je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

配信観劇その18『テンペスト(Tempest)』(Stratford Festival, 2018)

ストラトフォード・フェスティバルの『テンペスト』。

f:id:star-s:20200605100726j:image

プロスペローをマーサ・ヘンリーという女優さんが演じてるのが特徴。

この主人公を女性にというのも演出として画期的なのかなとも思うのですが、この方現在御歳82歳。主演された2018年は80歳。ちなみにストラトフォード・フェスは常連で、初めてのストラトフォードの舞台に立たれた1962年(当時24歳)にはテンペストミランダ役を演じていたとか。

うちの母が79歳なのでなんとなく親近感。

まあ年齢や性別で演者を見てしまうのは、いまさらこの時代に野暮が過ぎるかと思うけれど。

ただ今回はビジュアルもしっくりきたし、俳優のキャリアから来る存在感やどっしりした幹が感じられて、キャスティングはぴったりだったなと思います。

演出が全体的にファンタジー感あるセットや衣装。星の王子様に出てくるバオバブの木の根っこみたいなセットがメイン。プロスペローが魔法の杖を振る時に音とライトを、キャリバンにけしかける犬を赤い光だけで表現したり、暗闇をうまく使っている。その他の大きなセットは最初の船の帆と、エアリエルが化ける怪鳥。怪鳥はかなり大きくて(ちょっと紅白の小林幸子ちっく)出番が短かったが、プロジェクションなどにしなかったのは良かった。島の不思議な世界観を、舞台の奥まであるかのように感じさせていた。こういう仕掛けはわりと好きなので、やはり実際に舞台を見たいなと思った。

プロスペローはオフホワイトのゆったりしたワンピースに、アースカラー系だが色とりどりのつぎはぎされたようなマントを羽織る。いわゆる黒い衣装の魔女イメージではなく、山にこもった仙人や翁のような世捨て人感。デザインはツモリチサトかミナペルホネン系という感じで、エイジレスな可愛らしさの雰囲気のプロスペローである。

エアリエルや道化、妖精たちの衣装も形も色合いも可愛らしくジェンダーレス。王様一行の衣装も中世のそれなのだが、襟が大きめのレースだったり、ブーツが折り返しのあるぶかぶかなシルエットだったり、全体的にゆるふわな感じで見てて楽しい。

ミランダは清楚な可愛らしい雰囲気。プロスペローとお揃いのワンピースで、親密な母と娘の関係を思わせる。プロスペローが復讐の心を徐々に緩和させていくのは、エアリエルの献身もだが、この娘の真っ直ぐな純朴さが影響していると思わせる。

キャリバンは片腕に貝をびっしり貼り付けた奇形の生物で、大柄な俳優さんが演じているのもありちょっと恐ろしげ。しかしステファノーとトリンキュローとの3人のからみのところはさながらコントのようで、全体の中に挟まれる小噺みたいで楽しかった。

本来はプロスペローの復讐から許しの物語なのだが、マーサ・ヘンリーの母性的で懐の深いプロスペローと、音楽や照明などファンタジックな雰囲気で包まれた演出で、タイトルの嵐に表されたような猛々しさはあまりない。

しかしマーサ・ヘンリーの穏やかな声音から繰り出される台詞は、真っ直ぐにこちらに響いてくる。

最後のセリフ、シェイクスピアがこの作品を本来なら最後の作品にしようとしていたというエピソードから、いろいろなことを考えてしまう。

 

"Let your indulgence set me free"

 

最後のset me free は筆を置くシェイクスピアと魔法の杖や本を捨てるプロスペローが重なる。『シェイクスピアの庭』という隠居後の沙翁の映画では、なぜ筆を折ったかは明らかではないが、宗教的な抑圧などもあったとされる。

本人は何から自由になりたかったのか?

