je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「KITCHEN」@シアターコクーン(2005/04/16)

(ネタばれありです)
早朝の薄暗い静けさから、昼の気の狂うような忙しさへの移行。ガスをつける音、湯の沸く音、調理場で働く人々の話し声、増え続ける注文の声、そしてグラスや皿の響く音。
音と時間。調理場の人々の感情の起伏と比例している。
そして、休み時間のけだるい時間の流れ。そこから、夕食時へ向けての激しく速い時間へ。
働く人、なら必ず感じるであろう時間の起伏。同じ1時間でも、短く感じたり、長く感じたり、おそらくそれは、自分の中の時計の感じ方なのだろうけれど、自分でコントールできないことがしばしばだ。人は慣れや、惰性で、その「ずれ」を日々修正し、自分をだましていく。
「ずれ」は人種、価値観、他人との関係性においても発生している。あの調理場において、誰として理解しあっている同士がいない。同じ国、恋人同士、同じ担当と共通の場を持ちながら、ただそれは日々の惰性でしかない。多分、「職場」というのはそういう場所なのだ。もし自分が望んで選んだ所であっても。
なのに、皆求めてしまう。友人、恋人、夢、金、本当の自分。
最初、ペーターが一番輝いていて、夢も希望も怒りも、みなが望んでいるすべてをもっているのだと思っていた。実は一番からっぽだったのは彼だった。たかが女の事で叫び出し、正常を失い、自分が人を貶めた人種に関する言葉で、いとも簡単に傷ついた。ペーターは何が欲しかったんだろう。見つけられない自分に気付いて、絶望した。モニックは多分、ペーターの刹那的な部分に惹かれ、でも結局はそれは自分を満足させてくれないことに気付いた。
誰が一番正しいんだろう。仕事をしていてもそう思う。自分勝手な奴、おとなしい奴、いばりちらす上司、気の利かない同僚、惰性の恋愛、惰性の仕事。そしてそれらにイライラして爆発する自分。あの調理場には「はたらく」ことのすべてがつまっている。
新天地を求めて、旅立つ事は易しい。だけどそれは必ずしも希望ではない。望んだ事が幸せな事、とは限らない。いるべき場所を見つけるために、ただ諦めず、「ずれ」を修正しながら生きていくだけ。
役者陣のコンビネーションが絶妙。そして、成宮寛貴くんがとても成長していた。貫禄と余裕が出てきた。しかし、それにおごらず、引いたり出たり、主役としての位置をきちんと分かっている。
来週リピートするので、今度はキャラをひとつひとつを見分けてみたい。時代性もあるのだけど、黒人やアジアというカラードが出ていない。舞台となった1950年代より後、世界はもっと複雑になり混沌とした。何も進歩していないんじゃないかい?なんて、蜷川さんらしいテーマだった。