je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」楽日@本多劇場

久しぶりの阿佐ヶ谷スパイダース公演。長塚君帰国後最新作というならば、行かずにはいられない。
さて、前作「失われた時間を求めて」や、パルコ公演の「SISTERS」あたりから長塚君のテイストが変わっていたので、今作も今までの阿佐スパとは違うのであろうと予想はしてたけれど、果たして留学の成果がまたどのようになるのか楽しみにしていた。
イントロダクションからそれは感じた。舞台の真中に立つ主人公(光石研さん)が、新聞を読んでは投げ捨て、そして黒子が持ってきた長方形のテーブルのどの位置に座るか、神経質的に場所を変える。演劇というよりは、舞踏の振り付けのように流れる空気。いつだったか金森穣さんのカンパニー公演を見たとき、テーブルを使ったパフォーマンスが印象に残ったのだが、それを思い出した。
そして暗転が多いのが以前は気になったが、今回は全体的に暗めの照明のまま、セットの移動も黒子がかすかに見える程度の明かりの落とし方。この辺の流れは、スタンダードな手法ではあるが、それを長塚君がやっているというのがおもしろいし、定石通りで崩していないが効果的だった。昔、イギリスのシェイクスピア劇団(有名だったのかどうかは知らないが)の芝居を1幕だけ見る機会があった。子供の時で親に連れられ見に行ったのだが、1幕しかチケットが取れなかったことを考えると人気があったのだろう。内容は忘れてしまったが、途中のセットの移動を役者がやり、芝居の一部としてすべて見せていたのをよく覚えている。今でこそ、それは手法として珍しくはないが、阿佐スパ公演で最低限のセット、小道具、そして繊細な照明、パントマイムも取り入れた動き。他では決して珍しくはないが、新劇や演劇養成所でやるような基本的なことを阿佐スパがやっている。長塚君がイギリスで触れてきたもの、かいま見ているのだろうか。
そしてその基本的な部分を、きっちり見せていたのは加納さんであり、村岡さんだった。やはり所作についての基礎ができている。加納さんは、医者であり人形作家という役から、手の動きが印象的。村岡さんは長い髪を神経質そうにはらうその些細な仕草、歩くつまさきの動き、見ほれるというより目が行く。紙の先まで、指先まで、電気がビリビリ通っていた。
光石さんはどちらかというと映画の人だが、演劇についての勘には時折ドキリとさせられた。席は後方だったが、狂気に誘われる主人公のギリギリの、でも振り切れ過ぎない表情ははっきりと伝わる。見える、のではなく、伝わる、届く。
主人公の役柄は言わずとも長塚君を投影している。しかし、今までならそれが嫌味なほどこちらにガツンと投げられ、受け取る方の体力的な面でのスタミナを要求され、そしてだいたいぐったりしたものだ。今回だって投げ方が変わっただけで、スタミナはいるのだが、なんというかもっとこちらがシュッとしていないといけない「難しさ」があった。背筋を伸ばして見るものではないが、精神的にニュートラルに入れていないと受け取り方が大きく変わりそう。
今までがロックなら、今回はジャズ、と簡単に言ってしまうとそれはそれでどうなのか、と思うが、今のところそういう比喩しか思い浮かばない。
光石さんの役が長塚君の投影なのか、と思わせつつ、実は伊達君の役がそうなのかとも思った。「失われた」の時も、似たような衣装(紺系のピーコート風の上着に、タックパンツのような、冬の浪人生ルック)で夢の水先案内人的役割。出番は途中からで少なめだが、今後も同じような位置づけで来るか楽しみ。
伊達君&中山さん、二人がうまいこと新しい阿佐スパワールドにはまっているのもよかった。二人とも他で武者修行してるので、役者としてのポテンシャルは言うまでもないが、やはりメインユニットでの変化に迷いはなかっただろうかという心配は無用だった。長塚君や制作との長い信頼関係あってこそだな、と思う。
ところで、長塚君って小島聖ちゃん大好きだよね〜。聖ちゃんの使い方が絶妙。聖ちゃんに「絶対に許さない」って言ってほしいんだな!ドエスでドエムだね!新婚のくせに。いや、新婚だからこそ、そういう女性の表面的ではない、真のおそろしさが分かるのか(いや奥様がそういう人とは思えないんだけど)。なんか、聖ちゃんも奥様も、顔は似てないけど骨格とか、パンッと前面に出てくる行動的な明るさとか似てて、好きなタイプなんかな〜とちょっと思う。