深い考察はできないが、この作品でのキーワードの「自由」は現在でも色々な状況に当てはめることができる。赦しを経て、果たして自由となるのかどうか。この物語のように理想的にはいかないのが現実ではある。でもだからこそ、最後にこのメッセージを持ってきた重みを伝えられる役者はなかなかいない、と思うのである。

 

 

配信観劇その17『冬物語(Winter’s Tale)』(グローブ座、2018)

グローブ座配信、今回は『冬物語』。5/31までの配信。

f:id:star-s:20200606132157j:image

先日チークバイジョウルの現代的な演出のを見たばかり。👉配信観劇その③『The Winter’s Tale (冬物語)』(Cheek by Jowl, Barbican Centre, 2017) - je suis dans la vie

ある程度話が頭に入ってはいたものの、演出が違うので印象がまたもやガラッと変わりました。

衣装はアジアっぽい、タイの王族のような衣装。こちらは意外性があるのかなと思えば、シチリアイスラム圏とキリスト教の境にあるからなんだそうです。

今回はTwitterid:saebou先生の大学の講義がオープンになっており、そちらを見て勉強できました。ありがたい。

話はシェイクスピアの色んな要素がたくさん盛り込まれてて、バイキング料理のような。嫉妬深くて悩みがちな王様、王に翻弄される悲劇の女王、周りに反対され燃え上がる若いカップル、お調子者の狂言回し。悲劇でもあり喜劇でもあり。

シチリア王のリオンティーズの意味不明な嫉妬が物語の発端。この王様、終始子供っぽい弱っちい男。暴君なのだが。臣下に諭されたり命令聞いてもらえなかったり、情けない。チークバイジョウルのリオンティーズは、品の良い神経質そうな美男な雰囲気だったが、こちらは器の小さい情けない上司。そういう人に権力持たせると、こんなひどい事が起こりますよー、でも臣下が優秀だと解決しますよー、みたいな話になっていた。

今回は女性のパワーが全体的に強い演出で、特にハーマイオニーの侍女・ポーライナ(ポーリーナ)が肝っ玉母ちゃんぽくて良かった。見た目も筋肉質でたくましい。

リオンティーズがハーマイオニーを牢獄に入れたときも

「はあ?こがぁなええ嫁いない!何考えとるんじゃ。かばちたれるのもたいがいにしんさい!なにしょーるん、こんばかたれ!」

な勢いで、王様なのにバンバン言いまくる。(セリフは意訳です。インチキ広島弁です。)

こんな言いまくるのにクビにもされないし、罰も受けないので、ポーライナは優秀なんでしょう。第二幕では後悔に嘆くリオンティーズに

「そうよ、あんたのせいでみな死んだんじゃ。再婚?そがぁなん無理。あがぁなええ嫁他に見つかるわけないじゃろう。たいぎい男じゃのう。ちゃんと反省してがんばりんさい!王様じゃろ!」

と傷に塩を塗っているのか、励ましているのか(セリフは意訳です。インチキ広島弁は雰囲気です)。弱ったリオンティーズは黙っていうことを聞いている有様。っていうか、リオンティーズがこんだけ弱ったのって、絶対毎日ポーライナに嫌味言われまくったせいだよね…。

この後、実はハーマイオニーは生きてて、16年間もポーライナが匿っててとラストに分かるのだけど、ポーライナすごいな〜(かなりひどいけど)と。ハーマイオニーは良く夫を許すなあと思うけど、その辺もポーライナがうまく誘導したんかなと。

第二幕の若いカップル、フロリゼルとパーディタも現代的な衣装で、ティーン恋愛ドラマのような雰囲気。パーディタは男の子とも対等な態度で、物怖じしない。

男性は他も情けなく、ポリクシニーズは息子の結婚に陰険に反対したり器がちっちゃいし、パーディタの兄もチャラ男だし、アンティゴナスはさっくり熊にやられちゃう。男性は弱々しい表現で、女性は強くたくましく懐が深い。

パーディタの義父の羊飼いも今回は義母設定で、ちょっとお調子者だが、パーディタの結婚に尽力するので、全体的に女性が色々頑張る内容になっていた。

配信観劇その16『マクベス (Macbeth)』(Stratford Festival, 2017)

