりこのセットは違いを感じるのではないかと思う。

そしてタイトルの「雨」。時に雨宿りで立ち止まらせ、時に徳の犯罪を洗い流し、徳の嘘を雷の音で誤魔化す。抽象的でメタファーのような美術や効果のあれこれ。物語の支えとなり、象徴となる。

2階席から俯瞰のようにこれを見て、最初の貧しいが自由だった徳が、別人の喜左衛門に象られていくさまと、段差や欠けのアンバランスさはあるが壁のない世界から、真っ直ぐで整列されているが壁や仕切りのある世界に移って様子が重なっている効果があったのかもと後で気づく。最後が整然としているだけに、より徳の悲劇が強調されている。

 

(追記)

セットは「雨」の文字を模していると知り。これは1階席でないと見えなかったかも…。変な形だなーとは思ってたのですが。そして真ん中の柱は釘を模しているという。映像でもいいから見返したい。