je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

Syrup16g@日比谷野外音楽堂

前日に、友人と「音楽は人を救うか」という話で白熱(?)していた。音楽を提供する側(ミュージシャン)は、そもそも自分のためにやっていることであって、誰かを救うためにやってるわけではない。確かに需要の側(ファン、観客)の求める力が大きく、供給側が「人のために」やらざるをえない状況に陥ることもあるけれど、そうなってしまうと供給側の苦しみが発生し、その時点で「音楽」ではなくなる危険性を内包する。ミッシェルのチバ曰く「(救えないけど)救えたらいいよね」くらいのスタンスでいいという感じで落ち着いた。
五十嵐隆が、そういったことで苦しんでいたがどうかは知らない。正直でわがままで、自身も「勝手にやってきた」と認めている。
ただ、このライブで、五十嵐氏は「ありがとう」をいやんなるくらい連発した。なんか言いたそうで、でも言えなくて、「相変わらずMCうまくねえ」とぼやいた時は苦笑したが、何か確実なものをこちらに投げてきたいという感じがあった。渋公の時の変なサービス過剰な感じでもなく、妙にリラックスしていた。代沢メモリアルのような、質としてすごくいいライブ、というのではないけれど、観客とのバランスがかみ合っていた。逆にそれがなんだか不思議だった。観客の集中力も良かったのもあるだろう。
野音に向かう途中、ズンズンという中畑くんのドラムが「響いて」、イヤホンを外した。「幽体離脱」が聞こえてきた。大昔、Pearlというバンドが大好きで、一人で野音に見に行ったのを思い出した。ちょうどギターが脱退した頃で、Vo.&G.のSho-taがすごく過敏になっていた。でも、いいライブだった。PearlもDr.の宮本との絶妙な呼吸で、刹那の濃い空気を生み出す、稀有なバンドだった。比べるつもりは毛頭ない。でも、あの時、野音で泣きそうになったのを思い出した。たまに、そういう瞬間に立ち会えると、運がいいかも、なんて思ってしまう。自分の気持ち次第で、音楽の受け止め方は変わるかもしれない。でも、掬い上げてくれるような瞬間は、本当にまれだけれど確かにある。それは需要とか供給とかとは別の場所にある。演る側でさえ想像できない。やろうと思って生まれる瞬間ではない。
「Sonic Disorder」の時、中畑くんがすごく美しかった。この人はうまいのは前から知っていたけど、「美しい」なんて言葉が思い浮かんだのははじめてだ。いつもは走り回る二人を支えるようなキタダさんが、妙に走ったベースだったのもドキドキした。五十嵐氏は、わりと落ち着いていたような気がする。いつもよりさらに丁寧だった。「翌日」の時に、「後ろがわでそっと見守ってる」の歌詞で、思わず中畑くんの顔を五十嵐氏の背中越しに見てしまう。
仙台でしかやらない予定の「With or without you」をやった。個人的にはU2好きなんで、まあ嬉しい。でもボノのあの「神が与えたもうた声」を超えられないのは、五十嵐氏も分かっているはずなのに、なんでこの曲を選んだのか(失礼!)。あの歌詞の政治的な意味を、五十嵐氏が知らないわけがない。「君と一緒にいても離れていても、僕はつらい、生きていけない」なんて、何に向かって歌ったのだろう。深読みしない方がいいだろうか。
最後に「あのー、あのー」と(相変わらず)どもりながら、「俺らは解散するわけでもないし、ずっと音楽やりつづけるし」と淡々と気持ちを吐露して、「Reborn」に入った時は、反則だ、と思った。でも、そうできるだけの余裕があるのかもしれない。未来があるんだ。そう思ったら、喉の奥になんかこみ上げてきた。
個人的に、今年はすごく「失った」年だった。だけど、やっぱり音楽があって良かった、と再確認できた。それを感じさせる一端は、やっぱりSyrup16gというバンドだった。出会って良かった、ここにいて良かった。だけど、五十嵐氏がそれを知る必要はない。そんな重荷を、好きなバンドに負わせたくはない。勝手に生きて、勝手に音鳴らして、そしてたまに愛させてくれたらいい。
音楽は人を救わない。でも、孤独を忘れさせてくれる。ただ一瞬だけでも。