またまたマクベス。今回はストラトフォード・フェス版。

f:id:star-s:20200530020741j:image

無料配信は終了(オンデマンドで見られる)。今は『テンペスト』『アテネのタイモン』『恋の骨折り損』を配信中。

グローブ座は中学生向けの演出だったが、こちらは戯曲そのまま大人向け。どう大人向けか?ってあらすじにそれほど違いはない。が、全体の雰囲気も役の解釈も印象ががらりと変わる。

グローブ座の感想記事👉配信観劇その15『マクベス (Macbeth)』(グローブ座、2020) - je suis dans la vie

続けて別のプロダクションを見ると、演出でこうも雰囲気変わるのだなあ、と。シェイクスピアは本当に演出しがいがあるだろう。大変だとは思うけれど。

このマクベスはスタンダードだが、雰囲気はおどろおどろしく。三人の魔女も不気味。うち一人が白目のカラコン入れてて、薄暗がりのライトにギラギラ光って怖い。

そう、照明が終始暗めなので、配信だと見にくいとこがところどころ。蝋燭の灯りのような感じで、オールドなシェイクスピア劇場の雰囲気があって実際に見たらもっと雰囲気あるだろうな。

マクベス役のイアン・レイクという俳優さん、ほどよく鍛えた筋肉でセクシーな肉体派マクベス。夫人もグラマラスな女性。この2人のシーンがとってもエロくて。

戦場から戻ってきたマクベスと夫人は熱い抱擁&接吻。さらに、マクベスが上半身裸になって夫人が汚れた体を拭いてやるんですが、夫人がその厚い胸板と割れた腹筋をなめるように見つめてゆっくりと指を這わせて…。この先どうなるのってドキドキさせる。短いシーンで、二人の絆をセクシーな肉体を使って、否応なしにはっきり見せるのは効果的だったと思う。二人が心も体も密接につながっている夫婦だという話のベースがここでできる。

仲が良くて夫唱婦随とか、夫人を悪女に演出するのもメジャーだけど、単純に若くて情熱的な夫婦っていう表現は視覚的にすっと入ってくる。

グローブ座のマクベスは父親になるという前提があったので、野心の中に家父長的な要素も多分にあった。その分、罪に悩み、迷う、繊細な優しさの残るマクベスに見えた。

その後も別なシーンで上半身裸を披露しており、肉体的な男性らしさを強調する。王になるという野心は、夫人に男らしさを見せる事であり、自分の男としての強さを証明したい自己顕示欲の強いマクベスなのかなと思った。

二人の強い絆は、夫人の死を知ったマクベスの情感あるセリフでも表現されている。ここでマクベスが最後の覚悟を決めた感じもした。

夫人も野心家なのだが、夫を男として盛り立てたい意志の強いキャラクター。かといって開き直りきれないので、罪に苦しみ狂う。

二人とも自分の意思で動きながらも、結局運命にはあらがえず翻弄される心の揺れ動きが、わりと丁寧に表現できていたのでは。

ラストにマルコム王子を囲んで大団円な中に、白目の魔女がふっと振り返って暗転。ホラーではないけど、ところどころゾッとする演出が多く、マクベスの悪事が運命に仕組まれたものという印象を持たせる演出。

前も思ったけど、ストラトフォードフェスのシェイクスピアは、イギリスの公演のに比べて発音が聞き取りやすい。セリフ回しは弱強五歩格なんだけど、カナダ人の俳優さんが多いからアメリカの発音に近い気がする。

余談。Twitterで"Hail!"の訳で面白いのがあると。

こちらは光文社古典新訳文庫安西徹雄訳だそう。実際たくさんHailが出てきたので、もう脳内でその翻訳になってしまいそうでした。

他の訳だとどうなってるのか、全部調べたくなる。

配信観劇その15『マクベス (Macbeth)』(グローブ座、2020)

