je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「胎内」@青山円形劇場

作:三好十郎
演出:鈴木勝秀
出演:奥菜恵(村子)/長塚圭史(佐山)/伊達暁(花岡)
とにかく、この作品については、この円形劇場はアタリだった。丸く小さく、閉塞的で、ちょうどいい暗さをつくりやすい。暗転の際、上部にある音声室(?)が微かな光を残していたが、まったくの闇でない分、まるで夢を見ているときのようなぼんやりした感じになって、洞窟の自然な闇に近くなっている。
終始、薄暗いので、かなり目をこらしていなければならず、つらい部分もあった。台詞も呪文か経文のように降り注いで、受け手の集中力を必要とする。しかし、時間の流れを感じさせない空間。Kai嬢は「短い」と感じたらしいが、私はむしろ「長く」感じた。はっとして、時計を見たらまだ2時間も経っていなかったのに、3時間も4時間も経ったように思った。暗さのせいもあるが、作品内と同じ体感時間だったような気分だった。
しんとした世界で、うすぼんやりと光る蝋燭と、それをつけるためのライターのオイルの匂い、煙草の煙。非現実的な空間で、それだけがはっきりと感じられた。
戦後のブローカーで、生き延びるためにならなんでもするという伊達くん演じる花岡。宮本輝の「流転の海」の熊吾を思い出した。生命力に満ち溢れ、いやしく、ずるく、恥知らず。おそらくは中年、熟年の域にあるだろう花岡は、意外にも伊達くんにぴったりだった。小悪党、チンピラ。ああ、憎らしい。でも、作品を通じて、一番共感できたのは花岡だった。生きる事に一番積極的。支配と従属、美と醜、愛と憎、希望と絶望、虚と実、強さと弱さ、相反するものをすべて持つバランスの良ささえ感じた。
村子は逆に、過去と現在、妄想と現実、愛と欲、体と心、それらを分けて考えている。昔の恋人を実は今も愛しているという村子。果たしてそれは本当なのか。戦後の生活のために、生きなければならない、それは確かにあっただろう。けれど、洞窟という「胎内回帰」で真実に気付いたわけではない。村子は花岡を必要としているし、必要であるというのは愛情の必須条件だと思う。
「憎しみは愛より長持ちする」
花岡の村子へのこの言葉は、愛の告白だ。憎め、憎めと、花岡はそうして村子をつなぎとめ、絶望から救う。
小動物のようで、小さな手足の奥菜さんは、本当に愛らしい。靴を脱いで、裸足になったときのその姿はまた格別だった。ファムファタール、と呼ぶにはあまりにも純粋な美しさ。若さ、だけではなく、彼女の根底にあるものだと思う。小悪魔、というのが相応しいかもしれない。抱きしめたら壊れそうなのに、押したらその形どおりにへこむだけの柔軟さがある。
そして不能の男・佐山。長塚くんは妖精の様に、まったく生気のない男をまま演じていた。生きる事は醜く、はしたない。諦め受け入れるか、拒絶して引きこもるか。佐山の拒絶は、この洞窟内でのみ、ある美しさと力をもつ。洞窟の入り口の近くの席だったので、立ち上がって天を仰ぎ見る長塚くんをかなり近くで見られた。手足が長く、みすぼらしい姿。けれど、吸い込まれそうになるほど凛としている。
何故ひとは生まれるのか。奇しくも、長塚くんの「LAST SHOW」でのテーマだった。しかし、この作品を見て「何故ひとは生きなければならないのか」という疑問も生まれた。生きなければならないほどの情熱が、果たしてあるだろうか。なにもかも、9.11につなげるのはなんだが、戦争という爪あとを知っているこの国で、やはり何も感じないでいるわけにはいかないのだ。