je suis dans la vie

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「夕凪の街 桜の国」@ユナイテッド・シネマ豊洲

原作を読んで、ほんとにほんとに感動して、映画になると知った時に、絶対に見に行こう、と決めていた。
ヒロシマの原爆の話は重い、とつい思ってしまっていた。なんとなく、そういう映画は避けていた。自分の心に余裕や覚悟がないと、ちょっとつらい。
最近はどうだか分からないが、私の世代の人なら広島について、なんかしら触れているだろうし、その悲惨さは経験していなくとも、想像するだけで恐ろしいと知っているだろう。「はだしのゲン」「黒い雨」等々…。私が本当に、言葉も無くすほど、一番その悲惨さに触れたのは、高校の時の修学旅行で平和記念資料館だったかを訪れた時だったと思う。時間があまりなくて、友人と早足で見て回っていたのだったが、そのうち足取りはゆっくりになって、壁の写真ひとつひとつから、目が離したくても離せなくて、ぽかんとバカみたいに口を開けて見ていた。そのうち、担任の先生がいつまでも帰らない私たちを探しに来た。時間なんか流れてなかったんだと思う。その時は。
この作品は、映像でありながら、目に見えて恐ろしいことは出てこない。なので、誰が見てもいいと思うし、目に優しい映画だと思う。だけど、この映画は、さらりとしたトーンではっきりと、誰が悪いのかを示している。「落ちた」のではなく、「落とされた」のだということ。死ねばいい、と誰かに思われたことの恐怖。
「やった!また一人殺せた!とちゃんと思うてくれとる?」という皆実の言葉は、うらみつらみを超えた、真実の叫びだと思う。
悪いのは人ではなく戦争だ、とか、憎しみからは何も生まれない、とか、軽々しく言うものではないと常々思っていた。人を恨んだり憎んだりすることは、その姿をはたから見て醜いと思っているだけの人なぞより、当の本人の方が苦しくつらく逃れられず、自分のそんな状態そのものこそを呪っているのだから。
周りがきれいごとばかり言うから、本当の事を言えない人が多くなったのではないのか。この作品は、きれいごとだけを言ってる、本当のことは知らない人たちにも分かりやすいと思う。
原作を読んだ時から、何故か、現代の七波よりも、その伯母の皆実の方にシンクロしてしまっていた。もちろん、その話の深さに感じ入ったのが大きいとは思うが、皆実がケロイドを見られたくなくて、半袖のワンピースを悲しそうに見るシーンは、私に覚えがありありだったからか、と後で気づいた。私も、ちょうど皆実と同じ左腕に、交通事故の時の手術の跡が残っている。もうそれほどには目立たないが、やはりノースリーブは、人前では一生着れないだろうな、と思っている。いい年なのでいまさら気にもしないが、皆実を見ていたら、きゅうんとした。
皆実にとっては、心の傷も深刻で、同僚の打越によって救われるのだけれど、そんな甘酸っぱいシーンでさえ、映画だからフィクションだから、というのは超えて、人は人によって救われるのだなと信じたい、信じてほしいと思わせるほど、打越の素直なひとことは、皆実だけでなく多くの人を掬い上げる。
人が人を受け止めるのは、難しいことなのだろう。投げる側も、受ける側も、臆病になってしまう。なかなか誰かに自分の思いを語るというのは、たやすくできるとは言い難い。でも、もし誰かに好意を持っていて、お互いに信頼できるような気が少しでもするなら、受け止めてほしいと思うし、こちらに投げてほしいと思う。「誰でもいいのではなくて、あなたに」という思いがあれば、受ける側も投げる側も真摯になるし、きっとどこかにふうわりと着地する。
「夕凪の街」の終わらない話は、「桜の国」に引き継がれ、七波という強くたくましい女性によって、皆実や七波の母親たちの想いは引き継がれて行く。
しかし、原作どおりにきちんと映像化されていたので、話が分かっているだけに、ずっと泣きっぱなしで見てしまった。でも、原作を知らない人たちにも見てほしい映画である。
また広島に行ってみたいなと思う。今度はゆっくりと、夕凪の刻を感じながら、好きな人の手を取って、その人の生まれた街を、また違った想いで見渡してみたい。
映画オフィシャルサイト:http://www.yunagi-sakura.jp/