グローブ座の配信、今回はマクベス

 

2020年3月初旬の上演だそう。今年イギリスのGCSE(中等教育修了試験)の英語試験でマクベスが出題されるので、中学校が再開されるまで無料配信なんだそうです。

 

子供向けということで、90分に短縮されている。

観客も中学生ばかりらしく、開演前はザワザワと騒がしい。雨が降っているのか、皆フードをかぶって少し寒そうに身を寄せている。野外ステージで立ち見、フジロックの開演前みたいだなと思った。

客の中に女の子が一人いて、ずいぶん落ち着きがないなと思ったら、魔女の一人でした。彼女が舞台に上がりスタート。他の魔女も小柄な少女のようなルックス。

他の出演者にも幼いルックスをあえて演じてるキャラがいて、子供たちに親近感をもたせて興味を持ってもらう演出らしい。マルコム王子役はアジア系でメガネ、七三分け、短パン、ハイソックス姿。ちょっとうらなりな優等生な感じ。ティーン向けアメリカ映画に出てくる、パソコンできる頭のいいキャラみたいな。

マクベスや夫人、ダンカン王、マクダフ、バンクォーなんかは原作と年齢のズレはないので、「大人」のキャラクターと「子供」のキャラクターを分けている感じもした。大人のマクベスが子供の魔女に翻弄されたり、大人のマクダフが子供のマルコムにちょいキレしたり。

演出がいろいろ見た目にも分かりやすい。衣装はスコットランドの青と白、マクベス夫人や女性はドレスではなく青いツナギを着ている。マクダフ夫人を襲う刺客がピエロみたいな画面をつけてて、ホラー映画みたいなポップさ。イングランドの場面では、赤と白の衣装。後半から場面が変わるごとにイングランドスコットランドの国旗を掲げて、最後はユニオンフラッグ(初代)になる、と。ところどころに遊びがあって楽しく見られた。

客いじりもノリノリでやっていて、門番は酔っ払いの演技で客煽りをする。ゲロを吐くと子供たちがキャー😆となり、吐いたバケツを客席に放るふりをしてまたキャー😆となり、つかみはOK。反応をいちいち確認してるのも楽しい。(いかりや長介のオイッス!みたい…って年が分かる)

門が叩かれるシーンではノックノック・ジョーク - Wikipediaで、門番と子供たちのコール・アンド・レスポンス。

門番:Knock, knock!

子供たち:Who's there?

門番:Toby.

子供たち:Toby who?

門番:To be or not to be!

ハムレットの名台詞でオチつけて、爆笑喝采。ギャグを説明するほど野暮なことはないと承知なんですが、このシーンすごいなと思ったのは、門番役の女優さんの間合いももちろんいいんですが、ちゃんと子供たちが理解してるというね。シェイクスピアはそんなに知らなくても、有名どころのセリフは子供でも分かってるという事。日本だったら何になるんだろうか。

オイッスで思い出したが、フリーアンスが父のバンクォーの後ろからおもちゃの大きなプラスチックの銃を持って近づくシーンで、観客が「志村うしろうしろ!」状態で笑った。バンクォーはすぐ気がついてフリーアンスを跳ねのけるが、抱き上げて「息子よ」とキスする。そこで観客があぁ〜ってなるとこまでほのぼのコントっぽくて、シェイクスピアは「8時だよ!全員集合」っぽい説はひそかに唱えていきたい(というか逆)。

マクベスが王になった時は、観客を民衆に見立てて最前列の子らとハイタッチしたり、森が動くところは客席から緑の大きな布状のものを舞台まで頭越しに運ばせたり(ライブのクラウド・サーフみたいなノリ)、観客参加型は予定調和っぽくなりがちだが、この演出は子供たちに興味を持たせるための演出なので終始いい雰囲気だった。ひねくれてシニカルな大人より、子供の方がやはりノリも良くお約束だろうと楽しんでいるのは微笑ましい。

