je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「溺れる市民−東京のフェルディドゥルケ」@シアターχ(2004/11/28)

−原作:島田雅彦
−演出:林 味知
−振付:Kim Miya

ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ生誕100年記念の企画。島田さんの「溺れる市民」の中の3作品をオムニバス風に、しかし順番にではなく幾度か入れ替わるように見せる。
3人の異なる男が主人公。「美脚に捧げる」の冬樹は足フェチが高じてデパートの靴売り場に勤めている。きっかけとなった小学校時代の同級の女の子が忘れられない。「オナニスト一輝の詩」は自称オナニーアーチストの高校生・一輝がその趣味を極めていく。「私が岩石だった頃」は、普通の男が謎の女性にはまっていく。
内容としては、いつもの(むしろ初期?)島田節。変態くんオンパレード。イエーイ!ビバ変態!変態も極めれば職人技なのよ(誉めてます)。
それをどう舞台にするか、っていうのは難しいとこではあるが、衣装や踊り、セット、音楽などでかなりイメージに広がりが出てよかった。
舞台は開演前から少しずつ開けていく感じ。いろんな靴が並べられた舞台。出演者が客席や舞台、待合室などをウロウロ。人を探す女、物を売る女、舞台ではみな靴を履き替え、走ったり、スキップしたり、跳ねたり。足音の不協和音で少しずつ舞台へ引き込まれる。(靴を取り替えたりしてたけど、サイズ合わないのとかないのかとか思いつつ)。
足フェチ話では、黒い衣装の下に赤のペチコート。黒いタイツと靴。足を前面に押し出し、脳内妄想をギリギリまで実像化。
「一輝の詩」が一番好きだったんだけど、もうすごい。ウサギのムラカミ・リュウとか、ぺにす君とか、音楽での高まりの表現とか。たかが男の快感を、ここまで表現できるとは。一輝役の井上真鳳(まこと)さんの熱演も良かった。島田さんが乗り移ったのかあ〜っていうくらい。俺は変態だ、でもアーチストなんだ、空しいけど、分かってるけど〜!という叫びが天晴れ。男の子って大変なんだね、そして健気・・・とお姉さんは思いました。
「私が…」はファム・ファタールもの。夢枕獏の小説に似たような話あったな。そっちはホラーだったけど。男の人にとって、はまったらヤバイ恋にはまるのは、最後の死ぬ前の幻想、憧れなんかね。
動く人と声と別にしたり、動く人が二人ばおりや黒子のように周りの人に「動かされていく」という演出が、幻想的な空間を生み出してた。台の上に寝転がっているような姿勢で、壁に足をつけ、客席から見ると上から人を見ているように見せたり、アクロバットのように持ち上げて、壁を歩かせたり。喪服の衣装も人物の実体感をなくしていて、いい感じ。恋なんて幻想だしね。結局。
一人何役もやり、切り替わりも多いので、衣装換えの早さにびっくり。一輝のだけ普段着っぽい衣装で、共有性がないからさらに大変そう。
結局は、どうやっても島田雅彦だし、ゴンブロヴィッチは関係あるのかと言われると、そうじゃなくても楽しめたかも。楽しめたけど、色々考えた。なんつうか、美学があれば変態でも童貞でもいいと思う。最近は、自分の周りでもそうだし、悲しい事件とかもそうだけど、「自分がイク」ことがまず大事で、相手の事を見てない、人には気持ちがあるんだっていうことを分かってない輩が多いような気がするんだよ。いいよ、別に、自分が満足することは大事。でも、それは一輝みたいに人に迷惑をかけないで、自分の世界でやってくれよ。そしたら、童貞でも変態でも、馬鹿なロマンチスト中年でも、めちゃいいやん。と島田雅彦ベイベーな私は思うのですよ。外に出したら、なんでも責任取ろうぜ、お兄ちゃんたち(ああ、なんか下品な物言いになってきた、すまぬ)。
青二才も根性&美学がいるのだー!
ゴンブロヴィッチはただの若造とは違う」って意味がなんとなーーーくだけど、分かった。そして、島田さん、貴方は愛すべき永遠の変態少年。おじいちゃんになっても、ヤマダ・エイミに嫌がられるような変人でいてくれー!(注:実際の島田さんは素敵な男性であり、家庭人です)
そして、私は岡村ちゃんや、syrup16gが好きなわけが分かったよ。あの方々も「永遠の青二才」なんだよねえ。島田雅彦読みながら、青二才的音楽を聴くことにするか。