je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「おもいのまま」@かめりあリリオホール

飴屋法水さんの作品は一度触れてみたいなあと思いつつ、なかなか機会がなく。今作、全国公演の東京公演がちょうどあったので、見に行ってきました。
演出・美術・音楽デザインの飴屋さんの、世界の構築の仕方は絶妙でした。特に音楽。生活の音、雑音、ひとの声、どうぶつの鳴き声、どこからかかただ流れてくる日々の音とはこういうものなのか、と。普段は聞き流し、聞いてることすら意識しない中、それを再現したかのような音を、舞台にしっくり乗せてくる。それは生活の音でもないのかもしれない。飴屋さんの中に流れる音、舞台の中でしか聞けない音。
音楽に力を入れている演出家もたくさんいるし、音の素晴らしい舞台もたくさんあるけれど、これほどまでに音楽がこちらに入り込むのは、とても稀有な素晴らしい体験でした。
飴屋さんの舞台の構築はもちろん、演者もすばらしい。特に石田えりさんは自身がプロデュースしただけあって、その軸の強さがうかがえました。その強さは、磁石のような引き寄せる強さでなく、地球の回転のようなバランスのとれたやわらかさ。主演女優でありながら、そこを強く押し出す出なく、もちろん自身のネームバリューやキャリアはうまく利用し、しかし何よりもいい作品をつくりたいという「おもい」が見えました。飴屋さん、佐野史郎さん、音尾琢真さん、山中崇さん、そして脚本の中島新さんも、その自転の流れに乗っておもいを共有しているような。
話は、タイトルからは思いもよらない、実は家庭内バイオレンス〜な内容。
夜、中年の夫婦が家でくつろいでいるところに、マスコミの取材と言って、男が二人強引に上がりこんで来る。実は夫婦は、ある事件で子供を亡くしており、男たちはこの夫婦が犯人ではないかと夫婦を追い詰めていく。男たちは実は、今までもスクープのために、同じ方法で容疑者を追い詰め、あまつさえ殺してもいた…。
一幕で、夫婦はいろいろなことを隠そうとして、夫婦は自分たちの心さえ偽っており、「こどもは死んでない。実家に預けている」とまで言う。夫婦は本当は子供を殺したのか?それとも狂っているのか?そんな夫婦に、男たちは余計に煽られ、その行動はエスカレート。直接的な暴力描写は実はそれほどなかったのだけれど、おそろしい言葉や恫喝、いやでも想像してしまう最悪の結末。もう、音尾さんと山中さんの、悪どい笑顔にぞぞっとさせられる。
山中さんは前からこういう役が合う!と思ってたのでドンピシャ。こわいよー。音尾さんは意外にこんな役はまるんだー、と。
そういや、この会場、音がすごーく良かった。マイク使ってるのかもしれないけど、かなり台詞がはっきり聞こえたし、飴屋さんの音響も細かいとこまで聞こえて、作品に合っている感じ。
一幕の結末は悲惨なもであり、絶望だけがその場にひしめく。会場は区の施設ということもあり、年輩の方も多かったのですが、なんかげっそりしてる方がいてかわいそうでした。チラシだけだと、演者の4人が楽しそうに微笑んでるからねえ…。こんな作品なの〜とびっくりしたんでしょうか。
二幕は、まったく同じシチュエーションで始まる、という不思議な形式。しかし、一幕よりもものごとはスムーズに運ぶ。男たちは相変わらず暴力的だけれど、夫婦は「はいはい〜、じゃあ上がって〜。じゃあ縛って〜」みたいな感じで、サクサクと進む。
じゃあ、このまま一幕をなぞるだけかというと違う。夫婦は、一度体験したことを、「今度は前よりうまくやる」という共通意識があるように見えた。この場をコントロールし、男たちを納得させなければならない。
そのためには、亡くなった子供のことを素直に告白していかなければならない。自分たちの傷、過去の出来事と対峙しなければならない。
そうして二幕もまた終わる。
そしてまた男たちがやってくる。今度は前よりもっとうまくできるはず。おもいのままに。
というような、不思議な形式でした。
人はあの時この時こうしていれば、今やり直せれば、と思う生き物だけれど、実際はできない。人生は一瞬一瞬が選択だ(ってなんの台詞だったっけ)。後悔先に立たず。反省もそれほどに役にはたたない。
けれど、心の中ではいくらでも自由で、何度でもやり直しができる。亡くした子供を想う心もちを変えていくことができる。いくらでも。
二幕のラストの夫婦の会話はそれを象徴する素晴らしいものでした。難しいシチュエーションの芝居だし、なかなか噛み砕けない部分も途中ではあったのですが、それをすべて昇華(消化)してくれました。
終わった後はMIOさんと上野に移動して、うろうろ。なんとなくおいしそうだったお店「れんこん」へ。れんこん料理はもちろん、お酒もお魚もおいしいお店でした。また行きたい〜。