しかし子供向けだからといって話の筋は変えず、血のりもたくさん見せてたし、マクダフの子を殺すシーンも残酷。

マクベスの最期は首でなくて、マクダフが血まみれ心臓をかかげるのだが、見ようによってはその方が残酷だ。でも子供たちはそこの表現よりその前のマクベスとマクダフの決闘シーンで大盛り上がりだった。

面白い演出なのは、マクベス夫人が前半妊娠してて途中流産する。これはマクベスが子供を跡継ぎにしたい気持ちから王座に執着するさらなる根拠になるし、夫人が狂って死ぬ理由を流産が原因とする事で分かりやすくなっていた。子供にも分かりやすく、の演出が物語の幹を強くしていた。

あと「女から生まれたものにマクベスは倒せない」の予言で、魔女が赤ん坊の人形を料理皿の豚肉の腹を裂いて取り出すのだが、これもマクダフの帝王切開の話の伏線になって分かりやすくしているのではと思った。

そんな風にテンポよくどんどん進んでるわりにはマクベスも夫人もキャラはブレてない。夫人が死ぬところでマクベスは自分も死のうとしたり、長々と悩まない代わりに演出でうまく見せているなと思った。

ダンスでフィナーレ。これも足と手拍子のリズムダンスと覚えやすいメロディで、子供たちに一緒にと促す。ここも照れずに楽しそうに参加していて、いい雰囲気だった。

面白かったのは、マクダフがフィナーレ前までマクベスの心臓を持っているのだが、どうするのかな〜と見てたら後ろの方にポイッと放っていた。たまたまだろうけど、シュールでポップな演出を象徴している。

配信観劇その14 『欲望という名の電車 (A Streetcar Named Desire)』(National Theatre, 2014)

ナショナルシアターライブアットホーム、『欲望という名の電車』。

f:id:star-s:20200528165909j:image

28日までの配信。

演出:ベネディクト・アンドリュース

出演:ジリアン・アンダーソンベン・フォスターヴァネッサ・カービー

 

舞台は長方形のスタンリーの家。奥にバスルーム、その手前にスタンリーとステラの寝室、寝室には鏡台とベッド、一番大きなスペースはキッチンダイニング。ダイニングセットの横に粗末な簡易ベッド。これがブランチのスペースとなる。ダイニングと寝室は薄いカーテンで仕切られる。

家具は白で統一され、まるでIKEAの売り場のように味気ない。電話は現代的で子機の形。スマホはさすがに出てこないが、小道具はいくらか現代的でシンプル。電気は裸電球である。

服装もステラがスキニージーンズを履いていたりする。ブランチもヴィトンのボストンや、シャネルっぽいハンドバック、ウェッジヒールを履く。

すべて壁はなく、入り口のドアとバスルームのドアのセットと柱が何本か。入り口の横に上階のユーニスの部屋へ行く階段。

セットの雰囲気はこんな感じ。

客席は丸くそのセットを囲むように配置されている。これはセットが回転する仕組みになっており、その動きに合わせた配置。セットの外側の空いたスペースは家の外の通りとして使う。

見ている最中これに気づかず、カメラがぐるぐる回っているのかと思っていた。カメラは固定(設置場所は複数)なので、画面は客席からの視線となる。回らない時もある。

丸見えの舞台が回転するので、視点がころころ変わる。ブランチの視線の中に入ったり、スタンリーの視線に入ったり。背中しか見えなくなって表情がわからない時も。全くすべて見えない瞬間もある。近くなったり遠くなったり。

これは誰か一人のキャラクターに感情移入しないで、客観的な視点を持てた。観客は彼らの生活を覗き見する。それ以上踏み込めない距離感を保つ。
ぐるぐる回るイメージはこれが分かりやすいかも。画面ちょっと暗め。

 

