je suis dans la vie

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「ビューティ・クイーン・オブ・リナーン」@PARCO劇場

思い立ってチケット取ったので、席は最後列。チケットレス販売は楽でいい。こういう時だけはカード持っててよかったと思う。
後ろの席は全体が見えていいのだが、母も私も視力が悪いので、役者の表情までは見えない。しかし、演技達者な人ばかりなので、離れて見てもその雰囲気に変わりはなく、むしろ毒気にあてられなくていいのかも。白石さんの演技は、見えにくいからという意味ではなく、もっと近くで見てみたいなと思ったけれど。
母と見に行ったけど、きまずくはならなくて良かった。国も文化も違うし、生活環境だって違うし。けれど、親戚や知人に、似たようなシチュエーションの人がいるので、むむぅと思う。
最初の罵り合いともつかない、絶妙なやりとりは、内容の壮絶さはともかくとして、家族というあまりに近い単位ならばありうる会話だなあ、とリアリティを感じる。「あたしが死ねばいいと思ってるんだろう」「あーらいいわねえ」なんて、言ってる親子いそう。ジョークギリギリのラインで。
娘・モーリーン役の大竹さんは、すごいダミ声で、もしや風邪でも?と思ったのだが、どうやらそうではなく、役作りだったようだ。ちょっと聞こえづらかったが、アイルランドの荒涼とした寒さに似合う、ギスギスした感じになっていた。母親・マグ役の白石さんは動きがコミカルで、ちょっと可愛らしいとさえ思う。女優二人は、動きが激しくない分、声でかなり表情を作っていた。コロコロと一瞬で変わる声音が、ジワジワと静かな狂気を匂わせる。
レイ役の長塚君は急遽舞台に立つ事になったわりには、のびのびしていたように思う。いつもと同じ演技だなあとも思うし、でも台詞のリズムは崩してなくて、一番マクドナーの作品のキャラに合っていて。マクドナーの作品が、普段の長塚君のリズムに近いのかな、とも思う。
台詞のリズムといえば、翻訳劇なのに、ありがちなずれを感じなかった。(ありがちなずれというのは、どうしても互いに持っている音(おん)の長さが違うので、実際のリズムと、日本語にした時のリズムが食い違う。またはそもそも訳が合ってなくて(間違っているというのではなく)、日本的になりすぎるきらいが出ると、なんとなく「ずれてる」と感じてしまうのです。)
「ウィー・トーマス」の時にも、台詞のリズムの良さは感じたが、あれは特殊なシチュエーションなので、聞きなれない言葉が出てくることも多かったし、今回は前回ほど特殊すぎないシチュエーションの会話な分、どうかなと思っていたが、日本語で聞いたときにその言葉もしっくりきた。「訳が透ける」という言葉があるが、いい意味で透けていた。「たぶん、英語のリズムをそのまま生かして訳しているのだろうな」という感じ。久しぶりに原文を読んでみたいなと思わせる訳だった。
4人芝居だが、ほぼ2人だけのやりとりが多かった。レイの台詞にいたっては一人語りのようだったし、それだけに台詞の一人当たりの量が多い。リズムはずれていないが、すべての登場人物が、かみ合っていなくてずれていて、とてももどかしいのだが、そのほんのちょっとのズレ感が面白かった。
田中さんはこういう役が似合うのだなあ。パートーは悪くないし、純粋で、がんばってきて、女扱いもうまくなくて、けれど前向きで明るく、それなりに行動力もあって無邪気で。だからこそ町の変人と化していたモーリーンにも、昔のままの美人の印象で接してしまったし、アメリカに行ってフラフラとアメリカ美人に寄ってしまったのだろうし。彼がもっと注意深ければ、もっと情熱的だったら、もっと冷酷だったら。と思わせるところにこの作品の妙がある。
モーリーンはパートーでなくても良かったのだと思う。なんでもいいからきっかけが欲しかったのは真実。でも、本当にリナーンを出ることになったとして、彼女は出たのだろうか?本当は母親と二人でいることが、安心した生活でもあったのではないか?とさえ思う。おそらくは、慣れのループにどっぷりと漬かって、もうすでに抜け出せないところまで来てしまっていただけなのだけど。でも、殺さずとも、ただ置いて逃げるという方法も、きっと幾度もあったはずなのに。なぜ?
ずれ続けた歯車は、ただずっとずれ続けて、それが普通の状態になってしまった。合わない時計みたいに。本当の時刻(パートー)が現れて、合わせようとしたけれど、やはり合わなかった。そしてまた別のずれた時計(レイ)が、お前の時計はずれてるよと言いに来る。その時、もうモーリーンの傍に、同じ時を刻む母親はいないのだ。