je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「KITCHEN」Repeat(2005/04/23)

ロビーに高橋惠子サマが!ほんとキレイ・・・。常々「もし整形するならあの顔になりたい」と思っていたので、ああもう悔しいくらいにその美しさにノックダウンでした。
それはそれとして。観劇の方は、風邪薬のせいでかなりウトウト。あー、今日はだめかも、と思いつつ、それはそれで別の見方ができるもの。
登場人物が多いので、タイミングや呼吸が大事な芝居。リズム、テンポが崩れない。崩しようがない。ヘタすると単調になる。アドリブも目立たない。誰が主人公なのか、分からなくなる。その中で何をピックアップするか、というのも楽しみ方だとは思うが、この芝居の場合、ひとりひとりがその役割を忠実にこなす、という所を見ていくのが正しいのかもしれない。もちろん、芝居だから、皆がそれぞれの役をこなすのは当たり前だ。ではなくて、私達はこんな風に自分の役を生きているのかもしれない、と思わせてしまう。風邪でもうろうとした中、役者の群れを見ながら親近感を感じた。
ペーターでさえ、「かきまわし役」という役でしかない。「あーいるよね、ああいうやつ」という必要悪程度の感じ。最後の分散でさえも究極の予定調和に見えてしまう。皆が去っていっても、また同じような人々が集まり、同じようなことを繰り返す。守るものは守り、逃げる奴は逃げ続ける。その役割をそれぞれ享受しているうちは。
そういえば、高橋洋さんがパンフで「何を叫びたい?」という質問で、「変わりたい」というコメントをしていたけれど、ある意味、この芝居のツボをいってるのではないか。「自分を変える」ことは「世界を変える」ことに等しい。変え方によっては、恐ろしいことが起きる可能性だってある。(宗教の話はあまり出てこないが、あれなんて最たるものではないか)。
生活に忙殺されて、夢を語れないのはさみしいこともあるけれど、感情を忘れたコック長 や、皆に見捨てられたオーナーは、それはそれで必死に生きてたんだ。と思うと、人間は結構かなしくいとしい。だから、この芝居は誰かを責めているわけではない。
好きなシーンは、ドイツ人の男の子が、ユダヤ人の菓子職人に「お前はユダヤ人で、俺はドイツ人だけど、お前はいい奴だから好きだ」って言ったら、菓子職人がバラを渡すところ。なんでそうなったのかはっきりとは分からなかったんだけど。そういう事ってあるし。あ、この人好き、って感覚で分かったんだろうな。だからってそれが平和云々につながるのだー、とかは思わない。でも、好きな人は多くなくても、いた方がいいよ。うん。
謎なのはモニック。分かるような分からないような。「あんたみたいな人が何故ここにいるの」って指摘されたように、いい女でダンナもいてお金に不自由してるようでもないのに。壊すためにつながっていたわけじゃないんだろうけど、モニックは壊れることは予感してるんだよね。でも、それをどうこうしようとはしない。傷つけたかったわけでもない。なんにも期待しないでいるモニックが、すごく怖い。
毎朝、syrup16gを聞きながら会社へ向かう。あきらめながら頭の芯が冴えてくる 自分がいる。「からっぽのままでいいんだよ〜」なんてロウにさせる歌を口ずさむ朝。逆説的勤労意欲を湧かせるのだろうか。なにごともバランスということかな。