主演のジリアン・アンダーソンはじめ、俳優のまるで原作から出てきたかのような容貌。特にミッチは原作通り、大柄で朴訥な雰囲気そのまま。スタンリーとステラは少し現代的な雰囲気もある。スタンリー役の俳優さんがタトゥーがあるので、なお凄みがある。ただこの方、カーテンコールの時は「あれ?こんなに小柄だつたかしら?」と思うくらい優しい雰囲気だったので、スタンリーの存在感の大きい表現がとても良かった。

ジリアン・アンダーソンは「Xファイル」のスカリー、近年だとTVドラマ「ハンニバル」の精神科医ベデリア役。クール・ビューティのイメージの彼女がブランチをどう演じているか、いい意味で覆される。彼女の鼻にかかった不自然すぎるくらいの気取った発音とハスキーボイスは、ブランチの人を不快にもさせる不安定感を表現するにぴったりだった。そして彼女の歩んできた生まれの良さと、その後の過酷さも含んでいる。

今まではどうしてもブランチの女性としての哀しさに共感しがちだったが、今回はセットの演出もありスタンリーの心の動きがよく分かった。ブランチがどれだけ何度も心ない言葉で傷つけていたか。ブランチの存在は、暑い夏の風呂場の蒸気のようにジワジワと不快にさせていたのだ。

そうするとブランチはいつから狂っていたのか、という話になるが、今作の演出ではまあ最初からなんだろうなと。最後のシーンでブランチが暴れて、しかし一転して冷静に医者の腕を取るシーンも、正気を一瞬取り戻したというのではない演出になっている。

その事が最初から分かっていれば、ステラもスタンリーも対応が変わったかというと、またそうでもないかもしれない。が、最悪の悲劇は起こらなかったかもしれない。

物語なのでそうもいかないが「ブランチが最初から狂っていた」という前提のもとに見ると、スタンリーの怒りや憤りは致し方ないものと思えてくる。スタンリーはポーラックだの豚だの侮辱されまくっているが、彼はただの乱暴者ではない。仲間に慕われ、仕事もきちんとしている。自分で散らかした皿を片付けたりもしていたが、ト書きにあったかな?他でこの演出あっただろうか?

英語で見て腑に落ちたのは「俺はポーラックじゃない!アメリカで生まれたアメリカ人だ!」の部分で、ブランチが気取った英語(嘘くさいフランス語なまりみたいな)の発音だが、スタンリーは言葉遣いはともかく、発音は普通の若い男性のアメリカ英語だったように聞こえた(もしかしたらポーランド訛りなのかもしれないが)。彼はアメリカ人として戦争に行き、プライドもあるのにあんな風に言われたらそりゃつらい。自分は一生懸命生きてるのに、なんだこの女は!って思っても仕方ない。

ミッチだけはいつ見てもほんと彼だけはかわいそうだな〜と思う。家族の話に巻き込まれた他人だから。まあ作品中の唯一の救いでもあるけど。

ステラも今までは男を見る目がない、天然でスタンリーに依存してて、ブランチに振り回されるだけの妹キャラと思ってたけど、スタンリーとも対等にやり合い、彼の弱さも受け止めて、めんどくさいブランチの世話も気にせずチャキチャキやるし。生活能力が高く、順応性もあり、家族への情の深い、そんな人としての強さが表現されていた。このステラはスタンリーを責めつつも、彼の行動をどうにか納得し飲み込み人生を続けていくだろう。2人がこの後別れるかもしれないという選択肢はほぼ消える。

戯曲の完成度が高く、普遍的な話でもあるが、現代アメリカにおいて上演する場合、スタンリーやステラの演出によってかなり印象を変えてくるものだなと思った。単なる男尊女卑や、女性の立場の低さだけを強調すると、現代との価値観のズレが出る。そこを踏まえた演出になったのではと思う。

 

音楽の使い方が良く、暗転をほとんど使わず、暗めのカラーライトと音楽で場面転換する。前半は不穏なギターリフ。後半使われた歌はわかる分だけ下記。

・クリス・アイザック"Wicked Game"

・Swans "Lunacy"

Cat Power "Troubled Water"

