je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

Two of us @高円寺(2005/05/19)

kai嬢のおともで、演出家・鈴木勝秀さんゲストの朗読&音楽コラボを鑑賞。
横川さんの打ち込み&即興(?)演奏に、鈴木さんのオリジナルテキストを合わせたもの。
始まる前は想像がつかないなあ、と思いつつ、横でかなーり興奮気味のkai嬢の姿を微笑ましく眺めました。やっぱ自分が情熱を傾けるものの前で、人は冷静ではいられないものなのよねー。いつもは冷静なkai嬢のこういう姿を見るのは、本人は恥ずかしいでしょうけど、結構うれしいんですよ。ふふふ。
音楽はジワジワ、と吸い込むように始まる。小さな場所なので、音の在り処が分かる。でも閉塞的な空間で響く音は居場所がなく、ちょうど鍾乳洞にいるような感覚。自然の音、いつもは聞き逃しているであろう音。
そこにからむ鈴木さんの朗読。言葉は彼自身の言葉ではなく、誰かの発した格言のようなものがほとんどであり、それを組み合わせている。そこはさすが演出家だなあ、と感服。言葉の構築に関しては勉強になります。
言葉というのは、便利なツールであるけれど、やはり記号としての域を出ない。それなのに、人は言葉に頼ろうとする。ならば、これは一種の歌、と考えるなら納得できる。人は言葉という曖昧で直接的なツールを、遊び道具としては割合楽しんでいるのだし。
翻訳についてのくだりは、専攻が言語学だっただけに面白かった。多分、「翻訳夜話」のテキストの引用もあるのでしょう。友人に英語を教えていて、彼女が先日「なんで一つの英語にたくさんの日本語訳があるの」という疑問で、うーむと思ったのを思い出した。英語に限らず、他言語間の翻訳というのに絶対はない。「ある程度こんな意味」という程度の意識で接していないと、こんがらがる。「I love you」だって、「好き」「愛してる」「死んでもいい」なのか、いろんな捉え方があるでしょう。
鈴木さんは色々考えちゃってるタイプの人なんだろうか。でも、結構言葉に対しては真摯かもなあ、と好感をもてた。「語学で飯を食ってる」なんていう人たちの中には、すごく傲慢な人がいたりするんでね。何言語できようと、言葉に対して慎重でなければ何の意味もない。あくまでツール、でも扱いには注意。
それにしても、人はいつまでも言葉については進化しない生き物なのかもなあ、とも思った。愛の真理も宇宙の神秘も命の重さも何一つとして解明されてないものね。だから面白いんだけど。そして、私も言葉に踊らされてる。それはそれで心地よかったり。