暗いライトの中で、演者が着替えたり、次の場面の準備をしたりするが、演技の延長線のようでここも面白い演出だった。

 

 

配信観劇その13 サイモン・マクバーニー一人芝居 “The Encounter” (Complicite)

劇団コンプリシテのサイモン・マクバーニーの一人芝居の配信。

これから見る方はなるべく前情報入れない方が絶対おすすめ。そしてできるだけ性能のいいヘッドフォン(イヤホン)を必ず使用すること。装着しないで見ると面白さはほぼなくなります。

英語が分からなくても楽しめるし、むしろ言葉はあまり意味をなさない。

いわゆる体験型の演劇。

配信ならではの楽しみもあり、これを選んだサイモンの意図もよく分かる。

下記は内容に触れています。

題は「Encounter」=遭遇。

原作はペトルポペスクの"Amazon beaming" 。ナショナル・ジオグラフィックのカメラマン、ローレン・マッキンタイアが1969年にブラジルの先住民区域ジャヴァリ谷に飛行機で遭難し、マヨルナ族などに未知のものに遭遇した時の体験談を基に書かれている。

サイモンが20年ほど色んな人に会い、ブラジルやアマゾンへ出向き、マヨルナ族にも会い創作したそう。

映像は劇場の開演前から始まる。画面の手前、一番後ろの席にいるサイモンが振り向き話しこちらに向かって話し出す。第四の壁を超える演出。実はその時見ている劇場は、スクリーンに映し出された映像。暗幕を剥がすとサイモンの家。途中、娘さんが入ってきたりする。これは現在の映像だ。サイモンが机のパソコンを映し、そして舞台の配信がいよいよ始まる。ここまで今回の配信のための前説のようで、これまた凝っている。

そして芝居が始まるかと思えば、舞台上のサイモンが皆にヘッドフォンをつけるよう再度確認して、この芝居の音響効果について事細かに説明する。マイクが何本かありそれぞれに仕掛けがある。右から左から、頭の後ろから、音が聞こえて、まるで頭の中をいじられているような感覚。

芝居は遭難したマッキンタイアに扮したサイモンの一人語りなのだが、録音されている音声も多用され、リフレインや多重に音声が飛び交う。マヨルナ族の声、アマゾンの動物、植物、飛行機の音、食べる音、足音、たくさんの音。すべて手元にある小道具で音を作る。しかし録音もあるので、今サイモンが実際に話している言葉はどれなのか見失う。

時々思い出したように、先述の娘さんの声がする。部屋で作業するサイモンを訪ねてくる設定で、あたかも彼女がいるかのように演じる。

照明は最低限。最初はシンプルで、だんだんとアマゾンの奥地に迷い込むにつれ暗くなり、混沌としてくる。音の混沌と照明の混沌がシンクロしていく。

未知のものに遭遇し、混沌としていくマッキンタイアの意識の変化を一緒に擬似体験している。

コンプリシテの意味はフランス語で「共感、一体感」。単純に訳すとそうなのだが、人と人の心のつながりや絆という観念的な意味があるっぽい。その言葉を体現するような芝居で、体験でもありました。

 

サイモンの今作の創作のまとめもあり、こちらも気になる。

 

最後にサイモンは、取材をしたブラジルでのCOVID-19の感染拡大について胸を痛めていること、そして世界からの助けをと呼びかけている。

 

余談ですが、沙村広明の漫画『波よ聞いてくれ』を思い出しました。ラジオDJの主人公が架空実況の体で「北海道の山奥で熊退治」したり「夫を殺して埋めたら生き返って宇宙人に襲われる」とか変な放送するエピソードがあるんですが、これが面白くてですね。漫画という音声を伴わない表現世界で、音声をネタにしてるというのにその臨場感がリアル。多分に沙村広明さんのセリフのテンポの良さが大きいんですけど、音声だけで表現するってあらためて面白いんじゃないか?と思って最近ラジオちょいちょい聞くようにしてます。映像によるエンタメが溢れている昨今、音だけ受け取りにいくというのはこちらの想像力や感覚の余力を感じることができて面白い。

映像配信も今後色々やり方が変わっていくのかなと思うけど、アナログとデジタルの化学変化が音声表現はできそうで楽しみだな。

配信観劇その12 “コリオレイナス (Coriolanus)” (Stratford Festival, 2018)

配信観劇も12本になってしまい、もう番号ふらなくてもいいかもとか思いつつ。数年後、こんなんあったね〜という記録になるのかな、とか。

今回はストラトフォード・フェスティバルの『コリオレイナス』。

f:id:star-s:20200528165607j:image

今作の配信は終わりましたが、他にもたくさんシェイクスピア作品見られます。

なんとなーく話は知ってるけど、軍人の政治的な話というイメージが強く、シェイクスピアの中でもあまり興味を持てなかった。しかし食わず嫌いもなんなので、この機会に見てみました。

おお、なんとロベール・ルパージュ演出ではないですか〜。ルパージュ演出は気になってて、7月にコクーンで広島を題材にした芝居が上演されることになっていたので行こうかなと思っていたのでした(中止になったけど)。

最初からコリオレイナス銅像が突然喋りだすというビクッとするような演出。

全体的には現代的な衣装やセット。軍人は現代の軍服、政治家は普通のスーツ、女性も現代の装い。

セットはラジオ局、バー、地味な事務所など現代設定だが、ハイテクだったり現代デザイン的なモード感があったりとかはない。リアルな雰囲気。

背景はプロジェクションマッピングを多用して、これまた見事だった。ローマ軍のエレベーターのドアが開いたと思ったら、ヴォルサイ軍の部屋の窓になる。コリオレイナスがローマを追放される時は車を運転しているのだが、舞台上の車(ほんもの?)が実際に走っているように見せる。

空間の使い方が本当に面白い。舞台の奥行きを二重(三重かも)に使う舞台装置になっている。手前に2つ部屋がありそこでローマの執政官の事務所のやりとりが行われたと思えば、中心から分かれて奥のスペースからローマ風呂が出てきたりバーが出てきたりする。奥行きがせまいせいで人の動きは基本は左右にしかない。近いところの奥行きは段差を使ったりはする。奥行きを大きく使った動きがない。しかしそのため、プロジェクションマッピングの効果がより際立つ。

この辺のセットの動きは、思わず「8時だよ!全員集合」のドリフのコントを思い出してしまった。あれも最初に大きなセットでコント劇して、そのまま移動して後ろにバンドが出てきて他のコーナーになる。生放送だからとにかく効率的にやってたんだと思うけど、毎週しかも違う会場でやってたりしたの、先進的だドリフ。今更ながらすごいの見てた。

話がそれましたが、ルパージュの演出は限られたスペースでどれだけ世界を広げられるか。まるでバーチャルリアリティの世界に入ったような感覚。映し方もあるけど、観客の声がしなければ本当に劇場なのかしらと思いました。暗転もワイプアウトみたいなやり方だし。映像で見てこれだと、実際はどんな感覚だったのだろう。

 

コリオレイナスはたくましく、怒りのパワーが強く、男らしい設定。家族への情愛もあり、優秀な軍人だが、一本気であまり政治家としては狡猾ではない。

ローマ軍は彼のそこを利用し翻弄する。冷静で狡猾な政治家たちである。

敵のオーフィデアスはコリオレイナスに強い魅力を感じている。男性同士の肉体的な愛情を示す演出にもとれる。オーフィデアスは側近とどうも同性愛の関係であるかのような演出もある。はっきりと出てこないが、最後のシーンがオーフィデアスの寝室で、2人の上着がそこに置いてあるのはそういう意味なのかなと思った。

ルパージュの演出は人も舞台の絵の中の一部という感じで、キャラクターの誰かに強く共感するようにはしていないが、エンタメ性と美術的な面白さがあり、落ち着いて楽しめた。